恋はえてして

蜜鳥

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おまけSS

Thursday again

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 疲れも、ストレスも限界水位ぎりぎり、あとは表面張力の決壊を待つだけの状態だった。

 そして木曜日の午後五時過ぎ、ついにその時は来た。

「だって、熊谷さんも『この会社の契約はおかしいから、それを一緒に労基に言おう』って言ったじゃないか! 何で人事と話なんかしなきゃいけないんだ。どうせうまいこと言ってだましてくるのに! 書類だってそうだ! 後で何とでも改ざんできるじゃないか!」

「待て待て。そんなこと言ってないだろ。労基に言う前に、契約のことで不満があるなら、人事と法務と社長交えて見直しをしてみたらって言ったんだよ」
「そうやって嘘を言うんだ! 俺の味方だって言ってましたよね! あー、もう何なんだよこの会社!」

 管理部門と話をしよう、と連れてきてこの騒ぎになった。

 何事かとフロア中の人間が立ち上がってこちらを見ている。大声を上げたせいで、法務、人事、総務担当は怯え切っている。席の近い天羽と吉本も何事かと顔をのぞかせている。

 興奮した坂上はもう声の大きさをコントロールすることもできないようで、熊谷に向かって一方的にまくし立ててきた。

 ああ、もう無理。面倒くさい、全部投げ出したい。その前にこの男の身体を窓から放り投げたい。

 裏返った声でまくし立てる言葉を耳に入れないように、熊谷は目を閉じた。
いつもは大卒だからとかいって高専卒の熊谷より優秀だと言外にアピールしていた男だった。それを思い出すと、なおさら腹が立ってくる。

 ふ ざ け ん な!
 一回海に投げ込んだろか、このバカタレ! アホンダラ!
全部他人のせいにしてんじゃねーよ! 何が騙されただ、何が改ざんだ。書類のコピーはもらってるんだから自分で確認しろよ!
 会社は会社で利益を上げるシステムになってるし、こっちはそれを使って稼いでくんだよ。いやなら起業でも転職でも、何でもすりゃいいだろうが!
それに給料に文句つけんなら、勤務中も休日も散々俺に愚痴った分の時給払えよ!
 頭の中で怒鳴って、一呼吸置いた。

 こういうのは慣れている。実家にいた頃は機嫌の悪い姉の理不尽な言いがかりを聞いていたし、客の中にも、責任を取りたくない担当者が、こちらの反撃を怖がって過剰にキャンキャン言ってくることもあった。

 相手の不安定な感情に引きずり込まれないようにすればいい。ひとしきりわめき、怒りの表面に張り付いていた薄っぺらい言葉が全部剥がれ落ちるまで待つのだ。

 言葉が続かなくなったところで、相手に一歩近づいた。熊谷の方が背も高いし、ガタイもいい。暴れられない限り対応できるずだが、気が立っていると何をするか分からない。坂上よりも小柄な女性が多いこの場で、興奮させないようにしなくては。

「部長がいればいいんだけど、今日は九州に出張だろ? 言いたいことがあるなら俺が聞くから、会議室に行こう。すいません、人事と法務のお二人は少し後で来てもらえませんか? あと、誰か坂上さんに飲み物をもって来てもらえると助かります。多分喉が渇いてるから。うっかりもう一杯注いじゃったら俺が飲むんで、持ってきてもらえると嬉しいです」

 息を詰めるような空気が緩む。お茶は、山下が片手をあげて引き受けてくれた。

 法務と人事担当だけは神妙な顔で頷き、キーボードをたたいて書類を準備し始めていた。

 気色ばむ坂上を会議室に促しながら天羽の方に視線をやると表情がないままかたまっている。嫌悪感をあらわにしている吉本や、不安、好奇の目で見ている周りの社員とは対照的だった。

 大丈夫だろうか? 坂上なんか放っておいて天羽の元に行きたいが、そういうわけにもいかない。後ろ髪をひかれつつ、扉に向かった。 

 出先から戻った社長も含めての話し合いが終わり、会議室を出たのは午後七時過ぎだった。

「じゃあ、明日来て休みの間の引継ぎをしたら、しばらくゆっくりしなさい。今日は早く帰って休んで」
「はい、ありがとうございます。失礼します」

 さっきまでの勢いはどこに行ったのか。言いたいことを一通り吐き出した坂上はとたんにしおらしくなった。自分の将来への不安を四人の年長者に聞いてもらい、週明け月曜日から一週間の休暇を貰って地元に帰ることになった。
 皺のついたシャツがズボンからはみ出ている。丸まった背中が哀れだと思った。

「熊谷くんも、よく頑張ってくれたね。次からは早めに上に言っていいから。一人であんなこんがらがったのを抱え込んでいたんじゃ仕事にならないよね」

 営業部長には伝えてあったのだが、また若者のわがまま病か、とまともに取り合ってくれていなかった。多分それも遠因だと熊谷は思っていた。

「ありがとうございます。人生経験足りなさ過ぎてさすがに対応できませんでした。ああやって話を聞けばいいんですね、勉強になりました」

「うんうん。きみ、肝が据わってるけどやっぱり大変だったでしょ。今日はもう帰って、あとは明日でいいから」

 殆どの社員は帰宅しており、事務所の照明は落とされていた。管理部門の二人はホッとした顔で話しながらパソコンの電源を落としている。
「熊谷さんはタフだね。やっぱりお客さんとやりとりするのに向いてるわ、技術から営業に引っ張って正解」
「はい、ご褒美」

 小さいけど、なんだか高そうなチョコレートが出てきた。

「ありがとうございます! ごちです、うまそうっすね! お二人こそお疲れ様でした、早く帰りましょう」

 荷物をもって部屋から出てゆくのを見送り、熊谷は薄暗いフロアで、自席に戻った。照明をつけてやりかけていた処理だけ済ませ、パソコンの電源を落とした。
 オフィス用のそっけない椅子の上で、思い切り腕を伸ばして背中を反らせると、体のどこからこんな声がというような悲鳴が漏れる。。

「……ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~」

 獣のような声を出したくもなる。

 週末は絶っ対に、何があっても天羽と会う。大雨でも、停電が起きても、絶対に合う。天羽の空いている時間を全部もらうのだ。
 謎の決意を胸に、照明の元電源を落としフロアを施錠した。

 外は月明かりに照らされて変に明るい秋の夜だ。ようやく涼しい風が吹くようになってきて、ジャケット越しに身体を冷やしてくれる。
 後輩の問題はひと段落したけれど、濁った水のようなもやもやしたものはまだ身体を満たしていた。駅までの人もまばらな道のりをぼんやりと歩いて行く。
 冴え冴えとしたアスファルトの上、足元がやたらくっきりと見えて、やっと現実に戻ってきた。

「あと一日、あと一日終わったら......比呂さんとおいしいご飯を食べに......」 

 消音にしたまま鞄に入れておいたプライベート用のスマホが振動したような気がした。メッセージが入っている。もしかして、と期待してプレビューを見てがくっとした。

ここね>こんばんは
>ここねです おぼえてるかな?

 先週末の二次会で熱心に話しかけてくれた、感じのいい女性だった。最近彼氏と喧嘩別れしたんだよね、とアピールしていたことを思い出す。付き合う相手を探していないことを伝えないといけないのは分かっているが、今はそんなことに割ける精神力はなかった。ごめん、と心の中で呟いて画面を閉じる。
 そのままスマホを手に歩いていると再び振動した。また彼女からだろう。東京に遊びに行くよ、と言ってたな。友達として案内するのはもちろん歓迎だ。でも早めに予防線を張っておかないと......そう思いながらロック画面を見る。プレビュー表示されたのはもちろん日本語だが、理解するのに時間がいった。

天羽>おたんじょうびおめでとうございます

「は? え?」

 慌ててメッセージを確認する。たった一行しかない。でもその一行に並ぶ一文字一文字が光っている。少し待っていると、どこから引っ張ってきたのかケーキにローソクの灯されるスタンプが追加された。

「まじか......ははっ、こんなの不意打ちじゃん......」

 顔じゅうの筋肉が盛大に緩んで笑顔になるのを止められない。何なんだ、この不器用さは。社長や営業相手に淡々と広報計画のプレゼンをするあの涼しげな顔で、このスタンプを探し、おそらく送ろうか少し迷って送信ボタンに触れたのだろう。その様子を思い浮かべるとこっちが赤面してしまう。

 続きが来ないのを確認してから返信した。

熊谷>ありがとうございます
>自分でも忘れてました

天羽>吉本さんに聞いたんです。
>大丈夫でしたか、まだ会社ですか?

 ありきたりのメッセージなのに、その向こうで心配そうな顔をしている天羽を想像した途端に、心の中で何かが決壊した。
 坂上に理不尽に怒鳴り散らされた時ですら辛うじて持ちこたえていた気持ちが、こんなに些細な柔らかさで崩れるなんて、思いもしなかった。

熊谷>今出たところです
あの、誕生日なのでお願いをきいてもらえませんか

天羽>いいですよ。
>何だろう、怖いな

熊谷>今夜、比呂さんちのベッドで寝たい

 車が隣を走り抜けてゆき、家々からは生活音がしている。それなのに、世界がしんと静まり返ったようだ。

 一秒、二秒、三秒......

天羽>どうぞ


 相変わらず短いその一言が天啓のよう熊谷の脳裏に突き刺さってきた。

 どうぞ! どうぞ、って!!!

「っしゃ!」

 思わず声が漏れた。

 身体が数センチ地面から浮き上がったような気がする。顔がにやけるのを止められない。
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