春は嘘の季節という

長串望

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春は嘘の季節という

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 空が見えぬ程に舞い散る桜の花にすっぽりと埋もれたことがある。頭の先から爪の先まで匂い立つ様な桜の花に覆い尽くされて、溺れる様にもがいては抜けだした記憶がある。息苦しくて大きく開いた口を塞ぐように花弁が入り込み、喉の奥に張り付いて本当に溺れそうになった。鼻の穴に潜り込んだ花びらの一つ一つからいやに濃密に甘い香りが刻まれたものだ。おかで溺れる事があるとは全く知らなかった。ふわりふわりと頼りのない桜敷きの足元にずるりずるりと何度も滑り、埋もれながらあえぎながら必死で抜け出したのはもう随分前の事だ。
 おかげで桜餅は食べられるが然程うまいとも思えないし、ちらりちらりと舞い散る桜の花を見上げる度に、あの眩暈のする様な桜吹雪ならぬ桜の雲海を思い出して目が回るりそうだった。
 春が来る度、桜前線が私を追い詰めはじめる度、私は誰と無く彼と無くこの話をしているが、真面に信じて貰えた試しはない。毎年の様に新入社員に話しては古株にまた始まったと笑われ、花見の席でもむっつりと話すものだから、今や一番純朴そうな新入社員にも冗談と思われているし、古株にも余興扱いされている。
「そりゃあ誰も信じませんよ」
 とろりとした梅酒をちびりちびりとやりながら笑うのは部署の後輩だった。後輩と言っても殆ど同期で、私が研修代わりに二月程早く入社していただけなのだが、年も変わらないのに先輩先輩と気安い調子で呼ぶものだから、私の方でもその様に扱っている。
「信じないかい」
「信じると思いますか」
「思わないね」
「思わないんですか」
「思わない」
 第一、別に信じて貰わないでも困らないし、信じさせようというものでもない。長年疑われ続けてきたものだから私自身も夢か何かだったのではないかと思い始めている。あれは私がまだ随分小さな子供の時分の話だったが、それにしたって全身すっぽりと花の中に埋もれてしまうというのは些か話が盛り過ぎのきらいはある。大方多感な子供が桜の木の根元で遊び疲れて寝入ってしまい、起きた頃には頭の上にすっかり花弁が積もってしまっていたから驚いたという様な、そんな小さな話だったのだと思う。
 弁当の重箱にも花弁が舞い散り、風情ではあるが不衛生で、美しくはあるが食べづらくはある有様だ。ふと持ち上げた酒のグラスにも花弁が浮いているのだから、積もる位はするだろう。
 酒が入ってすっかり陽気な連中や、酒が入らずとももとより陽気な連中が、無礼講などと言う却って気の遣いように悩むピリリとした緊張をはらんだ社交を嗜んでいるのを片隅から眺めて肴とし、いまいち美味さの良くわからない清酒を啜り、花弁を手拭きに吐き出す。
「飽きませんね」
「そうかな」
「そうです」
「そうかい」
 気の遣える人間でもなし、気の利いた話が出来るわけでもなし、騒ぐのが好きな訳でもなければ、タダ酒のありがたさを喜ぶ訳でもなく、全くもって居る意味の分からない席ではあった。
 それでも毎年欠かさずに出席し、愚にも付かない下らない話を変わらずに垂れ、それで後は何という訳でもなく片隅でちまちまと重箱をつつき、美味そうでもなく酒を啜る。成程飽きないかと言われれば全くよくもまあ飽きずに続けてきたものだ。
「君も飽きないね」
「そうですか」
「もう空で言えるくらいには聞いたんじゃないか」
「自分で話したって面白くもないでしょう」
「私から聞いたって面白くもあるまい」
「まあ全く面白くもないですけど」
「飽きないねえ」
「そうですかね」
 下らない遣り取りが繰り返される程度には酒が入っていた。
「春はまあ、嘘の季節ですから」
「嘘の季節」
 詩的な表現ではある。
「エイプリルフールもありますし、ほら、あれだ。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐるなんてのも、ありゃ大概嘘でしょう」
「基井梶次郎……じゃなかった。逆か。梶井基次郎だ。あれは嘘じゃなくてフィクションだ」
「フィクションというかまあ妄想なんでしょうが。それにほら、ルーズベルト」
「もしかしなくてもワシントンかい」
「そうそう、ワシントン。子供の頃、桜の枝を切ったけど、正直に話したら許されたって」
「まだ手に斧を持ってたからだね」
「そういうジョークでもなくて。あのお話自体、なんとかいう作家さんが書いたワシントンの逸話に、盛りこんじゃった創作だそうで」
「へえ」
 寡聞にして知らない話だった。
「春っていうのは暖かくなって、木々の芽も草の芽も出りゃ虫も湧く、ざわざわと騒がしい頃合いですから、頭の中もぼんやりとしてしまって、嘘も嘘じゃない事もぐるぐる紛れてしまうもので」
「変なのも湧くね」
「いや全くその通りで」
「酒も入って一層変になるわけだ」
「いやもうその通りえへへ」
 君が齧っているのはアタリメではなく箸袋だ。
「だから先輩の話もまあ春の嘘だという具合で」
「別に嘘だという訳じゃああるまい」
 事実とは異なるかもしれないが、何しろ子供の見たものだ。何もかもを見上げて過ごしているようなちっぽけな子供が、たった一人降り積もる桜の中で目覚めたら、あの眩惑するような景色に過敏に反応してしまっても可笑しくはない。話を大きく盛ったというよりは、子供の目にはそれが真実だったのだろう。目の前が桜で一杯だったら、それは世界が桜の花弁に覆われているのと一緒なのだ。
 酒杯の残りを干せば、さあどうぞと酌をされる。美味くもないし要らないと言えば、これはきっと美味しいからととろりとした琥珀色が注がれた。
 ふわりとのぼる匂いに鼻の奥が痺れる。そっと口に含めば、甘い。甘いが、酔う。酷く酔う。
割るでもない生の酒が、冷やすでもない温い酒が、酷く回る。
「嘘ですよ」
「嘘じゃない」
 子供の様にむきになって言えば、微笑みが零れてくる。
「だってあれは二月だった。まだ冬も明けきらない頃だったじゃないですか」
 何を、言っているのか。
 とろりとした琥珀色のグラスに、桜の花弁が散り落ちて、そしてふわりと逸れて地に落ちた。
「桜の花は、ほら、こんな具合に白いんです。あれはもっと色濃かったでしょう」
 思い起こされるのは、一面の花弁。ふわりふわりと柔らかで頼りない、あの、あの薄紅色。一面の薄紅が。
「それにほら、桜の花はあんなに香らない」
 突き付けられた花弁は成程白く、幻の様に香らない。こくりと口に付けた琥珀色から、甘い香りが立ち上る。ああ、そうだ。そうだった。あの花弁の海で、私はむせ返りそうなほどに匂い立つ香りに包まれていたのだった。
「まだ肌寒い頃だった。柔らかなほっぺを真っ赤にして、白い息を吐いて、あなたは日も昇り切らない朝早く、あの花を見に来てくれたでしょう。零れるような、梅の花を」
 そう、だった。
 ああ、そう、だった。
 私は、引っ越す前の最後だからと、お気に入りの梅の花を見に行ったのだった。連れもなく独りで、梅の花を見に行ったのだった。あの美しく零れる、匂い立つ梅の下へ。
「寂しかった。ああ、寂しかった。あなたが遠くへ行ってしまうと知って、梅がどんなに寂しかったか。離してなるものかと、どうか行ってくれるなと、梅はあなたを抱きしめて離したがらなかった。行ってしまうなら、いっそのこと」
 微笑みが、零れ落ちて。
「いっそのこと、このまま溺れさせてしまおうか」
 覆い被さるような微笑みが、あの日の木陰に重なった。
 空が見えぬ程に舞い散る梅の花にすっぽりと埋もれたあの怖ろしさ。頭の先から爪の先まで匂い立つ様な花に覆い尽くされて、溺れる様にもがいては抜けだしたあの日の事。息苦しくて大きく開いた口を塞ぐように花弁が入り込み、喉の奥に張り付いて本当に溺れそうになった。鼻の穴に潜り込んだ花びらの一つ一つからいやに濃密に甘い香りが刻まれたものだ。ふわりふわりと頼りのない梅敷きの足元にずるりずるりと何度も滑り、埋もれながらあえぎながら必死で抜け出した。
 家に辿り着くまでの間、息の続く限りに走り続けた。
 そうして玄関先で崩れ落ちて、どうにか息を整えようとしながらも、私の心臓はまるで落ち着かなかった。
 あの怖ろしさが忘れられなかった。
 それ以上にこの世の物とは思えぬ美しさが忘れられなかった。
 そして何よりも、零れ落ちる花弁の一つ一つが、まるで止め方を知らぬ涙に途方に暮れるようで、ひどく胸が苦しくなった。
 ああ、梅よ、梅よ。あるいはあの日も、お前はそうだったのか。
 あの日もこんな風に、お前は悲しそうに微笑んでいたのだろうか。
 ただただ忘れてくれるなと、泣き方も止み方もわからず途方に暮れていたのだろうか。
 梅よ、ああ、梅よ。



「春は、嘘の季節ですから」



 するりとグラスが滑り落ちて、はたと目が覚めた。
 膝の上に零れた梅酒が、ぬるくしみこんで気持ちが悪い。
 ぼんやりと顔を上げれば、後輩が手拭いで甲斐甲斐しく拭いてくれていた。
 ぱちくりと瞬きすれば、かすみが晴れたようである。
 瞬きの間、眠っていたのだろうか。
 ならばあれは桜の見せる白昼夢だったのだろうか。
 春は嘘の季節というならば、あれも全ては嘘だったのだろうか。
 春の陽気が見せる、夢の一つに過ぎなかったのだろうか。
 とくとくと新たに注がれた梅酒を見下ろして、それから後輩の顔を見上げた。
 不思議そうに小首を傾げるので、私は肩をすくめた。
「君は泣き黒子があるね」
「泣いて暮らしたりはしませんよ」
「そうしてやりたいものだ」
「笑わせてくれますか」
「善処しよう」
 春は嘘の季節という。
 けれどあれは二月の事だった。冬も明けきらぬ肌寒い頃の事だったのだ。
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