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序章 ゴースト・アンド・リリィ

第六話 白百合と亡霊

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前回のあらすじ
唐突に始まった飯レポに次ぐ飯レポ。
話が一切進まないまま飯の描写だけが積み上げられていくこの物語は何を目指しているのか。
腹ペコ娘の旅は続く。









 何か揺れるような感じがあって、すわ地揺れかと驚いて目が覚めた時には、朝日がもうすっかり顔を出していました。

 あの不思議な果実を食べてすっかり心も満たされお腹も満たされ、ぐっすりと寝入ってしまったようです。焚火の火が絶えていないあたり、ちゃんと夜中に薪を足してはいたのでしょうけれど、まったく覚えていません。無意識の内にできるようになったといえば凄いようにも感じますけれど、夢遊病のようで怖いです。

 なんにせよ、少しお寝坊してしまいました。私はあわてて荷物をまとめ、朝食を手早く済ませて後始末をし、昨夜鍋を煮込んでいる間に仕掛けておいた簡単な罠を確認しました。仕掛けないよりは、という気持ちで、期待はしていなかったのですけれど、運のいいことに鼠鴨ソヴァジャラートがかかっていました。この時期のものにしては大振りで、なかなか食いでがありそうです。その場で絞めて、今夜のおかずにすることにしました。

 そうして移動を再開したのですけれど、この日の移動は、なんだか少し妙でした。
 それというのも、不思議と体が軽いのでした。

 兄から聞いたところによれば、旅をしている時は体調が万全であることなど滅多にあるものではなく、そもそも旅自体が体に負担をかけるのだから、常にどこかしらに問題を抱えながら、誤魔化し誤魔化し進んでいくようなものだということでした。どうしても生きている限り疲れるしお腹も空くけれど、そこをなんとか自然に癒える度合いと疲れる度合いと収支が合うように、できれば癒える方が少し多いくらいにして、それで何とか旅というものは成立するそうです。

 だから私も旅の間は疲れるものだと思っていますし、その疲れた状態で剣を振るうことを昔から教えられてきました。万全な状態で戦えることなどまずないのですから、本当の本当に疲れた時にどれだけのことができるかということが肝要なのだと父も言っていました。

 そういうことですからこの日も私は気を付けながら進もうと思っていたのですけれど、なんだか不思議に体が軽いのでした。日を経るごとに重しを重ねていくようだった手足は、うららかな春の午後を散策するように軽やかですし、肩に食い込んで痛いばかりだった鞄も今日は程よい重さにさえ感じられます。息はまるで上がらず、じわりとにじむ汗も、昨日までのような辛さや疲れからくる嫌な汗では全くなく、程よい運動と初夏の陽気からくる心地よいものでした。

 よく眠ったおかげなのでしょうか、それともあの不思議な果実を食べて、久しぶりの甘味に心が満たされたからなのでしょうか。

 不思議で、妙ではありましたけれど、しかし足取りは軽く思っていたよりも随分と早く進めそうで、私は森の精霊の加護だろうかと無邪気に喜びました。調子が良いときほど油断して大怪我をするものだと父にはよくよく言われてはいましたけれど、母には優しげな微笑とともに、調子が良いときにしかできないこともあるのだから隙を見て攻めなさいとも教えられていましたので、間を取って程々に調子に乗りたいと思います。

 眠気も全くなく、目はさえて、活力に満ち満ちていますと、これまで以上に森のいろんなものに目が行き、流れる風を肌に感じ、また鼻に流れ込む匂いの数々に様々な違いがあることを知りました。ここ何日かですっかり見知ったと思っていた森の様子は、まったくの上っ面だけだったようで、こうして本当に体の調子が良いときにしかわからないようなささやかな違いが私を楽しませ、なお足取りを軽やかにしてくれるのでした。

 例えばただただ足を取って邪魔だと思っていた下生にも、背の高いもの、低いもの、花をつけるもの、葉の広いもの、細いもの、様々なものがありました。中には見知った香草の類も紛れていて、時々摘んでいくだけでも結構な量になりそうでした。

 足元にばかり気を取られていたいままでよりも余裕ができ、見上げれば木々の上にもまた暮らしがあることを知りました。枝を伝ってするすると向こうを行くのは猿猫シミオリンコでしょうか。チッツー、ツッツーと高く歌う声が聞こえてくるのは、川熊蝉アルツェツィカードの求愛の歌でしょうか。枝や蔦に紛れて蛇の姿が見えたこともありますし、また逆に蛇かと身構えたら木の枝だったということもありました。

 ただ元気があるというだけでここまでの違いが出てくるものかと私はつくづく人間の体のつくりの妙に感心させられました。疲れやつらさは感覚を鈍らせ、体を重くします。そしてそれはきっと、余計な事を抱え込まないことで消費を減らそうという仕組みなのだとそう考えたのでした。なにしろ余裕のある今は、木々の葉の一枚一枚さえよく見えるほど感覚が広がり、自分でも少し不安に思うほど意識が散漫になりそうなのでした。

 しかしそうしてあちらこちらに意識を向ける余裕ができたことで、今日のご飯は豪華になりそうでした。というのも、今まではきっと気付かなかっただろう木苺ルブーソを茂みの中に見つけられましたし、地面に膨らみを見つけてもしやと思い掘ってみると、素晴らしいことに白い松葉独活アスパラーゴを見つけることができました。また、小川に出たので手ぬぐいを絞り汗を拭ってさっぱりとしたついでに、葶藶アクヴォクレーソをいくつか摘んできました。

 私がもう少し詳しければ、お金になりそうな薬草や、素材になりそうな類を見つけて集め、路銀の足しにもできたのでしょうけれど、簡単なものはいざ知らず、そこまで詳しくはありません。それに一人旅ですとやっぱり荷物には限界がありますので、角猪(コルナプロ)の角のように換金額の多いものはともかく、薬草のようにかさばるものは持っていけません。

 ご飯の材料は別腹というか別勘定なのでせっせと摘んでいきますけれど、これは結局私のお腹に入ってしまって荷物にはなりませんので構いませんったら構いません。亡くなった母もよく私に色々食べさせては、リリオのお腹は魔法のお腹ね、いつもたくさん食べてくれるから嬉しいわと優しく微笑んでくれたものです。貰ったはいいけれど多すぎて食べきれないし捨てるわけにもいかない貰い物の処理をさせられていたと知ったのは後になってからでしたけれど、お陰様で大抵のものを食べてもお腹を壊さない丈夫な子に育ちました。その割に背は伸びませんでしたけれど。

 さてさて、こうして順調すぎるほどに順調に進めるという実に妙な体験をしているのですけれど、この妙な旅路にはもう一つ妙なことが起きていました。

 私がそれに気づいたのは、さらさらと流れる小川で顔を拭い、水筒の水を補充し、葶藶アクヴォクレーソをつみながら少しの休息をとっていた時のことでした。

 今日の晩御飯を思って鼻歌など歌いながらのんきに過ごしていたのですけれど、不意に気配を感じて、私は腰の剣に手を伸ばしました。
 鼻歌をゆっくりと止め、気配を殺してそっと振り向くと、木立の向こう側にまだ若く角の色の薄い鹿雉ツェルボファザーノが若葉を食んでいるのを見つけました。背中から尾に近づくにつれて色を薄くしていく緑の羽は乱れもなく美しく整っており、目の周りの赤いコブは見事な発色で、傷や欠けもなく、若いながらに強く優れた雄であることを思わせました。

 鹿雉ツェルボファザーノの肉はこりこりと筋の感じられる歯応えの強いもので、味は淡白ながら滋味深く、新鮮な肝臓などは猟師たちだけが食べられる御馳走と言っていいほどのお宝です。また角には薬効があり、年経たものは肉が固くなる代わりに、角の薬効はぐんと強くなると聞きます。

 私が驚いたのはこの鹿雉ツェルボファザーノが実に美しいことや、縄張りに敏感なこの獣に気付かぬままこんなに近づけたことなど、ではありませんでした。

 美しい鹿雉ツェルボファザーノよりもいくらか手前、木立の中にひっそりと混ざるようにその影は佇んでいました。

 はじめ私は、鹿雉ツェルボファザーノに目を引かれていたので、その陰のことは木立が作り出す陰影の一つだと思っていました。しかし一度それが目に入ると、それはもう木立などではなくくっきりと私の目の中に移りこみました。

 それは人影、のように見えました。というのも、その人影は向こうの木立が透けて見えていたのです。夜の闇のような黒い外套を頭からすっぽりとかぶったその人影は、頭巾の下からわずかに目をのぞかせてこちらをじっと見つめているのでした。もしも目を閉じたら、衣擦れどころか呼吸の音すら聞こえないほどにまるで生きた気配の感じられない人影が、ただそこに佇んでじっとこちらを見つめている姿は、鹿雉ツェルボファザーノのことがすっかり頭の中から消えてしまうほどの衝撃でした。

 私がごくりと息をのんでその不思議な人影を見つめていると、不意にばしばしと何かを打ち付けるような音がして、ケーン、と鋭い鳴き声が響きました。見れば、私の緊張に気配を察したらしい鹿雉ツェルボファザーノが、片足を持ち上げて胴に足羽を打ち付ける母衣ほろ打ちをして、こちらを威嚇してきているではありませんか。

 鹿雉ツェルボファザーノは狩猟の対象ではありますけれど、決して安全な相手ではありません。気づかれていない時ならまだしも、こうして真正面から相手取るには厳しい相手です。縄張り意識の強い鹿雉ツェルボファザーノは、時に自分より大きな角猪コルナプロにさえ角を振るうくらい気性が荒いのです。

 両前足を上げて本格的に母衣打ちを始める前に、私は目を背けないままそっと後ずさって距離を取り、静かに縄張りから出ていく意思を見せました。

 しばらく鹿雉ツェルボファザーノはこちらを威嚇していましたけれど、私が十分に距離を取ると、角を大きく一つ振るって、また若葉を食み始めました。

 ほっと息をついて、掴んだままだった葶藶アクヴォクレーソを革袋に押し込んでいると、視界の端にあの人影が佇んでいることに気づきました。私は迂闊に動かないように、野草を見繕っているふりをしながらその影に意識を向けました。

 影はひどく背が高く、まるで覗き込むようにしてこちらを見つめていました。相変わらずその人影は向こうの景色を透かしていて、どうやら私の目の錯覚や気のせいではなさそうでした。

 私が歩き出すと、その影もまた私の後をついてくるようでした。音もなく気配もなく、ただ、周りを見回すふりをしてちらりと目をやると、一定の距離を保ったままするするとついてくるのでした。

 しばらくの間、私はこの謎の人影に警戒しながら歩いていましたけれど、次の休憩の間までにこれと言って害もなく、さして問題もなさそうだったのであまり気にしないことにしました。父からはよく大雑把だとか呆れられたものですけれど、私は物事の切り替えが割と早いようです。気にしなくていいことを気にしていたら疲れますし、何もないなら何も気にしなくていいと思うのですけれど。

 そうして心の余裕が出てくると、私はのんびり景色を眺めるふりをしてこの人影を目の端で観察することができるようになりました。

 最初は何事かと思いましたけれど、何もしてこないのならばそれほど怖いものではありません。何もしてこないふりをして悪意をちらちらと隠している人間のほうが余程怖いです。その点、この影はただただ私を眺めているだけで、ともすれば動きのない私の休憩中はうろうろしたりあちこち眺めたりと余程面白いです。

 向こう側が透けて見えることや、まるで気配がしないこと、それにちらりと見えた目がなんだか物寂しそうに見えるような気がしないでもないことを思うと、これは噂に聞いた亡霊ファントーモかもしれないと私は考えました。

 亡霊ファントーモというのは死んだ人が未練を遺したり強い思いを遺したりすると、その魂だけがこの世に残って彷徨うというものなのです。

 生きている人を羨んで悪さをするという話も聞きますけれど、巷説に広く伝わるのは物悲しい悲恋のお話であったり、人情ものであったりします。そういったお話を思い出すと、この亡霊ファントーモも何かしらの事情があったのだろうかとしんみりして、付いてきたいなら付いてくるがよかろうと、私はひそかな旅の道連れとしてそっと歓迎するのでした。
 









用語解説

鼠鴨ソヴァジャラート
 四足の羽獣。幅広の嘴をもち、水辺や湿地帯に棲む。雑食。動きが素早く、よく動くためよく食べる。皮下の脂はうま味にあふれ、美味。

猿猫シミオリンコ
 樹上生活をする毛獣。肉食を主とし、果実なども食べる。非常に身軽で、生涯木から降りないこともざら。

川熊蝉アルツェツィカード
 川辺に棲む蟲獣。成蟲は翡翠のように美しい翅をもち、装飾具にもされる。雄の鳴き声は求婚の歌であり、季語にもなっている。成蟲の胴は鳴き声を響かせるためのつくりで殆ど空洞になっており、実は少ない。幼蟲は土中で育ち、とろっとしたクリームのような身をしているが、やや土っぽい。

木苺ルブーソ
 鈴なりに甘酸っぱい実をつける植物の総称。またその実。ベリー類。

松葉独活アスパラーゴ
 うろこ状の葉を持つ山菜。土中から顔を出す直前のものは日に当たっておらず色が白く、柔らかい。

葶藶アクヴォクレーソ
 水辺に生える山菜。独特の辛みを持つ。肉類などの付け合わせにされたり、おひたしなどにされる。

亡霊ファントーモ
 幽霊。亡霊。未練や強い思いを遺した魂がこの世を彷徨っているとされる。
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