刀自の剣士

念仏とら

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刀自の剣士

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プロローグ

 令和になって三年目の春、九州北部にある古墳時代の遺跡で発掘調査が行われた。
 いわゆる、倭国内乱頃の小国の王墓と考えられている遺跡だ。人骨のほかにも石の棺や様々な副葬品が発見された。しかし、関係者の興味を集めたのは別の場所での発見だった。
 王墓のすぐそばに一体だけ埋葬された人骨が見つかった。そして、その骨は鉄の板を抱きかかえていたのである。その簡素な埋葬の仕方は王妃や王子王女といった王族のものとは考えにくかった。やはり、王の護衛者と考えるのが自然だと思えた。すると、その鉄の板は剣ではないか。腐食が激しいため見ただけではわからない。詳しい調査が待たれた。
 数か月後。断片的ではあるが、調査の結果が公となった。鉄の板についてはそれほど新しい情報はなかった。しかし、考古学ファンだけでなくニュースを知った多くの人たちにロマンを感じさせる発表があった。
 鉄の板を抱いた人骨が老齢の女性だったのである。すぐさま、SNS上で話題になり様々な憶測が飛び交った。
「もしかして、お婆ちゃん剣士?」
「いや、呪術師だろう。剣も儀式に使用したのでは」
「それなら、剣以外の呪術グッズがもっと出土するはずだよ」
「王墓のすぐそばで埋葬されているというのが剣士っぽいよねえ」
 その後、出土した鉄の板が、他の同時代の剣との比較調査により、間違いなく当時の剣であることがわかり、公式に発表された。その発見は新たな考古学ファンを生み出す結果となった。

 一 女の武器は剣

 幕末。黒船来航より十年。江戸も物騒な事件が相次ぐようになった。不逞浪士が外国人を襲ったり、その公館を襲撃したり、瓦版のネタにもってこいだったのが、ついに飽きられるほど頻発していた。
 昨年には生麦村で大名行列に接触した英国人が護衛の武士に斬られるというできごともあった。それは日本の藩のひとつと外国が戦争をするという大事件(※)にまで拡大することとなる。
 まさに動乱の時代と言っていいだろう。
 品川宿の西北、高台の高輪にある旗本屋敷。宿場町からは離れているので夜ともなると静かである。
 その屋敷で、当主と側用人が話をしていたのもそのこと、つまり動乱の元凶ともいえる不逞浪士対策についてである。
「御前、明後日にはまたご老中様の下屋敷ですか」
「ああ。帰りは遅くなるぞ」
 当主は書斎の縁側に立ち煌々と照っている月を見ている。数年前まであった、月見にふさわしい樹々や石で造られた風情のある庭はもう跡形もない。当主が庭を破却し、ただの雑草原に変えてしまったのだ。侵入者を警戒しての処置ということになっているが、時勢について察しのよい当主は、この屋敷を引き払う日が近づいていることを予感しており、跡地利用をやりやすくしたのであった。
 その庭越しに見る月が冷え冷えとしている。
 当主の栗島は月を見ながら、若いころに幕命で長崎に行ったことを思い出している。坂の多い街であった。その坂を登り切ったところにある寺院の庭から見る月がなんとも見事だった。天で煌々と照る月と下界に見える歓楽街の灯り、それ以外は漆黒の闇であった。対照的な光に、詩的な気分になったことを思い出す。
「夜は危のうございます。先日も定町廻りが夜、浪士に襲われました」
「では、護衛を増やそうか。熊川虎蔵に命じよ」
「あやつは名前が厳めしいだけで、いざというときに役に立ちません」
「しかし、ほかに誰かいるか」
「師匠にお願いしましょう」
「師匠だと。弟子が師匠にそんなこと頼めるか」
「御前のお仕事の重要性を説けばご協力いただけるのではありませんか」
「わしは弟子だから頼むのは無理だぞ。そちがなんとかしてくれよ」
「お任せください。妙案があります」
「妙案?」
「師匠には謝礼さえはずめば大丈夫でしょう」
「あまりに真っすぐすぎてそれは妙案とは言わないな」
「それはともかく、銭さえはずめば間違いございません」
「まあな。師匠はわかりやすい人だからな」
「しかし、御前。いつも同じことを申し上げますが」
「もういい年なんだから役目を退けという話か」
「はい。お役目を続けていると危険です」
 縁側から部屋に戻り、栗島は脇息を抱えて正座をした。
「長崎にいたころより、わしはずっと異国に関心を持っていた。侵略する国とされる国の話を聞くたびに、危機感は増していった」
「御前はかなり以前から開国のお考えをお持ちでしたな」
「開国し異国の技術、資源、学問などあらゆるものを取り入れて国の力を強める以外に生き残る手段はない」
「そして、黒船の対応に幕閣の方々が揺れているときも、一貫して開国を主張されました」
「だからさ。開国だけさせておいて、後は知らん、というわけにはいかんだろう」
「お気持ちはわかりますが、しかし、どこかでキリをつけませんと」
「わかっている。心配するな。あと少しだよ」
「仕方ありません。では、まずはお身の安全のための手配をいたしましょう」
「師匠は受けてくれるかな」
「それは大丈夫でしょう」
「ならいいがな」

 ここは剣の道場である。夜、門人たちはもう誰も残っていない。
「お嬢さま。甘いものをお持ちいたしました」
 茶室のような離れの部屋の前で声をかけたのは小柄な老婆である。名を末という。この道場の奥向き一切を取り仕切っている。
「ありがと。そこに置いといておくれ」
離れの部屋の中から声がした。末はにじり口の脇にある床几の上にお盆を置こうとしたが、そこに猫がいた。
「しっ」
主であるお嬢さまの飼い猫を末が追い払う。猫は慌てて逃げた。
 黒い猫である。しかし、どういうわけか頭のてっぺんに毛が茶色になっている部分がある。饅頭ほどの大きさで丸い形だ。なので、一見そこが禿げているようにも見える。南蛮から来た宣教師の髪型のような印象である。名は猫丸という。
お盆を床几の上において末はお勝手の方に消えた。そして、末と入れ違いに男が部屋の前に来た。
 今の道場主兼五代目師範、黒松綱道である。大柄で恰幅もよく、剣の筋を一言で表すなら“剛”。年齢も五十の坂を超え貫禄も出てきた。
 道場の場所は街道沿いで場所も良い。数年前までは門人も多かったのだが、最近減りつつあるのが綱道の悩みである。黒船来航のころは危機意識もあってか、心身を鍛えて、剣技も身に着けたいという若者が多かったのだが、ここまで世情が不安定になると、逆にそれどころじゃない、命あっての物種だと思うのかもしれない。
「母上、よろしいですか」
綱道が声をかけにじり口の板戸に手をかけた。
「なんだい」
 末の置いた盆を片手に持ち、綱道はにじり口から大柄な体を滑り込ませた。綱道と同時に飼い猫も部屋に入ってきた。
 末が呼ぶお嬢さまとはこの綱道の母のことである。
 母、黒松映(うつり)は小さな体を炬燵に潜り込ませるようにして書を読んでいる。
御年七十五歳。童女のようなおかっぱ頭。とても小柄で、さっきするりと入ってきて傍らにちょこんと座る猫よりふた回りほど大きいくらいだ。
「また、平家物語ですか」
「巴御前(※)のくだりで今いいところなんだよ」
「ああ、あの女武者の・・・」
「あ、お前、今女武者を侮ったね」
「いえ、そういうわけでは・・・」
「おだまり!もう一度はっきり言っておく。剣こそ女のために作られた武器である。これは、私が幼きころより剣の修行を積んで会得した真理だ。女こそ武者にふさわしい存在」
「その話は何度も聞きましたが、実感がないというか、理解できないというか」
「いいかい、よくお聞き。その昔、この国の中で小国が争いを繰り広げ、大陸より鉄の武器がもたらされて間もないころ」
「倭国内乱の時代ですね」
「戦闘には老若男女、戦える者は皆武器を取った。力のある男はより大きくて破壊力のある鉄の武器を手にした」
「鬼の金棒みたいなものでしょうか」
「しかし、女にはそれを操る腕力がない。そして、考えられたのが細く薄くそして刃先を研ぎ澄まして斬れるように加工したのが剣というわけだ」
「まあ、確かに筋は通っているか」
「女特有の身軽で柔軟な身体能力を駆使して、敵の懐に飛び込み、ちょいと刃先を急所に当てる。もうそれで敵はお陀仏だ」
「確かに、無駄な力はいりませんね。でも、かなりの技と度胸が必要でしょう」
 ここで、映は我が意を得たり、という表情をした。
「ここにいい見本がいるだろう」
「いやあ、母上は別格でしょう。そんな人がたくさんいたとは思えません」
「そんなことはない。環境が人を変えるのだ。愛する我が子、愛おしい夫、大切な仲間を守るために、当時の女たちは私のように修行を積んだのです。巴御前だって愛刀の伯耆の刀工有綱を・・・」
「母上は見てきたように言いますね」
「だから言っているだろう。厳しく激しい修行により到達した境地でそれが見えたのです。古より老齢の女に刀自という刀の文字を充てるのがその証拠だよ。いつか将来、太古の女剣士の剣の遺物が発見されるに違いない」
 綱道は疑わし気な顔つきでさらに追及する。
「その境地というのをもっと具体的に説明してくれませんか」
映は末が持ってきたお盆の上にある安倍川餅をひとつ取りかぶりついた。きな粉がお盆の上に舞った。
「だから、それはだね。ムニャムニャがムニャムニャして」
話の肝心な部分で餅を咀嚼するので何を言っているのかさっぱりわからない。
「もう結構です」
安倍川餅をほおばりながら語る母を冷ややかに見ながら綱道が言葉を続ける。
「今日、栗島の御前からお使いがきました」
「栗島から?」
 少し首を傾げる映を見て猫が欠伸をした。
「明後日より三日間、出先から帰る夜道だけ護衛をしてほしいそうです」
「護衛だと?断る。なんで師匠の私が弟子の護衛をしなきゃならないんだ」
「御前ももうご高齢ですからねえ」
「私の方が年上なんだよ!」
「外国との交渉や異人の警備など幕閣の知恵袋として、御前は今、この国になくてはならない人だそうです」
「私も猫丸にとって餌やりと遊び相手、なくてはならない存在だ」
その言葉に反応したのか、猫丸がにゃあと鳴いた。
「御前がいなくなれば、異人に蹂躙されて、我々の背筋を寒からしめることになるかもしれませんよ」
「こんな寒空に夜道なんか歩いたら、私の頭と首筋を寒からしめることになるよ」
二個目の安倍川餅にかぶりついた映の様子を見ながら綱道が言った。
「謝礼は一日一両。もし、浪士が襲ってくるようなときは特別手当が・・・」
咀嚼していた餅をのみ込み映が言った。
「この前、新調した赤い頭巾を被って、あったかくして行こうかねえ」

※ 日本の藩のひとつと外国が戦争をするという大事件
 薩英戦争のこと。この物語では何度か触れることになる。双方、相応の被害を出しつつも和議交渉に入り、これを契機に関係が深まるわけだが、この史実の様子を見ると当時、イギリスの日本に対する考えや姿勢が見えてくる。いざともなれば大砲を持ち出してきて恫喝してくるが、基本的にビジネスの相手として日本を見ている。
※ 巴御前
 主人公である黒松映憧れの人。木曾義仲の愛妾で日本史を代表する豪傑の女性武者である。平安末期に武士が台頭してきたころ、少数ながらも女性武者は存在していたと思われる。戦乱が日常と隣り合わせだったころ、一族を守るために、戦える者は老若男女関わらず、剣を手にしたと考えるほうがむしろ自然である。

 二 赤頭巾ちゃんに気をつけて

 ここは、さる幕閣の下屋敷。密議ごととなるとここに栗島や他の関係者が呼ばれ協議をすることになる。時には老中も顔を出す。栗島はすでに役目からは退いていたのだが、黒船来航より、幕閣にその見識を買われ、意見を求められるようになった。昔提出した意見書が、まさにこの局面を予見した内容になっており、今頃になって声がかかったわけである。
 危機感の無さや動きの鈍さ、問題の先送り体質や目まぐるしく変わる人事で物事が進展しない現実など、幕府のあらゆる課題を承知の上で、栗島は依頼を引き受けて仕事をしている。
 旗本が幕府に愛想をつかすなど、ありえない。老いたりとはいえ、武士が国のため万民のため力をつくすのは天命だ、栗島の心の奥底にはそういう想いがある。
 映は暮れ五つ(午後八時)頃に道場を出て半時(一時間)ほどで下屋敷に到着した。
「私は栗島さんを迎えにきたものだけど」
映が門番に告げると六尺棒を持った大男がくぐり戸を開けてくれた。
「え、なんだその頭巾は」
真っ赤な宗十郎頭巾(※)を見てその門番が驚いた。羽織に野袴、それに防寒用の道中合羽をまとうのが冬の映の定番外出着だが、最近、真っ赤な宗十郎頭巾をあつらえた。
 映は提灯を掲げて門番の顔を見て言った。
「わたし、きれい?」
絶句する門番をそのまま放置し、屋敷の方にスタスタ歩いていく。玄関に行くと栗島の駕籠が待機しており、主人を待っていた。駕籠と言っても旗本が利用する格式の高い乗り物である。
「これは、師匠。お待ちしておりましたよ」
駕籠を担いできた中間(ちゅうげん※)が映に挨拶をした。二人とも顔なじみである。
「おお、ごくろうさん、栗島が出てきたら起こしておくれ」
映は勝手に駕籠の中に入って扉を閉めた。
「合点です」
二人は自分たちの主人に命じられるよりも威勢のいい声をあげた。
 しばらくして、この屋敷の用人に見送られて裃姿の栗島が出てきた。
「師匠は?」
中間の二人は笑いをこらえながら言った。
「中でおやすみです」
困ったような顔をして栗島が駕籠の中に声をかける。
「師匠、終わりました。帰りましょう。開けますよ」
駕籠の中では栗島が防寒用に持ち込んでいた綿入れ半纏に包まって、映がスヤスヤと寝ていた。
「風邪ひきますよ。帰りましょう。師匠」
「ああ、じゃあ駕籠を出しておくれ」
「出しておくれ、じゃありません。今日は私が雇人です。手当を減らしますよ」
「ちぇっ」
小さな欠伸をひとつして映が駕籠の外に出た。
「細かい男だねえ。そんなのじゃあ出世の見込みはないよ」
「もう、出世を考えなくていい隠居の身です」
「駕籠の中を温めておいたからね。手当に加算しておくれ」
栗島が駕籠に身を入れてから絶叫した。
「ああ、師匠。土足のまま乗りましたね。ここは土足厳禁なんですよ」
「細かい男だねえ。そんなのじゃあ出世の見込みはないね」
「それさっき聞きました」
「この履物は特注でね。脱ぐのが面倒なんだよ」
特注の履物というのは、今でいう地下足袋のようなものである。映が、足袋の底を頑丈にしてくれと下足職人に作らせた。
 中間の二人が栗島を乗せた駕籠を担ごうとしたとき二人に映が言った。
「あんたたち、番所のあるところは知っているかい」
「もちろんです。でも、そんなやばいことになりそうなんですか?」
「いいや。万が一の話だよ」
「びっくりさせねえでくださいよ」
「その時は、私が合図するから、二人一緒に番所に走っておくれ」
「はい。助けを呼んできます」
「死体を片付ける大八車もね」
 提灯に火を入れなおして、映と駕籠が出発した。駕籠の傍に映が並んで歩いている。
「師匠、お尋ねしてもいいですか」
栗島が駕籠の中から映に声をかける。
「なんだい」
「道場に百姓や町人、漁民が来るようになったのはいつ頃からですか?」
「私がまだ幼いころからだね」
「ということは、先代ですか?」
「いや、私の祖父さん。先々代だ」
「何かきっかけがあったのでしょうか?」
「銭が欲しかったんだろう」
「でも、銭のない人たちばかりですよね」
「銭はないけど、米や魚や野菜を届けてくれたみたいだよ」
「なるほど」
「当時は門人が多くて賑やかだった」
「私も覚えていますよ。私は十二のころよりお世話になっています」
 少し間をおいて映が質問を返す。
「なぜそんなことを訊く」
「何か理由があったのかと。例えば、外圧への備えとか・・・」
「祖父さんが言っていたね。武士だけでは国は守れないって」
「ほほう。武士だけでは無理だと」
「まあ、うちの道場で鍛えてもなあ。人数なんてたかがしれているわいな」
「しかし、その先々代の慧眼には感服いたします」
「あんたは父上の言いつけでうちの道場に来るようになったんだろ」
「はい、私の父が先代の人となりに惚れ込み、勉強してこいと」
「あんた、学問はともかく、剣の筋は最低だったからね」
「父もそうでした」
「親の因果が子に報いいい」
「師匠、因果はひどいです。口が悪すぎます」
 一呼吸おいて映が静かに言った。
「前から三人、因果な奴がきたよ」
中間二人が足を止めて、駕籠をおろした。左手から浜風が吹いてくる。潮の香がするということは、番所に行くには引き返さないといけない。
「番所に行っておくれ。三人引き取ってもらうからね」
映の指示で中間の二人が駆け出した。
 ここは、東海道だが、人家も少なく、夜になると真っ暗で人っ子ひとりいない。月明かりと映の提灯だけが頼りである。
 この現れ方からすると、どう見ても不逞浪士としか思えない。真ん中にいる鋭い目つきの長身の総髪。右手にいる男は雲水のような恰好をしている。左手の男だけが浪士のわりにきれいに月代をそり上げどこかの藩士らしい出で立ちだ。
 ゆっくりと歩いてこちらに来る。栗島が駕籠から出て映の後ろに立つ。映たちから五間くらいのところで三人組が止まった。映は持っていた提灯を栗島に渡した。
 真ん中の総髪が冷え切った感情のない声を出す。
「栗島兵馬、今から斬奸状を読み上げる。おのれが幕閣に知恵をつけてこの神国を穢しているのはわかっているのだ」
懐から蛇腹に折上げられた書状を取り出し、両手で広げた。
「一つ、異人どもに土地を貸し与え、物資を提供し、我が国への侵略の片棒を担いでいること。一つ、異人の商人から金品を受諾し・・・」
突然、映が大きな声を上げる。
「なにい。こら、栗島、あんた外国の商人から賄賂をもらっていたのか」
「もらっていません。言いがかりです」
「どおりでえらく羽振りがいいなと思っていたんだ。特別手当を出すとかなんとか」
「していません。神に誓います」
「ははあん。神というのは耶蘇のことだな」
「そんな信仰はしていません。師匠、敵はあっちですよ」
 書状を読み上げていた総髪が突如絶叫する。
「一つ、異人の恫喝にたわい無く屈し・・・お前ら聞け!」
激怒する総髪に映が深々と頭を下げた。
「まことに申し訳ございません。私が責任をもって、この栗島のお尻に灸をすえておきます。お寒い中ご苦労さまでございました」
総髪の髪が怒髪天を突いた。
「ふざけるな。拙者を愚弄するか」
「愚弄などと滅相もございません」
「どけ、栗島を成敗する」
「それは困りますねえ。栗島にはあとで給金をいただくのでね。護衛代の」
 その時、雲水姿の男が、ぐっと前に出てきて映の顔を見たとたんいきなり哄笑した。
「わはははは。赤い頭巾なんか被って、変な野郎だと思っていたが、婆あじゃねえか」
「本当だ。こいつ婆あですよ。先生」
月代頭も総髪にむかって素っ頓狂な声をあげた。三人三様、せせら笑う様子が見てとれた。
「婆あと腰抜け旗本です。今回は楽な仕事です。さっさと始末をしてしまいましょう」
 それを無表情に見ていた映がおもむろに口を開く。
「始末ねえ。そうですか。お聞き届けいただけないということですか。なら仕方ない。ところで、お前さんたちの好物はなんだい?」
月代頭は相手が老婆だとわかると急に大きな声を出し始めた。
「好物?婆あ、何か美味いものでも作ってくれるのか」
雲水姿も相手を侮りきったような態度である。
「さっさとそいつらを血祭にあげて、一杯やりに行こうぜ」
首領格の総髪はさすがにはしゃぐような態度は見せなかった。
「我々の用があるのは栗島だ。あんたもなかなかの遣い手のようだが、下がっていてもらおう」
「下がる?無理だね。あんたたちこそ、引き返すのなら今のうちだ。私と剣を交えると好物には二度とありつけなくなるが、その覚悟はあるのかい」
「いっぱしの口をきくじゃねえか。婆さんよお」
雲水姿がそれとなく鯉口を切った。
「こら、えせ坊主。えらく長い刀を持っているが、腕のない奴ほどそういうの持ちたがるよねえ」
「やかましい」
 ちなみに映の刀は大阪新刀の井上真改。この刀と脇差ともにかなり短めである。これは映の剣技とまさに密接な関係がある。
 そして、激高した雲水姿が、大刀を振りかざし、映ではなく栗島に迫ってきた。
「まずはお前だ」
 その雲水姿の動きを察知した映は、すかさず駕籠に片手をかけて柄にひょいと飛び乗り、平均台のように数歩歩いた。栗島のほうに迫ろうとした雲水姿だが、映の動きを警戒し、柄の上にいる映と真正面に向き合う形になった。
「雲水、冥途に行け」
 飛び降りながら抜き放った映の刀を雲水姿の大刀が受け止める。その時、映は空中にいながら、大刀から左手を放しその手を逆手のまま脇差を抜き、切っ先を雲水姿の首筋に当てた。
 それはまるで曲芸のような技であった。抜きやすく扱いやすい短めの刀を映が好むのはこういった技のためである。
 雲水姿は首を押さえたまま何事が起ったのかもわからずまだ突っ立っている。それを見向きもせずに映は二刀流のまま総髪に迫る。総髪が刀を抜いた時にはすでに映に懐に飛び込まれていた。
「天誅!」
そう言って映は総髪の喉を刀で突き、脇差で胴を薙ぎ払った。総髪と雲水姿が同時に倒れた。
 映の剣技は相手の懐に飛び込む接近戦にある。これはよほどの胆力と抜刀術が必要である。
 月代頭は腰を抜かしその場にへなへなと座り込んだ。目の前に来た映に震える声をあげた。
「好物は祖母の作ったにぎりめしです。大ぶりで中に漬物やおかかを入れてくれます。今も旅に出るときはいつも持たせてくれるのです。祖母は大変優しい人でいつも可愛がってくれます」
抜き身の刀と脇差を鞘におさめて映が言った。
「あんたは若い。やりなおしな」
「は、はい」
「だが、二度と人を襲ったりするんじゃないよ。国のためと言いながら、あんたたちがやっているのは単なる人殺しだ」
「もうしません」
月代頭はそう言って、あわてて逃げていった。
「師匠、大丈夫ですかい」
中間の二人が番所から大八車と取り方を数人連れて戻ってきた。遅れて同心もやってくる。ここからは栗島の出番である。
「これは栗島さま。どうなさいましたか」
栗島が事情を説明している間に、中間と取り方が遺体を大八車に乗せる。本来ならもっと詳しい説明を番所でしないといけないところだが、そこは旗本である。簡単な事情説明で解放された。
「あれ、師匠はどこに行った?」
さて、帰りましょうと栗島が映に声をかけようとしたが、どこに行ったものか姿が見えない。
「さっきまでいましたよ」
中間の一人があたりを見回す。そして、もう一人の中間が発見する。
「御前。いました。駕籠の中でお休みです」
綿入れ半纏にくるまって映がすやすやと眠っていた。
「しかたない。わしが歩くか」
中間が映の乗った駕籠を担ぎ、栗島がそれに寄り添って帰路に着いた。中間の二人が嬉しそうなのは、栗島よりも映の方がずいぶんと軽いからであろう。

※ 宗十郎頭巾
 往年の昭和の大スター嵐寛寿郎のはまり役『鞍馬天狗』が身に着けている頭巾。武家の男性のものと言っていいが、映は性別を超えた領域の存在なので、赤い宗十郎頭巾を愛着している。『鞍馬天狗』も舞台は幕末であるが、勤皇派のヒーローなので映の敵役ということになる。
※ 中間(ちゅうげん)
 大名や旗本にて雑務等をこなすための臨時雇い人。大名や旗本ではその格式によって多くの人出が必要で、人件費はかなりの負担であったに違いない。

三 じゃじゃ馬馴らし

 小春日和。東海道を映が歩いている。
「三嶋屋に行ってくる」
三嶋屋(※)とは黒松道場に出入りの刀装具の店である。刀の砥ぎから拵、道場の武具もここに頼んでいる。
「お嬢さま。お供いたします」
出かけようとする映に末が声をかけた。
 お嬢さまとはもちろん映のことである。雇人の末は映が娘時分からおり、永年道場の下働きをこなしてきた。
「いや、天気もいいしひとりで行ってくるさ」
 末も達者ではあるが、最近少し足腰の痛みを感じるようになっていた。本人は何も言わないが、映はそれを察している。供を申し出る末に余計な負担をかけたくない。そして、栗島からもらった手当で末を箱根の湯治に連れていくのが映の目下の楽しみである。
 東海道はとにかく往来が激しい。このあたりは品川宿も近く、旅人や荷馬車、棒手売や大八車などがひっきりなしに行ったり来たりしている。その中を映が縫うようにして歩いて行く。せっかちなので前にいる者をどんどん追い越していく。
「みんな、どけえ。危ないぞ」
どこからか大きな声が聞こえてきた。そして、どどどど、という音も同時に耳に入る。
 映が振り向くと、砂ほこりを舞い上げながら馬が猛スピードで駆けてくる。
「おや、危ないねえ」
 咄嗟に暴れ馬と判断した映は、強引にでも馬を止めてしまおうと考えた。そして、正面に迎えうつように立ち、目を凝らした。
「や、誰か乗っている」
映が舌打ちをした。こうなると、迂闊に手が出せない。仕方なく路肩に身を寄せた。
周囲にいる旅人や行商人たちもなすすべなく暴れ馬に道を開けている。目の前を通り過ぎていく暴れ馬に乗っていたのは若い娘、それも異人のようだった。
「なんだ、あの乗り方は!」
 映が驚いたのも無理はない。その異人の娘は馬に両足をそろえて乗っていたのである。左側に両足をそろえて、馬の鞍にちょこんと腰を掛けているような状態である。
 現代では回転木馬にこのような乗り方をしている人をたまに見かけるが、普通の乗馬では危険すぎる。当時、西洋では女性の乗馬もさかんに行われていたが、このような乗り方をしていたそうな。
 大人しい馬にゆっくりとした速さで乗るのであれば、大丈夫かもしれないが、暴れ馬となれば一大事だ。
 映がすぐさまあたりを見回すと、この陽気で遠乗りでもするのか、馬に乗った武家が目に入った。近くに駆け寄り、何も言わずに勝手に馬に乗る。
「こら、何をする」
武家の男も乗ったままだ。つまり、大人が自分の前に子どもを乗せているような恰好である。
「ちょっと相乗りさせておくれ」
手綱を引き両足で合図をすると馬が走り出した。
「おい、勝手なことをするでない」
「あんたも見ただろ。暴れ馬。緊急事態だ」
ぐんぐんスピードをあげていき、暴れ馬を視界に捉えた。若い異人の娘は振り落とされないようにするので精一杯である。
「あんた、少しは馬術の心得はあるのかい」
映が前を睨みすえたまま後ろの男に声をかける。
「し、失礼なことをいうな」
「よし、私があの暴れ馬に横付けする。そしたらあの暴れ馬に飛び移るから、あとはそのままかけ続けておくれ。できるかい」
「当然だ」
「いいかい、止まっちまったら、暴れ馬の巻き添えを食らうよ」
「わかった。やってみよう」
 武家の男もこの状況に、素直に映の言葉に従った。暴れ馬は往来を行く荷車にぶつかりそうになり停滞していた。なんとかそれをかわして再び走り出そうとしているところへ映が馬を横付けした。
「それっ」
馬上で飛び上がる。武家の男の肩を踏み台に空中でバク転をした。その時、暴れ馬がいななきながら前足を上げて後ろ足だけで立った。映はかろうじて暴れ馬の首を抱きとめた。
 武家の男は、巻き添えになるのを避けてそのまま去っていった。見知らぬ老女に勝手に馬を相乗りされて、おまけに無礼にも肩を踏み台にされたが、この重大事態に水に流してくれたのであろう。重大事態というのはつまり異人の安全に関わる事態ということだ。
 さて、映である。
両手を馬の首に両足を馬の胴にかけて抱き着いている。映は馬の目をしっかり見て、右手で長い顔を撫でた。
「よしよし」
暴れ馬はすっかりおとなしくなり、映は地面に降りた。若い異人の娘は安堵したのかそのまま馬の背で気を失った。
「やれやれ、世話がやけるねえ」
そこにたまたま通りかかった若い魚の行商人に声をかけた。
「おい、あんた。私が商売道具を見ていてやるから、番所に行って役人を呼んできておくれ」
「あっしがあ」
行商人はこれ以上にない嫌そうな顔をした。
「手遅れになってこの異人さんが死んだらあんたのせいだからね」
「あっしはただの通りすがりだぜ」
「運が悪いと思ってあきらめな。ここで誰に声をかけても私にとってはただの通りすがりになるんだ」
「急ぐんだけどな」
「やかましい。さっさと呼んできな。言っておくけど、異人は死んだら必ず化けて出るらしいよ」
「はいはい、わかりましたよ」
 行商人は映に商売道具のことをくれぐれも頼むと言って走っていった。
 若い娘は気を失ったままだ。こんな間近で異人を見るのは映も初めてである。馬術用の服装のためか着衣は男性のようだが、長い金髪で女性だとわかる。
「よっこらせ」
馬の機嫌を取りつつ、小柄な映は娘を担ぐようにして馬から降ろした。
「これ、しっかりおし」
映が活を入れると娘がうっすらと目を開けた。そして、映の顔を指さして言った。
「モンキー!」
そして、また、気絶した。
「なんか今、イラっとしたのは気のせいかな」
 しばらく、異人の娘を介抱していたが、いくら待っても番所からだれも来る気配がない。仕方ないので映は近くにある町医者に連れていくことにした。魚の行商人の商売道具はほったらかしたままである。

※ 三嶋屋
 この物語に登場する刀装具を扱う商家。例えばもし、あなたが江戸時代にいて刀が欲しいと思ったとしよう。金子は潤沢にある。三嶋屋に行って、三嶋屋が所蔵している刀から気に入ったひと振りを見つける。その刀は刀身だけであり、この刀に相応しい自分好みの拵えを特注する。鞘、柄、鍔など素材や色、デザインにこだわりを持って選んでいく。現代で例えるとマイカーを買っていろいろとオプションをつけていく感覚であろうか。一度でいいからオリジナルの刀をコーディネートしてみたいものだが、あくまで資金が十分あったらの話である。

四 異国への架け橋

 栗島が道場に来るのは久しぶりである。手土産の羊羹を片手に風雅な手作り感あふれる門をくぐった。
「いかめしい威圧するような門を構えるのは自信のない道場がすることだ」
映がそう言って門人の百姓蔵蔵(くらぞう)に作らせた。竹を黒い棕櫚縄で縛り柱にして小さな茅葺の屋根をつけている。映もお気に入りの門である。
 蔵蔵は道場の門人ではあるが、剣の修行よりももっぱら道場の営繕仕事ばかりしている。
 門を入ると道場へ行く飛び石と母屋に行く飛び石がある。栗島が右手の飛び石を踏み、母屋に足を向けるとそこに末が屈んで待っていた。
「やあ、末さん。元気そうだね」
栗島が気さくに声をかけると末が下を向いたまま言葉を発した。
「御前さまもお変わりなく」
ほとんど抑揚のない末の声はいつもの反応である。この末がどういう事情で、ここで働くようになったのか栗島は何も知らない。少年時代に栗島が道場に通うようになったときにはすでに、末は道場の雇人として働いていた。ただ、栗島はその振る舞いや身のこなしを見て只者ではないと感じている。
 末に案内されて、小さな離れの茶室に行く。元々茶室として建てられたものだが、今は映の部屋である。息子に道場を引き継いだときに、母屋からこの茶室に自室を移した。
 栗島は両刀と羊羹を末に預けてにじり口の木戸を開ける。
「師匠、先日は異人の娘を助けたそうで、ご活躍でございました」
「あんた剣を抜くのは遅いのに耳は早耳だね」
映はいつものように小さな体を炬燵に潜り込ませている。
「余計なひとこと、ありがとうございました」
「そう言えば、栗島。あの娘は私の顔を見て“もんきい”と言ったんだが何のことだい?」
栗島は吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
「さあ、存じませんな」
永く幕府の役目を担ってきた栗島は自分の心の内を見透かされるようなヘマはしない。
「調べて今度教えておくれ」
「実はそのことですが」
 映の前に正座をして、栗島が映に深々と頭を下げた。
「今日もまたお願いにやってきました」
「それは無理だよ」
「何も言っていません」
「話の流れからするとその異人がらみだろ」
 栗島が床の間の軸に目をやる。四文字の書である。
「敬神愛国ですか」
「この前、言っていた百姓たちに剣を教え始めた祖父さんの書だよ」
かなり太い筆で豪快に一気に書き上げた書のようである。迫力と勢いに満ちた字で見るものに迫ってくる。
「つまり攘夷的考えをお持ちだったと」
「ああ、詳しくは知らない。でも、何かあったんだろう。そういう考えを持つきっかけが」
 そのとき、外で末の声がした。
「お嬢さま。お茶をお持ちしました」
そう言って末はにじり口の木戸を開けて茶托をのせたお盆を置いた。
「すまないね。栗島、頼むよ」
 栗島が映の前に羊羹と茶を置く。早速、映が羊羹をほおばる。
羊羹を切る厚さにも映にはこだわりがある。末はそれを承知でかなり分厚く切って皿に盛りつけてある。
「やっぱり、旗本の持ってくる菓子はひと味違うね」
 茶を喫しながら栗島は頭の中で今日の自分の本題を整理しなおす。
「あんたは無駄に頭が回転するから、私をどう説得するか考えているんだろうけどね。それはやっぱり無駄だよ」
「確かにかねてより日本の人々が異国から来た船に襲撃される事件がありました。先々代が攘夷思想をお持ちだったのはそのせいかもしれません」
「私が助けた娘は普通の子だと思う。打ち払うべき異人のひとりだとは思わないよ。だが、私はそういう祖父さんの教育を受けている。自分の中の深いところに異人を拒否するものがある」
「しかし、その異人の娘を助けてくれました」
「あれは日本の民を守ったのさ。暴れ馬からね」
 栗島の表情に特に変化はない。映の反応は想定内である。
「今、日本は五つの国と対峙しています。米蘭英仏露」
「五対一か。そりゃまずいね」
「いえ、彼らは一丸となっているわけではありません。お互い牽制しあっていると考えていいでしょう」
「しかし、仮にどこかと一対一でやりあっても分が悪いのだろう?」
「はい。ただ、彼らは昔襲ってきた蒙古(※)のようにいきなり蹂躙するつもりはないでしょう」
「じゃあ何がしたいのさ」
「一言で言えば利が欲しいのです。ただし、下手な対応をすると植民地にされかねません」 
「植民地?」
「属国(※)です。例えば、甲という国と戦争になったとします。すると乙という国が味方をしてくれて撃退します」
「お、武士の魂を持った国があるわけだ」
「いえ、この乙の属国にされるのです」
「銭か?」
「はい、莫大な戦費や武器を提供され、がんじがらめにされます。文句ひとつ言えないし、第三国も異議を唱えることができません」
「おいおい、この国は大丈夫なのかい」
「わかりません。だからこそ、賢くつきあう必要があるのです」
「それは理解できるけど私には関係ないだろう」
「賢くつきあう方法のひとつが庶民の交流です」
「庶民の交流?」
「つまり、政を担う者ではない人々はしがらみも無く、駆け引きも不要です。異国では庶民の意見がまとまれば国の方針にも影響を与えるそうです。庶民同士の交流はいい効果を生むのです」
「じゃあ、その政を担う者とやらは何をするんだい?」
栗島が居住まいを正した。
「こういうときこそ武士は日本の国を日本の民を守らねばなりません。私はこの危機に異国を相手に頭で役に立ちたいと考えています」
静かにかぶりを振った映が栗島の羊羹をつまんで齧った。
「あんたの覚悟はわかったよ。で、私に何をさせるつもりなんだい」
「あの異人の娘があなたの教えを受けたいと言っているそうです」
「教えねえ・・・。それで、私がいたら彼女たちの警護にもなるというわけか」
「正直に言うとそれも期待しています。今、不届きな浪士に問題を起こされるのは困るのです」
「その娘の国はどこだい?」
「エゲレスだそうです」
「じゃあ、薩摩と・・・」
「戦をした国です」
「じゃあ、その娘はともかく、その周りは日本を快く思っていないだろう。生麦村の事件もあるし」
「そのことがあるからこそ、この機会を大切にして民と民が仲良くなるようなきっかけにしたいのです」

※ 蒙古
 蒙古襲来、つまり元寇のこと。時の鎌倉幕府は徹底して無視し、襲来の際にはなんとか博多で撃退する。しかし、博多に来る前の対馬、壱岐ではまさに蹂躙と言っていい惨状になった。幕末の黒船来航のときに蒙古襲来の歴史的史実を思い浮かべ、恐怖した人々も多くいたと想像するが、浦賀まで黒船見物に行った庶民は、怖いもの見たさだったのか、単なる物見遊山だったのか。
※ 植民地と属国
 植民地というと支配国からの移住民が前提となり、近代に行われた経営の対象というイメージになる。映にはもっと古い時代から使われている属国の方が理解しやすいということで栗島は属国と言い直している。実態としては、特に支配される側からすると大差はない。

五 いざ居留地

 三日後、しとしと雨が降る中。映が横浜にある外国人居留地(※)に向かう。映は歩いているのではない。背負われている。もちろん、楽をするためである。映を背負っているのは蔵蔵(くらぞう)である。
「師匠。この天気で師匠を負ぶって横浜まで歩く自信がありません」
「だって仕方ないじゃないか。駕籠を頼めば断られるし、馬も借りられないし」
「明日にしましょう。明日なら晴れます」
百姓の蔵蔵は天気に敏感である。
「若いくせにだらしない男だね」
「師匠より若いだけでもうとっくに還暦を過ぎました」
「あんたがうちの道場にきたときはまだ小僧だっただろ」
「だからあれから五十年近くも経ったんです。ちょっとだけ降りてください。こ、腰が痛くて・・」
「嫌だね。特注の靴が泥で汚れる」
 二人が雨の降る往来であれこれ言い合っているとき、前方から馬がやってきた。
「文句言ってないで、早くよけな。馬に跳ね飛ばされるよ」
「口の悪さと人使いの粗さは日本一ですね」
「あと、剣の腕もだ」
 蔵蔵が街道の脇にある松に身を寄せたとき、こちらに向かっていた馬の上から声がした。
「映シショウ」
 馬上からこちらを見ているのは、異人の娘であった。娘はさらりと馬を降り、引き綱を松の横に這った枝に巻き付けた。
「アリガトウゴザイマシタ」
娘はぬかるんだ地面に片膝をつき頭を下げた。
「迎えに来てくれたのかい」
 言葉がわからず娘は怪訝な顔をした。
「蔵蔵、馬のところへ」
その言葉に蔵蔵は映を負んぶしたまま馬のそばに近寄った。
「すっかり大人しくなっているね」
あの暴れ馬だった。馬の顔を撫でながら、映は蔵蔵の背に立ち上がってひらりと乗馬した。その様子に微笑みを浮かべた娘は松の枝から引綱をはずして映の後ろに跨った。
「お手並み拝見」
映は娘に手綱を渡した。
「師匠、行ってらっしゃいまし」
蔵蔵がやれやれといった顔つきで頭を下げた。

 横浜中心部の一画を指す関内という地域名。
 正式な行政名や町名ではないものの、駅名や施設名に多く残り、今もって人々にはなじみ深い。これは、幕末に開港した横浜港の施設や外国人居留地のあるエリアの出入り口に設けた「関」に由来する。番所があって出入りする者をチェックする。その「関」の内側が関内というわけだ。
 関内に入る吉田橋の番所。映は馬を降り、栗島から預かった札を見せた。役人相手の手続きには栗島の力は絶大である。
「どうぞ」
門番は特に怪しむ様子もない。異人の馬に同乗しているからだろう。
 修好通商条約により横浜が開港されてすでに五年である。外国人居留地は周囲を堀川に囲まれ、橋を渡らなければ出入りできない。そして、橋に番所を置き、怪しげな者が近づかないように監視をしている。
 雨はまだ止む気配がない。再び馬上に乗った映の肩に、娘が後ろから雨具らしきマントをかけた。そして、馬を走らせる。橋を渡って大通りを真っ直ぐ進み右手に曲がった一番奥がイギリス人の居留地である。その曲がり角で傘をさして歩いている男の顔を見て映は驚いた。
「三嶋屋じゃないか」
「あ、映さま、これは何事でございますか?」
黒松道場に出入りしている刀装具を商う、あきんどである。そういえば、映が娘を助けたのは三嶋屋に行く途中のできごとだった。
 娘はその様子を見て、映を下ろしてから、一人で去って行った。馬小屋に行ったのであろう。
 映と三嶋屋がいるのは関内にある日本人の居住区である。大通りなので大店の商家の軒先で雨をよけた。
「この前、街道であの娘を助けてな。それで、私の弟子になりたいと」
「はあ、ついに映さまも異人の弟子をお取りになったのですね。これはおめでたい」
「何がめでたいもんか。それより、あんたは何でここにいる」
三嶋屋はあたりをきょろきょろと見まわし声を潜めた。
「もう、刀屋なんかやってられませんよ」
「じゃあ、何を売るんだい」
「生糸です。異人さんが高値で買ってくれると聞きましてね。私は元々上州の産で、あちらに知り合いが多いのです」
「その知り合いが異人さんに売りたいと」
「はい。私は商売がらお武家様のお宅にも出入りさせていただいております。こういったときにお力になっていただける方もおられましてな」
「ふふん。どこかの旗本にでも金を掴ませて、居留地への出入りを許されたというところだね」
「ええ、まあそんなところで」
「お主も悪よのお」
「ほほほほ。映さま、ご冗談を。でも、ここの店も生糸を扱っているんですよ」
二人が軒先を借りている店の看板にも生糸の文字が見えた。
「だが、あんた。異人さん相手に言葉はわかるのかい」
「そんなものなんとでもなりますよ。売りたい人がいて買いたい人がいれば、言葉なんか通じなくても商いは成立します」
 そこに、洋傘をさした異人の娘が小走りでやってきた。
「三嶋屋。この娘の名前を訊いてくれないか」
「はい。お任せください」
 突然、三嶋屋が娘に向かって大きな声を出した。
「わしは、藤兵衛、とうべえ、とうべえ」
自分自身を指さしながら、とうべえ、とうべえと連呼したあと、娘を指さして大きく首を傾げた。娘は察しがよく、大きく頷いて言った。
「マーガレット」
だが、二人にはよく聞き取れない。
「映さま。マガレさまとおっしゃるようです」
呆れたような顔で映が首を横に振る。
「なんだ、会話ができるのかと思ったよ」
「でも、通じましたよ」
 店の軒先からマーガレットの傘の下にぴょんと跳んだ映が三嶋屋に振り返った。
「三嶋屋、危ない輩がいることを忘れないようにね」
「はい。浪士どものことですね。しかし、お上がいいと言った以上、誰にも私の商いの邪魔はさせません」
いつもの柔和な笑顔が消え、三嶋屋の目が鋭くなった。
「気に入った。せいぜい儲けておくれ」
映はお辞儀をする三嶋屋に手をあげた。
 居留地内の異人が住むあたりには、二階建ての萌黄色の館が軒を連ねている。その中でもひと際大きな屋敷の門にマーガレットは入っていった。屋敷を見上げたときに、二階の観音開きの窓に人影がいることに映は気がついた。誰かはわからないが、こちらを伺っているようである。
「ドウゾ」
ドアを開いてマーガレットがそう言ったとき、奥から体格のいい異人の中年男性が出てきた。
「ようこそ。黒松映さん」
髭の手入れも行き届いた威厳に満ちた風貌に、愛嬌のある笑顔を浮かべて両手で映の右手取った。
「私が父親です。娘が助けてもらいました。ありがとう」
「あんた言葉が使えるね」
「はい。学びました。ビジネスのためにね」
 父親は映を応接室に案内した。座り心地の良さそうなソファがあり、暖炉の火が部屋を暖めていた。
「おお、こりゃ温かい。さすが異人さんの家だ」
「よかった。ゆっくりしてください」
映が暖炉近くのソファに座り、ぴょんぴょんと全身で反発力を楽しんでいる。父親はそれを見て声をあげて笑った。
「ところで、あんたは何を売りにこの国に来たんだい」
「私は貿易商です。扱えるものは何でも売買します」
「ということは武器もかね」
「はい。お望みとあらば」
 ノックの音がして、ワゴンを押したマーガレットが入ってきた。目の覚めるような鮮やかな黄色のドレスに着替えている。
「その着物、よく似合うじゃないか。私の若いころにそっくりだ」
父親の通訳でマーガレットは微笑んだ。運んできたのは紅茶と焼き菓子である。
 甘いものに目がない映は「じゃあ遠慮なく」と言って菓子に早速手を伸ばした。
「美味い。これはマガレの手作りかい」
マーガレットは嬉しそうにお辞儀をした。心が打ち解けてくると意思疎通も円滑になってくるようだ。三つ目の焼き菓子に手を伸ばしながら、映は本題に切り込む。
「貿易商人さん。私に何を期待しているのか聞かせておくれ」
 父親も先ほどのマーガレットのように立ち上がって深々とお辞儀をした。日本人との会話にお辞儀は欠かせないと考えているようだ。
「娘があなたにサムライを習いたいと言います」
「サムライを習う?」
「はい。サムライとは英国貴族のような立場だと私は考えていました。しかし、ある人が言ったのです。サムライとは生き方だと」
「ほほう。生き方か」
「深いところまでは私にはわかりません。でも心に響きました」
 六つ目の焼き菓子に手を伸ばした映。
「言ったのは栗島だろう」
「その通りです」
「あやつは私の父の代からの門人でね。私の代になってからは私の弟子だ」
「あの人は日本と私の祖国の関係がよく見えています」
「剣は最低だが頭だけはいいからね」
「もちろん、お礼はいたします」
 洒落たデザインの皿にたくさん盛られていた焼き菓子がもうほとんどなくなっている。
「しかし、若い娘がなんでサムライなんだい」
 父親のにこやかだった表情が沈痛な面持ちに変わる。
「薩摩との戦争のきっかけになった事件がありました」
「生麦村の事件だね」
「はい。私たち家族も怖い思いをしました」
「まさか、あんたたちが被害にあったわけじゃないだろ」
「怖いと思った相手は私たちの国の仲間のことです。みんな復讐すると口々に叫び、暴徒のようでした」
 当時の記憶が蘇ったのか父親が身震いをした。
「その時、荒れ狂う仲間たちを必死で止めようとする、若い士官がいて彼がこう言ったのです」
 映の菓子を食べる手が止まった。
「日本のサムライは命を惜しまず勇敢で、無抵抗な者や弱き者に危害を加えたりしないと聞いている。これには事情があるのかもしれない、そう叫んでいました」
「それをマガレが聞いていたわけだね」
「はい。サムライに大変強い興味を持ったようです。そしたら、後日偶然あなたに助けていただいた」
 映が再び菓子を取る手を動かし始める。
「栗島とは以前からの知り合いかい?」
「彼はこの居留地に時々話し合いに来ます。先日、お見かけしたので、あなたの事をお尋ねしたのです。暴れ馬に乗っていた娘を助けてくれた、武士のような女性を知らないかと。そしたら、それは私の師匠だと・・・」
 ティーカップのお茶をごくごくと飲み干し、映が言った。
「ということは、私と縁があったということだね」
「お引き受けいただけますかな」
「私が教えられるのは剣の修行を通してのサムライってことになるよ」
 立ったままずっと二人の問答を見ていたマーガレットが映に言った。
「アナタハ女デス」
それを父親が解説した。
「娘は強い女性にあこがれているのです」
「わかった。いいだろう。ところでこの菓子は何という名だい?」
「お気に召しましたか。スコーンです」
父親が嬉しそうに言った。
「じゃあ謝礼とスッコン付きでね」

※ 外国人居留地
 函館、横浜、神戸といった幕末に開港した地域に、外国人が居留するエリアを設けて日本人との接触を管理した。トラブル防止のためである。居留地には日本の商家が店を構えている場所もあり、外国人しかいなかったというわけではない。この居留地には様々な異国文化が伝わる玄関口ともなった。条約を交わしたのは欧米の国だが、実際の居留地には様々な国にルーツを持つ人が多くおり、商談をし、荷を捌き、時には娯楽も楽しみ、大変な賑わいだったようである。

六 激しい付け文

 もうすっかり外は暗くなっている。早寝早起きの映は出かけてもあまり遅く帰ってくることはないが今日は遅い。
 息子の綱道は心配顔である。
「母上は遅いな」
綱道は囲炉裏端で傘張りの内職の手を動かしながら言った。
「はい。異人の家ですからね」
内職を手伝う末も不安気である。凄腕の剣士である映にめったなことがあるとは思えない。とは言え異人がらみになると、ついつい悪い想像をしてしまい気持ちがざわつくのである。
 そのとき、外から馬のいななきが聞こえた。綱道と末が表に出てみると、道場の門の前で下馬した映がいた。
「お嬢さま。お帰りなさいませ」
「母上、この馬は?」
「エゲレスで借りてきた」
「うちに馬小屋なんてありません」
息子の訴えを完全に無視して映が手綱を綱道に預ける。
「異国の馬(※)は最高だね。足が速い」
「初めての異国の馬を、いとも簡単に乗りこなされるとはさすがはお嬢さま」
映の刀と脇差を両手で受け取りながら末が言う。
「すまないが、風呂を立てておくれ」
「は、ただいま加減を見てまいります」
「それと、末。女ものの稽古着を用意してくれないかい。背は綱道くらいだ」
「はい。では私のものを仕立て直します」
 屋敷に入ろうとする映と末に綱道が叫んだ。
「母上、うちに馬小屋なんてありません」
 映は息子をチラリと見て言った。
「兵法を生業とするものが一頭の馬で狼狽するとは何事ぞ!」
そして、さっさと屋敷に入ってしまった。

 風呂上りに部屋で白湯を飲んでいた映が大きな欠伸をしたとき声がした。
「母上、よろしいですか」
「ああ」
 映の欠伸が感染したのかとなりにいる猫も欠伸をした。
 綱道は手に文を持っている。
「馬は?」
「蔵蔵の家の牛小屋に入れてきました」
「牛は?」
「今夜だけ蔵蔵の家の土間です」
「万事まるくおさまったわけだ」
「おさまっていません。蔵蔵の家の中に無理やり牛を押し込んできたのです」
「蔵蔵は牛が好きだから問題ないだろう」
「そういう問題ではありません。明日、蔵蔵に礼を言ってください」
「で、その文はなんだい?」
「母上あてに今日届いたのです」
「なんと、半年ぶりの付け文か」
「半年前に母上に付け文を渡した人がいるのですか」
綱道は映ににじり寄り文を渡した。和紙に包まれた蛇腹に折り上げられた文をさらりと読んだ映がため息をついた。
「妙な男に見初められてしまったよ」
開いたままの文を見せられた綱道に冒頭の文字が目に入った。
「斬奸状ですと」
「ああ、この前私が斬った不逞浪士の仲間だろう」
「これは弱りましたな」
「私と栗島の首を晒してくれるそうだ」
腕を組み、眉をひそめる綱道に映が言った。
「御前にも明日お知らせしておきます」
「うん、よろしくね。私は湯冷めしないうちに寝るから」
「母上、対策を立てる必要がありますよ」
「栗島と並んで首を晒すのはごめんだね。その対策を考えておくれ。二枚目の役者となら考えてもいいけど。じゃあ、おやすみ」
 息子に向かって猫がにゃあと鳴いた。ご主人さまはおやすみになりますと言わんばかりであった。

※ 異国の馬
 横浜は日本で初めて競馬が開催された地でもある。当時日本にいた外国人たちにとって競馬は大切なレジャーであった。彼らは日本で仕事をしつつも、時には競馬を楽しんでリフレッシュをしたに違いない。

 七 異人のサムライ

 黒松道場の朝は早い。日の出前には末が火を起こして湯を沸かし、飯を炊く。映も早起きだが、寒い時期はなかなか出てこない。
「お嬢さま。お膳の支度が整っております」
末はいつものように声をかけてから、門の外を掃き清めるために箒を取りに行こうとしたとき、すっかり身支度を整えた映が部屋から出てきた。
「今日はお早いですね」
「うん。異人教授の初日だからね」
 末は掃除を後回しにして、映の給仕をすることにした。そして、映が朝食を済ませたころ門の外で蔵蔵の声がした。
「おはようございます。師匠、馬を連れてきました」
 蔵蔵が手綱を引いて門の前で待っている。
「では行ってくる」
末にそう言って門から出てきた映に蔵蔵がさっそく愚痴をこぼした。
「師匠、昨日は大変だったんですよ」
蔵蔵の牛が囲炉裏の火を怖がって土間で暴れたというのだ。
「で、火に慣れたかい?」
「はい。なんとか落ち着きました」
「じゃあ、しばらく頼むよ」
「え、しばらくって、いつまでですか?」
「さあ、半年くらいかな」
「勘弁してくださいよ。若先生が今日だけって言うから引き受けたんです」
「牛はあんたの唯一の友じゃないか。ちゃんと世話してやらないと」
「友にも一つ屋根の下で暮らせる奴と暮らせない奴がいるんです」
「じゃあ、うちの敷地に馬小屋を作っておくれ。あんたならできるだろ」
「小屋ができるまでは牛と同居しろってことですか」
「ほほう、なかなか分かりがいいじゃないか」
 蔵蔵はがっくりと肩を落とした。
「では、若先生と相談してみます」
「頼むよ。あんたも、私を背負って歩かなくてもよくなるしね」
 そう言って、映はひらりと乗馬し駆けて行った。

 映が異人教授のために、初めて外国人居留地に足を踏み入れた頃には、まだ、ところどころに空き地があった。しかし、その後すぐに手狭になり、山手地区が居留地に編入されることになる。日本と条約を結んだ各国はこのころにはもう、居留地拡張や水道の整備、娯楽施設の建設など、強く幕府に申し出ていた。
 後世の我々が認識する、授業での歴史で言えば、当時はまだまだ攘夷思想が国内を揺るがしており・・・などということになっているが、それは地方の話である。この横浜では着実に外国人の存在が浸透し、日本の社会もそれを受け入れ、経済の循環にも組み込まれつつあった。
 この地域に住む、当時の日本の民たちも、恐れから好奇心へと気持ちは変化し、生きていくための商いの相手として異人を認めていったのである。
 それはともかく、その居留地の空き地で稽古着のマーガレットと映が準備体操をしている。
「息ヲ吸ウ、吐ク」
なんと、教えているのはマーガレットである。
「ふーん。やっぱり呼吸が大事なのは万国共通なんだね」
 マーガレットは幼少のころよりバレエを習っており、身体を動かす前には準備体操をやらないと落ち着かない。その動きを映が真似をしているのである。
「エゲレスの盆踊りみたいなものか」
 二人で入念に身体を動かし、温まったころ、映は自分の腰から脇差を抜いて差し出した。
「マガレ、これを腰に差してごらん」
今度はマーガレットが映の真似をする番である。
「そう、刃を上向きに。いいだろう。そして鯉口を切って抜く」
映の真似をしながら、やがてマーガレットは刀を抜いて正眼に構えた。
「これは真剣だ。あんたがその刀で私を貫けば私は死ぬ」
 居留地は海に面している。冬の冷たい海風が二人に吹きつける。
 寒がりの映であるが、真剣にマーガレットの様子を見ている。彼女の顔は青ざめ、身体は震えている。
「師匠、怖イデス」
 その震える手から脇差を取り、マーガレットの腰から鞘を抜いて、映りは自分の腰へと戻す。
「怖いのは、意図せずに自分が誰かを傷つけるのではないかという不安があるからだ。自分の意志で剣を遣うためには、まず恐怖心を無くすこと」
映はにっこり笑う。マーガレットはその映の表情を見て我に返り、鉛筆とメモ帳を取り出す。わからない言葉を後で調べるためだ。
「敵を前にしたとき、心の奥底にでも恐怖があれば、動揺して相手にそれを悟られてしまう。敵にはハッタリをかまさないとね」
 言葉を補うために映は大げさに表情を作り、身振り手振りを交える。完全に理解されなくてもいい。なんとなく、伝わればよいのである。
「ハッタリ?」
「自分を大きく見せる術だ。そのために身体だけではなく心を鍛える。そうすれば怖くもなくなり、自信が内から沸き起こってくる。そうなりゃこっちのものさ。真の自分よりももっと大きく見せることができるようになるよ」
 映はゆっくりとした動作で刀を抜きいくつかの型を見せた。
「サムライとは剣をわが物にし、剣を得た己を生かすことができる者のこと。そうすれば生き方も変わる」
 怪訝な顔つきのマーガレットに映は背中に背負っていたビワの木で作った木刀を渡した。
「まずはこれで素振りだよ。確かに、サムライが生き方だと言うのなら異人のサムライがいてもいいね」

八 狼なんか怖くない
 
 また、別の日。外で木刀による稽古をしていた時、雨が降ってきた。
「部屋ヘ」
マーガレットが声をあげ、映と二人で居留地の屋敷に飛び込んだ。まだまだ寒い時期である。映は風邪を引かぬように暖炉で着物を乾かした。
 ふと、応接室の開いた扉の奥に視線を感じた。マーガレットが温かい紅茶とスコーンをワゴンに乗せて運んできた。
「もしや、この屋敷にはあんたの母上がいるのかい?」
その問いにマーガレットはとても哀しそうな顔をした。
「母ガイマス。シカシ、彼女ハ日本人ガ怖イ」
 初めてこの屋敷に来たとき、二階の窓から映の様子を伺っていた人影があったのを映は思い出した。
「じゃあ、なぜ日本へ?」
「事件ガアッテ戦争ガアリマシタ」
 つまり、来日したときは怖くなかったが、生麦事件とその後の薩摩との戦争が彼女を変えてしまったらしい。
「あんたの母上は、来日したときは、日本人を恐れるに足らないと考えていた。しかし、刃を向けてきた。得体の知れない国だと思っているのだろうね」
「母ハ早ク帰リタイ。私ハマダ日本ニイタイ」
「あんたも辛いところだね。でも、母上もきっと分かってくれるさ」
そう言って、早速、スコーンを手に取る映を見ながら、マーガレットは寂しそうな笑顔を浮かべた。

 あたりは薄暗くなっていた。雨は止んでいる。居留地にはガス灯があり、もうすでに灯りをともしていた。
 門のところでマーガレットに別れを告げ、貸し馬屋に行こうとしたとき、居留地の東南に広がる海に小船が浮かんでいるのが見えた。こちらに近づいている。
 映は「寒い寒い」と言いながら護岸に足を向けて、小船に目を凝らす。真冬の海の上を薄物の襤褸をまとって頬かむりをした二人組が乗っていた。二人組は映を誰かと勘違いしたようで、こちらに話しかけてきた。どうもエゲレス語のあいさつのようだ。
 ひとりが提灯を掲げた。
「あ、あんた誰だ」
映の顔を見て提灯を掲げた男が驚きの声をあげた。
「あんたたちこそ何者だ。怪しい奴らめ」
そして、男が再び驚きの声をあげる。
「あ、あのときの・・・」
「私を知っているあんたは?ああ、思い出した」
「ふん。思い出したかい」
「私が子どものときに道場に来ていた魚屋だろ」
「生まれてねえよ」
「似ていると思ったんだけどねえ」
「でも、それうちの祖父さんかもしれねえな。うちは由緒正しい魚の行商人だからな」
その言葉に映はひらめき、左の手のひらを右の拳でぽんと叩いた。
「わかった。暴れ馬のマガレを助けたときの」
「そうだ。やい、婆さんよ。あっしの商売道具をほったらかしにしやがって、売り物の魚が全部無くなっていたんだぞ。どうしてくれる」
「ああ、あれは猫だよ。人間なら私がとっ捕まえてお縄にするところなんだが、猫はだめ。私の心の友だからね」
「それ、おかしいだろう」
魚の行商人が大きな声で映に抗議しようとすると、もう一人の男が手で制した。
「おっと、そうだった。こうしちゃいられないぜ」
二人の男は映を無視して小船を波止場に移動させた。
「こらあ、あんたたち何をしているんだい」
突然、映が護岸から小船の二人に向けて大きな声を出した。
 魚屋が慌てて自分の顔の前で、手の平で埃を払うような仕草をする。黙れということらしい。
「じゃあ、教えておくれ」
「商売だよ。おれが魚でこいつが青物」
声を潜めて魚屋が言う。
「なるほど、つまり許可無しで異人さんに売ろうってわけか」
「許可つったって、どうせ大店が役人に金渡してやっているわけだろ。あっしたちには関係ねえ」
「でも買ってくれるのかい」
「つなぎはあるのさ」
 そのとき、いかにも油断のならない顔つきのがっしりとした体格の異人が現れた。手に火の点いたローソクを燭台ごと持っている。
 魚屋が小船から桟橋に上がり青物屋が船の荷を渡す。二人で協力して荷を陸揚げした。異人は素早く魚屋と青物屋の荷を確認し、傍らにあった手押し車の上に乗せろ、と合図した。そして、ズボンのポケットから幾ばくかの銭を出して、魚屋に渡した。
 魚屋と青物屋はひっきりなしにぺこぺこ頭を下げている。その異人は近くにいた映を気にする風でもなく、手押し車を押して立ち去った。
「あんたたち、たいした度胸だね」
魚屋はその褒め言葉に急ぎ反応する。
「あったぼうよ。役人が怖くて商売ができるかってんだ」
「役人だけじゃない。異人を目の敵にしている奴らもうろついている」
「異人さんはあっしたちにとっても大事な客だぜ。そんな狼はあっしがぶっとばしてやるぜ」
 その時、初めて青物屋が言葉を口にした。
「心太、早く行こう」
「そうだな。婆さん、余計な事言うとただじゃおかねえぞ」
 寒がりの映がこの寒空に飛び切りの笑顔を浮かべた。
「名は心太か。安心おし。心太。私はあんたたちの味方だよ」
 何か不思議な物を見るような目で映を見た心太は、何も言わずに青物屋と小船に乗って去って行った。
 映は「寒い」と言いながら小走りに貸馬屋へ走る。
「しかしそれにしても、稼げるとわかった商売人の力は絶大だね。怖いもの無しだ。今どきの侍より、よほど肝が据わっている」
 何故か爽快な気分になった映である。
 
 九 たちの悪い狼
 
 マーガレットの乗馬の腕は格段に上達している。もちろん、両足をそろえて乗るようなことはしていない。時折、居留地すぐ近くの野原や砂浜で乗馬の訓練もしているのだ。
「乗馬については申し分ないよ」
小柄で手足の短い映に比べるとマーガレットの馬に乗る姿は実に様になっていた。
 映の誉め言葉がよほど嬉しかったのか、マーガレットが映に進言した。
「遠出シマショウ」
 ちなみに会話も毎日父親相手に勉強しているらしく、意思疎通に困ることはほとんどない。
「遠出ねえ」
 映は慎重である。
 道場に届いた斬奸状の件以来、敵が仕掛けてくる気配はない。しかし、油断はできない。映は密かに、末を動かし、心当たりを探らせていた。今のところ相手の正体は掴めていない。
 遠出の場合、特に行き帰りの街道は人も多く危険である。名指しされているのは映と栗島だが、敵の狙いは異人の打ち払いである。マーガレットに危険がおよぶ可能性は否定できない。
 とはいえ、若いマーガレットの好奇心を完全に封鎖することもできず、映はしかたなく承知した。目的地は、この当時から異人の遊興のために行われていた競馬の開催地である広場だ。遠出とはいえここならさほど行程に時間もかからず、心配もないであろう。
 二人は別の馬に乗り、前が映、後がマーガレットの一列で進んでいた。
「師匠、ダンゴ」
街道沿いにある一軒の茶店をマーガレットが指さした。小さな瓦屋根の建物で入口には日差し避けのヨシズが張られ、簡素な腰掛椅子が二脚置かれている。
 竹の枝にくくり付けられた、だんごと書かれた看板用の小さな布が風に吹かれて、たなびいている。
「気が付いたのなら仕方ない」
若いマーガレットの好奇心を封鎖することができないように、映の甘味への食欲もまた然りであった。
 二人は茶店横にある松の枝に馬の引綱を巻き、店に入って行った。
 炭火で炙っただんごの香ばしい匂いがただよってきた。
「いい香りだ」
映の腹がぐうと鳴って、それを聞いたマーガレットが微笑んだ。
 狭い店内にすでに五人の客がいてなかなかの繁盛ぶりである。亭主であろう老爺と小娘で切り盛りしている。
「亭主、だんごを頼むよ」
亭主は二人連れであることを目で確認して言った。
「二皿でよろしいですか?」
映がマーガレットを見ると首を横に振る。
「この子はいらないから、八皿でいいよ」
「え?」
「私が八皿食べるんだよ」
 返事に窮する亭主に代わって小娘が甲高い声をあげた。
「へーい」
 そして、映が四皿目の甘辛いタレのたっぷりかかったみたらしだんごを平らげたときである。
「何しやがる」
店の入り口あたりからどなり声が聞こえてきた。
 旅姿の町人風の男が亭主に文句を言っている。狭い店内のため亭主の体が荷物に当たってしまったのだ。よほど、大切な荷物らしい。
 町人と言ってもばくち場に入り浸っているような、油断のならない目つきの男であった。
「これはご無礼を」
しかし、町人風の男は気持ちがおさまらないようである。
「これはな、ごひいきさまに届ける大事な品なんだ」
「失礼しました。お許しくだされ」
「詫びりゃあ、済むってものじゃねえぞ」
 そこに映が左手にだんごの皿、右手にだんごの串を持って食べながら割り込んでいった。
「まあまあ。旅人さん。荷物は大丈夫なんだろ。そのくらいで許してやりなよ」
 元々感情的になると見境がつかなくなる男なのか、横から入ってきた映を睨みつけた。
「婆あ。すっこんでいろ」
そして、手元の湯呑みに残っていた茶を映にかけた。
「おっと」
瞬時に左手の皿と右手の串を上にあげて両手のだんごを守ったが、茶は顔にかかってしまった。
 マーガレットは思わず目を閉じた。茶をかけた無礼な町人が映にやられると思ったのであろう。
「お茶は飲むものだよ」
 相変わらず口をもぐもぐと動かし、だんごを食べながら映が言った。茶で濡れた顔を拭こうともしない。
「よ、余計な口を挟むからそんなことになるんだ」
町人の男は、さすがにやり過ぎたと思ったようで、さっきの勢いが萎えてしまっている。懐から銭を出し勘定を床几の上に置いてから捨て台詞を吐いた。
「ちぇ、邪魔しやがって」
そして、大事な荷物を抱えて足早に去って行った。
 小娘が慌てて手ぬぐいを持って映に駆け寄り濡れた顔を拭く。
「ありがとうございます」
亭主が映に深々と頭を下げた。
「いいさ。でも質の悪い浪人とかもいるから気を付けないとね」
そう言って映はマーガレットの隣に戻り残りのだんごを食べた。
 馬に乗ってから、往来の少ない場所に来たとき、マーガレットが映の馬に並走した。
「何故刀ヲ抜カナカッタ?」
「抜く必要がなかったからね」
 満腹のときの映はとくに表情も穏やかである。
「怒ってはいたが、あの町人は危害を加えたりはしなかっただろうね。たぶん勘定を踏み倒すくらいのつもりだったのさ」
「顔ニ水ヲカケル。私ノ国デモ決闘ニナリマス」
「日本でもそう思う人は多いだろうね。若いころなら私もそう思うかもしれない」
「デハ、ドウシテ?」
 どう言ったらいいかと、しばらく考えていた映だったが、やがてぽつりとこう言った。
「無礼だとか侮辱だとか、武士の体面なんてどうでもいいことさ。本当の侍は、命のやりとりという大事なときにしか刀を抜かないものだよ」

 その遠出の帰り道。
 街道を進んでいたとき「キレイ」と声をあげたマーガレットが馬を止めた。背中の籠に桃の花をたくさん挿した売り子の女が歩いていた。真っ直ぐな枝に小さな桃色の花がちりばめられ、その日本的な可憐な美しさに彼女は興味を引かれたようであった。下馬し手綱を引いたマーガレットが女の傍に近寄る。
 映はおいおいと思いながら慌てて引き返す。
「ひとつどうぞ」
そう言って女が桃の花を背中の籠から抜いたときに、チラッと映を見た。それは次の映の動きを誘発するに十分な危険信号だった。
 抜刀しつつ馬から飛び降り女を袈裟懸けに斬り倒したのである。
 マーガレットが絶叫した。倒れた女の右手には桃の花、左手には匕首が握られていた。映がため息をついて言った。
「生かしておきたかったが仕方ない」
 動揺するマーガレットを介抱していると、すぐに番所から同心と下っぴきがやってきた。生麦事件以来、奉行所も神経をとがらせているようだ。映は事情を説明し、栗島の名前を出した。この効果はてき面だった。
「では、あと始末は我々でいたしますので、お引き取りいただいて結構です」
 落着きを取り戻したマーガレットも再び馬に乗った。
「師匠。マタ助ケテモライマシタ」
「もう、日本は懲りただろう」
 人家の少ない街道にきた二人は馬を並走させた。
「ナゼ敵ノコトガ、ワカリマシタカ」
マーガレットは不思議で仕方ないといった様子だった。
「まず、歩き方が百姓や町屋の女のものではなかった」
「歩イテイタ時ニ、モウ見テイタ?」
「私は決して油断をしない。それと、マガレに桃の花を差し出そうとした瞬間、私の方をちらりと見た。あれは獲物に向ける目だ」
「トイウコトハ」
「私のことも狙っている。しばらくは大人しくしておこうよ」
「ハイ。デモ、師匠ノヨウニ強クナリタイ」
映は苦笑する。
「あんたも懲りないねえ」
 その日、居留地から帰った映は道場に戻る前に、栗島の屋敷に行った。
「栗島あ」
下馬もせずに門の前で声を張り上げる。
「いかがされました?」
屋敷の中から慌てた様子で栗島が飛び出してきた。趣味の南画(※)を描いていたらしく栗色の作務衣を着ていた。
「また、お絵かきかい」
「絵を描いていると師匠のことを忘れられるのです」
「それはご挨拶だねえ」
高らかな映の笑い声にも馬は動じずおとなしい。
「栗島、銭をくれ」
「貸してくれ、ではないのですか?」
「ああ。くれ」
「まるで、不逞浪士が商家に強請りをかけるのと同じですな」
「奴らに負けないようにね」
「何に必要ですか?」
「武具を買う」
「誰の武具ですか?」
「不逞浪士退治の助っ人たちにさ。武家以外は短刀すら持っていないからね」
「いかほど?」
「あんたがこっそりため込んだ銭はどのくらいあるんだい」
「大声で人聞きの悪いことを言わないでください」
「百五十両でどうだい」
「それはなかなかの大金ですね」
「安いものだろう。あんたの秘密について、知らなかったことにするのは、かなり骨が折れることでね」
「ですから、この前のあれは誤解です」
「火のないところに煙は立たず。道場の隠居女は見た!品行方正な旗本の闇の顔、というかわら版屋の見出しが目に浮かぶよ」
「わ、わかりました。明日、道場にお持ちします。ところで、師匠は本当に私の味方なんでしょうか?」
「何を今さら。私はあんたの味方だよ。但し、馴れ合いはしないとこにしている。たとえ味方同士でもね。じゃあ明日。待っている」
映が手綱を引き、馬を走らせようとしたとき、栗島が映の背に声をかけた。
「異人を守れますか?」
「ああ。もう私は本気になっている。敵が来るのを待っているだけというのは私の性に合わなくてね。あんたがくれる銭で、できるだけの備えをする」
 その言葉を残して映は去っていった。

※ 南画
 文人画ともいう。中国の画題を描いた水墨画で江戸期に流行する。有名な画家は池大雅、与謝蕪村、谷文晁といったところである。栗島のようなインテリの役人がいかにも暇つぶしにやってそうで、作務衣などに身を包み、悦に入っている様子が目に浮かぶ。絵には、とってつけたような精神的意味を持たせて、側用人相手に講釈を垂れる栗島の様子が想像できる。

十 経済楼閣
 
 話が少し前に戻る。
 映が栗島に大金を要求した、数日前。
 その日、マーガレットとの剣術の稽古に熱が入り、映は帰宅するのがすっかり遅くなってしまった。
「さすがに腹が減ったね」
 馬を走らせていた映が居留地の入り口である吉田橋を渡り、関門を抜けたところで、見知った顔に出会った。
「三嶋屋じゃないか」
「これは映さま」
 ちょうどそこには吉原を模して造った巨大な遊郭(※)があった。異人をもてなすために建造されたもので、宵の口だというのに音曲が鳴り響き、大変な賑わいである。いたるところにともされた灯りは人々を明るく照らしつつ、濃い影も作っていた。
 まるで人工の極楽浄土である。
 映は馬を降り、遊郭の入り口脇で三嶋屋と立ち話をし始めた。面白い話が聞けるのでは、という期待で空腹も忘れている。
「三嶋屋。男はいろいろと楽しみがあっていいねえ」
「とんでもございません」
三嶋屋は自分の顔の前で大仰に手を横に振った。
「これも商いです」
「この前、言っていた生糸かい」
「そうなんですよ。今日の支払いも私持ちです」
「異人は金がかかるみたいだね」
「生糸の商売が軌道に乗るまで蓄えが持つか心配です」
三嶋屋もどことなくやつれた感があったが、目には力がこもっている。
「まだ、目途が立たないのか」
「あと少しです。でも異人は、私らを低く見ていますからね。値段交渉も強気一点張りですよ」
「あんたの商魂もたいしたもんだ」
「はい。粘り強さでは負けません」
 ちょうど、そのとき。
 二頭立ての馬車が来て遊郭の門に入っていったのだが、その馬車の陰に隠れるようにして門の中へ入ろうとした者がいたのを映は見逃さなかった。
「あれえっ」
映の大音声があたりに鳴り響く。先に行ってしまった馬車に取り残されるようにして武家の男の後ろ姿が見えた。
「三嶋屋。あの後ろ姿に見覚えはないかい」
「え、どの人ですか?」
三嶋屋は振り向き、その背中を見て、すべてを察した。
「映さま。声が大きすぎます」
 さすがに商人である三嶋屋は、気遣いも心得たものである。
「え?なんだって、どこの旗本だって?」
しかし、その商人の気遣いもただ、映を面白がらせるだけであった。
 武家の男はあきらめてこちらに近寄ってきた。
「師匠、何がそんなに嬉しいのですか」
栗島は憮然とした様子である。
「嬉しいさ。女にはね。楽しいことや嬉しいことを自分で見つけて、笑って生きていく力が備わっているんだ。男みたいに誰かが用意した場所でへらへらしているのとはわけが違うのさ」
 映の一喝に栗島も返す言葉がない。
「信じてもらえないかもしれませんが・・・」
「信じないね。馬車の陰に隠れてこそこそする武士道が本当に信に足るものか教えてもらいたいもんだ」
「それは、私がこの場所で一番会いたくない人がいたからです」
「つまり、私がいたせいで遊郭に入るのに人目を忍ばないといけなくなったわけだ。なんと、太平の世の武士は剣よりも口先の技が見事だね」
「では、言い訳ついでに申し上げますが、ここは、異人との第二の交渉場所なのです」
「ふーん。まあ、いいじゃないか栗島。私も野暮を言うつもりはない。いやあ、栗島が若くてうらやましいよ。やっぱり、人の銭で食う馳走は精がつくみたいだね」
「なんだか、責められているとしか思えません」
 三嶋屋も映をとりなすのに懸命だ。
「映さま、栗島さまのおっしゃることは本当です。私もここ以外で商いの話はしたことがありません」
確かに栗島もわくわく顔でこの場に現れた様子ではなかった。
「私はここに来ると幇間(※)になったような気分になります。しかし、国を守るためであればこれしきの屈辱はなんでもありません」
「国を守るだ、屈辱だって、意味がわからない」
「異人の目的は、安く簡単に手に入るものを日本に高く売りつけ、日本の価値あるものを買いたたいて他所で高く売る、これだけです」
 栗島の表情には決意のようなものがにじみ出ている。
「映さま。交渉は値段だけではなく、支払い方法や期日、荷の受け渡しのこと、いろいろありましてな。永くなるのでこういう場所が便利なのです」
三嶋屋も自分が責められているように説明をする。
 門のところにある篝火の炎が揺らめくたびに、大きく光と影が揺れ動き、そこにそびえ立つ楼閣を見ながら栗島は独り言のように言葉を発した。
「私は間違ったことはしていません。それは法や道という意味だけでなく、政道や外交という意味でもです。しかし、これから先がどうなっていくのか、銭や利というものが不気味で仕方ありません」
 そして、栗島は少し、慌てたように言った。
「師匠、約束の刻限が近づいています。失礼します」
映と三嶋屋をそのままにして、栗島は揺れる楼閣に入って行った。

※ 巨大な遊郭
 横浜の外国人居留地そばに作られた遊郭。当時、描かれた浮世絵などにも多く描かれている。外国人好みに合わせるために、吉原などとはまた違った雰囲気を醸し出していたのかもしれない。浮世絵には門の前にいる冷やかしの日本人を描いたものもあり、中には入れないがひと目門の外からでも見てみたいと思う人が多くいたのだろうと想像できる。
※ 幇間(ほうかん)
 たいこもちのこと。遊郭などの宴席において、客の機嫌をとり言葉巧みに場を盛り上げる職業の男。栗島は異人の機嫌を取り、酌をし、面白くもない冗談を言って、なんとか交渉を有利に運ぶように努力していたのであろう。

十一 末が忍(しのぶ)
 
 映がマーガレットとの遠出の帰り道、刺客の女を斬り倒した直後のことである。
 街道沿いの番所に老女がやってきた。地味な色の着物に前掛け。家事の途中、ちょっと用事を済ませるために出てきた、といった様子だ。
「黒松道場の末と申しますが」
「黒松・・ああ、ご隠居の」
ご隠居とは映のことである。末の対応をしているのは、先刻、映から事情の説明を受けた同心である。女の身元を調べようとしていたところであった。
「実は、お嬢さまも狙われていたようなのです」
「お嬢さまってご隠居のことか。心あたりがあるのかい?」
「先日、お嬢さまあてに斬奸状が届いているのです。栗島の御前を襲った奴の仲間ではないかと思いまして」
「なるほど、そういうことか」
「身元を調べるように言われて、参上いたしました」
「あんたが身元を?」
「はい。女が持っていた刃物をちょっと見せてもらえますか」
 この同心は末の主である黒松映と旗本の栗島の関係を承知しているようだった。映も末も役人には栗島の力が絶大であることを承知しており、使わにゃそんそんと言わんばかりである。
 同心が刺客の刃物を末に渡すと、末は慣れた手つきで柄の装飾を外し茎の銘を見た。そして、それを同心に返すと、横たわった遺体のムシロをめくり、女の胸元からもう一振りの短刀を見つけた。また、銘をあらためる。
「銘を見て女の正体がわかるのかい?」
同心は前掛け姿の老女が慣れた手つきで刃物を扱う姿を凝視している。
「いえ、参考になるかもしれないと考えただけです」
「で、どうだい」
「二振りともに紀州の刀工です」
「紀州?」
末はまた、遺体の着衣に手を伸ばす。そして、襟元から小柄を見つけた。
「この女、なんでこんなに刃物を持っているんだ」
「訓練の経験があるのでしょう」
「訓練を受けた刺客ってことか」
「お役人さま、警戒が必要です。町方の増員をお願いします」
「異人にもしものことがあったら大変だ。よし、考えよう」
「もうひとつ。これはお嬢さまからのお願いです。奴らにはどこかに拠点があるはずだと」
「ほほう。何故だ」
「お嬢さまはこの女を前にも街道で見たらしいのです。そのときは全く違う格好だったそうです」
「なるほど」
「おそらく神奈川の宿場ではないかと」
「よし、怪しげな宿がないか、あたってみよう。これは忙しくなってきやがった。人手を集める必要があるぜ」

 末は道場に戻り、映の茶室部屋の前に立った。
「お嬢さま。戻りました」
「お入り」
にじり口から中に入るとちょうど映があん餅をほおばっているところだった。
「この前、蔵蔵さんところのご隠居さんが餅をノドにつめて大変だったらしいですよ」
「それは、牛もびっくりしただろう」
「お嬢さまは昔、餅は飲むのが美味いと言って、無茶な食べ方をしていました」
「ああ、あれはやめた。一度死にかけたからね」
「あん餅もお控えください」
末は高台の上にある残りの餅を見ながら言った。
「大丈夫。よく噛んで食べるからさ。あんたも一つどうだい」
「いえ、結構です。で、例の女ですが」
「うん、何かわかったかい」
「手にしていた刃物以外に懐に短刀がありました。二振りともに紀州の刀工です」
「紀州か」
「とくに懐にあった刀はかなりの上物。おそらく先祖伝来の品ではないかと」
「紀州にゆかりがあるとなると」
「お嬢さま。危険です」
「鉄砲が出てくるかもしれないね」
 真剣な顔つきで何かを深く考えながら映はあん餅を手に取った。
「末、明日からしばらくの間出稼ぎに行ってくれるかい」

 栗島は夜型である。ほぼ毎日遅い時間まで書見をしたり南画を見たり描いたりしている。ちなみに剣の手入れなどはただの一度もしたことはない。側用人に任せている。なので、朝はわりとゆっくりするのが日常だ。
「御前さま、お膳の支度が整っております」
 横になっていた栗島がやおら上半身を起こした。
 身辺を警戒することには淡泊で、側用人が意見しないと動かない栗島だが、さすがにいつもとは違う声に警戒心が沸騰した。
「だれだ?」
栗島が鋭い声を発した。
「はい。末でございます」
慌てて、起き上がり、ふすまを開けると、末が正座をして廊下に額をつけんばかりにお辞儀をしていた。
「どうしたんです。急に」
「はい。お嬢さまが」
「師匠は、今度は何を言ったのでしょうか」
 栗島は苦笑気味に言った。しかし、この後の末の言葉に栗島の顔から血の気が引く。
「栗島の御前の夜伽(※)をしてまいれと」
「えっ」
 末は顔を伏せたままである。
「いや、それは・・・」
「なんでも、大変な金子をご用立てていただいたそうで」
栗島は乾いたような笑い声を立てた。
「あははは。いや、たいした銭ではありません」
「さすがは剛気な栗島さま。しかし、これも主の命ですので」
「しかし、末さんが意に添わぬ仕事をする必要はありませんよ」
末は顔を上げ、栗島の顔を見てニッコリ微笑み、にじるようにして部屋に入りふすまを閉めた。
「意に添わぬなどと・・末は楽しみにいたしておりました。年増女ですが、よろしくお願い申し上げます」
 この当時、二十歳過ぎれば年増と言われた。末は映と同じ年、七十五歳になる。
「では終日、お傍に控えさせていただきます。奴らから御前さまを必ずお守りいたします」
 栗島はへなへなとその場に腰を下ろした。
「では、奴らが私を狙ってここへ来ると?」
「お嬢さまは油断を決していたしません」
そして、栗島は以前から気になっていたことを口にした。
「私を守ると言われるが、末さんはいったい何者なのです?」
「黒松道場の雇い女です」
「わかっています。私が少年のころに道場に通うようになったときにはもう、奥の仕事をされていました。でも、ずっと只者ではないと思っていました」
「いえ、只の飯炊きです。でも、まあ先祖は鉄砲百人組でした」
「では?」
「甲賀から来たそうです」
鉄砲百人組とは江戸幕府成立のころより江戸城を警備する鉄砲隊である。伊賀、甲賀、根来など隠密活動に長けた者たちから組織された。
「しかし、永く太平の時代が続き、祖父の代に役目を退き、その後、縁あって黒松さまにお世話になっております」
「では甲賀の術を」
「はい、いささか心得ております」
「そうでしたか・・」
 武芸の道場である黒松と縁があるのも頷ける。栗島は得心した。
「私が道場に厄介になったのは七つのときでした」
「師匠とは、確か・・・」
「同じ年です」
「師匠は普通の子どもでしたか?」
 末は珍しく笑顔を浮かべた。映の話をするのが嬉しくて仕方ないといった風である。
「当時、お嬢さまはもちろんまだ、剣を手にしておりませんでした。しかし、その片鱗は見えていました」
「近所のいたずら小僧を従えて暴れていましたか?」
「いえ。まず、驚異的な身軽さでよく高い木の上に登っていました。そして、私が驚いたのは・・・」
「師匠の話は、いつも私の想像を超えてきますからね。聞くのが怖い気がしますよ。で、何に驚いたのです?」
「木の上で鷹と仲良くしていたのです」
「それは・・」
またも自分の想像を超えていたらしく栗島は絶句した。
「鷹という動物は大変繊細で鷹匠も訓練するのにかなりの手間と時間を要すると聞いたことがあります」
「もしかしたら、まだ小さかったから仲良くできたのかもしれません」
「しかし、やはり常人ではありませんね。師匠の野性味と動物の息がぴたりと合ったのかもしれませんね。師匠が剣を手にしたのはいつごろですか?」
「八つくらいでしょうか。そういえばそのことも、ちょっとした話がありましてね」
「逸話の多い人ですな」
一呼吸おいて末が語り始める。
「お嬢さまの御父さまが娘に剣を手ほどきしたいと父つまりお嬢さまのおじい様に言ったそうです」
「それは女ながら才能があると見抜いたのでしょうね」
「その通りです。しかし、おじい様は難色を示したそうで」
「今思えば、そのおじい様の気持ちもわかりますね。でも何故でしょう?」
「剣の指導者というのは、他の、例えば学問の指導者とは少し違った心の働きがあるそうです」
「心の働き?」
「後進を育てるときに自らを超えそうな者には指導を躊躇するという」
「つまり、とんでもない者になるのでは、と恐れたのですね」
「はい。しかし、ご本人が自ら進んで剣を手にとってしまっては、周囲はどうしようもないですね」
 末が声をあげて笑った。
「末さん、もうひとつだけ」
「なんでしょう」
「末さんは師匠と手合わせしたことがあるのですか?」
「若いころはよく稽古をつけていただきましたが、それも大人になってからです」
「それはなぜ?道場に来たのは七つでしょう」
「私の父の命です。私は家事をするためにお世話になっていたからです」
「では忍びの術というのは」
「父から受け継ぎました。父は別のところで奉公をしていましたが、代々の教えを私に引き継ぐために、夜、私に修行をさせました」
「師匠はそのことを?」
「ご存じでした。お嬢さまが師範代になったときに、先代さまの許しを得て、私を相手に稽古をされるようになったのです」
栗島が首を傾げた。
「私はでも道場で末さんを見たことがありませんね」
「お嬢さまと私はいつも夜の稽古でしたから」
「なるほど。で、末さんと師匠はどちらが強いのですか」
末が驚いたように目を見張る。
「お嬢さまと私では次元が違います。私の術は忍び、つまり自らの身を守るために敵を倒す術です」
「師匠はそれとは別なのですか?」
「上手く言えませんが、公のための剣とでも言いましょうか」
「世の人々のためと」
「はい。以前、お嬢さまがおっしゃっていたのは、私が負けると正しい道が負けることになる・・と」
「正しい道ですか」
「己のための剣に背負うものはありません。しかし、公の剣とは、人が歩むべき正しい道のための剣ということです。お嬢さまにはそれを背負う力がおありなのです」
 そして、末はいつもの奥向きの顔に戻る。
「さあ、昔話はおしまいです。御前さま、朝餉をお召し上がりください。夜具は私が片付けます」
栗島が寝ていた夜具ににじり寄った末は、それを手に取り栗島に振り向いた。
「御前さま、朝餉にはたっぷりと精の付くものを用意いたしました」
さて、朝飯を喰うかと立ち上がった栗島だったが、その言葉に再び腰を抜かした。

※ 夜伽(よとぎ)
 文字どおりで言うと夜のお話相手をするということになるが、夜通し警護をしたり介護をしたりする、といった意味もある。そこから、女が男の相手をするといった意味で使用することもあり、これは映と末の冗談なのか、はたまた違うのか、栗島は驚いて腰を抜かすことになるのである。

十二 助っ人集め

 朝から蔵蔵が外に出て来いというので、仕方なく映は炬燵と猫の傍を離れた。猫は苦手にしている末がいないのでのびのび暮らしている。
 もう、庭の梅がちらほら咲いている。日差しは暖かいが風は冷たい。
「師匠、できました」
蔵蔵が自信たっぷりに言ったのは馬小屋である。道場の一角に蔵蔵が新築したのだ。すでに入居している馬も気持ち良さそうである。
「おお、いいじゃないか。さすがは蔵蔵、大工仕事はお手の物だ」
「これでやっと牛との同居生活から解放されます」
「ところで、蔵蔵。福次を呼んできてくれないか」
「仕事ですか?」
「喧嘩(でいり)だ」
蔵蔵の顔に緊張が走る。
 福次は以前道場にいた門人で、本業は山猟師である。獲物はシカやイノシシが主で罠を使う。鉄砲のような高価な武器を福次は持っていない。ちなみにイノシシの肉は「山クジラ」と言って当時の人たちも食していた。滋養があると言って好んで食べていた人も結構いたらしい。
「しかし、奴のところに行くとなると片道で二日はかかります。なんせ秩父の山奥ですからね」
「うん。できるだけ早く連れておいで。犬と一緒にね」
 蔵蔵はちょっと小首をかしげた。
「福次はこっちでどこに寝泊まりするんですか?」
「そりゃあ、あんたのところだろ」
緊張した顔が一気に不安に彩られる。
「ということは犬も」
「福次は犬と暮らしているからな。そういうことになるだろう」
「牛の次は犬ですか」
「いいじゃないか、小さくなったし」
「でも数が増えそうな気がします」
「なら次は犬小屋だね」
「まあ、馬小屋よりは犬小屋の方が作りやすいでしょうがねえ」
 前向きな言葉を口にしつつ、がっくりと肩を落とす蔵蔵に映は言った。
「これは仕事だ。銭は出すよ」
「はい。ありがとうございます」
 礼を言いつつも、ため息を連発しながら蔵蔵は家に帰っていった。

「三嶋屋。いるかい」
店先に馬で乗り付けた映が店内に入り大きな声を出す。
「これは、映さま、先日は妙なところでお会いしましたな」
「ああ、異人用の遊郭にあんたが入り浸っているとは思わなかった」
「しっ。映さま声が大きすぎます」
「あんたにしても、栗島にしても、仕事だ仕事だといいながら、妙にこそこそしているよねえ」
「ですから、内緒の仕事なのです」
「まあ、いいや。ところで、最後の仕事だよ」
 映が上がり框に腰をかけて、懐から百両を取り出した。
「これはこれは。何がご入用ですか?」
「鎖帷子と兜、五人分」
「ほほう、それはまた、任侠者と戦でも始められるおつもりですか」
「ああ、そんなところだよ」
 三嶋屋は一呼吸おいて返事をした。
「やってみましょう」
 そして、三嶋屋が「少しお待ちを」と言って奥からもってきたのは一振りの刀と一個の化粧箱である。
「砥ぎが終わりました」
「おお、助廣」
 大阪新刀の津田越前守助廣は映の愛刀、大業物(※)である。刀身にある濤瀾刃といわれる豪快な刃紋が特長だ。映は若きころから、心が定まらないときはいつも助廣の手入れをしてきた。そしてその刀身に進むべき道を見出してきたのだ。末や栗島と同じ永いつきあいである。
「商売替えをしても映さまのお仕事はお受けさせていただきます」
「それはありがたいね。じゃあ頼んだよ」
「あ、お待ちください」
 三嶋屋は化粧箱の方も差し出した。
「実はいただきものなのですが、薯蕷饅頭です」
「ななな何い」
「映さまがお好きですから、お持ちしようと思っていたのです」
「いや、これは何よりだ。いつもすまないねえ」
「喜んでいただけてよかったです。ですが、食べ過ぎにはご注意くださいよ」
「そうなんだ。それでいつも末に叱られているのさ」
「映さまには長生きしていただきませんと」
「ふふ、ありがとうよ」
 そして、映は菓子折りを片手に乗馬した。

 三嶋屋の帰りに、映は魚河岸のあたりに行ってみることにした。魚屋の心太に会うためである。案の定、商家が軒を連ねているあたりで、棒手振を片手に魚を行商している心太がいた。
 このあたりは心太のような行商人や漁師、商家の番頭や手代、買い物客で大変賑わっている。まさに庶民の街である。
「どうだい、繁盛しているかい」
映が乗馬したまま、歩く心太に声をかけた。
「また、あんたか。何かようかい」
「この菓子箱を捨てといておくれ」
「自分で始末しろよ」
「まあ、頼むよ。それとあとで品川の黒松道場にきてくれるかい」
「品川の黒松?ああ、そういや宿場近くに剣の道場があるなあ」
「私はそこの隠居だ」
「隠居?なら隠居らしくしなよ」
「わかってないね。隠居だから好き放題できるんじゃないか」
「まあ、なんでもいいや。で、魚でも買ってくれるのか」
「ああ、全部買うからね。待っているよ」
そう言って、菓子の空き箱をぽーんと投げ、映は去っていった。空き箱は心太が担ぐ棒の先に引っかかった。

 黒松道場の門は狭くて小さい。心太は商売道具が触れないように気を付けながら門をくぐった。
「ごめんなさいよ。魚屋です」
そう声をかけると、どこからか声だけが聞こえてきた。
「右の飛び石を真っすぐ行ったらお勝手があるから、そこに魚と商売道具を置いて道場においで」
 確かに、門の入り口から続く飛び石は右と左に分かれている。左が道場なのだろう。声はそちらから聞こえてきた。心太は指図どおり、お勝手に行き手近にある桶に魚を入れ、商売道具を置いて道場に足を向けた。
「あ、そうだ。担ぎ棒だけ持っておいで」
 何がなんだかわからないまま、言われたとおり担ぎ棒だけ抱えて、声のする方に行く。そこには萱葺きで切妻屋根の道場があり、入口は開け放たれていた。心太が中に入ると、板敷きの中央に映がひとり正座をしていた。丸腰である。
「さて、その棒で私に打ち掛かっておいで」
「なんでえ。藪から棒に」
「藪から棒じゃなくて、その担ぎ棒で来いと言っているのさ」
「理由もないのに人を殴れないぜ」
「言うとおりにしないと銭を払わないよ」
「面倒くせえ婆さんだな」
「面倒くさいのはあんただよ。どうせあんたのようなへっぴり腰じゃあ当たりっこないんだからさ」
「なんだと」
映は立ち上がって、心太に尻を向け、手の平で二度尻を叩いた。
「ほらほら」
「ふざけるな」
右手で担ぎ棒の端を掴み、まっすぐ手を伸ばし、水平に振り回した。映の立位置に十分届く長さであり、高さは腰ぐらいだったであろうか。
 しかし、担ぎ棒は空を切った。映はその場で高く跳躍をしたのである。それを見た心太は休むことなく棒を頭上で一回転させて、着地した映の胸あたりを狙った。今度はひょいと身を屈める。
「さあさあ、早く当てな」
またもや、棒を回転させて今度は低い位置を狙う。また、高く跳躍した映だったが、着地したのは心太の目の前だった。
「やあ!」
口から発した気合とともに、映は伸びきった心太の右手を掴み、心太を仰向けに倒しつつ自分は床に片膝を立てる姿勢となった。立てた映の右足の上に頭を置いた心太は天を向いて目をぱちくりさせている。
 そこには心太が初めて見る映の顔があった。何度も刃を掻い潜り、時には敵の命も奪ってきた、相手を獲物としてみる猛禽類のような顔であった。
 心太が右手で掴んでいた担ぎ棒がカランと音を立てて床に落ちた。
「黒松の兵法は接近戦にあり」
そう言って映は立ち上がりつつ心太の伸び切った体を立たせた。
 いつもの表情に戻った映は再び正座をする。
「道場ではついいつもの動きが出てしまう」
「あんたは何者です?」
威勢のいい心太が神妙な態度になり言葉も改まっている。
「道場の隠居さ」
映は懐から心太のいつもの三日分の稼ぎ相当の銭を渡した。
「魚代だ。で、頼みも聞いてほしい」
「頼み?」
「あんたの闇商売のお客さんが狙われている」
「異人さんのことですね」
「ああ、敵は異人に危害を加えようとする浪士どもだ」
「でも、あっしは刀も持ったことねえし」
 道場の隠居は話題を変えた。
「あんたは行商だけでなく網も引くんだろう」
「ええ。漁もやっています。いつも親方に叱られているけど。でもなぜそれを?」
「あんたが居留地で闇商売をしているときに、櫓の漕ぎ方を見てピンときた」
「わかるものなんですね」
「ちゃんとした人に教えてもらっているのが見えたのさ」
「何をすればいいんです?」
「船を操って欲しい」
「操るというのは、要するに、船頭として働くということですかい。あっち行けこっち行けみたいな・・・」
「そういうことだ。戦闘はさせない。それはこっちでやる」
「場所はどこですか?」
「まだ、わからないが海の近くだ。あの狼どもをどこにどうやっておびき出すか。思案中だけどね」
 心太は俯いて考えていたが、やおら顔をあげた。
「それは異人さんを悪者から守るってことですよね」
「もちろんだ」
「異人さんは大事なお客さんだ。内緒の商いだけど。だから、やります」
「あんた異人は好きかい」
「好きというわけじゃない。闇商売相手の異人があっしたちを低く見ているのは知っている」
「じゃあなぜ?」
「低く見ているのはこの国の侍も同じだ。それに、異人さんは気前がいいけど侍は銭も払わない奴がいるからね」
映の顔はいつになく嬉しそうである。
「もうすぐ、あんたのような度胸のある商人の時代がくるだろうね」
「本当ですか?」
「ああ。だって、異人さんが用のあるのは、まつりごとを担う一部の武士以外は商人だけだろう」
「じゃあ、あっしもそのひとりですか」
「もちろん。闇商人だけどね」
「で、ご隠居さんのことは何と呼べばいいですか?」
「私の弟子はみんな私のことを師匠と呼ぶ。だから、同じように呼んでくれればいいさ」

 ある大藩の下屋敷。
 街道から少し坂を登った高台で、この下屋敷以外も大きな屋敷や寺院などが多い静かな一帯である。
 下屋敷からは少し離れた寺院の門前に飴売りの男がいる。子どもたちに取り囲まれて、身動きできない様子である。
「おじさん、銭はこれしかない」
「坊や、これじゃあ、足らないよ」
子どもたちが「えー」と悲しげな声を出す。
 そのとき、門から藩士らしい月代頭の若い男が出てきた。
「仕方ないな。今日はこの銭でいいことにするか」
 飴売り男は目の端で月代頭を追いながら、子どもたちに飴を配り、急いで荷物を背負った。そして、十分な距離を確保しつつ後をつける。
 探索というのは、それも警戒している者を相手にするのは、それなりの技術が必要である。飴売りの男は、あきらかに、玄人である。
 月代頭が入っていったのは、かなり立派な料亭であった。飴売りは離れたところから門の様子を伺っている。
 しばらく、様子を伺っていると数人の男たちが店に入っていった。もちろん、無関係な客もいた。それらは、ごく普通の様子である。しかし、不穏な客は飴売りにはわかる。料亭の門の前であたりを見回し警戒するのだ。さりげなく左右を見るだけでも察知できる。つまり、警戒しているつもりが、その動きにより逆に目印になっているわけである。
 その日の夜。長屋に帰った飴売りは荷物を置くなり六畳一間の真ん中で寝転がってつぶやいた。
「今日は疲れたな」
 そして、力んだ身体を休めようと、力を抜こうとしたときに、部屋にいつもと違う気配があることに気がついた。
「だれだ?」
 すると、天井から声が聞こえてきた。
「ご苦労だったね」
「末姉さん。いつの間に」
「あんたが帰るちょっと前だよ」
 天井裏に潜む末から紐がするすると降りてくる。
「これで旨いものでも食べておくれ」
紐の先には和紙に包まれた銭が括り付けてある。
「いつもすみません」
「で、名は?」
「暗堂玄次郎」
「例の藩だね」
「はい。以前は家老も勤めたことがある家柄だそうです。それも藩校一番の秀才だったとか」
「すぐにでも事を起こしそうな気配かい?」
「いえ、攘夷思想の師を失ってから、まだ、同志を集めている様子ですね」
「また、礼を弾むからさ。引き続き見張りを頼むよ」
「恩のある末姉さんのためです。やらせてもらいますよ」
 すると、ロウソクの炎が消えるように、天井裏の気配が消えた。

※ 大業物
 江戸時代、死罪になった罪人の胴などで試し斬りを行い、刀の斬れ具合でランク付けを行った。その結果、映の愛刀である津田越前守助廣は大業物と格付けされた。無駄に力を使わず敵の急所にちょいと刃物を触れさせて倒すというのが映の剣である。つまり、斬れ味抜群の刀であることが重要なのである。

十三 開国はもう止まらない
 
 映のマーガレットへの剣の手ほどきは続いている。むしろ、久しぶりに映は教える楽しさを味わっていると言っていいだろう。それは、ひとえにマーガレットの熱心さによるものだ。
 一対一の稽古でも、以前道場で複数の門人を指導していたやり方と大差はない。まずは、映が手本を示す。そしてマーガレットに真似をさせる。この繰り返しだ。マーガレットは身体をつくるための素振りや足腰の鍛錬など、音を上げずにこなしている。
 ある日、稽古に変化をつけるために映が剣技を披露した。
 この剣技にこそ、映の剣の最大の特長が見て取れる。驚異的な跳躍力、身体の柔軟性、後方に倒立して回転、前方に回転し相手の懐に飛び込む、剣を躱す身のこなしは常人で真似できるものではない。
「やってみな」
 にっこり笑ってマーガレットに木刀を渡した映が今度は驚く番であった。マーガレットは剣さばきこそぎこちないものの、かなり映と同じような動きをしてみせたのである。そう、これは幼きころよりバレエを習得していた賜物であった。
「うーん。あんたなかなか素質があるよ」
「嬉シイデス」
マーガレットは笑顔を見せた。それから、映は剣の扱い方や敵を得たときの間合いなどかなり実戦を意識した教え方をするようになった。
 ある日、居留地内でマーガレット相手に居合の稽古をしていると、そこに栗島が馬に乗ってやってきた。
「どこの偉いお武家かと思ったら、ただの栗島じゃないか」
「ただの栗島っていうのは何ですか?」
 いつもの軽妙な二人のやりとりをマーガレットは嬉しそうに眺めた。
「師匠、実はこの外国人居留地を拡張することになりました」
「どこに?」
栗島は目の前にある堀の対岸を指さした。
「あの山手です」
「つまり私たちの住む土地と外国人居留地とが地続きになるわけだ」
「警備はますます厳重になると思いますが」
「どんどん広がって土地を全部奪われたりしないのかい」
「そんなことはありません。すべての日本人が異人を受け入れたら、居留地を作って分け隔てる必要など無くなります」
「異人に国を乗っ取られることはないのかい」
「そんなことはできることではありませんし、させません。でも・・・。むしろ、私は別のことが不安です」
「不安?」
「はい。我が国は世界に港を開きました。扉はもう閉じることはありません。あらゆるものがのみ込まれていきます」
「異人にかい?」
映はニコニコしているマーガレットをちらりと見た。
「いえ。経済です」
「なんだいそりゃ」
「攘夷なんてすぐに吹き飛ばされます。しかし、経済には幕府も藩も抗えません」
「それはつまり商いのことかい」
「今、外国からどんどん武器や商品を売りつけられて金銀が出ていき、日本の生糸が根こそぎ買われていきます。開国の前にもある程度想像はしていましたが、ここまで急激に膨張していくとは・・・」
「それは私の領域外だ」
栗島が我に返り、手のひらで自分の頬をぴしゃりと叩いた。
「すみません。つい心の内をさらしてしまいました」
「居留地が広がるって話だったね」
「そうでした。あのあたりがその山手です。その居留地拡張にあたって地鎮祭をすることになりました」
 なぜか急にマーガレットがその言葉に反応する。
「ヂチンサイ?」
マーガレットに栗島が英語でわかりやすく説明する。
「その地鎮祭の本当の目的は何だい?」
「さすが、師匠。つまり、日本の土地が外国に奪われるような誤解を与えないためです。幕府と外国共同で日本式の地鎮祭をして、あくまで日本側主体の居留地拡張だと示したいわけです」
「では、双方の要人が集まるわけだ」
「はい。今日ここに師匠をお訪ねしたのはそのことです」
「警備か」
「新居留地にはエゲレスが移転します」
映がマーガレットに振り向いた。
「マガレ、引っ越しだよ」
「当日は当然、エゲレス海兵隊が警備しますし、もちろん、幕府方も警備に入ります」
「もし、浪士どもが来るとすれば少人数で鉄砲を撃ちかけてくるだろう」
「ですので、師匠に要撃隊(※)をお願いしたいのです」
「また、私をこき使うつもりだね」
「私も師匠も狙われていますから、丁度良いかと」
「まあ、近いうちに奴らとやり合うのは避けられないだろうからね」
「あ、そうそう。定廻りの同心から師匠に言伝てです。今朝、末さんから聞きました」
「末のような押しかけ女房が来てさぞ、嬉しいだろう」
「そ、そ、それはもう大変助かっています。まあ、それはともかく、その伝言ですが、神奈川の宿場にやはり不審な宿があったそうです。廃業していた宿が先月あたりに急に人が出入りし始めたと」
「怪しいね」
「でもあの女刺客が死んだ数日後には、その宿はもぬけの殻だった」
「じゃあ間違いないね」
 その時、マーガレットがずっと立ち話の二人を気遣い言葉をはさんだ。
「家ニ入リマショウ」
栗島が慌てて首を横に振る。
「いや、邪魔して悪かった。もう済んだよ。師匠、では先ほどの件をよろしくお願いします」
 馬に乗った栗島が思い出したようにマーガレットに言った。
「侍にはなれそうかい」
「ガンバリマス」
「マガレには何か固い決意があるらしく、ちょっとやそっとでは諦めないかもね」
 栗島が英語でマーガレットに話しかけた。
「何を言ったんだい」
当然ながら、映には全くわからない。
「武士道が人の道であるなら、武士以外の百姓や町人や異人でも実践できるはずだ、と言ったところですかね」
「栗島は頭がいいんだね」
「師匠、からかわないでください」
そう言い残して栗島は馬に乗って去っていった。

 数日後。
 あるお触書が高札に掲げられた。そこには、山手地区が外国人居留地に編入されることと、その地鎮祭が行われる日時である。その文面の中にそれとなく栗島の名前が出てくるようにしたのは、映の作戦である。映が考えて、栗島がそれを役所に進言をした。
 その高札を見た綱道が道場に戻るなり映を探す。
「母上、ははうえっ」
 映は道場で正座をし、愛刀助廣を傍らに瞑想していた。
「母上、よろしいでしょうか」
「綱道!」
老母が息子に鋭い視線を向ける。
「腹が減った」
 綱道は自分の用事を一瞬忘れた。
「母上が末を勝手に御前のところに行かせるからでしょう」
「違う。お前の炊事の段取りが悪いからだ」
「私にも仕事があるのです。この前は大量の魚を突然捌くことになるし」
「残った魚はどうした」
「粕漬けにしたり、みんなに配ったり」
「とにかく、早く飯にしておくれ」
「はいはいって・・いや、そうじゃなくて」
 映の顔が一層険しくなる。
「早く言いな」
「高札を見ました。御前の名前がありましたが、母上も関わっておられるのですか」
「ほんのわずかにな」
「また、刀を抜くようなことに?」
「まあ、斬るのは七、八人ってところだろう」
「多すぎます」
「門人には迷惑をかけないよ。私と末だけで。あ、あと蔵蔵にちょっと頼み事をするかもな」
 道場の入り口に立っていた綱道は、中に入り床に膝を付けた。
「この前の御前の護衛とはわけが違いますよ。お上にお任せするべきではありませんか」
「もちろん、お上は万全の体制を取るさ。それの手助けをするだけだよ」
「しかし・・・」
 言葉を続けようとする綱道に、映が右手の掌で抑える仕草をした。
「静かに!」
 二人はあたりの気配を伺う。
「どうやら、奴らが来たようだね」
「母上、松明の匂いです。火矢を撃ってくるかもしれません」
「よし、お前は半鐘に火消」
「心得ました」
 綱道が道場を出ていくと、映は助廣を腰に差し、立ち上がった。
「一人も逃がさないとあとが楽だけどね」
 その時、道場の茅葺き屋根に続けて三本の火矢が突き刺さった。そして、近くで半鐘が派手に鳴り始めた。
「ちっ。もう半鐘が鳴ってやがる」
黒装束の六人のうち首領らしき男があごをしゃくった。
「中を見てこい」
首領らしき男とその隣の男を残し、四人が門をくぐった。
 パチパチと茅葺き屋根に火が付くのを、腕を組んで眺めていた二人の後ろで声がした。
「私はここだよ」
 首領とその側近らしき男は慌てて後ろを向き身構えた。
「おのれ出たな国賊婆あ!」
「ほほう。殺しに強奪に火付けに強請り、悪党のなんでも屋に賊呼ばわりされてしまったか」
指折り数えながら浪士どもの悪事を映はあげつらった。
「ふん、大義のためにはそんなことは些細なことよ」
「些細だと?」
 その言葉に映が反応した。
 尊王攘夷などと大層なお題目を掲げてその灰色の正義を振りかざしながら、悪事の限りを尽くし庶民を苦しめている浪士どもへの怒りである。
 映は両の掌で自分の顔を覆った。まるで“いないいないばあっ!”をするように顔を隠し、再びゆっくりとその掌を下ろしていき顔が現れてきた。さっきとはまるで違った表情である。
 それは、全く感情のない、ただ目の前のものを獲物としてしか見ない猛禽類の目であった。
 抑揚のない低い声で映が言った。
「地獄へ行け」
 その時、手下の四人組が戻ってきて映を取り囲む。
「婆あを斬れ」
 周囲から迫ってきた四人。助廣を抜刀した映は全く後ろを見ずに背後の男の胸を刺し、抜きざまに大上段に振りかぶり正面の男を袈裟懸けに斬り下ろす。そのまま返す刀で右手の男の喉笛を水平に斬り、体を反転させ残る一人に向き直り、正面から切っ先で喉を貫いた。
 それは、ほんの数秒のできごとであった。
 言葉ひとつ発せず、間髪入れずに映は首領の懐に飛び込む。
 黒松の兵法は接近戦だ。助廣の刃は首領の首に触れた。
「ひっ」
 四人の一人目が刺されたときにすでに逃げ腰になっていた首領の隣にいた男は、首領の死を確認すると悲鳴をあげてあたふたと逃げようとした。
 助廣の刃先が逃げる男の顔をかすめる。刃は頭巾を切り裂き顔が現れた。
「お前、ばあ様の握り飯が好きな月代頭だね。やり直しなと言ったはずだが、これはいったいどういうことなんだい」
 その男は栗島を襲って失敗し、映に命乞いをした若い男。末の同朋である飴売り男の調べでは、名は暗堂玄次郎。
「助けてくれ」
 映に一度見逃してもらった男は、切り裂かれた頭巾を捨てて逃げて行った。
その頭巾を映が拾ったときに四方から多くの人が駆けつけてきた。
「みんな、道場が火事だぞ」
誰かの叫び声が聞こえる。

※ 要撃隊
 敵を待ち伏せして攻撃する隊。この場合は地鎮祭という式典を邪魔するために不逞浪士が襲ってくることを想定し、十分な備えを施して、逆にその浪士たちを退治しようと画策しているわけである。地鎮祭開催の情報を高札に記載し、世間に広めてそれを知った浪士どもを待ち伏せするというのが映と栗島の作戦である。

十四 三匹の庶民

 映が道場の床板の中央で大の字になって寝ている。犬の鳴き声がした。蔵蔵が外から声を張り上げる。
「師匠、福次を連れてきました」
門をくぐった蔵蔵と福次が同時に声を出す。ついでに犬も吠え立てる。
「わあ、何があったんです」
 道場の屋根の中央が焼けて無くなっている。
「蔵蔵、福次。今日はあったかいし、こうして青空を見ながらうつらうつらしていると極楽だよ」
「何を呑気なことを言っているんです」
「これからは青空道場だなあ」
仰向けで寝たまま応える映の声は寝ぼけ気味である。
「師匠、福次です。ご無沙汰しております」
大柄で髭が濃く、絵に描いたような山猟師である福次が大声で怒鳴る。
「来る道々、蔵蔵に様子を聞きました。これはもしかして、その不逞浪士の奴らの仕業ですかいの」
「相変わらず声がおおきいね。福次は」
「わしが行ってぶっ飛ばしてやりますぞ」
 むっくり上半身を起こした映がのんびりした口調で言う。
「うん。もう私が斬った」
「さすが師匠」
「でも、まだ終わりじゃない。だから福次にも手を貸してほしい。これで、蔵蔵と心太と福次の頼りになる三人の庶民が手を貸してくれることになったよ」
 黒松道場の門人はほとんど近隣の在であるが福次だけは違う。十年ほど前、京にいる映の叔父が病に倒れ、見舞いに行ったときに映が旅先から連れ帰ってきた。
 山で狩猟をしながら生計を立てていた福次は、金が必要になると峠超えの旅人を襲って金を巻き上げていた。命まで奪わなくても山刀でちょいと脅せば、ほとんどの旅人が金を置いて行った。
 そのときも福次は山の上から街道を見下ろし旅人を物色していたのである。そして、中仙道を江戸に向けて急ぐ映に目を付けた。
「二本差しだが、小兵だし、大丈夫だろう」
 そう考えた福次がニヤニヤ笑いながら映の前に立ちふさがる。
「おや、小さい男だと思っていたが、なんと婆さんじゃないか」
すでに勝ち誇ったようにからからと高笑いをして、福次は脅し文句を並べようとしたがその言葉は途中で途切れることになった。
「おい、婆さんよ。命が惜しかっ」
 言い終わらぬうちに映の腰間から抜かれた来國次がきらりと光った。
 福次の顔は勝ち誇ったまま、自慢の熊の毛皮から下帯まで真っ二つに切られていた。ちなみに、来國次は映の先祖伝来の太刀である。助廣は映自身が手に入れたものであるが、国次は受け継いだ物であるだけに、ゆくゆく綱道に渡さねばならない。なので旅には必ず持っていった。自分で持っていた方が安心なのである。
「あれ?」
何が起きたかわからぬまま、前をはだけさせて、慌てて両手で自分の体をまさぐる。傷ひとつついていない。
「ちょうどいい。私を背負って江戸まで行っておくれ。歩くのに飽きた」
一瞬で福次を服従させて楽をしようとする映であった。
「でもこの格好じゃあ」
「じゃあ、そこに落ちている朴葉でまたぐらを隠しな」
 それから、福次は山にある蔓で体に着物を括り付けて、映の荷物持ちとなり、江戸までついて行った。
 道中、何度か逃げようとしたが、そのたびに映に着物を切られて、結局、脱走は失敗し、一張羅の着物は暖簾のようになった。
 道場に着いてから、映が荷物持ちの駄賃と着物代として銭をくれた。そして、掃除や水汲みなど、末の手伝いをするようになった。
 あんまり居心地がいいので、蔵蔵宅の居候となり、黒松の門人として二年ほど過ごした。その間に映は、福次の獲物を買い取ってくれる店を探して、旅人を襲わなくても生活できるようにしてやった。
 つまり、福次にとって映は師匠でもあり恩人でもある。

 青空道場の中央で日の光を浴びながら三人で車座になっている。三頭の犬は道場の横にある竹につないでいる。
「師匠、まずは道場の再建が先です」
蔵蔵の意見具申はもっともだ。
「今、綱道が金策に出かけているが、あてになるかねえ」
「とりあえずの手当てだけでもしておきませんと」
「お勝手に私の使い古した番傘があるからそれでなんとかしておくれ」
「番傘では間に合いそうにありません」
蔵蔵の対応はいつも生真面目である。
「師匠、奴らをぶっ飛ばしてやりましょう」
「だから、私が斬ったんだって。ところで、福次。犬は火縄を嗅ぎ分けられるのかい」
「仕込めば大丈夫です」
 そのとき、奥から末が風呂敷包みを持って出てきた。
「お嬢さま。支度が整いました。福次さん、声が裏の畑にまで聞こえてきましたよ」
「末さん、ご無沙汰しておりました」
福次が正座をして改まった様子であいさつをした。
 映は末が抱える風呂敷包みに目を輝かせた。
「おお、牡丹餅が出来たかい」
「ちょっと作りすぎました」
「じゃあ、帰りに栗島に持って帰っておやり」
「はい、そうさせていただきます」
「じゃあ、行こうか。福次もおいで」
「え、師匠こんな時にどこへ行かれるのです?」
驚く蔵蔵に映が真顔になって言った。
「節句には、牡丹餅持参で物見遊山としたもんだよ」
「のんきすぎます」
「蔵蔵、番傘使っていいから後頼むよ」
 そして、開いた口がふさがらない蔵蔵を残して、映と末と福次と三頭の犬が出て行った。蔵蔵は開いた口がふさがらないまま、屋根の穴をふさぐはめになった。

 新しく居留地となる山手は、現居留地の堀を隔てて南側に位置する。山手から見ると東に海が広がり北に居留地、西から南に小高い山が広がる。
「末、どう思う」
「山側から狙ってくるのは間違いないでしょう」
「山に上がって見晴らしのいい場所を見ておくか」
「では、私が先に行って見てまいります」
末がその山に向かう。
映が福次に改めて状況を説明する。
「じゃあ、道場に火を放った奴らが、異人さんを鉄砲で撃つというのですかい」
「おそらく間違いない」
「そんな奴ら、わしがぶっ飛ばしてやります」
福次が息巻くと犬も吠えた。
「では、師匠。わしも下見をしておきます」
そう言って福次と犬たちも駆け出して行った。
 映がふと見ると路傍に大きな石がある。待っている間、映はその石に腰かけて、野草の生えている上で風呂敷包みを広げる。二段のお重には牡丹餅がたくさん並んでいた。
「ところで、映さん。まあ、空腹で死にそうだというわけでもないがね。何もせずに待っているだけというのも芸がない。この場合、牡丹餅を食べながら待つというのが極々自然なふるまいだと考えていいだろう。ね、そう思わないかい」
「賛成ですよ、映さん。末さんは食べながら待っていてください、というのを言い忘れたのに違いありませんことよ。ほほほ」
「せっかく末さんのできたて手作り牡丹餅が時間がたって固くなってしまっては申し開きもできないよね、映さん」
「もう全く同感ですわよ。映さん。と言ってもあんまりたくさん頂いては上品さに欠けますわ。なので、一個ずつ頂くというのはいかがかしら」
「なるほど。ではそうしよう」
 誰も見ていない中で、牡丹餅を食べる理由を自身に納得させるためだけのひとり芝居を演じた後、映はお重のふたを開けた。
「おお、お重の中だけにこれは重畳」
 風呂敷の中に一緒に入れてあった調度箱の中から、取り箸と木皿を出して、ひとつ木皿に盛り付けた。ツヤのあるあんこが光っている。映の腹がぐうと鳴った。
「いただきます」
一番大きな一個を半分に割って口に入れる。末の作るあんこは、甘さも練り加減もすべて映好みである。
「これは美味い」
 しばらくして、対岸の居留地から声がした。
「師匠!」
そちらに目をやると稽古着姿のマーガレットが手を振っていた。となりには何故か栗島もいる。
「やあ、マガレ」
映も手を振った。二人が橋を渡ってこちらに来た。
「マガレはともかく栗島は何故ここにいるんだい」
「師匠がこのあたりにいると思いましたので。師匠、また食べ過ぎですよ」
「何言っているんだい。まだ、八つ目だよ。あんたたちも食べな」
ひとり芝居のときは一個ずつという話であったが、すでに八つ目ということですでに大幅に振り切っている。
 マーガレットも興味津々である。元々日本文化に憧れを持つ彼女は、器用に箸を使い木皿にひとつ取って、少し口に入れた。
「ジャパニーズケイク」
彼女の口にもあったようである。
「格好をつけてないで栗島も食べな」
「いえ、結構です。空腹ではありませんので」
その返事を受けて映がマーガレットに言った。
「マガレ。この男のように武士にはやせ我慢する奴がいるが、そんなのは武士道とは何の関係もないからね」
栗島が抗議する。
「別にやせ我慢ではありません」
「これは末の手作りだ。あんたのこの牡丹餅に対する無礼な態度について末に報告しておくよ」
「わかりました。誤解を招くようなことは言わないでください。では、ひとつ頂戴いたします」
 三人で牡丹餅を食べているのを対岸の居留地を歩く異人が不思議そうな目で見ている。
「師匠は三度の食事の量は人並みなのになぜ、甘いものはそんなに召し上がるのでしょうね」
ひとつ食べ終わった栗島はもう満腹の表情である。
「三度の飯もこんなに食べていたら、それは食べすぎだよ」
何個目かもうわからない牡丹餅をまたひとつ摘まんだ映が言った。
「今のお応えは我々と量についての感覚は一致していますが、質問の返答としてはちょっとおかしいです」
「あんたは昔からどうでもいいことに引っかかる男だよねえ」
「それは認めます」
 そのとき、マーガレットが自信たっぷりに口を挟んだ。
「師匠ノスイーツハ、戦ウ力ニナッテイル」
「なるほど」
これは映と栗島が同時に発した言葉である。
「ところで師匠、下見ですか?」
懐から出した懐紙で口元をぬぐいながら栗島が言った。
「今、末と福次が見に行っている。直戻るだろうよ」
「福次というのは、ああ、山で猟師をしているという男ですね」
「今回の件で呼び寄せた助っ人だよ。で、あんたの用とは?」
「例の地鎮祭で式を行う場所に、簡易舞台を設置することにしました」
「舞台かい」
「はい、防御の策にも使えるかと」
「なるほど。悪くないね」
 そのとき、腰を下ろしていた、マーガレットが立ち上がって映に頭を下げた。
「師匠、手伝イヲサセテクダサイ」
さすがの映も驚く。
「いや、それはだめだ。危険だ」
「それなんですけどね」
そこに栗島が口を挟む。
「エゲレス側では式にマーガレットが出席するのが決定しているのです」
「なんだって。こんなおぼこ娘が出るような式ではないだろう」
「私もそう思います」
栗島も困ったような顔つきで言葉を続ける。
「お国柄とでも言いますか、そのような席には婦人が華やかな衣装で出席するのが自然なことのようで」
「そんなちゃらちゃらしている場合じゃないんだよ。やめさせな!」
「あちらさんは、自国の兵の警備に絶対の自信を持っているのです。覆すのは無理でしょう」
 映の目が急に険しくなった。
「栗島。それはマガレに何かあってもそれはエゲレスの警備の問題だと言いたいわけか?」
「そうは言っていません。しかし、日本側が意見できるようなことではないのです」
 二人の様子を見守るマーガレットは心配気である。映は腕を組んで目を閉じ沈思している。
「私に考えがあります」
しばらくして栗島が口を開いた。
「一応聞いておこう」
映は疑わしそうに栗島を見た。
「我々の中でその舞台上に登れるのはマーガレットだけです」
「まあ、そうだろうね」
「もし危険になったら、幕を下ろすのがいいと思っています」
「幕って?」
「それをマーガレットにやってもらうのです」
「師匠、大丈夫、ヤラセテクダサイ」

十四 馬子にも兜

 道場の神棚を背に座っている映。その映の左隣に座っているのが綱道。二人に向かい合って奥から蔵蔵、福次、心太。少し離れたところ、入り口にいるのが末である。ついでに、映の膝の上には猫がいる。
 全員が物も言わずに凝視しているのが五つの同じ鎖帷子と五つの兜。問題は兜だ。
「あんたたち、子どもじゃないんだからね。兜の色や形なんてなんだっていいだろう」
 うんざりしたように言って映が天を仰ぐ。目線の先は油紙と番傘と板の切れ端で補修した屋根である。
「母上、そうはまいりません。我々も命がけで戦うのです」
 三嶋屋曰く、兜をそろえるのは至難の業、だそうですべて形がバラバラなのだ。
 一つめは前のみ帽子のつばがあり両側頭部と後ろに鎖帷子のような覆いのあるもの。新選組隊士が身に着けているものを思い出していただきたい。できればすべてこれに統一したかったのだが、それができなかった。
 二つめは西洋の銀色兜で頭頂部が尖っていて顔全面も覆われている。目の部分が格子状になっているので見えなくはないのだが視界が極端に狭い。
 三つめは日本の兜ではあるのだが、それは源平時代のものだった。大鎧を身に着けていれば様になるのかもしれなかったが、着衣下の鎖帷子の上に着るのは、当然みんな普段着つまり野良着か稽古着なのである。
 四つめも日本の戦国時代の兜である。当時、それぞれの武将が敵を威圧するために個性豊かに意匠をこらした。この兜もそのひとつと言っていいだろう。しかし、多少趣味が変わっていた。頭頂部に一本の草花が咲いていた。もちろん、鉄の草花だ。形からするとアヤメだろうか。一般人から見ると、実に間抜けな印象を受ける。
 五つめにいたっては、どこからどう見ても深手の鉄鍋であった。ここに、これを見たときの映の反応を記載しておきたい。
「おい、こら三嶋屋。これは、あんたのところの使い古しの鉄鍋だろう」
「めめめ、滅相もございません。これは天竺より伝わった兜でございます」
「私をからかっているんじゃないだろうね」
「当然です。私は映さまの怖さは誰よりも存じております」
 映が腰の井上真改の鯉口を切った。
「昔、隣の婆さんが作った饅頭を、つい老舗の塩瀬饅頭だと言って映さまにばれてお叱りを受けて以来、決して映さまに嘘はつかないと誓ったのです」
 少し間をおいて、疑わしそうな表情のまま映は刀をおさめた。

「最初に確認しますが、この五つの兜と鎖帷子は誰のものなんです」
口火を切ったのは綱道である。綱道はあの火付けの事件以来、この映が関わっている件に自ら首を突っ込むようになっていた。
「綱道と蔵蔵、心太と福次。そして末だよ」
「私の分というのは、本当は母上のものではないのですか」
「私はいらない」
「しかし・・・」
「じゃあ、わしがこの鍋をもらいます」
そう言ったのは福次である。五つめに紹介した、まさしく古びた鍋としか思えない兜を福次は指さした。
「これでやっと鍋で煮炊きができます」
映がきょとんとした顔で福次を見た。つまり、兜としてではなく、鍋として使用するのが目的のようだ。
「あんた鍋を持ってないのかい」
「わしはいつも石の窪みに水を張ってそこに焼いた石を入れています」
「大昔の私たちのご先祖だって土の器で煮炊きしていたんだよ」
「ということは、わしは一気に数千年進化したわけですね。わははは」
 大喜びの福次であった。
 時代感覚が違いすぎる福次を放置し、次に映が声をかけたのは心太である。
「この中で私の身内でないのは心太だけだ。あんた、先に選びな」
「じゃあ、これにします」
 心太は若者らしく即決する。それは西洋の兜であった。
「これかっこいいですよね」
「船を操るのに支障はないかい」
「表面のここのところが上げ下ろしできますね。ここを上に上げれば視界がよくなりますよ」
「じゃあ決まり。末はこれにしな」
映が末に勧めたのは一つめの一番まともな兜である。
「私は最後で結構です」
末は遠慮がちに言った。
「この作戦の軍師は私だ。末にはかなり重い持ち場を担当してもらう。だから、せめて動きやすい兜にしておくれ」
「末、母上の言うとおりだ」
綱道も賛同し、ようやく末も納得した。
「よし、これで決まったな」
「師匠、私はまだ決まっていません」
蔵蔵と綱道が声をあげた。
「そうです。母上」
「あとは、あんたたちで勝手に決めな。どうでもいいことに他人を巻き込むんじゃないよ」
 映は一喝して二人を黙らせてしまう。
 全員の顔を見回したあと映が座の中央に絵図面を開いた。地鎮祭のある山手を中心とした映の手描き地図である。
「今から細かな説明をする。その前に言っておくが、あんたたち全員の役割は奴らを追い立てる、戦力を奪う、このふたつだけだ」
 心太が固唾をのんで見守る中、映が膝の上にいる猫の顔をのぞきこみ、背を撫でながら言葉を続けた。
「斬るのは私がやる」

 地鎮祭の前夜。栗島が映の部屋を訪問した。末も同行しているが来るなりお勝手に消えた。
「舞台のほうはいかがですか?」
「今日、私も確認したけどね。さすが蔵蔵、ばっちりだ」
 いつものように炬燵に少しでも体を入れるために映は小さく丸まっている。日中はだいぶん暖かくなってきたが、夜はまだ肌寒い。
「師匠、奴らは来ると思いますか?」
「まず、間違いない」
「根拠がありそうですね」
「もちろんだ。これでもいろいろ情報を集めているのさ」
「末さんが動いていたのですか?」
「ああ、末もだが、江戸の木場に末の同郷の仲間がいてね。銭を出して手伝ってもらった」
末の仲間とは飴売りの男である。
「どこに目をつけたのでしょう」
「ある藩邸を見張っていた」
 栗島は映の返答が予想できたのか目を閉じて言った。
「動きがあったのですね」
「あきらかに不穏な連中が集まっている」
「人数は」
「二十人かな」
「なんと」
目をくわっと見開いて栗島が言う。
「大丈夫ですか?」
「まあ、不安材料は、無駄に頭の回転が速い、どんくさい男がいることかな」
「それはきっと私のことなんでしょうね」
「おや、遠回しに言ったのに」
「いえ、真正面からの打ち込みでした」
苦笑いする栗島であった。
「ところで、今回の作戦の人員配置はなかなか見事ですな」
「適材適所。人を使うときの最重要項目だ」
「なるほど」
「戦いの現場に利口な男は不向きだ。目端の利くようなやつは、敵を目の前にするとすぐに逃げることとその理由づけだけに頭を使う」
「みんな利口な人ではないと・・・」
「私の言う利口は悪口でね。綱道と末は武芸の心得があるから別として、他の三人は普通の庶民とはいえ、自然相手に、心を砕き体を張って、必死で生きてきた奴らだ。性根がある」
「確かに、里の男、山の男、海の男ですね」
「つまり、民だ。民の力で日々の平穏を取り戻す」
「なるほど、新しい世ではやはり戦いの場面でも民の力が必要なのかもしれません」
栗島は感心したように言った。
「明日、私は舞台には上がりませんが傍にいます。師匠もその近くにおられるということで良いのですね」
「ああ、この前、あんたに借りた遠眼鏡で敵を探す。何かあればマガレに合図を送り、あんたは日本側の避難の先導だ」
「承知しました。エゲレス側の警備責任者には十分に説明をしています。念のために申し上げておきますが、彼らはよほどのことが無い限り、敵には手を出さないと言っています」
「それでいい」
 その時、部屋の外で末の声がした。
「お嬢さま。お汁粉ができました」
「お、それはありがたい。末も一緒に食べよう」
躙り口を開け、末がお盆を置く。鉄の小鍋とお椀が三つ。小皿に盛った漬物もある。
 末が部屋に入ってきたので、猫が映の後ろに隠れた。
映は末がよそった椀に早速箸をつける。甘く炊いた小豆の香りが立ち込めている。
「栗島、奴らの黒幕を斬るというのはどうだい」
栗島は左手で持った椀を口に運ぶ途中で動きを止めた。
「黒幕ですか?」
「あんたも見当をつけているんだろう」
 末は我関せずといった調子で黙々と汁粉を口にしている。
「おそらく、師匠が考えておられる黒幕と私の見当は一致しているでしょう。しかし、その黒幕を倒しても解決になりません」
「なぜだい」
 空になった映のお椀に末が二杯目をよそう。
「つまり、時勢ということです」
「どういうことだ?」
「黒幕を斬っても第二第三の黒幕が出てきます。残念ながら時勢は向こうにあります」
 映は納得のいかない表情で末に空のお椀を差し出す。
「もう、悪者を成敗するという段階ではありません。敵の正体は、この国の形を大きく変えようとする動きそのものなのです」
「しかし、大義があれば何をしてもいいわけではないだろう」
「もちろんです。しかし、時代を変えようとする者はどんな禁じ手でも使ってきます。まつりごとを担うものはそれを真正面に受け止めるしかないのです」
 末が映に言う。
「御かわりはこれが最後です」
 映は最後の汁粉を口に運びながら独りごとを言った。
「武士の道を大きく踏み外した奴らの天下になるのか。やだねえ」
「それも時勢です」
栗島にはそのことがとっくの昔にわかっていたようである。
「あんた、昔から知っていたような言い方するね」
「長崎にいたころに気が付きました」
「長崎?」
栗島は幕命で赴いた長崎での話をし始めた。

十五 長崎カステイラ

 鎖国時代の唯一の玄関口、長崎。
 幕府直轄の長崎奉行がおかれ、清国やオランダとの交易にも目を光らせていた。栗島が現役のお役目を預かっていたころ、日本近海に頻繁に外国船が出没し、ときに狼藉を働くなど、看過できない状況が続いていた。
 栗島は異国に関する情報を得るため、長期の長崎出張を幕閣に命じられたのである。当時、長崎には蘭学を志す者が多く集まり、各藩を代表する秀才が競いあって勉学に励んでいた。そのほとんどが、異国の技術に目を向けていた。武器や船、その元になる鉄を溶かす反射炉などである。
 しかし、栗島が注目していたのは別のことだった。
 つまり、それらの革新的技術を次々と生み出すには、それにふさわしい土壌があるはずだと考えたのである。法律であったり、国家の成り立ちであったり、財政のことであったり、栗島は可能なかぎりの書を集め、読み、オランダ人に質問をした。
 それを続けていくうちに見えてきたことがあった。現代で言うところの資本主義の姿であり、それに邁進する国家がどういうものかということである。
 そして、いつまでも鎖国をしていてはとんでもないことになる、という確信を持った。
 ときには、各藩から派遣されている秀才たちとの交流もあった。
「即刻、開国すべきです」
 栗島が幕府の役人であることを知っている者は、そう言って、詰め寄った。もちろん、栗島も同感であるが、慎重な栗島は安易に同調したりしない。自分の役目は純粋な私個人に命じられたものではない。先祖代々、幕府の役人として職務を忠実に勤め上げてきた栗島家が受けたものであり、たまたま、その時代に自分がいただけのことである。
 実際には、勉強家であり、役人としての力量であり、新しい動きに対応できる柔軟な能力などを認められた、栗島個人への役目であったが、その職務を厳粛な気持ちで拝命した栗島にとっては、自分の家を意識するのは仕方のないことであった。
 当然、軽率な行動は慎まなければならない。
「鎖国をしているからこそ、我々がこの長崎の地で努力をしていることに意味があるのですよ」
などと言って感情的になる他藩の者をなだめたりしていた。
 現に開国を支持するような文章を書き、それが災いとなって幕政批判をした罪として牢に入れられた者がいるという話もあった。旗本である栗島にとっては鎖国批判などもってのほかであるし、他の藩の秀才たちへも滅多なことを言うべきではないと穏やかに諭したりもした。彼らはみな将来有望な若者であり、つまらないことを口にして活躍の機会を失うことはこの国のためにも良くないと考えたのである。
 他藩の者との交流があるとはいえ、堅物の栗島は、もちろん、丸山の遊郭に足を踏み入れたりなどしない。ひたすら、書を探し、書を読み、辞書を引き、文章を書く毎日である。そんな栗島の唯一の楽しみは甘いもの、長崎で売られている南蛮渡来の菓子カステイラ(※)であった。
「師匠の土産にしよう」
甘いものに目がない映にはもってこいの土産である。ふんわりとした触感にちょうどいい甘さ、食べごたえがあるので、他の菓子とは満足感が違う。勉強で疲れた頭にはとてもよい栄養補給であった。
 店で訊くと材料は小麦粉、鶏卵、砂糖、水あめだそうで比較的身近な食材でこんなおいしいものができるのかと考え、いたずらに想像を膨らませてみる。わしも役人などやめて、商いでもするか。素材は国内でも調達できるが、もともと南蛮渡来の菓子である。異国なら大量に生産されており、異国に行けば材料も安く手に入るはずだ。海外から材料を輸入し日本で製造販売する。日本であれば珍しい高級菓子として高値で売れる。これは大儲けできるのでは?
 そんなたわいのない空想から、異国の商人が危険をかえりみず船で未知の国へ進出する気持ちを実感した。すべては利のためである。
 もうひとつ栗島が忘れられないのは、当時、出島にいたオランダ人である。彼は通商相手のオランダ側の代表であり、対長崎奉行所の窓口的存在であった。わからないことがあると、日本語が堪能なこのオランダ人に教えてもらった。
「オランダ以外の国は危険です」
このオランダ人は栗島によくそう言った。
「彼らはいずれ、日本に大挙してやってきます。どんな無理を言ってくるかわかりません」
 彼の言葉が本国からの指示によるものか、武器を売りつけようという商人としての言葉か、はたまた親切心なのか、今となってはわからない。しかし、その強い説得力は栗島の心を揺さぶったのは間違いない。
「どうしたらいい?」
必死の形相で訴える栗島にオランダ人は応える。
「武装して強くなればいいのです。相手よりも強くなるのは難しい。でも抵抗する力があるだけでも全く違う。相手は楽をして利益を得たいのです。武装する相手との戦いは極力避けるでしょう」
 日本各地の大藩が秀才を長崎に派遣し、船や武器を作らせようとするのも、この危機意識によるものである。
 栗島は幕府に提出する報告書に異国の状況や各藩の動き、国防の必要性、開国ならずとも異国に学ぶべき姿勢の重要性について書き上げて提出したが、結局、その意見書が実を結ぶことはなかった。保守的な考えを持つ連中から、目の敵にされて、栗島への誹謗中傷が巻き起こり、閑職に追いやられてしまうのである。
 これについては、意見書の提出時に覚悟していたことであり、随分と不愉快な想いもしたが、甘んじて受け入れた。そして、隠居の身になってから、活躍の場を与えられることになる。
 落ち着いた静かな口調で話し終えて、栗島が茶を一口飲み言った。
「そのときの経験が今の私を動かしています・・・師匠、寝ないでください」
 その言葉に映がはっと目覚める。
「栗島、カステイラは?」
 栗島の思い出話の中で、カステイラのくだりでうつらうつらとし始め、夢の中でカステイラを食べ損なったらしい。

※ カステイラ
 長崎にカステラが伝わったのは天正年間(1573~92年)という。今も長崎にはカステラの店が多く全国的に有名な老舗店もある。かの坂本龍馬がカステラを作っていたのでは?という話もあり、数ある南蛮渡来の菓子の中で最も日本に定着した菓子のひとつがカステラだと言ってもよいだろう。龍馬がカステラでひと儲けしようとしたかどうか定かではないが、そう考えるとちょっと面白い。

十六 舞台の幕あけ

 その日は快晴であった。初春の透き通るような青空だ。
「これならよく見える」
映は喜んだ。
 現地には映ひとりで乗り込んだ。居留地の貸し馬屋に馬を預け、橋を渡る。
舞台はすでに整っている。そこに見慣れた野良着が見えた。
「何しているんだい、蔵蔵」
「おはようございます。仕掛けの最終点検です」
「さすがに蔵蔵だ。念がいっているよ」
「はい。いつでも大丈夫です」
「雨を心配していたんだけど、お天道様が味方してくれたよ」
「何よりです。しかし、私の仕掛けは雨でも大丈夫です」
「仕掛けってあんたのふんどしにする布だろ」
「違います。安物ですが新しい布です」
「福次は?」
「もう位置に着いております」
「じゃあ、私たちは少し離れたところにいるよ。ここに来る、栗島以外の日本人は民を見下したような奴らばかりだからね」
 映と蔵蔵は居留地へ渡る橋近くの見晴らしのいい場所に陣取った。早速、遠眼鏡を出してみる。
「これで探すのは無理だねえ。拡大しすぎてどこを見ているのかわからない」
しばらく覗いていた映が言う。蔵蔵は心配気である。
「大丈夫ですか?」
「肉眼で探して、何か見えたらこれで確認するのがいいようだ」
遠眼鏡探索の予行演習に余念がない映であった。

 舞台の上では出席者が集まりつつあった。
 ちらりと映が視線を向けると菜の花のような鮮やかな黄色が目に入った。クリノリンスタイル(※)のドレス姿のマーガレットである。頭にはボンネット(※)も身に着けている。お古を仕立て直した、末お手製のいつもの稽古着とはまるで違う。
 彼女が映に気がつき手を振った。映も左手を挙げてそれに応じる。マーガレットも緊張はしていないようだ。
 蔵蔵は狼煙の準備を終え、映のように敵をいち早く見つけるために、ずっと監視を続けている。
 舞台上の人を狙うとしたら、当時の銃ではかなり接近しないと無理である。そうなると自ずと場所は特定されてくる。しかし、防御側も多くの人を避難させ、離れた場所にいる綱道や末や福次に狼煙で合図を送ることを考えると、できるだけ早く敵を見つけてその動きを把握する必要があった。
 下見の時、敵がどこから来るか、そのことだけを考えていた映である。そして、ほとんど確信を持ってその場所を特定していた。
 地鎮祭は始まっているようだ。神主の祝詞が聞こえてくるが、映の視線は相変わらず山の方に向けたままだ。そしてその時、山の中腹あたりの木々が不自然に揺れた。
遠眼鏡でその場所を確認する。間違いない。あきらかに複数の人間が動いている気配だ。
「蔵蔵、狼煙だ。作戦決行」
 敵がいるあたりから、舞台を狙撃できる射程距離まではまだ距離がある。映は落ち着いて舞台近くにいる栗島のところへ行こうとした。
 その時である。
 映が念のためにもう一度、敵のいる方向へ視線をやった。
 すると、想定していた射程距離よりもはるかに遠いところから銃を構える姿が映の目に入った。
咄嗟に映が叫ぶ。
「マガレ、引けええい」
 狙撃手が持っていた銃は映が考えていたものよりはるかに性能の良い最新式の銃だった。この当時、入れ替わり立ち替わり、より新しい型の銃が異国からもたらされていた。世界の銃が、旧式のものからだんだんと新式のものに変化しながら内乱寸前の日本に売られていたのである。
 師匠の声を聞いたマーガレットは敏感に反応した。
 椅子に座っていた彼女は神妙にしている関係者の中突然立ち上がり、蔵蔵に予め教えられていた引綱に駆け寄り、思いっきり引いた。
 長方形の舞台四隅に立てられた柱にはその天側の先端で水平に渡された柱でつながっている。この長辺短辺それぞれ二本ずつの柱からくるくると巻かれた白い布が幕のように一瞬で降りてきた。
 蔵蔵の仕掛けである。もちろん布なので発射された弾を防ぐわけではない。しかし、その布が狙撃手の視界を妨げ、狙うことができない。
「全員、舞台上へ!」
栗島の声が鋭く響く。
 その時、銃声が響き渡ったが弾は空を切っただけだった。英国の警備兵が舞台を取り囲み、銃声がした方に向けて銃を構えた。
「蔵蔵、じゃあ行くよ」
逃げて行く狙撃手を目で追いながら映が言う。
「はい。では手はずどおりに」

※ クリノリンスタイル
 当時、欧米で流行したスカートを大きくみせるファッションスタイル。そのドレスは華やかさと時代性において注目すべきものがある。
※ ボンネット
 これも当時欧米の婦人が身に着けていた帽子。クリノリンスタイルのドレスとくれば、イメージ的にやはりボンネットも必須である。

十七 戦う者たち

 狼煙の合図を見た福次は、犬を追いながら走っていた。狼煙は一本だけ上昇していた。それは、おおよその敵の位置が、想定していた場所であることを意味している。もしも、違う場所の場合は、甲地区が二本、乙地区三本の狼煙が上がると申し合わせをしていたわけだ。絵地図を見ながら皆で映の説明を聞きつつ、入念な打ち合わせをしているので問題はない。
 任務は、山中にいる賊を北から追い立て南側へ移動させること。南は海である。地鎮祭が行われていた東側には英国兵の警備隊がいるから、そこに行くことはない。西側は高くないとは言え山越えだ。それに、福次特製の罠を仕掛けて綱道が待っている。
 福次本業の狩猟は罠を用いる。しかし、仲間に火縄銃を持っている者もいる。協力して猟をすることもあるので、福次の犬も火縄の匂いには慣れている。
「奴らは火縄も持っていると思うんだけどね」
 映はマーガレットを狙った女刺客が紀州に縁があることを知り、根来衆にゆかりがある者が関わっていると考えた。紀州の根来、雑賀といえば鉄砲の傭兵集団として有名である。太平の江戸期には鳴りを潜めていたとはいえ、その技術が受け継がれ、この幕末の動乱に利用される可能性も十分考えられた。
 しかし、犬たちの反応を見ると火縄では無いよう思われた。その場合にと映から預かったものがある。道場に火矢を射ち込まれたときに賊が残していった頭巾である。それを犬たちに嗅がせる。すると、犬たちがけたたましく吠えながら、俄然勢いよく走りだしたのである。
 福次は鍋の鉄兜を棍棒でガンガン叩きながら、大声を上げる。
「おのれ、不逞浪士め。わしがぶっ飛ばしてやるぞい」

 綱道は西側にある見晴らしの良い山の尾根で腕を組み、東の空を見ていた。合図の狼煙である。
「いよいよだな」
 任務は敵を南に追いやること。山中にも道はある。そこに福次特性の罠を仕掛けてある。網を木々の間に張り巡らし、触れるとカタカタと音が鳴るように木片を吊り下げている。おまけに、小枝や生木を燻し、煙をなびかせて、人が多くいるように見せかけている。奴らには銃もあるようだが、山中ではその威力も半減する。
 あの、道場焼き討ちの一件により、母である映が心配で、それ以来積極的に関わってきた綱道であるが、それはあくまで表向きの理由であった。
「おのれ、不逞浪士め、わしの道場に火を付けおって、許さん」
穴のあいた屋根の修繕のために金策に駆け回った綱道であったが、金は全然集まっていない。元々、黒松道場の門人は下級武士や庶民がほとんどである。頼りの栗島は、映が軍資金として大金をせしめたところだし、三嶋屋はぶつぶつ言いながら二朱銀を一枚くれた。
 しかたがないので門人ひとりひとりに事情を話して、わずかな銭でも集めようと思って駆けずり回った。成果は銭が二十三文と米三合、干し大根と山菜だけである。
「わしは托鉢をしていたんじゃないぞ」
 当然、その怒りは下手人どもに向けられた。
「感情に振り回されるのはお前の悪い癖」
昔から映に厳しく言われている。
「無我の境地ならいいがお前のは忘我、我を忘れているだけだ」
「力みすぎているから、私に躱されたあとの体勢がぐらついているんだ」
「あんたは脇が甘いが懐は深いね」
 道場師範でありながら、先代の映には全く歯が立たず、人柄だけで師範になったと言われ、わがまま気ままな母にいつも振り回され・・・。
「ふ、ふざけるなあ」
 綱道は山の尾根で絶叫した。その怒りの元凶は、もちろんこの山の中にいる下手人であるが、脳裏に現れるのは映の言葉ばかりである。積年の母への鬱屈した感情を自分でも気がついているが、もう一人の自分がそれを認めようとしない。母であり師であり超えられない壁である映には従順でなければならない。
 しかし、その憤懣は消えてくれない。今、その怒りをぶつける敵が眼下にいる。
「全員、半殺しだ」
綱道は再び大声で叫ぶ。

 道場というのは大工仕事がつきものである。若者たちが竹刀や木刀を持って大暴れするのだ。床や板塀に傷がつくのは日常で、ときには穴があいたりもする。
「蔵蔵、頼むよ」
 昔から映にそう言われて、いそいそと働いてきた。得意の大工仕事でみんなの役に立つことができて純粋に嬉しかった。
 大工に頼めば銭もかかる。木材も手近にあるもので間に合わせ、蔵蔵は素人ながら器用に修繕をした。黒松道場の営繕担当というわけである。百姓仕事には大工仕事に近い作業も多くあるが、蔵蔵は百姓仲間の間でも器用な男だと噂されていた。
 そんな蔵蔵には愛用の七つ道具がある。ノミやカンナ、手斧に鎌、カナヅチと木槌そして鍬である。狙撃を防ぐ目隠しを、舞台に取り付けたときにこの道具が必要だった。当日の今日も補修の可能性があるので七つ道具を持ってきている。
 大八車を引きながら蔵蔵は緊張している。なんせ、これから浪士どもと戦うのだ。百姓ながら強くなりたいと思い、道場に通うようになった。剣の腕は全く上達しなかったが、居心地がたまらなく良くて、師匠である映が何かと頼りにしてくれるのが嬉しくて、暇さえあれば道場に顔を出している。
 大八車の上にあるのは愛用の七つ道具、頭頂部に一輪の花が咲いている兜、そして映が座っている。
「師匠、さっきから何を食べているんですか」
前を向いたまま蔵蔵が尋ねる。
「かりんとう。あんたも食べるかい」
「いえ、結構です」
後ろから映が美味そうに飲む水の音が聞こえてきた。
 強くなりたいと思ったのには理由がある。少年のときに浪人に言いがかりをつけられて足蹴にされた。このときの悔しさは何十年たっても消えてくれない。今もその浪人を見つけたらただじゃ済まさないと思っている。
 初めて道場に行ったとき、当時師範代だった映に動機を尋ねられて、その気持ちを正直に伝えた。
「いいかい。身体を鍛えることで心を鍛えるんだ」
 道場で稽古を続けていくうちに映の言葉が理解できてきた。それも頭ではなく身体が理解したような感じだった。つまり、考えてようやくわかったのではなく、身体が逞しくなることで自信がつき心が強くなった、ということなのだろう。しかし、元々戦闘的な性格ではないためか、剣の道に没頭することはなかった。
 今も師匠の役に立ちたいという想いだけでこの危険な場所に来ている。
「このあたりでいいだろう」
映の声がした。
 そこは、山の手の一番南端。山の緑はそこで途切れ、目の前には海が広がっており砂浜である。潮の香が鼻をくすぐった。白波が立つ海の沖で漁師が小船に乗って網を引いていた。
 今からこのきれいな砂浜でのんびりできたらどんなにいいか、蔵蔵はついそんなことを考えてしまう。
「様子を見てまいりましょうか?」
「いや。もう直に来る。福次の犬の鳴き声がする」
断定的に映が言った。

十八 絶対ダメ、攘夷

 映の目にも蔵蔵の目にもあきらかに山の木々が揺れるのが見えた。そして、その時銃声が響いた。大八車の車輪に弾が当たった。
 山から二十人ほどの一隊が下りてきた。銃を構えながら歩く男が五人いる。
「婆あ、今日こそは思い知らせてやるぞ」
「やっぱりあんたかい」
 先頭にいるのは、栗島暗殺に失敗し、映に命乞いをしたくせに、別の首領をいだき黒松道場を襲撃したあの月代頭の若い男である。
「夷敵を討ち損じてここに追い込まれたと思われるのは心外ですなあ。これは、全く予定の動きでね。おれたちの狙いは、婆あ、お前だ」
 映は大八車の上で座ったままである。そして、例の花咲き兜を蔵蔵に渡しながら、手で下がれという仕草をした。蔵蔵は黙って兜をかぶり、大八車の後ろに下がり身を屈めた 。
「暗堂玄次郎さんというらしいね」
 映の声に暗堂の足がおよそ十間の間を隔てて止まった。五人の銃がずっと映を狙っている。
「大きな藩で家柄も良く、おまけに藩校一優秀だったとか」
「なぜ知っている?」
暗堂の顔は青ざめている。
「あんたが雇った女刺客、あれは根来にゆかりがある者だろう。そして、しばらく前から根来がある大藩とつながっているという噂があった。そこで、その藩の江戸屋敷を見張っていたら大当たり」
「ふざけおって」
「見張りを頼むときに、坊っちゃん顔の癖に偉そうな奴って説明したらすぐにわかったよ」
「うるさい。死ねい」
暗堂は気弱な者が、絶対大丈夫という環境に身を置く時に矢鱈発する勝ち誇った感をひけらかしながら叫んだ。
 続けざまに五発の銃声が鳴り響いた。
 大八車は長方形の荷台、長辺の中央に車輪がある。車輪を軸にしてシーソーのように前か後のどちらかが地に着き他方は上に上がっている。
 映は中央のあたりで座ったまま敵と話をしていた。その時は引き柄のある前が地に着いていた。暗堂の「死ねい」という言葉とともに、映は素早く身体を反らし、重心を後へ置きつつ仰向けになった。大八車の前が上にあがり後が地に着いた。
 五発の銃弾は大八車の前部分と荷台の裏に命中した。
 仰向けの姿勢から、両ひざを両腕で抱えるようにしつつ、そのまま後に後転した映は大八車に身を隠しつつ、戦闘態勢を取り、小柄を投げようとしたその時である。
「やめなさい」
大声を出しながら馬に乗って現れたのは栗島であった。栗島は颯爽と登場し、馬からひらりと降りて、大八車の柄に手綱を巻いた。再び銃を構える敵にも怯むことなく立ち向かう姿は燦然と日の光を浴びて輝いていた。
「言っておくが、私が合図をすれば町方が来ることになっている。君たちには大望があるのだろう。逃げた方がいい」
暗堂がせせら笑う。
「あの世におくりたい奴がもうひとり来たぞ」
「優秀な君なら分かっているはずだ。もう異人を排除することは不可能だ」
「やかましい。弱腰旗本め」
「弱腰?粘り腰と言ってほしいね。今、本当に大切なのは異国に対して、粘り強く、どこまでも粘り強く、あきらめずに交渉することだ」
「笑わせるな。今の幕府に任せていては、気がついたときには国を乗っ取られてしまうだけだ」
「確かに、今の幕閣たちは国を導くどころか世の風向きを見て、優勢な方に顔を向けるしか能がない奴らかもしれん。この先、国の在り方を変えるのも必要だろう。しかし、攘夷は無理だ。それこそ国を亡ぼすことになるぞ」
「有史以来、幾度となくあった夷狄の侵略をこの国は防いできた。今度も我らの手で断固異人を打ち払う」
「彼らはいきなり蹂躙しようとしているわけではない。目的は利益であって領土ではない」
「だが、大砲の力で交渉を有利に運ぼうとしているではないか。幕府はその程度の脅しにいとも簡単に屈している」
「大砲は単なる脅しにすぎん。それに屈しているのではなく、交渉しつつ状況を見て折り合いをつけているだけだ。だが、異人を傷つければ、それを口実に本当に武力行使に出てくるぞ」
「そのときは命をかけて戦うまでよ」
「君の安っぽい命では償えない犠牲が出るんだよ。苦しむのは庶民だ」
「庶民だと。攘夷はお上のご意向だ」
 栗島は大きく息を吸って大喝した。
「うぬは、何もわかっとらん!」
その迫力に元々気の弱い暗堂は心身ともにびくつかせた。
「我らは屈服するのではない。諸外国の奴らも一枚岩ではない。それぞれと付かず離れずを繰り返し、その間にあらゆる力を蓄え、奴らと渡り合えるようにするのだ」
 暗堂は自分の味方の兵が銃を構えていることに改めて気づき、一瞬でも怯んだ自分に腹を立てて激昂する。
「黙れ。幕府の犬め。おれは必ず攘夷を決行し、そのあと、永年わが藩を侮辱してきた幕府を倒す」
「説得は無理のようだ」
かぶりをふりながら栗島はあきらめ顔になった。
「師匠、話してわからせようとしましたが無駄なようです」
栗島は敵から目をそらさずに映に言った。
「栗島。じゃあ、あと頼む」
映がそう言って、栗島が乗ってきた馬の手綱をほどき、ひらりと乗った。
「え?」
「今のあんたの気迫は見事だった。その気概でなんとかしておくれ」
「ど、どちらへ?」
「かりんとう食べて水飲んでいたら、はばかりに行きたくなった」
「かりんとうではばかり?そ、そんな・・・」
「年寄りだからね、はばかりが近い。いやあ、それにしてもさっきの栗島は迫力があった。あんた、なかなか見どころのある年寄りだね」
「しかし、師匠。この局面で任せるといわれても・・・」
「いやいや皆まで言うな栗島。私のような女を連れて討ち死にするのは恥だと言うのだろう。まるで木曽義仲(※)さまと同じではないか。永いつきあいだが、こんな優しい男とは思わなかったよ。じゃあ、そういうことで」
そして、映は敵の様子をちらりと見て、馬を走らせようとした。
「撃て!」
暗堂が叫ぶのと、蔵蔵が栗島を突き飛ばすのと、映が馬から飛び降りるのとそれらが同時に起きた。そして、もうひとつ。
 海上から矢が飛んできて、五人の狙撃手の腕に次々と刺さった。弾を発射したのは二人だけでそれも大きく的を外すことになった。いつのまにか浜の近くまできていたのは漁師の小船。そこで、半弓を撃っているのは末である。櫓を操っているのは心太であった。半弓は大弓ほどの威力はないが、連射には向いている。心太は偽装用の網をいつの間にか片付けて、銃に狙われるのを警戒しながら、腰を屈めて小船を漕いでいた。
 映は弾を避けるために地面に飛び降りたが、再び乗馬し走り去って行った。それを見届けた末が叫ぶ。
「心太、下がって」
「あいよお」
小船は再び沖に向かって行った。
 銃を持っていない巨漢の不逞浪士が抜刀して栗島と蔵蔵に襲いかかってきた。蔵蔵は腰の刀を抜き、栗島をかばいつつ応戦するが、力の差は歴然としていた。たちまち刀を弾き飛ばされてしまう。蔵蔵が後ずさりをして大八車の上で仰向けに倒れた。止めを差そうとする巨漢に栗島が抜刀して斬りかかる。割れ鐘のような声で叫びながら巨漢が栗島の刀を受け止め右手に払う。
「腰抜けが」
地面に尻餅をついた栗島に巨漢がゆっくりと迫る。
その時、また再び海上から矢が飛んできた。巨漢は次々と飛んでくる矢を刀で払い落
す。巨漢以外の浪士たちも剣で矢を防ぐのに必死である。
「ああ、鬱陶しい、あの弓遣いをだれかなんとかしろ!」
巨漢がイラついて叫ぶ。
 小船が留まっているときは心太も、櫓を身体全体で支えながら、末の見様見真似で半弓を打っている。命中率は悪いが浪士たちを翻弄するのに一役買っているのは間違いない。
「心太、もっと前へ」
「あいよお」
 巨漢の標的から一時的に逃れた蔵蔵が立ち上がり大八車を押し始めた。荷台を自分の前面にして両手で両脇にある柄を掴み押す。態勢を立て直した鉄砲組が海上の小船を狙っているのに気がついたのである。
 そして、とっさに荷台の上にあった、帯のように長い、目隠し用の布の余りの端を左手で持って、上空に撥ね上げた。つなぎ伸ばした布は、海から吹く風にあおられ、天に昇る龍のごとく全長をなびかせた。それは鉄砲隊の視界を大きく遮った。
 蔵蔵はそのまま大八車を押して鉄砲隊に突っ込む。
「ダダダン」
と大きな音がして弾が蔵蔵の兜に咲いた一輪の花を吹き飛ばした。
「邪魔だてするなあ」
巨漢は怒鳴りながら次々と襲う矢の防御に必死だ。鍔のある帽子のような兜をかぶった末はまるで、からくり人形のように凍ったような表情のまま、眉ひとつ動かさず半弓を射続ける。
 その時、山手の方からくぐもっているが腹の底から響いてくるような音が聞こえてきた。ほら貝の音だ。
「心太、下がれ」
「あいよお」
 ほら貝を吹いているのは、源平時代の騎馬武者のようないで立ちの綱道であった。どこで見つけてきたのか、大仰な兜にぴったりの大鎧を身につけている。そして、乗っているのは騎馬ではない。牛であった。それも角に括りつけられた松明の先には炎が揺らめいていた。
「遠からん者は音にも聞け。我こそは黒松映の一子綱道である。おのれら不逞の輩を成敗するために参上した。我が道場の仇、これでもくらえ」
綱道が手にしているのは大弓である。鏃の根本に和紙が巻き付けられ、先を紙縒りのように伸ばしている。そこに、牛の松明で火をつけて射る。狙うは暗堂である。
 火矢は暗堂の足元の地面に突き刺さった。そして、小さな爆発を起こした。
「ぎゃあ」
暗堂が悲鳴を上げた。和紙の中に少量の火薬を巻いていたのである。もちろん、これは末の手並みだ。末の先祖より伝わる忍びの技には火薬を使ったいくつかの術がある。手元で爆発しないように工夫をしている分、不発弾も多いが綱道は気にせず火矢を打ちまくっている。
 敵の数人が暗堂を守るために彼の周りを取り囲む。
「若先生。牛にケガさせないでくだせえよ」
そう大声で叫んだのは蔵蔵である。ずっと蔵蔵の屋敷内で飼われていたため、囲炉裏の火に慣れてしまったあの農耕牛だった。
 暗堂や鉄砲隊、栗島を襲っていた巨漢に向けて、調子よく火薬矢を放っていた綱道が、蔵蔵に向かって大丈夫と言うように手を振った。そして、乗っている牛の尻を鞭で叩く。
 山の上から、両角に火をかざし、大男を乗せた牛が駆け下りてきた。まるで、木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いさながらである。この迫力に敵は大いに圧倒されたと見ていいだろう。
「心太、前へ」
「あいよお」
 敵が火牛に気を取られているすきに、末は小船から降り、海の浅瀬に足を付けた。まだ、近くにいる巨漢に半弓を向けたまま、素早く栗島に駆け寄り、立たせて小船に乗せた。
「心太、御前を安全なところへ。私はもういい」
「末さん、大丈夫?」
そのとき、日ごろ表情の乏しい末が、ふんわりと微笑んだ。
「お嬢さまがいない今、奴らを斬るのは私の仕事だ。さあ、早く」
「あいよお」
 心太は機敏に動き、疲れ切った栗島を抱きかかえるようにして小船に連れていった。戦闘に不慣れな栗島は、息も絶え絶えである。自分ひとりの脱出を不本意と感じながらも強いて逆らうことはしなかった。
 そして、末は半弓を懐に入れ、代わりに取り出した二振りの小太刀。それを両手に逆手で持つ。末の顔は全く感情のない、ただ目に映るものを獲物としてしか見ない猛禽類の目つきとなった。
 火薬矢の対応に気を取られていた巨漢が異様な気配に振り向いた。それは、末が放つ、とてつもなく鋭い殺気だった。忍びのような黒装束、前に鍔、横と後ろに鎖帷子のある兜を身に着けた末が巨漢に突進する。
 腕に覚えがある巨漢は末目掛けて渾身の力を込めて大刀を振り下ろす。末は逆手に持った両手の小太刀を目の前で交差させ、巨漢の大刀を受け止めた、そして、そのまま左手の小太刀を手放した。勢い余って巨漢は一瞬前のめりになった。末がそれを逃すはずもなかった。右に身体を反転させうしろ手に小太刀で巨漢の体を貫いた。
 大八車で鉄砲隊に突っ込んで行った蔵蔵は綱道の火薬矢で瞬間的に助けられたものの敵を倒す力があるわけでもなく、瞬く間に標的にされた。大八車に身を隠し、一人目の狙撃をなんとかかわしたものの、そこまでだった。もう一人の狙撃手が自分に狙いを定めているのが視界に入り、ここまでと観念したとき、猛烈な勢いで馬が駆けてきて、鉄砲隊に向かって身を躍らせた者がいた。
 映である。飛び降りざまに、蔵蔵を狙っていた男を袈裟懸けに切り倒し、そばにいたもうひとりの喉を返す刀で切り裂く。
「ああ、すっきりした」
「お帰りなさい。師匠」
蔵蔵にたちまち生気がよみがえった。
 映ひとりの存在が、観念さえした蔵蔵の胸に絶対負けないという自信を与えた。大八車の上にあった愛用の七つ道具から、夢中で鍬を取り振り回す。常に掴む位置に窪みがあるほど使い込んでいるこの鍬は蔵蔵の分身のような存在だ。
「わしの野良殺法じゃい」
 鉄砲隊のひとりがその鍬の一撃を喰らってぶっ倒れた。
「今のは腰が入っていてよかった。あんたは鍬を武器にしたほうがいいね」
映が有象無象の連中をばたばたと切り倒しながら蔵蔵を褒めた。
 元気を取り戻したのは末も綱道も同じである。末は再び半弓を手にして綱道や蔵蔵の援護射撃をしていた。
「お嬢さまあ。道場に帰ったら蒸かし芋がありますよ」
「末、ハチミツあったかな」
「ハチミツはありませんがぎょうせん飴ならあります」
「お、いいねえ。ぎょうせん飴」
 綱道はさすがに雑談している余裕はない。幾人かの手下を牛で蹴散らし、暗堂を追い込んだ。しかし、奴の周りを囲む最後に残った三人はかなりの遣い手と見た。綱道は牛を降りて愛刀の清磨を抜く。
 源清磨は江戸の四谷で鎚を振るった刀工だ。大きな切っ先が特徴の豪壮な造りに綱道は魅了され、三嶋屋に探させたものである。
 綱道の心は高揚していた。この一件に関わることに自分なりの想いがあった。

※ 木曽義仲
 平家物語の中に出てくる、木曽義仲と巴御前との名場面は映が最も好きなシーンである。義仲が女を連れて討ち死にするのは恥だという。それは、巴を助けようとして、自分の最期に付き合わず落ち延びよ、と諭しているわけだ。言わば照れ隠しである。ここで映りは涙腺が緩む。最も大勢の敵を目の前にして、そんな話をされて「じゃあ、よろしく」と言われても、栗島が戸惑うのは当然だ。
 それはともかく、いくら凄腕の剣士でもはばかりは我慢できない。

十九 映ヒストリー

 己の力量を知れ、というのは映の教えである。今思うと、自分の力を過信して無茶をしないようにという母心だったのかもしれない。幼きころより、稽古と鍛錬は人一倍こなしてきた。おかげでどんな相手にもひけを取らない自信もあったが、感情の制御ができず我を忘れることも多かった。だから余計に、道場主の跡取りとして、自分を律して、慎重に行動してきた。他流試合も正式なもの以外は避けてきたし、何度となく立ち合いを挑まれたこともあったがすべて断った。
 それはひとえに軽率な行いをして門人に迷惑をかけたくないという思いからくるものだったが、同時に母を反面教師としたというのもある。とにかく、母はひっきり無しに事を起こしていた。挑まれれば即座に応じ、嫌がらせをしてきた道場に一人で殴り込み、町屋の娘に狼藉をはたらこうとした無頼漢を、捕えるのではなく撫で斬りにし、商家で用心棒に雇われたときも盗人八人を地獄に送った。まあ、このときは大いに称賛を浴びたが・・・。
 他人へ母について語るときに必ずするひとつ話がある。まだ、黒松道場にも勢いがあり地方へ出稽古に行っていたころ。母と二人でつながりの深い、上州にある道場へ行った。その帰り道のこと、宿を取った宿場でいきなり侠客同士の喧嘩(でいり)が始まったのである。双方合わせて五十人はいたであろう。
 全く関係のないそれも別世界の人たちの諍いである。当然、部屋から出ずに関わらないのが普通である。
「あははは。これは運がいい」
そう言って旅籠を飛び出して行った母を追いかける羽目になった。いくら江戸っ子が喧嘩好きと言っても、どうかしているとしか思えない。
「刀を抜くつもりはなかった」
というのが後の本人の弁であるが、結局、助っ人と勘違いされて(つまりそれぐらい接近していた)斬りつけられて仕方なく応戦(これも本人の弁)、峰打ちで十人ほどを半死半生にした。
 これには後日談があって、後にその片方の親分から母に用心棒として来てほしいという依頼があった。もちろん丁重にお断りをしたが、本人は半年ほど行ってくると言い続けて周囲を困らせた。
 相手が無頼の者だと、後始末は楽なのだが、母の場合は身分の高い者との争いがこれまた多い。そのたびに栗島の御前が火消しに奔走した。もちろん、いつも母のほうに誰しもが納得する理由や言い分がある。しかし、もっと穏便な解決方法があるはずであった。
 今も記憶に残っている情景がある。祖父、つまり母の父が、事件ばかり起こす母に説教をしていたことがあった。
「剣の道に生きる者こそ、剣を抜かずに解決する道を探るべきだ」
その祖父の言葉に母はこう言った。
「そんなことしていたら、あっという間に婆さんになります。抜くと解決が早いのです」
 母に振り回されたと思うのは、自分たちの親子関係にも当てはまると言っていいかもしれない。
 幼きころ、父のことを訊くと「おまえの父は神様だ」と言い張っていた。母の説明によると、ある日、天から神の使い(もちろん日本神話の神様である)として狸がやってきてこう言った。
「お前は懐妊した。それは神の子だ」
そして、牛小屋で産んだということだったが、聞くたびに微妙に話が変化しており、作り話であることは明らかだった。
 栗島の話では、若きころ母は三年ほど武者修行の旅に出ていたそうで、帰ってきたとき乳母車を押していたそうな。
 その乳母車に乗っていた赤ん坊が自分である。
 自分と母は顔つきもあまり似ておらず、旅先で斃した相手の子を引き取ったのが自分ではないかと思うこともあったが、それも、もうどうでもいいことである。
 感情に流されやすいという自分の弱点に気付き、自らを律するのは間違いではない。しかし、当たり障りなく生きるだけで良いというものでもないだろう。母のように己の心のままに生き、時には感情を爆発させることも必要ではないのか。
 というのは建て前だ。とにかく憂さ晴らしに暴れたいというのが本心だ。わしの道場に火をつけた腹のたつやつらを叩きのめしたい。その一心である。
 そして、自分の剣で敵を圧倒し、なんとか自分の存在を母に認めさせたい。ただそれだけである。

 暗堂を守る三人のうちひとりが前に出てきた。浪人者である。金づくで人を殺め、それで生きてきたような男である。命のやり取りをしてきた浪人者と道場の試合経験しかない綱道では力の差は歴然と思われた。
「なんだその時代錯誤の恰好は」
浪人者は綱道の大兜に大鎧の姿をあざ笑った。
「お主はかなりの人を手にかけてきたようじゃな」
浪人者の濁りきった目を見ながら綱道が言った。
「お前のような竹刀剣法でわしに太刀打ちできると思うのか」
勝ち誇ったような浪人の声が響いた。
 しかし、綱道は落ち着いている。
「自分の力量を知るということは、当然比較する相手の力も測る必要がある」
清麿を正眼に構えた綱道が言った。
「お主は私の敵ではない。わしは竹刀剣法ではあるが、日々心身を鍛え上げている。お主のような欲にまみれた生き方をしている者に敗れることは無い」
「だまれ」
浪人は落とし差し(※)にした大刀を抜き、斬りかかってきた。大上段に振りかざしながら突進してきた。その刃を受け止めるために、綱道は正眼から刀身を斜めにしたが、その時、刀の柄から左手を放した。浪人者の一撃を綱道は右手だけで受け止めた。そして、すかさず敵の袂を左手で掴みぐいと引いた。それは柔術の技の応用のようにも見えた。
「一対一の決闘なら源平時代の方が強いんじゃあ」
綱道は絶叫しながら左手を引き右手を押した。
 浪人者は不意を突かれ、態勢をぐらつかせ、右足だけでかろうじて立っているような状態になった。綱道は両手に持ち直した清麿で浪人者の胴を薙ぎ払った。
「お主が殺めてきたのは武器を持てないような者だけだろう。道場で私が倒してきた相手は皆、優れた剣士だった」
 浪人者は不意を突かれたときの驚きの表情のまま、どっと倒れた。
 その様子を見届けた暗堂が声を震わせて叫んだ。
「なんとかしてください。先生」
先生と呼ばれていたのは、綱道がもっとも不気味に感じている男だった。浪人者のようだが総髪で身なりもよく、暗堂の藩にかなりの厚遇で迎えられているようだった。
「私には今のような小細工は効かんよ」
弱者に教え諭すような言い方を先生はした。綱道が構えを正眼に戻す。及ばずともせめて一太刀浴びせる覚悟をした。
「下がっておいで」
映がいつのまにか綱道のそばにいた。
「しかし、母上・・・」
「あんたは道場主、門人に対して責任のある身だ」
映は綱道を無理やり下がらせ、先生に向き直った。
「先生とやら。あんたほどの腕なら私の力が見えるだろう」
映の表情が次第に鷹のようになっていった。
「もちろん。だが、私は手強い相手になるほど闘志が沸く男です。勝負は運否天賦。いざ」

※ 落とし差し
 刀の差し方のひとつ。長い大刀を腰に差すと柄部分が上向きになり刀身側が下向きになる。地面に対して直角に近い差し方。黒澤明監督『用心棒』の主人公などはまさにこの差し方である。戦国時代、刀もその社会状況に応じて長くて身幅の太いものが流行した。これを腰に差すと落とし差しになりがちだ。つまり、戦乱の時代には豪壮な刀を手に活躍の場があった者が、平和になるとお払い箱になって浪人になり身を持ち崩していく。たまに雇われることがあるとすればそれは「用心棒」くらいであろうか。刀とその差し方だけで、主人公の浪人者の過去が見えてくるようである。

二十 戦う者たち2

 心太は居留地の船着き場で小船に乗ったまま待っている。居留地で上陸した栗島に待つように指示されたのだ。
 なんで、あっしはこんな妙な西洋の兜をかぶって、船頭しているんだろう。ひとつは、あの映師匠である。ついつい、言うことをきいてしまう。気前よく銭をくれるかもという期待はもちろんある。それに、上客の異人さんを悪い奴らから守るというのも気に入った。だが、どうもそれだけではない。
 正直に言うと、師匠がマガレと呼んでいる異人の少女と仲良くしたいな、というのもある。まだ、言葉を交わしたこともない。遠くから見て、きれいに咲いた花みたいだと思っただけである。師匠と仲良くしていたらいつか友になれるかもしれない。
 自分でもよくわからないのだが、他にも理由がある気がする。あの、道場で師匠に組み伏せられた時、師匠はあっしに何を言ったんだっけ。
 そう、今にあんたたち商人の時代になるよって言った。それが本当なら、あっしは今、すごい時代に生きているのかも、と思ったんだ。もうすぐ、世の中がひっくり返るのかもしれない。そしたら、なんかじっとしていられないような気がした。とにかく、師匠について行く気になった。
 師匠が言っていることを信じていいのか、実際のところがどうなのかわからない。しかし、前兆らしきものは確実にある。まず、あっしが闇商売とは言え、異人さんに魚を売っていることじたい、しばらく前には考えられないことだった。
 きな臭い事件も多い。街道筋を早馬がやたらに駆けていく。学の無いあっしにも世の中が大きく動いているという想像はつく。
 これはすべて異人さんが来てからだ。
 最初は腹が立った。あっしたちの国に、突然でっかい船で来やがって、言うことを聞かないと大砲をぶっ放すぞ!ときたもんだ。
 だがあの口数の少ない青物屋に誘われて、魚を売りにきたら、気前よく買ってくれるのには驚いた。
 奴らは銭を持っている。それも船乗りや人足のような連中、つまり異国のあっしのような身分の奴らもだ。あっしだってもっともっと稼げるかもしれねえ。暗闇に紛れてこそこそしなくても、堂々と行商できるようになるかもしれねえ。
 異人さんを狙う浪人どもが怖いなんて言ってられねえ。稼ぎが無くなって飢える方がよっぽど恐ろしいぜ。
 網にでっけえ魚が掛かって格闘しているときに沖からでかい大波が迫ってきた、さて、どうする?もちろん、無事に大波を乗り越えて、でけえ魚もモノにするのさ。
 つまりはそんな感じだ。
「待たせたな。ご苦労だが戻るぞ」
栗島が戻ってきて小船に乗りながら言った。
「戻るって、せっかく逃げてきたのにですか」
「あれを見てみろ」
 心太が海の向こうにある神奈川宿の方向に目を向けると、十人乗りくらいの和船が三艘こちらに向かっていた。六尺棒を持った鉢巻き姿の取り方が大勢乗っている。
「旗本のわしが逃げるわけにもいかないだろ」
「なるほどねえ。わかりました。じゃあ出しますよ」
「ところで、お前、名は心太と言ったな。なんで師匠の手伝いをしているんだ」
にやりと笑って心太が言った。
「大波をかわしつつでかい獲物も釣り上げたいんです」
「なんだそりゃ?」

 マーガレットは居ても立っても居られない思いである。きっと師匠は危険な者たちと刃を交えている。私も何か役に立ちたい。元はといえば、師匠は私たちを守るために戦っているのだ。
 急いで家に戻り、稽古着に着替えたマーガレットは、馬小屋に行き、愛馬の手綱を引いた。地鎮祭の警備をしていた隊長を探すのである。もちろん、面識もないし、今は、父親を頼る余裕もない。自分の力でなんとかするしかない。
 軍の駐屯地に馬で乗り付ける。そこにはまだ、先ほどの警備兵たちが片付けをしていた。
「助けてください」
自分でも驚くほど大きな声が出た。それは母国語だったからという理由だけではなかったであろう。
「浪士が暴れています」
 マーガレットの勢いに圧されて兵のひとりが隊長を呼んできた。四十歳くらいの大柄な逞しい隊長である。地鎮祭の警備の指揮官だ。
「一緒に来てください」
マーガレットの言葉に隊長は首を横に振った。
「セレモニーの時に銃を撃ってきた者の処置は日本側ですることだ。我々が出るべきではない」
 そこから、マーガレットのデマカセとハッタリのオンパレードが始まる。
「そんなことを言っている場合ではありません。浪士は三百人くらいの人数でおまけにみんな最新式の銃を持っています。それで、あと、そうそう大砲も三つか四つか、いや七つくらいあったような・・・気がします」
 しかし、相変わらず隊長の目は疑わしそうなままで、マーガレットを見ているだけだった。そして、頭にひらめいたデマカセを口にした。
「そうです。浪士たちの後ろにロシア兵がいました」
さすがに隊長の顔色が変わり、近くに控えていた兵に何事かささやき、マーガレットの顔を見て言った。
「では、案内しなさい」
 隊長は近くにいた数人の兵を引き連れてマーガレットに道案内をさせつつ馬を走らせた。
 そして、マーガレットと英国駐屯軍の兵が乱戦の場に到着した。全員馬上である。しばらく様子を見ていた隊長がマーガレットに言った。
「お嬢さん。さっきの話と随分様子が違うようですな」
隊長はあふれんばかりの苦情を言おうとしたとき、マーガレットが鋭く声を放った。
「静かに!」
 現場はもう誰も闘っていない。みんな、映と先生の対決に注視しているのだ。
隊長もその異様な緊張感を感じとり口をつぐんだ。
 敵も味方もその場にいた者全員が固唾を飲んで見守っている。
 袴姿の映が股立ちを取り、そして、大小の刀を腰から外し、綱道に渡した。
「母上、これはどういう?」
今から闘うというのに刀を外すとはどういうことか、綱道は唖然とした。しかし、映の精神は集中しており反応はない。表情もいつもの猛禽類になっている。
「あれえ、観念したのかな。婆さんは」
暗堂が馬鹿にしたような声を出した。しかし、先生はさっきにもまして警戒している。
「綱道さん。心配いりません」
そう言ったのは末である。その声は落ち着いていた。末にはこれから映が何をしようとしているのか、わかっているようだった。
 映は両足を揃えて立ち、ゆっくりとした動作で屈み込み、両手で膝を抱えた。首もうつむき相手すら見ていない。
 先生は刀の鯉口を切って、長い大刀を抜いた。そして、映を正面に正眼に構えた。二間ほどの距離を挟み両者が対峙している。
 突如、映が前転をし始めた。先生にとっては映が小さな鞠となって転がってきたようなものである。先生は川面に見える魚影に向かって銛を突くように、鞠を串刺しにしようとした。
 先生の狙いは的確だった。しかし、映は転がりながらその刃を避け、その瞬間両手で地面を突き上げた。空宙に跳ね上がりながら懐にある短刀を右手にし、先生の懐に飛び込み胸に突き立てた。
 刃先が折れ曲がった。先生は鎖帷子を着込んでいたのである。先生はにやりと笑い返す刀で再び映を襲った。
「私の勝ちだ!」
 先生は勝利の雄叫びを上げ、渾身の一撃を振るった。
 しかし、その剣が映に届くことはなかった。先生の腕の動きが途中で止まったのは、腹部に経験したことのない衝撃があったからだ。そして、そのまま絶命した。
 映の左手には刀身が細く両刃の鎧通しが握られており、先生の鎖帷子のつなぎ目に差し込まれていた。
「黒松の兵法は接近戦にあり」
 映が低くつぶやき、先生がどっと倒れた。
「暗堂、神妙にしろい」
海上から栗島の声がした。心太の小船に乗る栗島とその後ろには大勢の取り方が乗った和船が見えた。
「こっちにも大勢いるぞい」
山から下りてきたのは福次である。後ろには番所から連れてきた取り方の団体がいた。暗堂たちを予定の海岸べりに追い込んだことを確認した福次は、闘いには参加せずにその足で番所に行くことになっていた。暗堂ほか不逞浪士の残党に向かって福次の犬が吠えた。
 暗堂を警護していたもうひとりの男が不安気な顔つきで彼を見た。観念した暗堂は首を横に振り、膝を屈した。

二十一 マガレとの別れ

 いつもは外で身体を動かしている映とマーガレットだが、今日は室内にいる。外は快晴だ。
 あの事件でマーガレットは、映たちが心配のあまり、嘘を言って駐屯軍警備兵を連れ出したわけだが、その後で随分と叱られるはめになった。だが、それを承知で行動した本人はまったく気にならなかった。
 嘘をつくこと、そして叱られること、周囲の人たちに迷惑をかけること、どれも本来避けて通るべきことだが、自分にとって間違っていないと信じられることなら問題ないはずだ。マーガレットはそう感じていた。
 映はマーガレットが、映たちのために、叱られるようなことをしたことを知らない。ただ、あの事件の後、マーガレットが少し変わったような印象を持っていた。
 動きに迷いが無くなった、とでもいうのだろうか。木刀の素振りにも鋭さがみられるようになった。
 映はその理由を詮索しようとはしなかった。今まで、教えてきた弟子の中にもそうやってひと皮むけた者を何人か見ていた。
「今日は坐禅をするよ」
「ザゼン?」
「と言っても自己流だけどね」
 禅宗が数ある仏教の教えのひとつであること。坐禅がその禅宗の修行法であることを映が説明をした。
「禅僧に指導を受けたわけじゃない。ただ、私が坐禅だと言っているだけだ。でも、得られるものは近いと思うんだけどね」
 映は自慢の特注の履物を脱ぎ、長椅子の上で正座をした。
「本当は座り方も違うけど、このほうが慣れていてね。さあ、真似してごらんよ」
 二人は長椅子の上に並び正座をして目を閉じる。
「頭をからっぽにして、ゆっくりと深く呼吸をする。自分の身体が少しずつ高く昇っていくような気持ちになって。考えてはいけない。ゆっくりと呼吸をして」
 いったい、何が始まるのだろうと怪訝な顔つきだったマーガレットも、師匠の指示通りに従うと、リラックスした表情に変化していった。
「気分はどうだい?」
「心ト身体ガ軽クナリマシタ」
「そうだろう。素振りと同じように短い時間でいいからこれも毎日やってみるといい」
「コレモ強クナル術デスカ?」
「その通り。心を鍛える術だ。迷い、不安、焦り、そういったものが薄らいでいき、自分のやるべき事がくっきりと見えてくる」

 その日の稽古を終えて、マーガレット宅の門を出たところで、大柄な英国紳士に会った。マーガレットの父親である。
「こんにちは。師匠。今日もありがとう」
如才ない笑顔はさすがに商人である。
「どうだい、儲かっているかい」
「はい。おかげさまで」
「おぬしも異国の悪よのお」
そして、二人は同時に声をあげて笑った。
「偶然お会いできてよかった。師匠に言わなければいけません」
「何かあったのかい?」
「あと半年後くらいに本国に帰らねばいけません」
「仕事の関係で?」
映もさすがに少し寂しそうである。
「それもありますが、やはり妻のことが気がかりで」
「奥方はよくないのかい?」
「いえ、以前よりは落ち着いているのです。でも、やはり帰りたいようで」
「それは、帰るべきだ。私もマガレと別れるのは寂しいが、仕方ないね」
「今すぐではありません。あと少し、娘をよろしく」
「もちろん。マガレは、一歩でも二歩でも自分を高めたいという気持ちが強い。これは大きな武器になるよ」
「師匠にはお礼をしなければいけません」
「いや、そうかい悪いねえ」
基本、映は遠慮しない。
「何か欲しいものがありますか?」
「長崎で売っているというカステイラという菓子だけど」
「お任せください」
 その数日後、黒松道場に巨大な長持いっぱいのカステイラが届いた。

 マーガレットが旅立つ前日。
 映はある品を懐に入れ、居留地へ馬を走らせた。映を笑顔で迎えたマーガレットだったが、目がいつもより赤かった。
「これを私の形見だと思って受け取っておくれ」
映が右手で差し出したのは白鞘の短刀である。
「私が肌身離さず身に着けている短刀だ。寝ているときもね。私にとって本当の守り刀だ」
「寝テイル時モデスカ」
「ああ。お陰で二度ばかり命拾いをした。私みたいな生き方をしているとね。時々、刀を持って夜這いに来る奴がいるのさ」
「夜這イ?」
「まあ、それはいいや。サムライと言えば長い刀を思い浮かべるかもしれないが、最期まで自分とともにあるのは短刀だ」
マーガレットの表情がにわかに引き締まる。
「切腹は知っているだろう」
「ハラキリ」
「ああ。切腹も短刀でする。相手と組討ちになったときもトドメを刺すのは短刀だ。サムライが最期に、本当の命のやり取りをするのは短刀だよ」
 そして、マーガレットは困惑気味に言う。
「私ガ持ッテイテイイノデスカ」
「日本では、守り刀という風習がある。武家では赤ん坊が生まれると祝いに短刀を贈る。この子を病や災いから守り健やかに育つようにという願いを込めてね。それと同じだよ。あんたは生まれたばかりのサムライだ。ぜひ、受け取っておくれ」
 マーガレットは恭しく頭を下げて両手で短刀を押し頂いた。
「決シテ忘レマセン」
 そして、マーガレットは短刀のお礼に映へあるプレゼントをした。それは、菜の花のような鮮やかな黄色の、あのドレスであった。もちろん、映の所望である。映がそれをどうするつもりなのか、よくわからない。

二十二 再会

 数年後。
 時代は明治である。黒松道場は廃業した。道場の屋根も簡易補修のままである。綱道は勤めに出ている。維新後、その剣の腕を見込まれて要人警護の職を得たのだ。時代は変わっても、世の中に危険人物の種は尽きない。
 マーガレットから一度だけ、手紙が届いたことがある。
 そのときはまだ栗島が江戸にいたので、その英語の文面を読んでもらった。あの、稽古着と木刀を持ち帰ったマーガレットは今も毎日鍛錬を欠かさないと書いてあった。そして、映の健康を願う言葉で締めくくってあった。その手紙には詳しいことは書かれていなかったが、若者の将来への希望が満ち溢れていた。
 異国からの手紙を読んでくれた栗島もそのしばらく後に映の傍を離れていった。旗本である栗島はさすがに江戸に居続けることができず、駿府に行ったのである。暇乞いに来た栗島に映が言った。
「時々、本場の安倍川餅を送っておくれ」
苦笑しながらも引き受けた栗島からもう三度餅が届いた。
 蔵蔵は相変わらず農作業に精を出しているが、暇を見つけては、毎日のように映の様子を見に来て、身の回りの世話焼く。器用な質なので、家事全般なんでもこなす。それに蔵蔵が持ってくる野菜はどれも美味しく、映の元気と健康を支えていた。    
 心太も時おり魚を持って顔を出す。今では堂々と異人相手に食料品全般の販売をしている。これは、刀、武具を扱う商売から異人相手の生糸の商売に鞍替えした三嶋屋の口利きによるものだ。
 三嶋屋は生糸の商売も軌道に乗り、今では洒落た洋装に身を包み、自宅を洋館にして、贅沢な暮らしをしている。そして、映に会うたびにきついひと言を喰らっている。
「あんた顔が桁外れの悪徳づらになってきたねえ」
「映さま、それはあんまりです」
「仕入れ先の生糸農家には十分な銭を渡しているだろうね」
「も、もちろんです」
 福次は相変わらず山奥で狩猟をしている。明治になってほとんどの者の暮らしぶりが変わっていったが、なぜか福次だけは以前と全く同じ暮らしをしている。理由はよくわからないが、その日暮らしが性に合っているのであろう。獲物の鴨や猪を土産に道場に来たりするときは、昔の門人の幾人かが集まって映を囲んで食事をしたりもしている。
 そう、みんな寂しくなった映を心配しているのだ。
 一昨年の暮れに末が病で亡くなった。

 あの事件のあと、奉行所から映あてに感謝状と報奨金が届いた。感謝状には映をはじめ、関係した者の名前が記載されていたが、末の名前はなかった。そのことに腹を立てたのは心太である。
「師匠の次に働きがあったのは末さんだぜ」
「確かに心太の言うとおりだが、これでいいのさ」
怪訝な顔つきの心太に映が言葉を続ける。
「末は忍の末裔だからね。そんなものに名が残ることこそ、末が最も嫌うことなんだよ」
 映はみんなに平等に分配した報奨金の映の分を全部使って末と二人で箱根に湯治にでかけた。
 道中で知り合った大店の商人に護衛を頼まれたりしたこともあり、贅沢三昧の旅であった。目に入る茶店に次から次へと立ち寄ろうとする映に大店の商人もあきれ果てて、いつもなら
「お嬢さま。食べ過ぎです」
と苦言を呈する末もこのときばかりは笑って見ていた。
 湯に浸かっているときも、湯上りに冷し飴を飲んでいるときも、商人に招かれて豪華な夕食を食べているときも末はずっと笑顔でいた。
「もっと前から湯治に出かけるべきだったね」
宿で床に着いたときに隣の末に映が言った。
「いいえ、お嬢さま。このような極楽旅は生涯に一度きりで十分でございます」
そのときの末の声が今も映の耳に残っている。
 旅から帰り、ほどなくして末が床に臥せってからは、ずっと映が看病をしていた。そして、末はそれからあっという間に旅立った。
「お嬢さまに看病をしていただくわけにはまいりません」
末はそう考えて、慌てて逝ってしまったのかもしれない。
「あんたにはずいぶんと無理をさせてしまったねえ」
末の枕元で映が呟くように言ったとき、末は元気な時にも見せなかった、満開の桜のような笑顔を浮かべた。
「お嬢さまと一緒に闘えてこんなに楽しいことはありませんでした」
それは振り絞るような掠れ声だったが、しっかりと映の耳に届いた。そして、末が最期に言葉をかけたのは映ではなく、猫だった。
 末は猫の頭頂部にある丸い茶色の毛のあたりをやさしく撫でながら言った。
「猫丸、お嬢さまを頼みましたよ」
その言葉が伝わったのか、猫は恐れていたはずの末の枕頭にうずくまったままなかなか離れようとはしなかった。
 末の葬儀のあと、映が三嶋屋から届いたお供え用の饅頭を食べながら綱道に言った。
「末がいなくなったのに、なんで腹が減るんだろうね」

 昨夜の雨はあがり、外は快晴である。
 今日も映は猫と一緒に自室に閉じこもっている。朝食を用意は蔵蔵が整えてくれた。映が食べている間、掃除洗濯をし、食後食器の洗い物をした蔵蔵は野良仕事をするために帰って行った。
「師匠、夕方にまた来ます」
蔵蔵もそろそろ古希が近いはずだが、元気である。
 綱道は今日も勤めに出ている。慣れぬ勤め人生活で疲れ果て、家のことは蔵蔵に頼り切っている。言わば給金を持って帰るだけの存在になっているわけだが、これは仕方のないことかもしれない。
 そして、その時。
 茶碗を両の掌で包むようにして白湯を飲んでいた映の目がきらりと光った。猫が鋭い鳴き声をあげた。
「猫丸、安心おし。私がいる」
傍らの刀掛けに手を伸ばし、助廣を掴んだ映が言った。
「私の部屋に来られたら迷惑だから道場に行こうかね。お前はここにいるんだよ」
猫の頭を優しく撫でた。
 道場の神棚に向かい、映が額づいたとき、銃を持った兵が二十人ばかり敷地に侵入してきた。
 道場の外で声がした。
「黒松の婆さんよお。お迎えに来てやったぜ」
声の主は暗堂であった。入口に姿を現した暗堂は軍服を身にまとっていた。
「おや、暗堂くーん。久しぶりだねえ。元気だったかい」
 道場の出入り口や覗き窓からたくさんの銃口に狙われながら、にこやかに映が言った。
「さすが婆さん。並みの神経ではないな」
暗堂は映との間に十分すぎる距離を確保している。
「暗堂くーん。あんた。獄に入ったんじゃなかったのかい」
「おれの藩は勝組だ。幕府が壊れたらすぐに解放されたのよ」
「暗堂くーん。それはよかったねえ」
「こら。さっきから気安く呼ぶなあ」
「いいじゃないか。暗堂くーん」
「やかましい。お前のせいでおれは二年もあの汚い牢の中にいたんだぞ」
「それはそれは、おつかれさまでした」
「ふざけるな」
「不潔な着物を着せられるは、他の罪人に仕置きされるは、飯なんか食えたものじゃなかった」
 映は暗堂の顔を見つめながら悲しげな表情で大きく目を見開き、しきりに相槌を打った。
「うん。わかるよ。わかる」
「お前のせいだろうが」
「あれ、そうだっけ」
「もっと早くお前を捕らえに来たかったんだが、こっちも陸軍でそれなりの立場になるのに手間取ってね。でも婆あが死ぬ前でよかったよ」
「そうかい、私の長寿を祈ってくれていたんだねえ」
「今からお前を連行して獄に放り込んでやる。島内、その婆あを連れていけ」
 島内と呼ばれた小隊の隊長らしき男が一歩映に近づいた。
「暗堂くーん。たいしたご出世だねえ」
「おれは勝組藩にいた勤皇の志士だからな。新政府陸軍の士官だ」
「なんだいその陰嚢のイノシシって」
「もういい、連れていけ」
「おっと、そうだ。あんたは命がけで異人を打ち払うはずじゃなかったのかい」
それを聞いた暗堂が哄笑した。
「それは選ばれし者にだけ許される方便ってやつよ」
「そうかい。あんたは選ばれた人かい」
その映の声はいつもより低く響いた。
 島内が再び足を動かそうとしたとき、道場の中心で上を見上げた映が言った。
「そうだ。暗堂くんに屋根を修繕してもらわないと」
暗堂たちに火をつけられて穴が開いた道場の屋根は今も油紙で雨漏りがしないようにしているだけである。
 その視線につられて島内はじめ隊員たちが一瞬上を見たとき、その穴に向けて映が小柄を投げた。それは油紙を貫き、溜まっていた昨夜の雨が降り注ぎ島内にかかった。
「わあ」
狼狽して飛び退いた島内に、柔道の前回り受け身のようにくるりと転がった映は、島内の後ろを取り、首に匕首を当てた。
「全員、動くな」
映の鋭い声が響いた。
「兵隊さんたちよお。私はあんたたちの3倍くらいの年数を生きているがまだ死ぬ気はないんでね」
「何をやっている、島内!」
暗堂の怒号が響く。
「使えない奴だ。貴様も婆あと一緒に死ね。撃て。撃ち殺せ。でないと婆あが暴れだすぞ」
動揺する兵たちを睥睨しつつだんだんと映の顔が猛禽類のようになっていく。
「あんたのような外道は灸をすえてもらいな。閻魔さんにね」
暗堂にそう言った映が島内を放し、助廣の鯉口を切った。
 その時である。
「銃をおろしなさい」
凛とした声が響いた。その言葉には少し異国言葉の訛りがあった。
 暗堂がいる反対側の入口に姿を見せたのは軍服姿のマーガレットだった。
「みなさんはこの者の私兵ではありません。日本国の帝に忠誠を誓った本物の正規兵です」
 いつのまにかいつもの表情に戻った映が驚きの声をあげる。
「マガレじゃないか」
「はい、師匠。やっとお逢いできました」
 マーガレットは映にとびきりの笑顔を向けた。
 そして、その笑顔をだんだんと厳しい表情に変えて暗堂を見据えた。それは、まったく師匠譲りの顔変化だった。
「他国の人間には関係ないだろう」
暗堂の声はすでにおびえていた。
「国の正規軍とは敵には勇敢で、自国の国民には優しく、そして、厳しい規律の元に活動するものです。罪のない国民に銃を向けるなど逆賊のすることです」
「おまえたち、この異人も撃ち殺せ。早くしろ」
 マーガレットの後ろにいた二人の屈強なイギリス兵が動こうとしてマーガレットに制された。
「悪あがきはやめなさい。あなたが隊長を撃てと言ったときに、あなたはもうこの隊の上官ではありません」
「おまえたち、この異人の言葉を信じるな」
そして、マーガレットが留めの言葉を放つ。
「あなたはわが国と我々の友好国である日本の敵です」
 そして、しばらく茫然としていた島内が我に返り背筋を伸ばして声を発した。
「島内隊。全員持ち場に帰還する」
島内は厳しい表情のまま映とマーガレットに敬礼をし、隊員に合図をした。隊員たちも銃を下ろし映に敬礼をして道場を出ていく島内に続いた。
「勝手なことをするな。おい!」
絶叫する暗堂の両脇に屈強なイギリス兵が立った。
「連行しなさい。その者はわが国にとって大切な友人を手にかけようとしました」
「や、やめろ、放せ」
二人のイギリス兵に抱えられるようにして暗堂は去っていった。
「あんた、逞しくなったねえ」
 娘自分の華奢だったマーガレットは影を潜め、精悍な顔つきと大きく安定感のある身体つきは、日ごろの鍛錬の証しであると、映は感じた。
 マーガレットの頭の先から足元まで丹念に見ながら、腕組みして感心したように何度も頷く映は嬉しそうだ。
「はい。師匠に少しでも近づきたくて。でも、勇気を持てたのはこれのお陰です」
彼女が軍服の胸元から取り出したのは、あの守り刀である。
「これは、あのときの短刀じゃないか」
驚く映にマーガレットがお辞儀をする。
「ありがとうございます、師匠。この刀は私を守るだけでなく、いつも勇気をくれました」
「そうか、私の念が通じたんだねえ」
感慨深げな映が改まってマーガレットに礼を言った。
「ありがとうよ。おかげで命拾いをした」
「いいえ。私が来なくても師匠は切り抜けていたと思います」
「ふふふ。まあね。しかし、それにしてもその恰好は?」
「はい、先日、日本の駐屯軍に赴任してきました。騎兵です」
「馬に乗るエゲレスの兵隊さんということか?」
「暴れ馬で命を落としかけていた私が騎兵になりました」
「女の兵隊さんとはあんたの国は進んでいるね」
「かなり少ないですけど。我が国は世界のあらゆるところで自国民が活躍しています。それを守るべき軍も必要になっており、多くの軍人が求められているのです」
「女が活躍する場があるということか。でも、その若さで部下を持つとはたいしたものだよ」
「いえ、あの二人は同僚です。師匠ゆずりのハッタリです」
 映が声をあげて笑った。マーガレットが 師匠の正面に立ち敬礼をした。
「師匠、あの者を連行してまいります」
「ああ。また、遊びに来ておくれ」
「はい」
 道場に背を向けたマーガレットに映は声をかけた。
「女剣士の侍道はあんたに引き継ぐからね」
 振り向いたマーガレットが手をあげた。
 いつのまにか映の足元に猫がいた。
「おや猫丸、心配して見に来てくれたのかい」
猫を抱き上げ頭を撫でた。
「よし、じゃあ奴らが土足で汚した床拭きは明日蔵蔵に頼むとして、とりあえず落雁でも食べるか」
 映と猫は道場を出た。

エピローグ

 令和になって五度目の夏。高輪にある農家の蔵から日記が見つかった。日記を残した主は、今の当主の先祖。高祖父の父親くらいだろうか。時代は幕末から亡くなる明治初年まで。大変几帳面な性格のようで日々の出来事が詳しく書かれてある。農民でありながら、何故か剣の道場に足しげく通っていたらしい。
 当主は知り合いの高校の国語の先生に協力してもらいながら、丁寧に日記を読み面白い記述があると孫の協力を得ながら、SNSで発信していた。
 日記の主の名は蔵蔵という。なんで同じ漢字を続けて使って“くらぞう”と読ませているのかよくわからない。その名づけ親が、よほど米蔵に憧れていたのかもしれない。大変な働き者のようで、農作業に大工仕事。道場の雑用に家事まで、休む間もなく働いている印象を受ける。
 ところで、日記の中に家族よりも圧倒的に登場する人物がいる。剣の道場の隠居である。記述には“師匠”とある。
 この“師匠”は高齢であるにも関わらずかなりの凄腕のようで、当時の世情不安の元凶であった不逞浪士を幾人も倒しているようだ。それと、大変甘いものが好物だったようで、やたらとその記述が出てくる。まさか、蔵蔵が高齢の“師匠”の健康管理のために、何を口にしたかを記録していたとは思えないが、特に明治以降、毎日のように餅が何個、だんごが何個、饅頭が何個と書いてある。
 日記を読みながら、当主はその“師匠”を当然のように男だと思っていた。しかし、ある記述に驚愕した。それは、奉行所からの治安協力への感謝状についてである。関係者全員の名が記されており、全員宛ての報奨金の金額も記載されている。蔵蔵の名もその感謝状に記載されていたようで、余程嬉しかったのか、全文が写されている。その連名の最初に“師匠”の名があった。
 そこには“映刀自”とあった。刀自、つまり老婦人だということに当主は気が付いた。早速、SNSで発信すると予想外の反響があった。先年発見された古墳から出土した老婦人の遺骨と剣。この話題と相まってネット上に様々な書き込みがされた。
「老齢の女性剣士とはカッコイイ」
「日記にはかなりの敵を倒しているとあるみたい。すごい!」
「我々が知らないだけで歴史の中には、まだまだ魅力的な人がたくさんいるんだね」
「幕末だし、調べたらこの映刀自の記述がもっと出てくるかもしれない」
 古い文書や文献の中から女性剣士が活躍したという証拠が、今後一層出てくるのではないかという期待が高まる。これ以上の歴史ロマンは他にない。
 
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