57 / 61
第1章 Departure for the Fantastic World
第57話 禁忌の契約印(6)
しおりを挟む真っ黒な煙玉が、三角形召喚陣の中から天井に向かって打ちあがった。
まるでそれは、水の中にインクを垂らしたように、黒い靄の軌跡を大気中に残す。カナリヤの一羽がけたたましい声で鳴き、撒かれた霊水が音を立てて燃え上がる。
同時に、
ケヒヒヒヒヒヒィィ――――ィィイ!
金属を金属で掻きむしったような、そんな耳障りな〝声〟が脳内を直接揺さぶった。
発生源はもちろん目の前のこの黒い煙だ。いや、正確に言えばこれは煙なんかじゃない。これこそ悪魔の本体だ。この世に存在できない悪魔を繋ぎとめるための霊水、そして存在可能な空間となる三角召喚陣――この二つがそろってようやく悪魔はこの世界にとどまることができる。
不完全な形で、三角召喚陣の中のみで、という条件付きだけれど。
そう。これだけ手順を踏んでも、完全な状態での召喚は不可能だ。正確なグリモワールはすでに消失していて、見つかっていない。ほとんどが複写を何十回も複写していったものだ。そもそも、完全に呼び出す方法を魔術師や魔法使いが他人に解るように書き残すわけがない。
それでも、いまこの状況に限って言うなら、この状態でも十分に可能だ。
《…………………》
煙の中から三つの目が現れる。見るものを吸い込んでしまいそうな真っ赤な目。
「――――うっ…………痛っ」
左腕の傷が痛んだ。まるで焼けた鉄を押し付けられているかのように、左腕が熱い。だけどこれは代償なんかじゃない。この程度で済んでいるのは、俺が一度悪魔とパスをつないでいるからだ。
流れ込んでくる狂気に本能が訴える。
身体に支障を生じさせてまで、本能がコレを拒絶する。
目の前のこれは、俺たちが対峙してはいけない〝何か〟なのだ。つながりを切れ。拒絶しろ。追い払え。命を食い尽くされるよりも前に。
だけどその生理的嫌悪感を押し殺して、俺は悪魔を睨みつける。
今ここでパスを切れば、この儀式は失敗する。
もう儀式自体は、俺の制御下にはない。命令する内容は、叶えるべき願いは術式の中にもう組み込んである。いま俺にできることは、あの悪魔とのパスをつなぎ続けることなのだ。皮肉にも、あの悪魔が不自由なく力を行使できるように。
《…………、……。……。……、……、……。》
どれだけ睨み合っていただろうか。
唐突に、煙が苛立たし気に三つ目を細めた。不自由そうに身体をくねり、周りを飛び回ろうとする。だけどそれはできない。それをさせないための陣でもあるのが、その三角召喚陣なのだ。自身が拘束され自由には動けない――そう解ると、悪魔は段々と高度を下げ、地面へと近づいてくる。
そこにおいてあるのは、二つの鳥かご。一方は死にかけで、もう一方は健康体のカナリヤ。
やることは解っている。悪魔にはちゃんと伝わっているはずだ。
今から行うことは、言ってみればガードナーが組み立てた儀式のリハーサルだ。触媒が霊水、サラさん役が死にかけのカナリヤ、元気な方が子供役となり、儀式の肩代わりをしてくれる。
これから起こることは、ガードナーが引き起こすかもしれなかった未来だ。
もしガードナーが強行していたらどうなったのか、その結末だ。
《………………ケケ》
馬鹿にするように、煙が嗤う。
二筋の煙が腕のように伸び、曲がり、二つの鳥かごに近づいていき――、
ちょんと、二つのかごを軽くつついた。
途端に、一羽が凍り付いた。
いまのいままで元気に跳ねていたカナリヤが、まるで剥製にでもなったかのように硬直した。踏ん張っていた足が外れ、止まり木からかご底へと落下する。
落下したその音は、今さっきまで生きていたとは思えないほど硬いものだった。
すると、
――……ぴ、ぴぴぴ、ピュ、ピュィ、ピュルルルルィ――
あり得ないことが起きた。
ピクリと、もう一方のカナリヤの羽が動いた。今さっきまで眠っていたかのように頭をもたげ、何事もなかったかのようにその体を起こし鳴き始めた。
それはあり得ないことだ。あってはいけないことだった。
何があり得ないのか――なぜならその個体は、今さっきまで死ぬ直前まで衰弱死していたはずだからだ。
そんな個体が、何事もなかったかのように起き上がれるはずがない。そして今さっきまで元気に鳴いていた個体が、まるで初めから生きてなんかいなかったように横たわっているはずがない。
元気な個体が死に、瀕死の個体が生き返った。
それはまごうことなき、命の交換だった。
科学の力では、魔法の力では、人の力では決して起こりえない奇跡が再現された。
「……ふ……くく……ははは、ははははははは!」
割れんばかりの声で笑いだしたのはガードナーだった。
「やったぞ! やはり正しかった。召喚術は成功した!」
震える足で立ち上がり、満面の笑みを浮かべる。
その顔は技術者のそれだ。真理を追究する魔法使いの浮かべる顔。だけど、俺が見てきた中で一番危うくて不安定でぎらついた顔だ。こいつはどこかおかしい――ひと目見てそうわかってしまうほど何かが欠如している。
人としての何かが、決定的に欠落した、禁忌を犯した者の顔。
「はははは、何が失敗するだ何が望みはかなわないだ! 完全な儀式でそんなこと起こるはずがない!」
嘲笑の混ざった高笑いをしながら、わが子を迎えるように、ガードナーはふらつく足取りで魔法円に近づく。その時、ガードナーと俺の視線が交錯した。
その顔はやっぱり、俺が知ってるあの人のものじゃなかった。まるで悪魔に憑かれたみたいにギラついた目と口だ。薬を求める中毒者のよう。この十数分で、別人のように印象が変わった。
余計に見ていられなかった。そこまで渇望したものが目の前にあって、それに手を伸ばそうとする彼が不憫でならなかった。
俺は知っている。
もう少しで、あのカナリヤは……。
「これで、これでサラも――」
瞬間、
パシャリ。
水音を立てて、鳴いていたカナリヤが弾け飛んだ。
…………。
……。
…………………………凍り付いたような表情、目の前で彼の浮かべる表情以上にその言い回しにふさわしい顔は、きっと今後何十年たっても現れない。
「――…………は?」
掠れて裏返った、声とも呼吸音ともいえる微か音。
靴音にさえかき消されるほどの声量が、不自然によく響いた。
ガードナーの顔は、凍り付いている。笑顔のまま。突如起こった想定外の事態に対応できなくて、思考以外の行為を破棄したんだ。その証拠に、目の奥ではいくつもの感情が渦巻いているのが俺からでも分かった。
ぞっとするほど静まり返った倉庫。
数秒後、
イヒ、イヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!
耳障りな不快音が鼓膜の奥を引っ掻き回す。
それはまるで壊れたブザーのように、加減なんて知らず笑い続ける。いまの俺たちを見て楽しんでいるように、嘲るように、嗤い続ける。
ひとしきり嗤い。
満足した様子で、その煙は一気に爆散し空気へと溶けていった。
「……………」
「…………………」
「……。……、……っ、…………っ。」
誰も、何も言わない。俺も、ガードナーも、リーナでさえも。
三者三様。俺はあの人を見ていられなくて。リーナを見れば、彼女は唇をかんで顔を背けていて。そしてガードナーは、パクパクと壊れたように口を開け閉めしていて。
今この空間には、何という題名がふさわしいだろか。絶望と、希望の残骸と、濃すぎる悪意の残り香――個人的にはムンクの『叫び』以上に画にふさわしい空間だと思う。
などと、俺が現実逃避していると。
「……なぜだ」
うわ言の様に、かすれた声でガードナーが独り言ちた。
「儀式は……完璧だった……その、はずだ。どこにも、欠損は、なかった。そうだ。そうだったそのはずだぁっ! あれだけ時間をかけたんだ! どの文献にも矛盾なく合致した! 現にあいつの儀式は問題なく成功した! なぜだ、なぜわたしの儀式は成功しなかった!」
ギロリと、射殺すような血走った目が俺をとらえる。
足を引きずりながら俺へと近づく。口から泡を飛ばしながら、俺に食って掛かる。
「言え、言え! 何を知っている! どうして失敗した! 何が足りない!?」
「完璧だよ。どこも足りないところなんかなかった」
「嘘だ!」
「ホントだよ。……だから成功なんかしないんだ」
「――! ……――?」
ガードナーの狂気に、困惑が混じる。
息を落ち着かせ、一度大きく吸ったあと、俺は話す覚悟を決めた。
「ごめん。母さんが死んだって話、あれ嘘ついてたんだ」
チクリと、心臓が刺されるように痛んだ。
話すな。そう心が言っている。だけどそれをねじ伏せて、俺はその先を初めて人に話した。
「あんたには、母さんが悪魔を召喚したって話したけど、嘘なんだ。ホントは、……悪魔を呼び出したのは、俺なんだ。母さんの病気が魔法じゃ治らないって言われて、それでも死んでほしくなくてすがったんだ。一年かけてさ、父さんの禁書庫から本を盗み出して。うん、あんたと同じだよ。それで結果は知ってるだろ? 母さんは死んだ。俺が最初に見たのは、血まみれになって倒れた母さんの姿だ」
「………………」
「それで気づいたんだ。この方法そのものに欠陥があるって」
「それは……」
「簡単だよ。この方法でできるのは『悪魔を呼び出すこと』と『自分が襲われないこと』。ここまで言えばわかるだろう? その先がないんだよ。あいつらに契約を守らせるなんてことできないんだ」
そう。それこそがこの儀式の欠陥だ。
この術でできることは呼び出すことまで。強制力がない。あいつらに俺たちの言うことをきかせる方法そのものが、そもそも最初から存在しないんだ。
「……! だが、それでも、他の術者は、」
「財宝をくれ。知識をくれ。だろ? そういったやつらだって油断して悪魔に魂を取られてるんだ。目の前に生きた魂がいるのに、どうしてあんたの願いなんてわざわざ聞くんだよ。そもそも、無理やり呼び出されて願い通りのことするなんて奴らが悪魔にいるわけない」
「……だが。それなら拘束すればいい。言うことを聞かなければ苦痛を与えると、そうすれば……」
ああ、やっぱりそっちに行く。
そうやって踏み込んでいって、魂を取られるんだ。
だから、
「だから無理なんだよッ!」
「!?」
俺はあの人に、どうしようもない事実を突きつける。
「拘束したって何したって、あいつにサラさんを任せるんだから意味ないんだよ! 言うこときかせたって、その瞬間になったら立場は逆転するんだ! どんなに縛ったって意味なんてないんだよ! いい加減気づけよ! そんなに……」
「そんなに奥さん殺したいのかよ!」
思いっきりそう叫んで顔を上げたとき、彼は顔をくしゃくしゃにしていた。
血が出るほど唇をかみしめて、そして泣いていた。皮膚が裂けるくらい硬く拳を握りしめて、膝をつき、嗚咽を漏らしながら。
「……途中から、気が付いていたさ。この儀式が、悪魔の善意を前提にしていることは」
消え入るような声で、ガードナーが吐き捨てた。
「それでも、これしかなかったんだ。サラを救えるかもしれないのは、これしかなかった……ッ」
そうだ。俺が言ってることなんて解ってるに決まっているんだ。俺よりもずっと年上で、魔法の知識も豊富で、俺の持っている能力以外すべて勝ってる人がそれを理解してないはずないんだ。
気が付かないんじゃない。理解していないんじゃない。したくないんだ。本当は解ってるくせに。解決できない欠陥を見ないふりして進むんだ。
だって、それさえ無視すればすべてうまくいくから。
解決できないそれをどうにかできるって考えて、後戻りができないところまで進んでいくんだ。
「…………ガードナーさん」
彼の前に跪く。
いま、この瞬間だけだ。彼を引っ張り戻せるのは今しかない。
「ミシェルが、言ってたんだ。パパは何でも知ってる。いつも正しくて偉くて、自慢のお父さんなんだって。今度、あなたとサラさんと一緒にケーキを作るんだって」
「………………」
「だから……お願いしますっ、これ以上ミシェルを泣かせないでください。あの子とサラさんの残り時間を、こんなことですりつぶさないでください……っ」
「――――」
「最後まで、自慢の夫と父親でいてください……っ!」
いつの間にか、俺まで嗚咽を漏らしていた。
涙が、止めようとしても言うことを聞いてくれなかった。
だって、こんなのあんまりだ。最愛の人を誰よりも助けたいと思ってやっていたことが、実は彼女を殺すための儀式だったなんてあんまりだ。それに囚われるなんてあんまりだ。
彼の想いは間違いなんかじゃないのに、その先にあるのが破滅だなんてあり得ない。解っていても止まれないなんて、そんなの嘘だ、理不尽すぎる。
「………ううっ。ひっく………、うう……」
「……」
どれくらい、俺は泣いていただろう。
「ああ、そうだった」
ケーキは来週だったな――そう呟いたガードナーさんが、そう言って優しく俺の頭を撫でた。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説


もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです
青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる
それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう
そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく
公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる
この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった
足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で……
エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた
修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た
ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている
エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない
ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく……
4/20ようやく誤字チェックが完了しました
もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m
いったん終了します
思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑)
平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと
気が向いたら書きますね
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

白い結婚をめぐる二年の攻防
藍田ひびき
恋愛
「白い結婚で離縁されたなど、貴族夫人にとってはこの上ない恥だろう。だから俺のいう事を聞け」
「分かりました。二年間閨事がなければ離縁ということですね」
「え、いやその」
父が遺した伯爵位を継いだシルヴィア。叔父の勧めで結婚した夫エグモントは彼女を貶めるばかりか、爵位を寄越さなければ閨事を拒否すると言う。
だがそれはシルヴィアにとってむしろ願っても無いことだった。
妻を思い通りにしようとする夫と、それを拒否する妻の攻防戦が幕を開ける。
※ なろうにも投稿しています。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる