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第四章 異界考察

第七話 妛原閠の神前談話・中

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前回のあらすじ
出てきちゃった神様に困惑する閠。
そして閠はあの日のことを思い出すのだった。





 がたんがたんと、終電に揺られていた。
 がたんがたん、がたんがたん。
 どこまでも続く規則的な音色。レールの上を走る音色。
 変わることがないというのは不幸なのだろうか。或いは幸福なのだろうか。
 人生にレールを敷いてくれる誰かがいるのならば、ともすればこれほどの充足はないように思う。

 しかし現実としては、敷かれたレールなるものは言葉の上ですらあまりにも頼りない幻想にすぎない。飴細工で敷かれたレールの上を走り抜けるには、この世は苦みと不条理に満ち過ぎている。
 未来の予想がついても、未来の約束は誰もしてくれはしない。

 それでも。

 それでもそのレールから外れることは、それ以上におそろしい。

 最後に日付が変わる前に帰れたのはいつだったのか考えて、あまりにも不毛な記憶の羅列に頭を振った。正確な答えを出したいわけじゃない。出したところで意味などない。それで何が変わるというわけでもない。

 車窓から眺める景色は、眺めるともなく見つめる景色は、見つめるともなくただ網膜を流れていく景色は、ああ、今夜も変わりはしない。
 記憶を探ればきっと些細な違いが山と見つかる間違い探しができることだろうけれど、間違いだらけの日々で間違いを探すことを楽しめるほど私は人生というものが好きではなかった。

 何のために生きているのだろうという不毛な問いかけを、今日も私は鼻先で散らす。惰性で流されるように生きている人間に、そんな哲学的な問いかけは荷が勝ちすぎる。
 哲学を愛するには私の人生は空虚過ぎた。意味を求めるには儚過ぎた。四十二という答えに逃げることさえ、私には億劫だった。

 馴染みの車窓から目を離せば、予約席よろしくいつもの席に、似通った顔立ちが並んでいる。
 私でなくても細かな顔のつくりさえ覚えてしまいそうなほどの常連たちは、しかし目を逸らせばそれだけで印象の全てを曖昧にしてしまうほどに淡い。

 個性というものを、人間性というものを、薄っぺらに均されて、どこかで見たラベルを張られて、毎日大量出荷されていく人間ブロイラー。

 近づいてみれば確かに違うもののはずなのに、少し離れてしまえばモザイク画のそのひとかけらに過ぎないように、白波の一つ一つが違っても結局は水面の中に埋もれていくように、無限小と無限大とは無限に繰り返し、やがては意味を消失していく。

 私たちは歯車というピクトグラムに過ぎない。
 どれだけ擦り減っても、どれだけ錆びついても、壊れて交換されるまで見向きもされない。壊れて交換されれば、それこそ思い出されもしない。

 私たちは挨拶を交わさない。
 私たちは視線を合わせない。
 私たちは同じ時間に同じ空間を共有しながら、どこまでも相容れない亡者たちだ。
 死に切ることもできず、生きていることもできない、触れれば存在の意味を問わずにはいられない力ない亡者たちだ。

 いつもの駅に辿り着き、いつものアナウンスを聞き流し、いつもの挙動で私は電車を降りる。
 普段と違う駅で降りてみようとか、このまま終着駅まで逃げてしまおうとか、そんなことさえ考えることができない、機械仕掛けの方がまだユーモアのある反射的な挙動。

 ぎこちなく手足を動かして、私の体は私の意思の通りに歩いていく。
 或いは機械的な私の行動を後追いするように私の心が行動を追認する。
 私の意思というものは私の肉体的反応と有意な価値的差異を持たないように思う。
 いっそ、機械になれたらいいのに。
 物思わぬ機械になれたらいいのに。
 ああ、でも今日日は随分人工知能も発達しているから、人間が逃げる先などないのかもしれない。

 栞糸を辿るようにコンビニエンスストアに辿り着き、経路案内に従うように棚の間を歩み、最適化された行動が最適化された品々を掴み、レジに並べる。
 愛想の死んだ店員が表情なく品々を読み上げる、その平坦な対応に安堵する。
 微笑みは要らない。
 さざなみが立てば、心はに荒れる。

 もう歩きたくないといつだって思っているのに、私の足取りは変わることなく家までたどり着いてしまう。
 鍵を取り出し、開錠し、帰宅し、靴を脱ぎ、そして死んでしまえたらいいのに、私は何事もなく施錠し、チェーンをかけ、ただいまの声もなければお帰りの声もない、どこまでも平坦で心無い闇に安堵する。
 その平坦さこそが心休まる我が家だった。

 スーツを脱ぎ、下着とブラウスを洗濯カゴに放り込み、そろそろ一週間分たまりそうなそれに、コインランドリーに行かねばならないことを思い出す。洗濯機を買ったほうが経済的だっただろうか。計算するには私の脳の処理能力は消耗し過ぎていた。

 なにとはなしに見つめた洗面台の姿見に映るくたびれた姿に、そろそろ買い替え時かと思い至って、思い至ってしまって、呆然と佇む。くもり気味の姿見に映るのは、取り替え不能な部品だった。

 ぎくりと背筋を伝う肌寒さに限られた時間というものを思い出し、私は裸の体を浴室に放り込む。

 随分使用した覚えのない浴槽がぽっかりと空虚に口を開ける横で、私は熱めのシャワーを浴びる。
 冷え切った体に熱が吹き込まれていく。
 冷え性気味の指先に熱がともっていく。
 それなのに肝心の内側はいつだってフラットなままだ。
 ああ、そうだ、浴槽を使用しない理由を思い出した。
 沈んで死んでしまわないようにだった。

 バスタオルで体を拭っている間に、どんどん私は冷えていく。
 体温は下がらない。
 でも私は冷えていく。
 いや、元から温度などないに等しいのだから、それは錯覚に過ぎないのだろうか。
 ドライヤーの騒々しい音が耳元でがなり立てても、私の心はまるで波立たない。
 頭の中をかき乱すような騒音が、いっそ本当に脳みそをシェイクして崩してしまえばいいのに。

 残念なことに何事もなく、私は寝巻に着替えて呼吸する。
 呼吸する。
 呼吸する。
 呼吸の仕方を忘れないように。
 錆びついたゼンマイを回すように、ぎしぎしと肺胞を膨らませる。

 コンビニで購入したゼリータイプの補助食品とブロックタイプの栄養食品、気休めのサプリメント、それに水道水。
 今日も豪華なディナータイムだ。
 五分とかからない合理的食事。
 使いもしないキッチンのシンクの前で立ったまま済ませて、ごみを袋にまとめて捨てる。
 乾いたシンクに落ちた水滴が、行く当てもなく溜まっている。

 ゲームにしか使わないPCを起動させ、けばけばしいアイコンをダブルクリック。
 《エンズビル・オンライン》が立ち上がる。
 ああ、でもメンテ明けか。
 アップデートが始まる。
 見つめればその分時間がかかるように思われる画面を、しかし他にすることもなく私は漫然と見つめる。
 私の人生はいつアップデートされるのだろうか。
 不具合がいくつも見つかるんです。
 なのにサポートセンターが見当たらない。
 ログアウトしようにも、接続を切ることが私にはできない。

 心療内科は環境を変えなければだめだという。
 私に環境を変える力がない以上、その環境から抜け出すほかにないのだけれども、私には抜け出した後の未来が見えない。
 辞めればいいと気軽に言われても、その先を保証するものは何もない。
 何もない。
 何もない。
 何もない。
 でもそれは今と何が変わらないのだろう。
 このまま擦り減っていくのと、何もない未来に切り替えるのと。

 そう思いながら私は運命のレールを切り替えることができない。
 乗り換える路線が見えていても、踏み出すことができない。
 ただ身を縮こまらせて、透明な嵐が過ぎ去るのを待っている。
 そんな日は来ないと知っていながら。

 漫然と生きている。
 ただただ生きている。
 それは死んでいることと何が違うのだろうか。
 死んでいないだけ。生きているけど、生きているだけ。
 何を見ても何も見えない。何を聞いても何も聞こえない。
 透明な地雷原を前に、一歩も進めないでいる。
 自縄自縛の籠の中で、ああ今日もまたって嘆いている。

 それは。そんなのは。そんな生き方は。

 幽霊と何が違うんだろう。

 苦しい。
 息ができない。
 呼吸の仕方が思い出せない。
 呼吸をしろと体が叫ぶ。
 もういいんだって心がぼやく。
 苦しい。
 ああ。
 苦しい。
 生きていたくないと思っていても、死にたくないって感じてる。
 目の奥がちかちかして、苦しさが込み上げてくる。

 呼吸を。
 呼吸をしろ。
 でも呼吸の仕方を思い出せない。
 息苦しくて、生き苦しくて、それならもうって、体の方が嫌がっている。
 生き辛くて、逝き辛くて、それならもうって、心の方も嫌がっている。

 それなら、もう。










 それなら、もう、わたしは、





用語解説

・四十二
生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え。

・運命のレール
 そうあるべき道筋。存在しないレール。
 列車の乗り換えには多大な犠牲が伴う。

・透明な嵐
 同調圧力。平均化しようとする力。普通であるということ。

・透明な地雷原
 目に見えないにもかかわらず、その存在を容認することを強いられる圧力。
 普通であるということ。
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