『魔法使いと植物図鑑― The Mage and Magic arts Tree book ―』

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第1章 Departure for the Fantastic World

第57話 禁忌の契約印(6)

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 真っ黒な煙玉が、三角形召喚陣の中から天井に向かって打ちあがった。



 まるでそれは、水の中にインクを垂らしたように、黒い靄の軌跡を大気中に残す。カナリヤの一羽がけたたましい声で鳴き、撒かれた霊水が音を立てて燃え上がる。

 同時に、
 


 ケヒヒヒヒヒヒィィ――――ィィイ!
 

 金属を金属で掻きむしったような、そんな耳障りな〝声〟が脳内を直接揺さぶった。
 発生源はもちろん目の前のこの黒い煙だ。いや、正確に言えばこれは煙なんかじゃない。だ。この世に存在できない悪魔を繋ぎとめるための霊水、そして存在可能な空間となる三角召喚陣――この二つがそろってようやく悪魔はこの世界にとどまることができる。

 不完全な形で、三角召喚陣の中のみで、という条件付きだけれど。
 そう。これだけ手順を踏んでも、完全な状態での召喚は不可能だ。正確なグリモワールはすでに消失していて、見つかっていない。ほとんどが複写を何十回も複写していったものだ。そもそも、完全に呼び出す方法を魔術師や魔法使いが他人に解るように書き残すわけがない。

 それでも、いまこの状況に限って言うなら、この状態でも十分に可能だ。

《…………………》

 煙の中から三つの目が現れる。見るものを吸い込んでしまいそうな真っ赤な目。

「――――うっ…………痛っ」

 左腕の傷が痛んだ。まるで焼けた鉄を押し付けられているかのように、左腕が熱い。だけどこれは代償なんかじゃない。この程度で済んでいるのは、俺が一度悪魔とパスをつないでいるからだ。

 流れ込んでくる狂気に本能が訴える。
 身体に支障を生じさせてまで、本能がコレを拒絶する。

 目の前のこれは、俺たちが対峙してはいけない〝何か〟なのだ。つながりを切れ。拒絶しろ。追い払え。命を食い尽くされるよりも前に。
 だけどその生理的嫌悪感を押し殺して、俺は悪魔を睨みつける。

 今ここでパスを切れば、この儀式は失敗する。
 もう儀式自体は、俺の制御下にはない。命令する内容は、叶えるべき願いは術式の中にもう組み込んである。いま俺にできることは、あの悪魔とのパスをつなぎ続けることなのだ。皮肉にも、あの悪魔が不自由なく力を行使できるように。

《…………、……。……。……、……、……。》

 どれだけ睨み合っていただろうか。
 唐突に、煙が苛立たし気に三つ目を細めた。不自由そうに身体をくねり、周りを飛び回ろうとする。だけどそれはできない。それをさせないための陣でもあるのが、その三角召喚陣なのだ。自身が拘束され自由には動けない――そう解ると、悪魔は段々と高度を下げ、地面へと近づいてくる。

 そこにおいてあるのは、二つの鳥かご。一方は死にかけで、もう一方は健康体のカナリヤ。

 やることは解っている。悪魔にはちゃんと伝わっているはずだ。
 今から行うことは、言ってみればガードナーが組み立てた儀式のリハーサルだ。触媒が霊水、サラさん役が死にかけのカナリヤ、元気な方が子供役となり、儀式の肩代わりをしてくれる。

 これから起こることは、ガードナーが引き起こすかもしれなかった未来だ。
 もしガードナーが強行していたらどうなったのか、その結末だ。

《………………ケケ》

 馬鹿にするように、煙が嗤う。
 二筋の煙が腕のように伸び、曲がり、二つの鳥かごに近づいていき――、
 ちょんと、二つのかごを軽くつついた。

 途端に、一羽が凍り付いた。
 いまのいままで元気に跳ねていたカナリヤが、まるで剥製にでもなったかのように硬直した。踏ん張っていた足が外れ、止まり木からかご底へと落下する。

 落下したその音は、今さっきまで生きていたとは思えないほど硬いものだった。
 すると、

 ――……ぴ、ぴぴぴ、ピュ、ピュィ、ピュルルルルィ――

 あり得ないことが起きた。
 ピクリと、もう一方のカナリヤの羽が動いた。今さっきまで眠っていたかのように頭をもたげ、何事もなかったかのようにその体を起こし鳴き始めた。

 それはあり得ないことだ。あってはいけないことだった。
 何があり得ないのか――なぜならその個体は、今さっきまで死ぬ直前まで衰弱死していたはずだからだ。

 そんな個体が、何事もなかったかのように起き上がれるはずがない。そして今さっきまで元気に鳴いていた個体が、まるで初めから生きてなんかいなかったように横たわっているはずがない。

 元気な個体が死に、瀕死の個体が生き返った。
 それはまごうことなき、命の交換だった。

 科学の力では、魔法の力では、人の力では決して起こりえない奇跡が再現された。

「……ふ……くく……ははは、ははははははは!」

 割れんばかりの声で笑いだしたのはガードナーだった。

「やったぞ! やはり正しかった。召喚術は成功した!」

 震える足で立ち上がり、満面の笑みを浮かべる。
 その顔は技術者のそれだ。真理を追究する魔法使いの浮かべる顔。だけど、俺が見てきた中で一番危うくて不安定でぎらついた顔だ。こいつはどこかおかしい――ひと目見てそうわかってしまうほど何かが欠如している。

 人としての何かが、決定的に欠落した、禁忌を犯した者の顔。

「はははは、何が失敗するだ何が望みはかなわないだ! 完全な儀式でそんなこと起こるはずがない!」

 嘲笑の混ざった高笑いをしながら、わが子を迎えるように、ガードナーはふらつく足取りで魔法円に近づく。その時、ガードナーと俺の視線が交錯した。

 その顔はやっぱり、俺が知ってるあの人のものじゃなかった。まるで悪魔に憑かれたみたいにギラついた目と口だ。薬を求める中毒者のよう。この十数分で、別人のように印象が変わった。

 余計に見ていられなかった。そこまで渇望したものが目の前にあって、それに手を伸ばそうとする彼が不憫でならなかった。
 俺は知っている。

 もう少しで、あのカナリヤは……。

「これで、これでサラも――」

 瞬間、



 パシャリ。
 水音を立てて、鳴いていたカナリヤが



 …………。
 ……。
 …………………………凍り付いたような表情、目の前で彼の浮かべる表情以上にその言い回しにふさわしい顔は、きっと今後何十年たっても現れない。

「――…………は?」

 掠れて裏返った、声とも呼吸音ともいえる微か音。
 靴音にさえかき消されるほどの声量が、不自然によく響いた。

 ガードナーの顔は、凍り付いている。笑顔のまま。突如起こった想定外の事態に対応できなくて、思考以外の行為を破棄したんだ。その証拠に、目の奥ではいくつもの感情が渦巻いているのが俺からでも分かった。

 ぞっとするほど静まり返った倉庫。

 数秒後、


 イヒ、イヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!


 耳障りな不快音が鼓膜の奥を引っ掻き回す。
 それはまるで壊れたブザーのように、加減なんて知らず笑い続ける。いまの俺たちを見て楽しんでいるように、嘲るように、嗤い続ける。

 ひとしきり嗤い。
 満足した様子で、その煙は一気に爆散し空気へと溶けていった。

「……………」

「…………………」

「……。……、……っ、…………っ。」

 誰も、何も言わない。俺も、ガードナーも、リーナでさえも。

 三者三様。俺はあの人を見ていられなくて。リーナを見れば、彼女は唇をかんで顔を背けていて。そしてガードナーは、パクパクと壊れたように口を開け閉めしていて。

 今この空間には、何という題名がふさわしいだろか。絶望と、希望の残骸と、濃すぎる悪意の残り香――個人的にはムンクの『叫び』以上に画にふさわしい空間だと思う。
 などと、俺が現実逃避していると。

「……なぜだ」

 うわ言の様に、かすれた声でガードナーが独り言ちた。

「儀式は……完璧だった……その、はずだ。どこにも、欠損は、なかった。そうだ。そうだったそのはずだぁっ! あれだけ時間をかけたんだ! どの文献にも矛盾なく合致した! 現にあいつの儀式は問題なく成功した! なぜだ、なぜわたしの儀式は成功しなかった!」

 ギロリと、射殺すような血走った目が俺をとらえる。
 足を引きずりながら俺へと近づく。口から泡を飛ばしながら、俺に食って掛かる。

「言え、言え! 何を知っている! どうして失敗した! 何が足りない!?」

「完璧だよ。どこも足りないところなんかなかった」

「嘘だ!」

「ホントだよ。……だから成功なんかしないんだ」

「――! ……――?」

 ガードナーの狂気に、困惑が混じる。
 息を落ち着かせ、一度大きく吸ったあと、俺は話す覚悟を決めた。

「ごめん。母さんが死んだって話、あれ嘘ついてたんだ」

 チクリと、心臓が刺されるように痛んだ。
 話すな。そう心が言っている。だけどそれをねじ伏せて、俺はその先を初めて人に話した。

「あんたには、悪魔を召喚したって話したけど、嘘なんだ。ホントは、……。母さんの病気が魔法じゃ治らないって言われて、それでも死んでほしくなくてすがったんだ。一年かけてさ、父さんの禁書庫から本を盗み出して。うん、あんたと同じだよ。それで結果は知ってるだろ? 母さんは死んだ。俺が最初に見たのは、血まみれになって倒れた母さんの姿だ」

「………………」

「それで気づいたんだ。この方法そのものに欠陥があるって」

「それは……」

「簡単だよ。この方法でできるのは『悪魔を呼び出すこと』と『自分が襲われないこと』。ここまで言えばわかるだろう? んだよ。あいつらに契約を守らせるなんてことできないんだ」

 そう。それこそがこの儀式の欠陥だ。
 この術でできることは呼び出すことまで。強制力がない。あいつらに俺たちの言うことをきかせる方法そのものが、そもそも最初から存在しないんだ。

「……! だが、それでも、他の術者は、」

「財宝をくれ。知識をくれ。だろ? そういったやつらだって油断して悪魔に魂を取られてるんだ。目の前に生きた魂がいるのに、どうしてあんたの願いなんてわざわざ聞くんだよ。そもそも、無理やり呼び出されて願い通りのことするなんて奴らが悪魔にいるわけない」

「……だが。それなら拘束すればいい。言うことを聞かなければ苦痛を与えると、そうすれば……」

 ああ、やっぱりそっちに行く。
 そうやって踏み込んでいって、魂を取られるんだ。
 
 だから、

「だから無理なんだよッ!」

「!?」

 俺はあの人に、どうしようもない事実を突きつける。

「拘束したって何したって、あいつにサラさんを任せるんだから意味ないんだよ! 言うこときかせたって、その瞬間になったら立場は逆転するんだ! どんなに縛ったって意味なんてないんだよ! いい加減気づけよ! そんなに……」




「そんなに奥さん殺したいのかよ!」



 思いっきりそう叫んで顔を上げたとき、彼は顔をくしゃくしゃにしていた。
 血が出るほど唇をかみしめて、そして泣いていた。皮膚が裂けるくらい硬く拳を握りしめて、膝をつき、嗚咽を漏らしながら。

「……途中から、気が付いていたさ。この儀式が、悪魔の善意を前提にしていることは」

 消え入るような声で、ガードナーが吐き捨てた。

「それでも、これしかなかったんだ。サラを救えるかもしれないのは、これしかなかった……ッ」

 そうだ。俺が言ってることなんて解ってるに決まっているんだ。俺よりもずっと年上で、魔法の知識も豊富で、俺の持っている能力以外すべて勝ってる人がそれを理解してないはずないんだ。

 気が付かないんじゃない。理解していないんじゃない。。本当は解ってるくせに。解決できない欠陥を見ないふりして進むんだ。

 だって、それさえ無視すればすべてうまくいくから。
 解決できないそれをどうにかできるって考えて、後戻りができないところまで進んでいくんだ。

「…………ガードナーさん」

 彼の前に跪く。
 いま、この瞬間だけだ。彼を引っ張り戻せるのは今しかない。

「ミシェルが、言ってたんだ。パパは何でも知ってる。いつも正しくて偉くて、自慢のお父さんなんだって。今度、あなたとサラさんと一緒にケーキを作るんだって」

「………………」

「だから……お願いしますっ、これ以上ミシェルを泣かせないでください。あの子とサラさんの残り時間を、こんなことですりつぶさないでください……っ」

「――――」

「最後まで、自慢の夫と父親でいてください……っ!」

 いつの間にか、俺まで嗚咽を漏らしていた。
 涙が、止めようとしても言うことを聞いてくれなかった。

 だって、こんなのあんまりだ。最愛の人を誰よりも助けたいと思ってやっていたことが、実は彼女を殺すための儀式だったなんてあんまりだ。それに囚われるなんてあんまりだ。

 彼の想いは間違いなんかじゃないのに、その先にあるのが破滅だなんてあり得ない。解っていても止まれないなんて、そんなの嘘だ、理不尽すぎる。

「………ううっ。ひっく………、うう……」

「……」

 どれくらい、俺は泣いていただろう。

「ああ、そうだった」




 ケーキは来週だったな――そう呟いたガードナーさんが、そう言って優しく俺の頭を撫でた。

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