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第二十章 そして《伝説》へ…
第十話 白百合と旅籠飯再び
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前回のあらすじ
ゴスリリと言ったらお風呂回。
という割には意外とお風呂してないと思いますが、世間の平均がわかりません。
お風呂上がりのホカホカ体温を逃さないように、しっかり着込んで急ぎ足で部屋に戻ってきて、一息。
こぢんまりとした旅籠ではありますが設備は悪くなく、北部の寒さもなんのその、この部屋の中は安らげる暖かさに保たれていました。
後から取り付けたのでしょう、内装から少し浮いている鉄暖炉のそばに集まって、やかんで沸かした白湯に楓蜜を少し垂らして、ほっと一息。
「やっぱり鉄暖炉があると便利ですねえ」
「暖炉だと、全部の部屋にってわけにはなかなかいかないものね」
「そう考えると君の家すごいよねえ」
そうなんですよね。うちの実家……フロントのあの屋敷は、二階にも暖炉があったりします。それも古い型なので、がっつり重たい石造りの奴ですね。あれを上層階に設置するには基礎がかなりしっかりしていないといけませんし、煙突の配置も大変です。
鉄暖炉は煙突のやり場こそ考えなければいけませんが、そもそもの煙の量が大分少ないので、大分融通が効きます。重量も、ものに寄りますが持ち運びが可能な範囲なので、設置場所を選びません。
屋外においても使えるので、外での作業があるときに火を焚いて、そばで暖をとったりもできますね。
私たちの使う幌馬車にも設置されていて、暖房に、料理にと欠かせなくなっていますね。
私たちが寄り添ってくっつきあってわちゃわちゃいちゃいちゃして暖を取っていると、旅籠の小間使いが来て、食事の支度について尋ねてきました。
私は、もうすっかりお腹が空いてしまったのでさっそくお願いします、と心づけを握らせて帰しました。
三人でいるときは一応は頭役である私が財布を預かっているのですが、こうして心づけを渡すとき、トルンペートはちょっと肩をすくめますし、ウルウはまじまじと見つめてきます。なんだか落ち着きません。
「もう、なんですか?」
「んにゃ。私は、チップ文化が珍しいから見てるだけ」
「リリオのを普通と思うとよくないわよ、ウルウ」
「あ、やっぱり?」
「え、私なにか間違えました?」
不安になってお財布を握り締めると、トルンペートはちょっと意地悪な笑い方をしました。個人的にはそういう笑い方が一番かわいいトルンペートだと思うのですけれど、それはそれとして心臓に悪いです。
「ふつうはもっと小金よ。さっきの子も、受け取ってびっくりしてたじゃない」
「大事そうに両手で握りしめてったねえ」
「ええ……? 私いつもこれですけれど」
「いつもだから呆れてるの。普通は三角貨何枚かっていうのに、あんた五角貨握らせるんだから」
「多分これ、だいぶんお大尽様だよねえ」
「そうなんですか!? お父様もティグロも、いつもそうだったのに……」
「御屋形様は大貴族の見栄もあるし、ティグロ様は妹にケチなとこ見せられないでしょ」
「まあ、流れの冒険屋が握らせるには大金だよねえ」
「はわわ……」
なかなかに衝撃的な事実でした。
いやまあ、五角貨一枚は、三角貨百枚に値しますし、そこそこいい感じの夕食が食べられる額なのはわかっているんですけれど、まあ、でも、その、なんです?
この程度、っていうか。
「ほら、これが生まれついての金持ちよ」
「金銭感覚が私たち庶民とは違いすぎるよねえ」
「やめてくださいよそのわざとらしいやつぅ」
大仰な身振りですっかり呆れられてしまいました。
「君さあ。最初会った時も、大分ケチって旅してたくせに、払う時は金払いが異常にいいから驚いたよね」
「この子、いまだに値切り下手だものねえ」
うう。まあ、そういわれると、反論できません。
使わないでいることはできるんですよ。無駄なことにお金を使わないっていうの。
でも必要な時にお金を払いましょうってなると、特に考えずに言われたとおり払おうとしちゃうんですよね。
お金の計算はできても、実際のものの価値観がいまいちよくわかっていないのかもしれません。
「いいもの見てるんだから、目利きはできそうなのにね」
「逆よ。最上級のもの知ってるから、質の低い奴は押しなべておんなじに見えてるのよ」
「あー……」
「その『わかるー』みたいな顔やめてもらえます!?」
「わかるー」
「口でも!?」
ヴォーストについてから、結構稼いじゃったのもよくなかった気がします。
いえ、お金が入るのはいいことなんですけれど、余裕があるからとお金の使い方を学ばなかったのはよくありませんでした。
トルンペートがお買い物上手なので、今後は隣で学んでいかないといけませんね。
「お待たせいたしました。当店名物、《鹿雉の食べ尽くし》を始めさせていただきます」
反省はここまでにして、給仕が手押し車を押してやってきてくれました。
さあ、どんなご馳走が、と思いきや、手押し車の上には未調理の材料が皿にきれいに盛られているではありませんか。
生のまま食べるというのでしょうか。
卓について見守る私たちの前で、給仕は卓上焜炉に土鍋を置き、火をいれました。
土鍋はすでにある程度熱していたようで、すぐにふつふつと沸き始めます。
「これは……お肉?」
「鹿雉の腿と脛、尾です。脛肉と尾はあらかじめ骨ごと煮込んでおります」
鍋の中にはお肉がごろごろと転がっているだけで、他に具材はありません。
その煮汁はわずかに白濁して、えもいわれぬ芳香を立ち昇らせていました。
「まずは水炊きを。骨と脛と尾をあらかじめ時間をかけて炊いた出汁で、腿肉を低温からじっくりと炊いております」
水炊きというのは南部のほうの料理だそうです。
もとは具材だけを水から炊くもので、そこには塩さえもいれないそうです。
骨やガラから出る出汁だけで素晴らしい旨味が出るそうで、時間がかかるその工程を丸っと厨房で済ませた上で、私たちの前で仕上げだけしてくれるという嬉しい料理ですね。
目の前で香りと湯気を味わわせたのちは、たっぷりとした腿肉や、骨から丁寧に外された脛肉、ころりとぶつ切りにされた尾肉が丁寧に盛り付けられて、調味料の入った小皿とともに供されました。
鹿雉特有の香りはありますが、時間をかけて炊いた出汁はそれを独特の香気に昇華させていました。
「塩だれ、唐辛子だれ、青檸だれの三種をご用意しております。お好みでお召し上がりください」
なるほど、白っぽいたれ、赤いたれ、緑の果皮を削って散らしたたれと三種類あるようです。
私はまず白いたれで腿肉をいただいてみました。
煮込み時間が浅いことから、ぎゅむぎゅむとしっかりとした歯ごたえを残しており、食べ応え十分。
お母様の実家である南部のハヴェノでいただいた鹿雉は獲れたてで、新鮮なれど熟成されていないものでしたけれど、こちらのお肉はきっちり熟成させたもののようで、驚くほど旨味がはっきりしています。
単純な塩だれが、その旨味を包み込んで一段も二段も持ち上げてくれています。
ほろほろに煮込まれた脛肉のうまみと言ったら、腿肉をしのぐほどでした。柔らかすぎるので、お肉の醍醐味の一つである歯ごたえは失われているのですけれど、その分口の中でほろりとほぐれて純粋に旨味が口の中に充満していく思いです。
甘みさえ覚えるこのお肉を、さわやかな香りの青檸だれでいただいてみたのですけれど、これが驚くほどに相性がいいのです。
あまりに簡単にほぐれて、ともすれば平坦なうまみの塊になりかねない所を、この青檸だれのカーンと冴えかかった酸味が鋭く差し入って、立体的な味へと組み替えてくれるのです。
ウルウはこの青檸だれをとても気に入ったようで、口元がうっすらほころんでいるようでした。
そして尾の肉ですけれど、肉というより骨、その周りにへばりついた皮と肉というのが尾肉の印象です。
牛の尾の肉なども汁物として人気の高い部位で、それは鹿雉も変わりません
じっくりコトコトと煮込まれても、脛肉のようにほろりと崩れることなく、ねっとりと骨にまとわりついたお肉は、ウルウのいうコラーゲン、プルプルとした脂身と混然一体となった質感で、これを骨から前歯でこそげるようにしていただくと、お口の中は幸せでいっぱいになります。
自分の口の中で骨からはぎ取るというのは手間ですけれど、その手間自体が、私の舌を能動的にお肉へと向かわせ、舌のあらゆる角度からお肉を楽しませてくれるのです。
そして舌だけでもなく、唇にもプルプルと心地よいこのお肉の合間に、こりゅりとした軟骨の心地よい歯ごたえ。
時間と手間をかけて食べるだけの価値が、ここにあります。
南部人の好みそうな唐辛子だれにつけていただくと、やはりこのお肉もその良さがぐっと引き立ちます。
ともすれば脂っこくなりすぎる口の中で、唐辛子の辛さがそれらを燃やしてくれるような心地よいほてりがあります。
トルンペートはやはりこのたっぷりの唐辛子が気に入ったようで、給仕にお代わりをもらうほどでした。
そうして私たちがお肉を食べている間に、土鍋では野菜たちが煮られていました。
葉野菜、根菜、ねぎの類。火の通りやすさを勘案して順に沈められた野菜たちが、鹿雉の濃厚な出汁をたっぷりと吸いこんだのですから、これがまずいはずがありません。
これもはやり、事前に火はいれていたのでしょうけれど、ふつふつと沸き立つか沸き立たないかの出汁の中で揺れる姿はなんとも蠱惑的です。
この野菜をやはり三種の出汁でいただいて、舌鼓を思うさま演奏していますと、なんと給仕は土鍋にさらに細工をしていくのです。これで終わりなどではなかったのです。
土鍋にさっと塩が投じられ、乾麺がぱっとひろげられました。
出汁の中で少しずつゆでられていく練り物。
私たちがただのお湯でゆでてもおいしくなってくれる練り物が、鹿雉の、そして野菜のうまみさえも煮だした出汁を吸いながら茹でられるのですから、これはもうどうなるか想像もつきませんでした。
やがて土鍋の出汁が徐々にかさを減らし、麵が茹で上がりました。給仕はそれを深皿に盛り付け、細身の葉野菜を散らすと、土鍋に残った出汁をかけまわして供してくれました。
調味料は、麺を茹でるときに投じられた塩だけです。香草もありません。散らされた葉野菜も、シャキサクとした歯ごたえのほかには、わずかな青臭さが楽しめるばかりです。
しかし、それで十分でした。十分すぎるほどでした。
驚くほど濃厚に煮詰められた鹿雉の白濁した出汁が、全てでした。
主食であるべき麺は、濃厚な旨味を受け止め、味わいやすくするためのものだったのです。
私たちは出汁をたっぷりと吸った麺を味わい、最後の一滴まで出汁を味わい、そろって感嘆の吐息を漏らしたのでした。
用語解説
・心づけ
いわゆるチップ。
相場は諸説あり、というかその土地土地や文化によっても異なるため、一概には言えない。
普通は軽い用事程度であれば小銭を渡すくらいで、しっかりとしたレストランでコース料理頼んでも五角貨はチップとしては高い。三、四人で一枚でちょうどいいくらいか。
・お大尽
お金持ちや、その金をたくさん使って豪遊する客のこと。
二人はリリオをからかっているが、シチュエーションによってはお前らもたいがいだからなと突っ込む者はこの場にいない。
・《鹿雉の食べ尽くし》
《跳ね鹿亭》の名物コース料理。
文字通り鹿雉の全身を利用したコース料理で、肉、内臓、脳、脂、骨と一通り堪能できる。
またコースには含まれないものの、血などを利用したソーセージなども販売している。
それなりにお値段は張るが、お手軽に単品料理としてもそれぞれ注文できる。
・鹿雉(ツェルボファザーノ)
四足の鳥類。羽獣。雄は頭部から枝分かれした角を生やす。健脚で、深い森の中や崖なども軽やかに駆ける。お肉がおいしい。
・青檸
ライム。果皮が緑の未成熟な頃に収穫される。
鮮烈な酸味とさわやかな香りが特徴の柑橘類。
果皮は薄く、表面を細かく削って香りづけにも用いられる。
ゴスリリと言ったらお風呂回。
という割には意外とお風呂してないと思いますが、世間の平均がわかりません。
お風呂上がりのホカホカ体温を逃さないように、しっかり着込んで急ぎ足で部屋に戻ってきて、一息。
こぢんまりとした旅籠ではありますが設備は悪くなく、北部の寒さもなんのその、この部屋の中は安らげる暖かさに保たれていました。
後から取り付けたのでしょう、内装から少し浮いている鉄暖炉のそばに集まって、やかんで沸かした白湯に楓蜜を少し垂らして、ほっと一息。
「やっぱり鉄暖炉があると便利ですねえ」
「暖炉だと、全部の部屋にってわけにはなかなかいかないものね」
「そう考えると君の家すごいよねえ」
そうなんですよね。うちの実家……フロントのあの屋敷は、二階にも暖炉があったりします。それも古い型なので、がっつり重たい石造りの奴ですね。あれを上層階に設置するには基礎がかなりしっかりしていないといけませんし、煙突の配置も大変です。
鉄暖炉は煙突のやり場こそ考えなければいけませんが、そもそもの煙の量が大分少ないので、大分融通が効きます。重量も、ものに寄りますが持ち運びが可能な範囲なので、設置場所を選びません。
屋外においても使えるので、外での作業があるときに火を焚いて、そばで暖をとったりもできますね。
私たちの使う幌馬車にも設置されていて、暖房に、料理にと欠かせなくなっていますね。
私たちが寄り添ってくっつきあってわちゃわちゃいちゃいちゃして暖を取っていると、旅籠の小間使いが来て、食事の支度について尋ねてきました。
私は、もうすっかりお腹が空いてしまったのでさっそくお願いします、と心づけを握らせて帰しました。
三人でいるときは一応は頭役である私が財布を預かっているのですが、こうして心づけを渡すとき、トルンペートはちょっと肩をすくめますし、ウルウはまじまじと見つめてきます。なんだか落ち着きません。
「もう、なんですか?」
「んにゃ。私は、チップ文化が珍しいから見てるだけ」
「リリオのを普通と思うとよくないわよ、ウルウ」
「あ、やっぱり?」
「え、私なにか間違えました?」
不安になってお財布を握り締めると、トルンペートはちょっと意地悪な笑い方をしました。個人的にはそういう笑い方が一番かわいいトルンペートだと思うのですけれど、それはそれとして心臓に悪いです。
「ふつうはもっと小金よ。さっきの子も、受け取ってびっくりしてたじゃない」
「大事そうに両手で握りしめてったねえ」
「ええ……? 私いつもこれですけれど」
「いつもだから呆れてるの。普通は三角貨何枚かっていうのに、あんた五角貨握らせるんだから」
「多分これ、だいぶんお大尽様だよねえ」
「そうなんですか!? お父様もティグロも、いつもそうだったのに……」
「御屋形様は大貴族の見栄もあるし、ティグロ様は妹にケチなとこ見せられないでしょ」
「まあ、流れの冒険屋が握らせるには大金だよねえ」
「はわわ……」
なかなかに衝撃的な事実でした。
いやまあ、五角貨一枚は、三角貨百枚に値しますし、そこそこいい感じの夕食が食べられる額なのはわかっているんですけれど、まあ、でも、その、なんです?
この程度、っていうか。
「ほら、これが生まれついての金持ちよ」
「金銭感覚が私たち庶民とは違いすぎるよねえ」
「やめてくださいよそのわざとらしいやつぅ」
大仰な身振りですっかり呆れられてしまいました。
「君さあ。最初会った時も、大分ケチって旅してたくせに、払う時は金払いが異常にいいから驚いたよね」
「この子、いまだに値切り下手だものねえ」
うう。まあ、そういわれると、反論できません。
使わないでいることはできるんですよ。無駄なことにお金を使わないっていうの。
でも必要な時にお金を払いましょうってなると、特に考えずに言われたとおり払おうとしちゃうんですよね。
お金の計算はできても、実際のものの価値観がいまいちよくわかっていないのかもしれません。
「いいもの見てるんだから、目利きはできそうなのにね」
「逆よ。最上級のもの知ってるから、質の低い奴は押しなべておんなじに見えてるのよ」
「あー……」
「その『わかるー』みたいな顔やめてもらえます!?」
「わかるー」
「口でも!?」
ヴォーストについてから、結構稼いじゃったのもよくなかった気がします。
いえ、お金が入るのはいいことなんですけれど、余裕があるからとお金の使い方を学ばなかったのはよくありませんでした。
トルンペートがお買い物上手なので、今後は隣で学んでいかないといけませんね。
「お待たせいたしました。当店名物、《鹿雉の食べ尽くし》を始めさせていただきます」
反省はここまでにして、給仕が手押し車を押してやってきてくれました。
さあ、どんなご馳走が、と思いきや、手押し車の上には未調理の材料が皿にきれいに盛られているではありませんか。
生のまま食べるというのでしょうか。
卓について見守る私たちの前で、給仕は卓上焜炉に土鍋を置き、火をいれました。
土鍋はすでにある程度熱していたようで、すぐにふつふつと沸き始めます。
「これは……お肉?」
「鹿雉の腿と脛、尾です。脛肉と尾はあらかじめ骨ごと煮込んでおります」
鍋の中にはお肉がごろごろと転がっているだけで、他に具材はありません。
その煮汁はわずかに白濁して、えもいわれぬ芳香を立ち昇らせていました。
「まずは水炊きを。骨と脛と尾をあらかじめ時間をかけて炊いた出汁で、腿肉を低温からじっくりと炊いております」
水炊きというのは南部のほうの料理だそうです。
もとは具材だけを水から炊くもので、そこには塩さえもいれないそうです。
骨やガラから出る出汁だけで素晴らしい旨味が出るそうで、時間がかかるその工程を丸っと厨房で済ませた上で、私たちの前で仕上げだけしてくれるという嬉しい料理ですね。
目の前で香りと湯気を味わわせたのちは、たっぷりとした腿肉や、骨から丁寧に外された脛肉、ころりとぶつ切りにされた尾肉が丁寧に盛り付けられて、調味料の入った小皿とともに供されました。
鹿雉特有の香りはありますが、時間をかけて炊いた出汁はそれを独特の香気に昇華させていました。
「塩だれ、唐辛子だれ、青檸だれの三種をご用意しております。お好みでお召し上がりください」
なるほど、白っぽいたれ、赤いたれ、緑の果皮を削って散らしたたれと三種類あるようです。
私はまず白いたれで腿肉をいただいてみました。
煮込み時間が浅いことから、ぎゅむぎゅむとしっかりとした歯ごたえを残しており、食べ応え十分。
お母様の実家である南部のハヴェノでいただいた鹿雉は獲れたてで、新鮮なれど熟成されていないものでしたけれど、こちらのお肉はきっちり熟成させたもののようで、驚くほど旨味がはっきりしています。
単純な塩だれが、その旨味を包み込んで一段も二段も持ち上げてくれています。
ほろほろに煮込まれた脛肉のうまみと言ったら、腿肉をしのぐほどでした。柔らかすぎるので、お肉の醍醐味の一つである歯ごたえは失われているのですけれど、その分口の中でほろりとほぐれて純粋に旨味が口の中に充満していく思いです。
甘みさえ覚えるこのお肉を、さわやかな香りの青檸だれでいただいてみたのですけれど、これが驚くほどに相性がいいのです。
あまりに簡単にほぐれて、ともすれば平坦なうまみの塊になりかねない所を、この青檸だれのカーンと冴えかかった酸味が鋭く差し入って、立体的な味へと組み替えてくれるのです。
ウルウはこの青檸だれをとても気に入ったようで、口元がうっすらほころんでいるようでした。
そして尾の肉ですけれど、肉というより骨、その周りにへばりついた皮と肉というのが尾肉の印象です。
牛の尾の肉なども汁物として人気の高い部位で、それは鹿雉も変わりません
じっくりコトコトと煮込まれても、脛肉のようにほろりと崩れることなく、ねっとりと骨にまとわりついたお肉は、ウルウのいうコラーゲン、プルプルとした脂身と混然一体となった質感で、これを骨から前歯でこそげるようにしていただくと、お口の中は幸せでいっぱいになります。
自分の口の中で骨からはぎ取るというのは手間ですけれど、その手間自体が、私の舌を能動的にお肉へと向かわせ、舌のあらゆる角度からお肉を楽しませてくれるのです。
そして舌だけでもなく、唇にもプルプルと心地よいこのお肉の合間に、こりゅりとした軟骨の心地よい歯ごたえ。
時間と手間をかけて食べるだけの価値が、ここにあります。
南部人の好みそうな唐辛子だれにつけていただくと、やはりこのお肉もその良さがぐっと引き立ちます。
ともすれば脂っこくなりすぎる口の中で、唐辛子の辛さがそれらを燃やしてくれるような心地よいほてりがあります。
トルンペートはやはりこのたっぷりの唐辛子が気に入ったようで、給仕にお代わりをもらうほどでした。
そうして私たちがお肉を食べている間に、土鍋では野菜たちが煮られていました。
葉野菜、根菜、ねぎの類。火の通りやすさを勘案して順に沈められた野菜たちが、鹿雉の濃厚な出汁をたっぷりと吸いこんだのですから、これがまずいはずがありません。
これもはやり、事前に火はいれていたのでしょうけれど、ふつふつと沸き立つか沸き立たないかの出汁の中で揺れる姿はなんとも蠱惑的です。
この野菜をやはり三種の出汁でいただいて、舌鼓を思うさま演奏していますと、なんと給仕は土鍋にさらに細工をしていくのです。これで終わりなどではなかったのです。
土鍋にさっと塩が投じられ、乾麺がぱっとひろげられました。
出汁の中で少しずつゆでられていく練り物。
私たちがただのお湯でゆでてもおいしくなってくれる練り物が、鹿雉の、そして野菜のうまみさえも煮だした出汁を吸いながら茹でられるのですから、これはもうどうなるか想像もつきませんでした。
やがて土鍋の出汁が徐々にかさを減らし、麵が茹で上がりました。給仕はそれを深皿に盛り付け、細身の葉野菜を散らすと、土鍋に残った出汁をかけまわして供してくれました。
調味料は、麺を茹でるときに投じられた塩だけです。香草もありません。散らされた葉野菜も、シャキサクとした歯ごたえのほかには、わずかな青臭さが楽しめるばかりです。
しかし、それで十分でした。十分すぎるほどでした。
驚くほど濃厚に煮詰められた鹿雉の白濁した出汁が、全てでした。
主食であるべき麺は、濃厚な旨味を受け止め、味わいやすくするためのものだったのです。
私たちは出汁をたっぷりと吸った麺を味わい、最後の一滴まで出汁を味わい、そろって感嘆の吐息を漏らしたのでした。
用語解説
・心づけ
いわゆるチップ。
相場は諸説あり、というかその土地土地や文化によっても異なるため、一概には言えない。
普通は軽い用事程度であれば小銭を渡すくらいで、しっかりとしたレストランでコース料理頼んでも五角貨はチップとしては高い。三、四人で一枚でちょうどいいくらいか。
・お大尽
お金持ちや、その金をたくさん使って豪遊する客のこと。
二人はリリオをからかっているが、シチュエーションによってはお前らもたいがいだからなと突っ込む者はこの場にいない。
・《鹿雉の食べ尽くし》
《跳ね鹿亭》の名物コース料理。
文字通り鹿雉の全身を利用したコース料理で、肉、内臓、脳、脂、骨と一通り堪能できる。
またコースには含まれないものの、血などを利用したソーセージなども販売している。
それなりにお値段は張るが、お手軽に単品料理としてもそれぞれ注文できる。
・鹿雉(ツェルボファザーノ)
四足の鳥類。羽獣。雄は頭部から枝分かれした角を生やす。健脚で、深い森の中や崖なども軽やかに駆ける。お肉がおいしい。
・青檸
ライム。果皮が緑の未成熟な頃に収穫される。
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