僕らが思い出すその日のために

蜜鳥

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 テストの日というのも理由の一つだろうけれど、今日はいつもより早めに登校する生徒が多かったらしい。

 吉沢 遥希よしざわ はるきがホームルームの十五分前に教室の扉を開けた時にはほとんどの生徒が席について何やら盛り上がっている。

「おはよ。」

「おはよう。」

 コートをロッカーに入れてから席に着いた遥希はるきに近くにいた女子数人の視線が集まった。

「何?」

「吉沢くんの机の中、なんか入ってない?」

 そう言われ、遥希は大して物が入っているわけでもない机の中を体を屈めてあらためた。

「なんかって、もしかしてこれ?」

 小さなカードを取り出して見せると、やっぱりとでも言いたげな満足そうな顔でうなずき合っている。
 登校しているこのクラスの生徒全員が机の中にカードがあるのを確認していたため、男女関わらず全員に宛てたものだろうと既に結論が出ていた。

 少し緊張した面持ちで遥希はカードを開いて一通り読み、驚いた表情をして顔を上げた。

「何、これ。」

「ねえ、何だろうね。うちのクラスだけみたいなんだよ。でもK.I.なんてイニシャルの子はいないし、女子の机にも入ってたの。バレンタインにしては謎だよね。」

 何も言わずに曖昧に頷いて同意を示す。普段から聞き役に回ることの多い遥希はさり気なく会話から抜けようとしていたのに、こんな事件のせいか今日は話の輪から外してもらえなかった。

「誰か心当たりない?」

 微笑みとも困惑とも取れる表情で首を横に振った遥希に、「だよね」と全員が頷いてくれる。

「他のクラスの子が机の場所を特定できずに全員の机に入れたとか?」
「えー、好きなら知ってるでしょ。つか、カードよりチョコ入れろよ。」
「あははは、そうだよ、みんなにチョコ配ってくれ。」
「カード入れたってことは連絡先知らないんだよね。ストーカー?」
「ストーカーならなおさら席も連絡先も知ってるはずだよ。にしても全員分手書きとか暇すぎだし、英語で書くとか、意味が分かんない。」

 かしましく推理が繰り広げられる中、話の継ぎ目に小さな声で割り込んだのは遥希だった。

「進路が決まってて、余裕があるやつなんじゃないの?」

 おずおずと言った遥希に女子たちが同意している向こうから、ぱっと視線をよこした生徒がいた。

遥希ハルはそう思うの?」

 女子の一群の後ろで別の生徒と話しながら真剣にカードを見つめて難しい顔をしていた谷津 敦人やつ あつとだった。

「そうなると少しは限定されるけど、イニシャルがK.I.だからこのクラスの子じゃないし、推薦決まった他のクラスの子がわざわざやったってこと?」

 敦人の問いかけに周りにいた全員の視線が再び遥希に集まると、場の中心になった本人は何回か瞬きをして困ったように視線を泳がせた。軽く握った手の甲で口元を隠しつつ何か言いかけたのに気付いたのは敦人だけだった。

「じゃあ、谷津やっくんは何だと思うの?」

 答えを待ちきれず、遥希の代わりに話を拾ったのは隣にいた女の子だった。遥希が何か言うかと待っていた敦人は、目を伏せた相手を不思議そうに見つめてから話しかけた女子に向き直った。

「俺も分からない。でもここまでやるのって本気に見えない? つか、その割にこれスペル間違ってるよな。」
「えーどこ?」

「おーい、席につけー。ホームルーム始めるぞ。」

 どれどれと周りが覗きこんだところで、敦人達の会話は担任の到来で遮られた。


++++


 午前中のテストも二時限目で終わり、三四時限は自習時間となっていた。

 小声で話をしている生徒、イヤホンを耳に突っ込んで黙々と勉強している生徒、ためらいなく帰る生徒もいる。十二年間学校に通ってやっと自分のペースで勉強できるのが大学受験だなんて皮肉な話だ。

 数十人の生徒のいる締め切った教室は暖房で温まり、そこに差し込む昼の日差しで頬が熱かった。問題集を開いて考えるふりをしながら、遥希はさっきの敦人の言葉をぼんやりと反芻していた。

 同じ中学から学区外のこの高校に来たのは敦人と遥希の二人だけ。敦人だけは遥希のことを中学の時と同じようにハルと呼んでいて、そのたびに遥希は胸の奥がくすぐったくなっていた。


 敦人と遥希の通っていたのは一学年三クラスの小さな中学校で、クラスは違っていても学年全員が顔見知りだった。

 お互い親しいというほどではなかったけれど、高校に通い始めてから帰りの電車で一緒になったり、夏休みに他の友達絡みで何度か遊んでいるうちにお互いにスポーツ観戦が好きなことが分かって会話が増えた。

 応援しているのはレアル・マドリードと地元のJ2リーグのチーム、そして熱心さは少し下がるけど地元をホームにしている野球チームの動向も一通り追いかけてはいる。


 高一の秋休み、新聞社で働いている親戚にもらったチケットで、サッカー観戦に誘ったのは敦人だった。運良くか運悪くか、ガチなファンたちに囲まれていたおかげでユニフォームまで貸してもらって盛り上がり、最後には並んで手を繋いで大声を張り上げていた。

「ゴーーーーール! うぉぉぉぉぉ!」

 勝利が決まった瞬間、そこにいた全員が咆哮を上げて立ち上がり、誰彼構わず抱きついてきた。もみくちゃになりながらハグしまくって、されまくって、遥希は知らないうちに敦人とも抱き合っていた。

「平気だった?」
「え? 楽しかったよ。」
「そっか、なら良かった。ハルがこういう感じに騒いでるの見たことなかったから、えーって思われてたら悪いなって思ってさ。」

 興奮覚めやらぬままじゃれ合っているうちに腕を組んで、そのまま駅に向かって歩いていた。お互い解くタイミングが見つけられなかったけれど、駅に近づくにつれて普通の利用客が増えて気恥ずかしくなったのはすでに遠い思い出だ。



 高二の進路別振り分けで同じクラスになった初日、隣の席になった敦人は机に肘をついて遥希に言った。

「四年越しでやっと一緒のクラスか。ワールドカップみたいじゃね?」

「四年越しも何も一緒になるの初めてだろ。」

「だったっけ? 取り敢えず二年間よろしく。」

 笑いながら、頬が赤くなりませんようにと遥希は祈った。
 他意はないことは分かっている、それでもこれから二年間同じ教室で過ごせるのが嬉しかった。


 そんな二年間の日々も間もなく終わる。

 受験のため登校せずに家で勉強している生徒も出てきている。敦人だって自宅学習に切り替えるかもしれない。
 そして同じ大学とはいえキャンパスの違う学部を志望しているから、敦人といっしょに過ごせる時間はもう長くはない。

 気持ちを伝えよう、なんて大それたことは考えてない。そもそもそれが何なのかはっきりと言葉にすることもできていないのに。だけど何かしたっていいじゃないか? たとえそれが相手に届かないくらいささやかで、自己満足なことだとしても。



++++


 午前中のテストも終わり昼休みにはクラスの話題は既に移り変わっていた。

 三時間目が始まる前にとうにお弁当を食べ終わっていた敦人は、購買で買ってきたコロッケサンドと揚げあんパンを机の上においたまま、肘をついて電子辞書で何かを調べては首を捻っていた。周りの友人と言葉を交わし、カードを眺めて不思議な顔をするのを数回繰り返したあと、大きくため息をついて背もたれに身体を預けた。

「よっしゃ、飯食おう。」
「何か分かった?」
「いーや、全然。」

 笑いながら三口でコロッケパンを片づけて揚げあんパンの袋を開けている。

 遥希は少し離れた席で他の友人と話しつつ、そんな敦人たちの会話を聞いていた。


 高校生の移り気と受験生の忙しなさの前では一日の始まりの小さな事件は昼を過ぎれば忘れられ、放課後にはいつもの空気に戻っていた。誰もカードのことなんか話題にしない。それが遥希にとって嬉しくもあり、どこか残念でもあった。

 敦人も気づいていないだろうな。まぁ、いいんだけどさ。

 帰りのホームルームが終わると同時に遥希は立ち上がって帰り支度を始めた。
 
 ふわふわとした足取りで階段を降り、踊り場で立ち止まって窓の外に目をやると、冷たくて透明な空が見える。向きを変えて階段を半分ほど降りたところで上の方から明るい声がした。

「ハル! なあ、ハル! ちょっと待ってよ。」

 心臓が跳ねたのは突然呼ばれて驚いたからだけじゃない。何となく気まずくて、思わず首をすくめて顔をマフラーにうずめた。

 パタパタッと小走りの足音が近づいて、背後で止まる。ゆっくりと振り向くと、コートとデイパックを抱えた敦人が踊り場に立っていた。

 逆光のせいで眩しくて、遥希は目を細めた。

「何?」

 緊張したまま出した声は、遥希が思っていたよりもずっと固く階段に響いた。

 「さっぶ! コート着るからちょっと待って!」

 ぶつぶつ言いながらデイパックを遥希に手渡し、雑に丸めたコートを広げて腕を通し、ボタンを閉める。それからズボンのポケットをまさぐり、手摺に手をかけたまま待っていた遥希にカードを開いて突き出した。

「これさ、K.I.は遥希はるきのき?」

 まっすぐで迷いのない言葉。確信に満ちた表情。
 敦人なら当ててくれるのではないかという期待が現実になった状況をかみしめながら、遥希はゆっくりと瞳を見開いた。

 気付いたのは僕の名前だけ? と心の中で聞いてみる。

 ん? と覗き込んできた敦人の好奇心いっぱいの顔が遥希の丸い瞳に映り込む。窓からの光を一杯に受けて、敦人の輪郭が逆光で白く煙るように光っていてまっすぐ見ているのがつらかった。

 何も言わずに目を反らした遥希に敦人は戸惑って瞬きした。恥ずかしそうに眉が下がり、カードを持つ手の位置も一緒に下がってゆく。

「俺の勘違い?」

 嬉しさと恥ずかしさがないまぜになった気持ちがバレないように、遥希は一つ大きく息を吸って笑顔を作った。

「違うよ、あたり。すごいな、分かったんだ。」

 敦人の顔がぱっと輝いた。やった、と相好をくずし、階段を降りて遥希の隣に並ぶ。同じくらいの背、数か月違いの同い年。同じ教室で過ごす時間はあと数週間しかない同級生。


「俺が推理小説好きなの知ってた?」

 知ってる。そっちこそ、僕が中学の時図書係だったって知らないだろ?

「めちゃくちゃ真剣に考えたのに全然分からなくてさ、ハルが『成績優秀で余裕のある』って言ったとき、ひっかかかったんだ。」

「そう、なんだ。」とかなんとか意味のない返事をモゴモゴしながら瞬きした。こんな風に近くで顔を見るのは久しぶりだ。

 促されて一緒に下駄箱に向かって歩いて行く。こうやって校内で歩くのも、あと何回出来るのかな。

「差出人、女子だと思いこんでたけど男の可能性もあるって気がついて、他のやつがもらったのと見比べたら俺のだけスペル間違ってただろ。」

 手袋を忘れた敦人は、冷えた両手をこすり合わせてからコートのポケットに突っ込んで、にっと楽しそうに笑った。

「五人くらいに見せてもらって確信した。俺のだけわざとしてるんだって。でもスペルミスはalwaysだけだろ。やっぱ分かんねー、って思ってたけど、アレだな、文法ミス。見つけるの苦労したよ。happyのhエイチが小文字のまま、不定冠詞のaエー抜けてる、alwaysのlエルが多い。謎は解けた、犯人はhalハルだ。」

 嬉しそうに話す敦人の声が好きだ。学校から出れば、冷たい空気に吐き出される息が白い。自分の名前を呼ぶ優しい響きを、この白い息みたいに形のある何かにしてとどめられればいいのに。

 校門から駅までは徒歩でほんの十分ほど。短い道のりなのに、敦人の声は雑多な音に紛れてしまう。

 古びた待合室の冷え切ったベンチに座る。電車がやって来るまでの数分、時間は伸び縮みするって本当だ。テストの答え合わせをしたり、志望校の話したり。どうでもよくて大切な話ばかり。

 きっと敦人はあのメッセージは、どこかから持ってきただけの意味のないものだと思ってるんだろう。それならばいい、深読みされて気まずいまま卒業してしまうよりこうして笑っている方がいい。

 ガサガサした音声の自動アナウンスが電車の到来を告げるのをぼうっと聞いていると、敦人が思い出したようにつぶやいた。

「俺、お前に追いつかなきゃって焦りすぎて忘れ物したから、見送ってから教室に戻るわ。」

 思わず笑ってしまった。

「まじ? そんな焦ることでもなかったのに。」
「いやいや、大事なことだったから。」

 大丈夫だよ、見送らなくてもいいよって言おうとしたけど、やっぱり一緒に待ってほしかった。きっと敦人ならこの位のわがままも許してくれるだろうと思って「分かった。」と頷いた。

 ベンチで隣に並んで身体を冷やしながら、何もない線路を見ている時間。十数センチの隙間が僕たちの距離だ。隣の敦人はコンクリートの表面の砂の荒さを確かめるみたいに、ザリザリと靴の底を擦りつけて落ち着きがない。

「なあ!なんかさ、予感するんだけど、俺きっとこれ覚えてるわ、卒業してもずっと。大人になっても、大学出ておっさんになっても。会社員になって、くそー今日も残業かよ、って思った時にたぶん思い出して、あー卒業直前にこんなことあって、必死で謎解きして楽しかったなぁ、あの頃に戻りてぇって懐かしがる。」

 うん、って声に出せずに遥希は顎をぐっと引いた。本当はマフラーをおでこまで引き上げたかった。嬉しくって、泣きたいくらい嬉しいくせに「僕も。」って軽く言える余裕もなく、ただ真っ赤になった顔なんて敦人には絶対に見られたくなかった。

「ハル、聞いてる?」

 名前を呼ばれただけで涙腺が勝手に緩んで涙が滲んできた。瞳から零れないように目を開いたまま小さく「ん。」と頷くと敦人は安心したように続けた。

「でさ、電話すんの。よお、ハル元気? ワールドカップ一緒に応援しようぜ、四年ぶりだなとか言ってさ。な、ちょっといい関係やろ?」

「四年間会わないつもりかよ。」

「いや会う。会うな、絶対。」

「なんだそれ。」

 溢れそうな涙をごまかすにはもう笑うしかないのに、うまくいかない。笑顔を作りながら目じりから頬を伝った一筋がすぐに冷たくなる。
 涙は見えてないはずだったけれど、俯いたまま吸い込んだ息が震えて敦人は遥希を覗き込んで慌てた。

「どうかした? だいじょうぶ?」

「平気、寒すぎて涙が出ただけ。」

 一つ深呼吸して敦人の顔を見てもう泣いてないことを伝えると、ホッとしたように笑ってくれた。

 会話の途切れたホームに電車が入ってくる。停車位置に向かって金属の擦れる甲高い音を立てながら減速する車体を見ていると、敦人の唇が動くのが見えた。

 何、聞こえない? と耳に手を当てた遥希の肩に敦人の手が添えられ、上半身が凭れかかってきた。ぐっと踏ん張って支えてやると、すぐそばに敦人がいる。電車の音にかき消されないように、片手を添えた口元を遥希の耳元に近づけている。二人の手で囲われた小さな空間が暖かくて、もどかしくて、愛しくて、死にそうだ。

「あの手紙、もしかして俺宛......だった?」

 温かい息が頬に当たった。外の寒さを感じなくなるくらい、一瞬で体中が満たされる。遥希が横を向くと、敦人は肩に置いた手に額を付けて顔を伏せていた。

「また勘違いだったらめっちゃ恥ずかしいな。」

 今度は聞き取れる大きさの声だった。
 走り出した心臓の音が遥希の頭の中でうるさく響き、答えを急き立てている。こんなに寒いのに、コートの下で薄っすら汗ばんできそうなくらい体が熱くてたまらなかった。

 いつもの電車はいつも通り乗車位置と扉の位置をずらしたまま開き直ったようにうなっている。

「そうだよ……。」

 カラカラになった喉から絞り出すようにそれだけ言うと、ふっと敦人の顔が離れた。

「そっか。よかった、ありがと。」

 ぬくもりを失った耳元が急にひんやりする。

 ゆっくりと隣を見る遥希を真正面から見つめて、敦人は今度は発車を知らせるベルに負けないように声を張り上げてドアを開閉のボタンを押した。空気の通る音がして扉が開く。

「早く乗れよ! またな!」

 急なステップを踏みしめて乗り込み、冷気が入ってこないようにすぐに閉まるボタンを押さなければならない。躊躇っていると敦人が声を出さずに「じゃあな。」と唇を動かした。

 ドアは勝手に閉まり発車のベルが乾いた空気に響く。

 引きずるようなディーゼル車の発進は、そこで待っていたいと願う自分の気持ちを代弁しているような気がする。

 プラットホームに残る敦人が遠ざかって行く。暫く振っていた手が空中で止まり、握りしめられることなく下ろされる。掴みどころのない気持ちを形にしたら、あんなふうなのかもしれない。そんな光景がいつか胸を締め付ける思い出になる予感を噛み締めて、遥希も窓越しに手を振り返した。


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