君の香りを信じてる

千歳

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第6章

第6章

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 自分から漂うあの匂いにスーッと血の気が引いていく。一瞬、その場に立っているのに脚の感覚がなくなったようにも感じたが、陽希はすぐに思考を切り替えて周りを見渡した。こんなにも突然あの匂いが自分からしてくるということは、以前の佐々塚のときと同じように車が突っ込んでくるかもしれない。そうなったら隣にいる暁斗も危険だ。
 バッと後ろを振り向いた瞬間、帽子を深くかぶった男がこちらに向かって走ってきている姿が見えた。そして、その手には太陽の光を反射して不気味に輝く包丁のようなものが握られている。
 陽希の脳裏に夢の中の光景が過った。暁斗は背中を謎の人物に切られていた。もし、これがあの夢と同じようなことになるのならば。
「ッ…!」
 陽希は咄嗟に暁斗の背後に回り、彼の背中を守るように男の目の前に飛び出した。男はもうすぐそこにまで迫ってきている。もう逃げることはできない。
 暁斗の死の運命を変えるにはこうするしかないんだ。
「陽希、何して…」
 暁斗の声が後ろから聞こえたその時、腹部に激痛が走った。
 それは耐え難い痛みだった。だが、この男は陽希を刺した包丁を引き抜いて暁斗のことも刺してくるかもしれない。そんなことは絶対させない。
 腹部に刺さった包丁を握る男の手を陽希は力強く掴んだ。絶対に離してやるものかと、指に力を込めると腹部からの出血が増えた気がしたが、今はそんなことに構ってなどいられない。
 それは一瞬にして起こった出来事だった。
 暁斗は突然背後に回った陽希のほうへ身体を向けると彼は血まみれの手で男の手を掴んでおり、その下には血が滴り落ちていた。陽希に掴まれている男はまさか刺した相手が手を掴んでくるとは思っていなかったようで、目深にかぶった帽子の下に見える目が驚愕の色を浮かべている。
 暁斗は一瞬何が起こっているのか理解できずに呆然としてしまったが、すぐに我に返って男を取り押さえた。男が地面に倒されるのと同時に陽希の身体もどさっとその場に崩れ落ちる。
「陽希!」
 痛みと失血で弱々しい息を吐きながら陽希は声のしたほうへ視線を向ける。その霞む視界の中では暁斗が男を取り押さえていた。すると、騒ぎを聞きつけた通行人が男を抑えるのに協力してくれたようだ。陽希の耳には暁斗とその通行人が会話している内容は届かなかったが、暁斗は男を通行人に任せて陽希の元へと駆け寄ってきた。
「陽希、大丈夫だ、絶対大丈夫だから、俺が助けるから。諦めるんじゃないぞ」
「はぁ…っ…はぁっ……暁斗…おれ…暁斗のこと…守れた…自分の手で…運命…変えられた…」
「ばか野郎、お前が怪我したら意味ないだろ」
「ははっ…身体が勝手に、動いて……暁斗……」
 唇を動かすがそれは声になっておらず、暁斗は顔を近付かせた。その表情には不安や恐怖が入り混じり、陽希は力を振り絞って手を彼の顔へと近付けた。そして、彼の困惑に満ちた瞳を手で覆い、触れるだけの口付けをする。
 その瞬間、何故夢の中の暁斗が陽希に目隠しをしてキスをしていたのかがわかった。
 覚えていてほしくなかったからだ、最期のキスを。
 自分に縛られてほしくないという優しさだったのかもしれない。少なくとも、今の陽希はその気持ちで彼に口付けをした。ずるいかもしれないけど、最期くらい彼に触れたかった。
 陽希が手を外すと軽く触れた暁斗のこめかみ辺りに血が付いてしまっており、陽希は弱々しく苦笑いを浮かべた。顔から離れた手は下に落ちる前に暁斗にぎゅっと握り締められたが、その手は驚くほどに冷たくなっている。
「暁斗……おれ……」

 暁斗のこと、死んでも守りたかった。

「陽希!陽希!」
 暁斗が名前を呼ぶ声が遠のいていき、陽希の意識はそこでプツッと途切れてしまった。

 ◆

「陽希、起きて」
 自分の名前を呼ぶ声にゆっくりと意識が浮上していき、重い瞼を上げる。
 目の前に見えたのは『白』だった。室内でも外でもない、本当に何もない、真っ白な空間だ。まるで空気すらも失われたかのような音一つない、静かな場所。
 陽希は数回瞬きをしてから重い身体を起こした。辺りを見回すとぼんやりとした視界の中、誰か立っている。最初は顔がよく見えなかったが、次第にその姿が鮮明になっていくと、その人物の顔には見覚えがあった。だが、信じられない状況に驚きで目を見開く。
「驚いた?俺は前世のお前」
「前世……俺は死んだってこと…?」
「んー、まだ死んではないよ。危険な状態だけどね」
 にこっと笑みを浮かべた前世の陽希だと名乗る人物は、座り込んだままの陽希の前にしゃがみ込んだ。
「死を感じられる匂い、なんでそんなものがあるのか教えてあげようか」
「えっ」
 あの匂いが存在する理由なんてあるのかと陽希が驚きの表情を浮かべていると、前世の陽希はこくりと一度頷いた。
「あれは罰だよ」
「罰…?」
「そう。俺の一つ前の人生でも俺と暁斗は一緒だったんだけど…ははっ、今回も一緒になるなんて本当運命的だよね。それで、その一つ前の人生でも俺は暁斗を守ることができずに後追いして死んだ。俺が生まれた時にはあの匂いがわかる身体になっていたから神から与えられた罰なのかなって思ってね。あの匂いがわかったところで何もできないんだから……。で、結局俺も暁斗を守ることができずに後追いしちゃって、お前にもこの死の匂いがわかる力が残ったままになったんだよ」
 前世の陽希の言葉に過去の記憶が甦る。両親の死、他人から感じる死の匂い。それらは匂いを感じ取れたからといって陽希自身にはどうすることもできなかった。罪悪感や無力感、それに押しつぶされそうになったことも何度もあった。
 しかし、この話を暁斗にしてから死の運命は変えられると気付かされた。暁斗が教えてくれたから、少なくとも暁斗を救うことはできた。それは目の前の彼が言う『暁斗を守れなかった』という運命からは抜け出すことができたということだ。
「……罰なんかじゃない」
「え?」
 陽希は両手をぎゅっと握り締め、真っ直ぐに前世の陽希の瞳を見つめる。
「死の運命は変えられる。暁斗が教えてくれたんだ。俺はこの匂いのおかげで暁斗を守ることができた」
「……けど、これでもしお前が死んだら、暁斗とは離れ離れだ。そんなの運命を変えられたなんて言えないんじゃないか?」
「俺は暁斗のところに戻れるって信じてる。運命は変えられるって教えてくれた暁斗のことを信じているから」
「……」
 前世の陽希はじっと陽希のことを見つめたまま暫く何も言わなかったが、一度大きく息を吐き出してその場に立ち上がった。すると、前世の陽希の後ろから誰かが歩いてきた。その顔にも見覚えがあった。何度も夢の中で見ていた、前世の暁斗だ。
「陽希、どうするんだ?」
「ん、消すことにする」
 消す、という言葉にドキッとする。一体何を消すというのだろうかと、不安気に二人のことを見上げていると前世の陽希が手を差し出してきた。立ち上がらせてくれようとしているのか指をちょいちょいっと動かしたため、恐る恐るその手を取って立ち上がらせてもらう。
「実はもう一つ、罰が与えられていた」
「もう一つ?」
「うん、お前も感じてると思うんだけど、身近な人の死が多いって思ったことないか?」
 両親の死、知人の死、確かに彼の言う通り陽希の周りでは死が多かった。そして、最近では仲の良い同僚も死にそうになり、陽希が庇っていなければきっと暁斗も……。
「俺が生きていた時も周りには死が多かった。俺も暁斗も若くして死んだのはこの与えられた罰のせいだったんだ。自死を選んだことの罰、かな」
「そんな…じゃあ、俺がもしここで助かったとしても…」
「うん、また近い将来危険な目に遭うかもしれない」
 自分だけならまだしも、それは必然的に周りも巻き込んでしまうことになる。自分に与えられた罰のせいで周りの人が命の危険に晒されるなんて。
 どうすれば良いのかわからずに表情が暗くなっていく陽希の肩を前世の陽希がぽんぽんと軽く叩いた。
「落ち込まなくていいよ。その罰は俺がもらうから」
「えっ?」
「お前は暁斗を守った。その上、この状況でもまだ諦めてない。それに、この罰は俺が自死したせいだから俺が受けるのは当然だろ?」
「そんなことできるのか…?それにお前が受ける罰って…」
 前世の陽希はにこっと笑ってから人差し指で陽希の額に触れた。その指先から温かい気が流れ込んでくるような感覚があり、それと同時に胸の辺りがスッと軽くなった。
「俺がどんな罰を受けるかは気にしなくていい。どうせ死んでる身だしな。それに、暁斗も傍にいてくれるから」
 指を下ろした前世の陽希の顔色が少し悪くなり、足元も若干ふらついたようだったが、すぐに前世の暁斗が彼の横でその身体を支えた。
「ほら、そろそろ行かないとお前の暁斗が呼んでるよ」
 振り返ると遠くのほうから陽希の名前を呼ぶ暁斗の声が聞こえてきた。その瞬間、真っ白だった空間に靄がかかっていき、陽希の視界から前世の二人の姿が見えなくなる。意識も徐々に遠のいていく中、前世の陽希の声が最後に耳に届いた。
「今度はちゃんと二人で長生きしろよ」
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