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不機嫌なΩ
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風に吹き上げられた紙吹雪が花びらのように降り注ぎ、あらゆる性別と人種が集うこの場所で人々の表情を一様に緩ませた。
そんな場面ですら美しいその人には表情がなかった。完璧な笑顔も、あおられた髪を直す柔らかな仕草も、何一つ心がない。この世で本当にしたいことは何一つ叶わないと知っているかのようだった。
うっそうと茂った葉陰に顔をのぞかせる、もしくは夜明けのほんの一時にしか姿を見せない瑞々しい花のような顔に、分別くさい諦念の光を帯びた瞳。二つの要素がぶつかり合って、不思議な印象をうんでいた。
それが獣人でαのデルフィンと、至高のΩと言われたジョアンとの初めての出会いだった。
世界が今よりも混沌としていた頃、人と獣人の共通の祖先から獣の遺伝子を取り込んだ獣人が生まれた。その後、進化のかなり早い段階で男女の性は亜種としてα、β、Ω性に分化していった。
わずかな外見の違いと、大きく異なる身体的ポテンシャル。それぞれの獣の特性が現在の獣人の文化に彩を与えていた。
イルカの遺伝子を引き継ぐデルフィンは、三日月型の瞳孔と明るい灰色の髪こそもっていたけれど、外見は人間と殆ど変わりなかった。
ただ、人間よりも美しく屈強で精力的な身体。その器を満たす高い知性と尽きることのない好奇心。鋭い聴覚、嗅覚、そして美しい歌声は、はるか昔から受け継がれてきたイルカの遺伝子によるものだった。
熱狂する人々の中で息をひそめるように気を張っているジョアンの小さな身体。華奢で小柄なところは獣人のΩと大差ない。
人間の町で成人したΩを見るのは何度目だろう? 記憶をたどってみても片手で足りるほどしかない。
デルフィンは主に獣人が集まっている町に住んでいた。人でも獣人でもΩの人口割合は同じように小さかったが、獣人の町では薬を適切に服用している者は一般的な生活をしているため、見かけることは珍しくなかった。
強いフェロモン放出によりαの理性もたやすく崩してしまうΩ性。人間社会ではそんなΩを保護するために設けられた特殊後見制度を利用して、裕福なαたちは気に入ったΩを自らの虜としていた。
外見が優れたΩを正式に自らの手元に留めることのできるこの制度により、斡旋業者が高額の手数を徴収するのが常だった。両者のマッチングは高利潤のビジネスでありながら、現代の娼婦、男娼オークションと揶揄されていた。
一方、平凡なΩの行き着く先は低賃金の仕事だったけれど、発情期さえコントロールできれば社会の隅で静かに暮らすことが叶っていた。しかし運悪く望まぬ番関係を結ばれて惨めな最後を遂げることも少なくなかった。
そんな中でもとりわけ人目を惹くジョアンは、容姿の美しさを最大限に活かし、発情期の始まった十代半ばで最高の生活を手に入れたのだった。そんな生活を既に十年以上享受してきていた。
+
資産という名の権力を持つ人たちのための観覧席は、多数の人間のαの中に獣人やΩがいることを鷹揚に許容している。嘘くさい寛容さだ、とデルフィンは独り言ちた。
人間の町で年に一度開催される大きな祭りは賑わっていた。踊り子たちが通る道筋に設えた建物は真昼の突き刺すような直射日光を遮り、どうやって用意したのか冷たい飲み物まで供されている。
飲み物を手に知り合いを見つけてはひっきりなしに移動する人々の邪魔にならないようにしていたデルフィンはいつのまにかジョアンの隣に押しやられていた。
人間とは違う価値観と文化を持つ獣人社会でも彼は有名だった。これまでの後見引受金額を大幅に更新して落札された至高のΩ。つまり、最高金額で競り落とされた人間、という訳だ。
好奇心から声をかけたのはデルフィンだ。
「こんにちは。」
相手の価値を吟味するような長い沈黙の後、ジョアンは慇懃な笑顔でおざなりに口を開いた。
「......こんにちは。」
人間の美醜には詳しくないが、柔らかい曲線を描いた目鼻立ちは整っている。目元口元には成熟した色気がある、と付け加えることもできる。褐色の肌は滑らかで艶を持ち、くすんだ緑の瞳は森の奥の葉陰のような静けさをたたえていた。
番がいなければさぞかし多くのαの理性を狂わせていただろう。
ただ、そこには相手を寄せ付けない空気が漂っていた。
極上の美を与えられた人形のようだ、とデルフィンは心の中で評価した。
「デルフィン・ダンです。初めまして。」
差し出された手を空から降ってきた魚を見る様な表情で一瞥したジョアンは、嫣然と笑みを浮かべた。
「悪いけど番ってるんだ、だから握手はしない。」
軽く首をひねってうなじを見せる。襟を抜いた珍しい形のシャツが噛み痕のある艶やかな褐色の肌に輝きを与えている。番のいるΩのはずなのに、ダンはそこから目が離せなかった。
そんな心中を察したかのようにデルフィンは軽く頭を振り、そこに貼り付いていた視線を断ち切ってツンと顎を突き出したまま前方を見た。
名前くらい知ってはいるが、名乗りもしないとは。随分な態度にさすがにムッとした。そもそも握手くらいで番以外の相手に嫌悪反応が出ることなんてないだろう。体のいいあしらい文句だ。
だからこういう場所は苦手なのだ。
仕事の関係で招待された友人に無理やり引っ張ってこられから、せめて楽しく過ごそうと話しかけただけなのに。
このつっけんどんな態度は自意識過剰だ。否、そういう扱いに慣れているのだろう。しかし番っていてもいなくても魂のない人間に近づく必要はない。
遠くからひときわ大きな歓声が上がった。最後を務める一番人気の踊り子達の熱気が空気を通して伝わってくる。祭りの勢いはいよいよ頂点に向かって上り詰めてゆく。
最低限の礼だけ尽くせばいい、と割り切ったダンは相手に合わせるのを止めた。
周りの雑多な音が嘘のように二人の間に沈黙が訪れる。黙ってはいても意識しているのが分かると、お互いに見えない糸を引き合うような引力が生まれた。
口角を上げただけのジョアンは口を開く気配もなく前方を見ている。
可愛げのある顔には高慢な表情すらよく似合っているが、まるで深さがないのだ。
生きていることを忘れた生者。そう感じるのは獣人だからかもしれない。人間にとってはこれが普通なのだろうか。座長の顔色を窺い観客の反応ばかり気にする退屈な踊り子のようだ。人間のΩとはこんなものか。
まあいい、自分とは縁のない相手だ。そう思うのにこんなに気を取られてしまうのは、αとΩだからだろう。
ダンは軽く頭を振って立ち上がり、通りを見下ろした。
キラキラと光りながら降ってくるのは踊り子達が撒き散らす金銀の屑。
美しいけれど何の役にも立たないし地面に落ちた途端に塵になる。自分のすぐ近くにいる美しいΩもそういう類の役割なのだろうか。そんな失礼な考えが浮かんだことに驚いた。名乗られてすらいない相手なのに。
ここにきて握手を拒絶された傷が思ったより深かったのだ、とようやく自覚して苦笑した。
ふと視線を感じた。少し離れたところからジョアンの祖父ほどの年齢の男がこちらを見ながら片手を上げた。
「ジョアン、こっちにおいで。一緒に見よう。」
皺の刻まれた口角を上げ悠然と手招きをされ、ジョアンはようやく立ち上がった。
「プリモス。」
番の名を呼んでいるのにどこか固いところのある笑顔がダンの目には不思議に映った。
立ち上がると小柄で華奢な身体が涼やかな風のような香りを放った。鋭敏な嗅覚がとらえたその感覚が、ダンの心の底をくすぐった。
「雪斑木の香りだな。」
艶やかな葉に小さく入る真白な斑をこの地では降ることのない雪と呼んだのは、初代の入植団に加わっていた感傷的な植物学者だった。雪斑木から抽出できる香料はごく少量で希少だ。嗅いだことのある人など滅多にいない。
目を見開いたジョアンに言い訳がましく首をすくめてみせた。
「香木を扱っているので。」
「……デルフィン・ダン。」
なぜか名前を呼ばれたことに驚いたが、それよりも相手が自分の名前を記憶していたことが意外だった。
目を丸くしてどこか愉しげなダンを尻目に、ジョアンは主の元にゆっくりと歩いて行く。
優雅に髪を揺らし、泰然とした足取りで。
どれだけ足掻いても開くことのない透明な天井越しに人間を見上げる羽目になる獣人に、裕福なαの番である自分の価値を見せつけるかの様に。
番ってしまえば意味の無くなる『至高のΩ』という賛辞が彼の最後の矜持だろうか、とダンは興味深い目で見ていた。
その時、ちょうどすぐ近くまでやって来ていた踊り子の一団が、身につけていた衣装や花を観覧席に向けて放り投げたのだ。
「わあっ!」という歓声とともに人々が飛びついた。人の動きが波になってうねった。
その波は、周りのα達より二回りほど小柄なジョアンをのみこんだ。
「あっ……。」
誰かの肘に突き飛ばされ、口を開いたまま倒れるに任せた身体が砂の舞う地面に引き寄せられてゆく。小柄なΩなど気にも留めていないαたちが、通りを見下したまま乱雑な足取りで向こうから移動してきた。
あの美しい肌が汚れてしまう。そう考える間も無くダンはジョアンに覆いかぶさって自分の身体の下に押し込んだ。何人かが自分の背中を踏んだり、足を引っかけて転がったが、そんなことはダンにとってどうということもなかった。
なのに、身体の下で守ったはずのジョアンの悲鳴が耳を突きさした。
「やぁぁぁぁ!!! いやだぁぁぁぁー!!!!」
必死に身体を丸めて頭を振るジョアンに困惑していると、突然肩を掴まれ、ダンの身体は乱暴に後方に投げ出された。
何が起きたか理解できなかった。
受け身を取って失礼な相手を見ると、厳つい警護人がダンを見下ろして吐き捨てるように言った。
「触れるな、獣人風情が。」
両手で顔を覆いながら震えるジョアンに歩み寄って抱き起こしたのは先ほどの老齢の男性だった。
人間のαで、ジョアンの後見人プリモス。多数の店を経営し、財力に見合った篤志家でもある。真夏昼間の空の下でも涼しげな顔をして、70代には見えない恵まれた体躯を仕立ての良い服で包んでいる。
「ジョアン、大丈夫か?」
上下する小さな背中をプリモスがさすっていると、まん丸に見開かれた瞳に少しずつ光が戻ってきた。
「っ…...はい、ちょっと驚いただけ。」
過呼吸気味に浅く息を吐きながらそう答えるジョアンの顔にはまだ恐怖の表情が残っていた。血の気の引いた顔で震える指先を見つめるつむじに向かって低く掠れた声が降る。
「よそ見しているからだ。気をつけなさい。」
体を支えられて立ち上がったジョアンが無言で頷くと、プリモスは歩き始めた。背についた砂も払わずにその後ろについて行くジョアンをダンは複雑な気持ちで眺めていた。
+
「じゃああれは本当だったのか。」
「俺たちは関係ない世界だから知るよしもないさ。後見人を乗り換えられるほど魅力的なのは結構だけど、番解消治療は、その後番った時の他人への嫌悪反応の亢進やら副作用がありすぎる。最悪精神が破壊されるという話だし、憐れなΩだ。」
ダンを祭りに誘ったのは、森の奥深くに生息する希少な動植物を取り扱っている、友人のオンカ・セトだった。食材や薬の原料として珍重されるこういった動植物は、獣人が専売で扱う品物の一つだ。
観覧を終えそのまま夜半まで飲んだあとは、外の店なり自分の部屋で仲のいいもの同士が身体を寄せ合う時間だった。
丸い机を囲んで酒を飲む二人の距離は近かった。
セトのしなやかな身体が美しい曲線を描きながら、しどけなく残っていた飲み物を空にする。αの男でありながら、ネコ科独特の色香が漂い、あたりにいる者を酩酊させる。そんな雰囲気に緩んだ理性を預けながら、ダンは気になっていたことを口にした。
「金で買えるものは何でも手に入るんだろうが、幸せそうには見えなかったな。」
「ふうん、どうして?」
「後ろを歩いてたんだ。番なのに隣じゃなくて後ろを歩いてたんだ、あの子。」
ダンの言葉に眉を上げながらセトは頬杖をついて笑った。馬鹿にしているわけじゃない、けれどダンのまっすぐすぎる考えは現実を見ていない。
「相変わらず青いねぇ。あの子って言うけど、彼はあんたより年上。既に一度番解消をして主を乗り換えてるんだよ。
人間は残酷なことをする。他の持ち主から奪うように手に入れたって言うけど、惚れこんだって番関係ができてしまえばそんなものだよ。」
ジョアンは初めての発情期が訪れてすぐに特殊後見制度で落札された。その後、取引先で彼を見初めたプリモスが財力にものを言わせて史上最高額で奪い取ったのだ。
「『Ωの権利促進とよりよい生活環境提供のために後見を』、か。空々しいうたい文句だ。」
眉をあげたセトはそんなダンをからかうような表情で見ていた。
「触ることすらできないΩに何の用があるんだ? あの花はあんたのものじゃないし、その匂いをかぐことだってない。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
そう言いながらセトはダンの隣に椅子を移動させた。柔らかい手がダンの首筋に触れ、それから肩を撫でた。
「......な、獣人は獣人同士、ってのがお似合いだよ。あんたの体力についていけるのも俺くらいだよ?」
目を細めてお互いの匂いを嗅ぎあいながら、そろそろだろ? と軽く唇を合わせる。
勝ち気な舌が先に唇を割って入り、揶揄うようにすぐに引いてダンの顎から耳に向かって舐め上げていった。
α同士、獣人同士、夜を通して遠慮のない交わりを始めようと誘ってくる。
身体はすでに反応しているし、準備はできている。なのに、いつもなら楽しめる気の置けない相手との時間も、砂にまみれた背中がちらついて今夜はどこかのめりこむことができなかった。
そんな場面ですら美しいその人には表情がなかった。完璧な笑顔も、あおられた髪を直す柔らかな仕草も、何一つ心がない。この世で本当にしたいことは何一つ叶わないと知っているかのようだった。
うっそうと茂った葉陰に顔をのぞかせる、もしくは夜明けのほんの一時にしか姿を見せない瑞々しい花のような顔に、分別くさい諦念の光を帯びた瞳。二つの要素がぶつかり合って、不思議な印象をうんでいた。
それが獣人でαのデルフィンと、至高のΩと言われたジョアンとの初めての出会いだった。
世界が今よりも混沌としていた頃、人と獣人の共通の祖先から獣の遺伝子を取り込んだ獣人が生まれた。その後、進化のかなり早い段階で男女の性は亜種としてα、β、Ω性に分化していった。
わずかな外見の違いと、大きく異なる身体的ポテンシャル。それぞれの獣の特性が現在の獣人の文化に彩を与えていた。
イルカの遺伝子を引き継ぐデルフィンは、三日月型の瞳孔と明るい灰色の髪こそもっていたけれど、外見は人間と殆ど変わりなかった。
ただ、人間よりも美しく屈強で精力的な身体。その器を満たす高い知性と尽きることのない好奇心。鋭い聴覚、嗅覚、そして美しい歌声は、はるか昔から受け継がれてきたイルカの遺伝子によるものだった。
熱狂する人々の中で息をひそめるように気を張っているジョアンの小さな身体。華奢で小柄なところは獣人のΩと大差ない。
人間の町で成人したΩを見るのは何度目だろう? 記憶をたどってみても片手で足りるほどしかない。
デルフィンは主に獣人が集まっている町に住んでいた。人でも獣人でもΩの人口割合は同じように小さかったが、獣人の町では薬を適切に服用している者は一般的な生活をしているため、見かけることは珍しくなかった。
強いフェロモン放出によりαの理性もたやすく崩してしまうΩ性。人間社会ではそんなΩを保護するために設けられた特殊後見制度を利用して、裕福なαたちは気に入ったΩを自らの虜としていた。
外見が優れたΩを正式に自らの手元に留めることのできるこの制度により、斡旋業者が高額の手数を徴収するのが常だった。両者のマッチングは高利潤のビジネスでありながら、現代の娼婦、男娼オークションと揶揄されていた。
一方、平凡なΩの行き着く先は低賃金の仕事だったけれど、発情期さえコントロールできれば社会の隅で静かに暮らすことが叶っていた。しかし運悪く望まぬ番関係を結ばれて惨めな最後を遂げることも少なくなかった。
そんな中でもとりわけ人目を惹くジョアンは、容姿の美しさを最大限に活かし、発情期の始まった十代半ばで最高の生活を手に入れたのだった。そんな生活を既に十年以上享受してきていた。
+
資産という名の権力を持つ人たちのための観覧席は、多数の人間のαの中に獣人やΩがいることを鷹揚に許容している。嘘くさい寛容さだ、とデルフィンは独り言ちた。
人間の町で年に一度開催される大きな祭りは賑わっていた。踊り子たちが通る道筋に設えた建物は真昼の突き刺すような直射日光を遮り、どうやって用意したのか冷たい飲み物まで供されている。
飲み物を手に知り合いを見つけてはひっきりなしに移動する人々の邪魔にならないようにしていたデルフィンはいつのまにかジョアンの隣に押しやられていた。
人間とは違う価値観と文化を持つ獣人社会でも彼は有名だった。これまでの後見引受金額を大幅に更新して落札された至高のΩ。つまり、最高金額で競り落とされた人間、という訳だ。
好奇心から声をかけたのはデルフィンだ。
「こんにちは。」
相手の価値を吟味するような長い沈黙の後、ジョアンは慇懃な笑顔でおざなりに口を開いた。
「......こんにちは。」
人間の美醜には詳しくないが、柔らかい曲線を描いた目鼻立ちは整っている。目元口元には成熟した色気がある、と付け加えることもできる。褐色の肌は滑らかで艶を持ち、くすんだ緑の瞳は森の奥の葉陰のような静けさをたたえていた。
番がいなければさぞかし多くのαの理性を狂わせていただろう。
ただ、そこには相手を寄せ付けない空気が漂っていた。
極上の美を与えられた人形のようだ、とデルフィンは心の中で評価した。
「デルフィン・ダンです。初めまして。」
差し出された手を空から降ってきた魚を見る様な表情で一瞥したジョアンは、嫣然と笑みを浮かべた。
「悪いけど番ってるんだ、だから握手はしない。」
軽く首をひねってうなじを見せる。襟を抜いた珍しい形のシャツが噛み痕のある艶やかな褐色の肌に輝きを与えている。番のいるΩのはずなのに、ダンはそこから目が離せなかった。
そんな心中を察したかのようにデルフィンは軽く頭を振り、そこに貼り付いていた視線を断ち切ってツンと顎を突き出したまま前方を見た。
名前くらい知ってはいるが、名乗りもしないとは。随分な態度にさすがにムッとした。そもそも握手くらいで番以外の相手に嫌悪反応が出ることなんてないだろう。体のいいあしらい文句だ。
だからこういう場所は苦手なのだ。
仕事の関係で招待された友人に無理やり引っ張ってこられから、せめて楽しく過ごそうと話しかけただけなのに。
このつっけんどんな態度は自意識過剰だ。否、そういう扱いに慣れているのだろう。しかし番っていてもいなくても魂のない人間に近づく必要はない。
遠くからひときわ大きな歓声が上がった。最後を務める一番人気の踊り子達の熱気が空気を通して伝わってくる。祭りの勢いはいよいよ頂点に向かって上り詰めてゆく。
最低限の礼だけ尽くせばいい、と割り切ったダンは相手に合わせるのを止めた。
周りの雑多な音が嘘のように二人の間に沈黙が訪れる。黙ってはいても意識しているのが分かると、お互いに見えない糸を引き合うような引力が生まれた。
口角を上げただけのジョアンは口を開く気配もなく前方を見ている。
可愛げのある顔には高慢な表情すらよく似合っているが、まるで深さがないのだ。
生きていることを忘れた生者。そう感じるのは獣人だからかもしれない。人間にとってはこれが普通なのだろうか。座長の顔色を窺い観客の反応ばかり気にする退屈な踊り子のようだ。人間のΩとはこんなものか。
まあいい、自分とは縁のない相手だ。そう思うのにこんなに気を取られてしまうのは、αとΩだからだろう。
ダンは軽く頭を振って立ち上がり、通りを見下ろした。
キラキラと光りながら降ってくるのは踊り子達が撒き散らす金銀の屑。
美しいけれど何の役にも立たないし地面に落ちた途端に塵になる。自分のすぐ近くにいる美しいΩもそういう類の役割なのだろうか。そんな失礼な考えが浮かんだことに驚いた。名乗られてすらいない相手なのに。
ここにきて握手を拒絶された傷が思ったより深かったのだ、とようやく自覚して苦笑した。
ふと視線を感じた。少し離れたところからジョアンの祖父ほどの年齢の男がこちらを見ながら片手を上げた。
「ジョアン、こっちにおいで。一緒に見よう。」
皺の刻まれた口角を上げ悠然と手招きをされ、ジョアンはようやく立ち上がった。
「プリモス。」
番の名を呼んでいるのにどこか固いところのある笑顔がダンの目には不思議に映った。
立ち上がると小柄で華奢な身体が涼やかな風のような香りを放った。鋭敏な嗅覚がとらえたその感覚が、ダンの心の底をくすぐった。
「雪斑木の香りだな。」
艶やかな葉に小さく入る真白な斑をこの地では降ることのない雪と呼んだのは、初代の入植団に加わっていた感傷的な植物学者だった。雪斑木から抽出できる香料はごく少量で希少だ。嗅いだことのある人など滅多にいない。
目を見開いたジョアンに言い訳がましく首をすくめてみせた。
「香木を扱っているので。」
「……デルフィン・ダン。」
なぜか名前を呼ばれたことに驚いたが、それよりも相手が自分の名前を記憶していたことが意外だった。
目を丸くしてどこか愉しげなダンを尻目に、ジョアンは主の元にゆっくりと歩いて行く。
優雅に髪を揺らし、泰然とした足取りで。
どれだけ足掻いても開くことのない透明な天井越しに人間を見上げる羽目になる獣人に、裕福なαの番である自分の価値を見せつけるかの様に。
番ってしまえば意味の無くなる『至高のΩ』という賛辞が彼の最後の矜持だろうか、とダンは興味深い目で見ていた。
その時、ちょうどすぐ近くまでやって来ていた踊り子の一団が、身につけていた衣装や花を観覧席に向けて放り投げたのだ。
「わあっ!」という歓声とともに人々が飛びついた。人の動きが波になってうねった。
その波は、周りのα達より二回りほど小柄なジョアンをのみこんだ。
「あっ……。」
誰かの肘に突き飛ばされ、口を開いたまま倒れるに任せた身体が砂の舞う地面に引き寄せられてゆく。小柄なΩなど気にも留めていないαたちが、通りを見下したまま乱雑な足取りで向こうから移動してきた。
あの美しい肌が汚れてしまう。そう考える間も無くダンはジョアンに覆いかぶさって自分の身体の下に押し込んだ。何人かが自分の背中を踏んだり、足を引っかけて転がったが、そんなことはダンにとってどうということもなかった。
なのに、身体の下で守ったはずのジョアンの悲鳴が耳を突きさした。
「やぁぁぁぁ!!! いやだぁぁぁぁー!!!!」
必死に身体を丸めて頭を振るジョアンに困惑していると、突然肩を掴まれ、ダンの身体は乱暴に後方に投げ出された。
何が起きたか理解できなかった。
受け身を取って失礼な相手を見ると、厳つい警護人がダンを見下ろして吐き捨てるように言った。
「触れるな、獣人風情が。」
両手で顔を覆いながら震えるジョアンに歩み寄って抱き起こしたのは先ほどの老齢の男性だった。
人間のαで、ジョアンの後見人プリモス。多数の店を経営し、財力に見合った篤志家でもある。真夏昼間の空の下でも涼しげな顔をして、70代には見えない恵まれた体躯を仕立ての良い服で包んでいる。
「ジョアン、大丈夫か?」
上下する小さな背中をプリモスがさすっていると、まん丸に見開かれた瞳に少しずつ光が戻ってきた。
「っ…...はい、ちょっと驚いただけ。」
過呼吸気味に浅く息を吐きながらそう答えるジョアンの顔にはまだ恐怖の表情が残っていた。血の気の引いた顔で震える指先を見つめるつむじに向かって低く掠れた声が降る。
「よそ見しているからだ。気をつけなさい。」
体を支えられて立ち上がったジョアンが無言で頷くと、プリモスは歩き始めた。背についた砂も払わずにその後ろについて行くジョアンをダンは複雑な気持ちで眺めていた。
+
「じゃああれは本当だったのか。」
「俺たちは関係ない世界だから知るよしもないさ。後見人を乗り換えられるほど魅力的なのは結構だけど、番解消治療は、その後番った時の他人への嫌悪反応の亢進やら副作用がありすぎる。最悪精神が破壊されるという話だし、憐れなΩだ。」
ダンを祭りに誘ったのは、森の奥深くに生息する希少な動植物を取り扱っている、友人のオンカ・セトだった。食材や薬の原料として珍重されるこういった動植物は、獣人が専売で扱う品物の一つだ。
観覧を終えそのまま夜半まで飲んだあとは、外の店なり自分の部屋で仲のいいもの同士が身体を寄せ合う時間だった。
丸い机を囲んで酒を飲む二人の距離は近かった。
セトのしなやかな身体が美しい曲線を描きながら、しどけなく残っていた飲み物を空にする。αの男でありながら、ネコ科独特の色香が漂い、あたりにいる者を酩酊させる。そんな雰囲気に緩んだ理性を預けながら、ダンは気になっていたことを口にした。
「金で買えるものは何でも手に入るんだろうが、幸せそうには見えなかったな。」
「ふうん、どうして?」
「後ろを歩いてたんだ。番なのに隣じゃなくて後ろを歩いてたんだ、あの子。」
ダンの言葉に眉を上げながらセトは頬杖をついて笑った。馬鹿にしているわけじゃない、けれどダンのまっすぐすぎる考えは現実を見ていない。
「相変わらず青いねぇ。あの子って言うけど、彼はあんたより年上。既に一度番解消をして主を乗り換えてるんだよ。
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ジョアンは初めての発情期が訪れてすぐに特殊後見制度で落札された。その後、取引先で彼を見初めたプリモスが財力にものを言わせて史上最高額で奪い取ったのだ。
「『Ωの権利促進とよりよい生活環境提供のために後見を』、か。空々しいうたい文句だ。」
眉をあげたセトはそんなダンをからかうような表情で見ていた。
「触ることすらできないΩに何の用があるんだ? あの花はあんたのものじゃないし、その匂いをかぐことだってない。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
そう言いながらセトはダンの隣に椅子を移動させた。柔らかい手がダンの首筋に触れ、それから肩を撫でた。
「......な、獣人は獣人同士、ってのがお似合いだよ。あんたの体力についていけるのも俺くらいだよ?」
目を細めてお互いの匂いを嗅ぎあいながら、そろそろだろ? と軽く唇を合わせる。
勝ち気な舌が先に唇を割って入り、揶揄うようにすぐに引いてダンの顎から耳に向かって舐め上げていった。
α同士、獣人同士、夜を通して遠慮のない交わりを始めようと誘ってくる。
身体はすでに反応しているし、準備はできている。なのに、いつもなら楽しめる気の置けない相手との時間も、砂にまみれた背中がちらついて今夜はどこかのめりこむことができなかった。
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魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
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