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第1章 Departure for the Fantastic World

第56話 禁忌の契約印(5)

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 ダメだ、もう動きたくない――身体中がそう悲鳴を上げている。

 魔法薬の効果は既に切れ、頭が割れるような痛みと全身が鉛になったような倦怠感が襲っている。どくん、どくん、とこめかみの血管が拍動し、鼓膜の奥に心臓の鼓動が直接響いている。あれだけ早鐘を打っていた鼓動は、まるで止まってしまいそうなほど遅く時たまリズムが狂う。リズムが乱れるたびに、心臓を突かれたような痛みが走った。

 キーンという耳鳴りも止まらない。眼の血管が切れたのか、視界の縁がわずかに赤い。肺もそうだ。自発的に肺を膨らませなければ、呼吸そのものが止まってしまう確信があった。意識だって、少しでも気を抜けば持っていかれる。暗く深い場所から無数の腕が伸びて、俺の意識を引きずり込もうと躍起になっている。

 だけどこれでも、副作用としては精いっぱい軽減させた方なのだ。自我はあるし、肺も心臓もつぶれていないのがその証拠だ。まったく、これで症状が軽い方とはどれだけふざけた魔法なのかがよくわかる。

 もうちょっと。もうちょっとだから。
 そう言い聞かせ、仰向けになっていた身体を無理やり起こした。全身に鈍痛が走り、「うぅっ」という堪えきれなかったうめきが漏れる。そばに落ちていたカタナをつかみ、杖のように突き立てて何とか立ち上がる。

「ううぅ、あったま痛っ」

 立ち上がったところで、目をつむり大きく深呼吸する。一度、二度、三度。少しだけ平衡感覚と身体の力が戻るのが分かった。
 カタナに込めていた力を抜いてみる。ふらつくけれど、倒れこむほどじゃない。

 荒い息を突きながら、

「はぁ……はぁ……さんきゅー、リーナ」

 一番の功労者に、感謝の意味を込めて腕を伸ばし親指を突き立てた。
 あの一瞬、あのチャンスを創るために協力してくれた相棒。あの一瞬を創り出すことができたのは、たった数センチの棒きれに銃弾を当てることができる腕のおかげだ。

 リーナがいなければ、この作戦はできなかった。ガードナーを俺の手で止めることはできなかった。散々なやられ様の俺よりも、よっぽどカッコいい。

「ナイスショット、……助か、った」

 ジャッコンッ――――ッキィン……カララ

 息も絶え絶えな俺の言葉に応えるたのは、排莢と再装填、そして空薬莢が落ちて転がる音。月光に照らされたリーナが立ち上がる素振りはない。どうやらまだ引き続いて、俺の援護をしてくれるらしい。

 頼もしい弟子兼相棒の厚意に追加で感謝をしながら、俺はふらつく足取りでガードナーに近づく。途中で折れた二本目の杖を踏み、二度と拾えないように足で遠くに蹴っ飛ばす。かなり大きな音がしたがガードナーに反応はない。脳震盪と、渾身の顔面右ストレートのダブルパンチで気を失っているようだ。

 ガードナーのもとにたどり着き、しゃがみこんで彼の懐に手を突っ込む。探しているものはひとつ。彼の性格なら、他の人に持たせるようなことはさせないはずだ。必ず、すぐに手が届く場所にしまっているはず……。

「……あった」

 ジャラリ、という金属束がこすれる音と硬い感触。それは内側の胸ポケットにあった。
 引き抜き、姿を現したのは、丸い金属棒に数本鍵がぶら下がった鍵束。それは俺たちが入っていた檻の鍵とは違い、錆ひとつない。この世界ではなく俺が来た世界で製造された、魔法具を開けるための専用鍵だ。

 鍵束から無作為に鍵を選び出し、首の枷に突っ込む。四本目の角ばった鍵がするりと入り、奥に当たったのが分かった。

 左に回す。
 カチリ――中でロックが外れた音がした。

 枷は力を失ったようにパカリと真っ二つに開き、噛みついていた俺の首から抜け落ちる。すっかりぬるくなった金属の感触が離れる。
 数時間ぶりに首に触れた空気は、まるでそこだけが氷を当てたように冷たい。最後のあがきとばかりに、けたたましい金属音が倉庫内に木霊した。

「…………んっ、うう……ぅあぁぁ……」

 すると、鼓膜を突く固い音に刺激されたのか、仰向けで気を失っていたガードナーがうめき声をあげた。

 右腕が、左腕が、芋虫が這うような速度で床をこする。何かを探していたのだろうか。ガードナーは十秒ほど両手を地面に這わせていた。その後、力尽きた様子で両腕がまた地べたに横たわる。

 それでも何とか動こうとしたのか、今度はうめき声をあげながら身体を横向きに起こし右腕を地面に突き立てた。左手で頭を押さえているけれどその眼は虚ろ。突き立てた右手は重さに耐えきれないように小刻みに震えている。

 満身創痍――今のガードナーの姿を現すにはその言葉以外思いつかなかった。

 何とか上半身だけを起こしたガードナーがうわ言の様に「つえ、つえ」と呟いた。やっぱり頭が混乱しているらしい。とりあえずそれ以上言葉をかけることはやめにして、俺は腰の薬品ポーチから一本の薬瓶を取り出し栓を開けた。

 オレンジとペパーミントの混ざったような独特の薬品臭が鼻を衝く。オレンジ色の中身を一気に飲み込むと、まず感じたのは苦みと舌にこびり付くような粘つく甘味、そして喉を焼くようなカァッ、という熱さに似た錯覚だ。何度飲んでも不味い味に思わず顔をしかめる。

 同時に、身体が少しずつ楽になっていくのが分かった。俺が今飲んだのは、体内のオドを調整する魔法薬だ。身体に吸収されていけば、通常の何百倍もの速さで傷や不調を直してくれる。いまの倦怠感が取れるのに、十分もかからないだろう。
 とはいうものの、根本的な副作用を治すにはもう数日かかるはずけど。

「まっずいなぁ、やっぱ。調合ミスったかな」

 自分で調合したのだからそんなはずはないとわかっているけれど、やっぱりこのあまりのまずさについ悪態が口からこぼれ出た。
 深く息を吐き、身体を落ち着けること数分。

「……く、そ」

「ん?」

 上半身を起こしたまま動かなかったガードナーの口から、ようやくまともな言葉が紡がれた。

「下手に動かない方がいいよ。次、頭を打ったら多分ヤバいから」

 それでも、放っておくと勝手に自滅しそうなので、俺はとりあえずそう声をかける。
 ここで気を失ってもらっちゃ意味がない。どちらかといえば、俺の仕事はここからだから。

「それと、魔法もノー。杖は折ったし、俺の相棒も向こうから見張ってる。さっきの見たろ?俺をどうにかする前にあんたが死「どう、して……どうしてこんな時に邪魔をするんだ!」

 悲痛な叫び声が、俺の言葉を上書きした。
 その頬を伝って大粒の涙が走り、次々と地面にこぼれ落ちていた。
 残った窓ガラスが揺れたかと思うくらいの、叫びにも似た声。しかしそこに闘気はなく、あったのは俺に対する怒りと焦りの感情だった。

「君に不利益はなかったはずだ! 君は止めようとしたが失敗し拘束された、そう言えば何の懲罰もないだろうっ。だというのに、どう、して、どうして邪魔をするんだ! 法か!? 倫理か!? そんなもので妻は救えない! 悪魔たちとのパスを繋ぐことになる? それは可能性の話でしかないっ! 妻は死ぬんだ、確実に! そんな不確かな可能性でここまで用意した機を逃してたまるか! 約束する。贄に子供は使わない! わたしの財産ならすべて譲る! わたしがすべて罪をかぶる! 君に不利益な情報は一切漏らさないと誓おう! だから、だから……っ!」

 矢次に飛び出したのは、俺が止めた理由と恨み。だけどそれも最初だけだった。後半には怒気といった感情は消え失せ、ただひたすらに俺へと懇願していた。

 悲痛な声で、すがるような目で、プライドなんか殴り捨てて、三十以上年の離れたクソガキに向かって頼み込んでいた。しかも自分の計画をご破算にした張本人にだ。

「――――頼む、ハル。お願いだ…………サラを救わせてくれ」

「――――っ」

 思わず顔をそむけた。見ていられなかったから。

 彼が間違えたのは方法だけなのだ。その奥底の感情は、恥も外聞も捨ててでも愛する人を助けたいと思う気持ちは間違っていないはずなのだ。
 だから直視できなかった。なぜと訊かれたら答えられないけれど、ただこの人のこんな顔を見たくなかった……いや、理由なんて解ってる。

 聞けば聞くほど、この後の結末が彼にとって地獄になるということを痛感してしまうからだ。
 だって今から俺がすることは、彼の最愛の人の死刑宣告をするに等しいのだから。

「だから、無駄なんだよ。この方法じゃ絶対成功なんか、」

「そんな、そんなはずはない……っ! 召喚陣は完璧だ。確実に呼び出せるはずだ! 悪魔の能力を考えたとしても、わたしの願いは決して無謀なものじゃないはずだ! 現にわたしは見ている! この目でその奇跡を見た! 失敗する理由すらないんだ!」

「あるよ。もっと根本的な欠陥が」

「何を根拠に――っ」

 ガードナーの悲痛な声を断ち切るように立ち上がる。そしてそのまま、痺れる足を引きずりながら歩きだす。
 向かう場所は、もちろん『魔法円』。その円の中心だ。

「いま見せてやるよ。悪魔と取引するってのがどういうことなのか。どうして成功しないのか」

 杖を取り出し、手首のスナップで二回振る。すると奥に積まれていた荷物の一部が浮き上がり、磁石に引き連れられる鉄くずのように俺へと飛んできた。

 飛んできた塊は二つ。杖を口にくわえて両手を自由にし、開いた両手で一つずつつかむ。飛んできた塊は、布に包まれた半球状のものだ。そのままかかっている布を落とす。布がずれ落ち、武骨な骨組みが露わになる。

 これは鳥かごだ。文字通り、鳥を閉じ込めるための〝かご〟。
 そしてその中には、一羽ずつ小鳥が入っていた。種類はカナリヤ。その内一羽は突然の移動に警戒してせわしなく動く。対してもう一羽はぐったりとして動かない。

「――! まさか、君はっ」

 二羽のカナリヤを見ただけで、ガードナーは何をするつもりなのか察したようだ。さすが開発職についていただけある。
 二つのかごを、刻まれた三角形の陣内に置く。そして陣の中に、高純度の〝世界樹の涙〟という触媒を撒く。撒いた量は小瓶一本分ほどだ。金額にすれば、これだけで俺の給料二年分になる。

「大丈夫だって。誰も見てなければ、一回くらいやったって《俺は》バレないんだ」

「それはどういう――!?」

 ガードナーが絶句する。
 それは、俺の左腕を見たから。

 戦闘服の上を脱ぎ捨てる。タンクトップのような格好になり、左腕の特殊布を引き裂く。

 俺の左腕に刻まれているのは、禍々しい痣だ。

 腕から肩まで這う禍々しい青い痣。炎で焼かれたようにも、皮膚を無数のフォークで突き刺し裂いたようにも見える傷。
 これは魔創じゃない。悪魔をその身に宿したものに刻まれる痣だ。一生消えない咎人の証。忌み嫌われ、蔑まれる人生を送ることを宣告する無慈悲で残酷な印。

 別名、〝魔女の契約印〟

「その印……まさか君は……」

「ちょっとは信じる気になっただろ? まあ見てなって。嫌でもすぐに分かるからさ」

 ガードナーに向かってニヒルに笑い、俺は魔法円の中心に立った。
 目をつむる。視覚を、聴覚を、嗅覚を意識的に排除していく。ガードナーの相手は完全にリーナ任せだ。そうでもしないと、成功しない。

 なんだ。できる限り、あの時と同じ状態にしたい

「――――すぅぅ……ふっ」

 大きく息を吸い、深呼吸を二、三度。魔法薬のおかげで、体内のオドはそれなりに整っていた。

 ――大丈夫、いける。

 そう自分に言い聞かせ、

「霊よ! われは偉大なる力の以下の名において前に命ずる。速やかに現れよ」

 召喚の呪文を紡いでいく。

「アドナイの名において、エロイム、アリエル、ジェホヴァム、アクラ、タグラ、マトン、オアリオス、アルモアジン、アリオス、メムブロト、ヴァリオス、ピトナ、マジョドス、サルフェ、ガボツ、サラマンドレ、タボツ、ギングア、ジャンナ、エティツナムス、ザリアトナトミクスの名において、いま扉は開かれた」

 この意味不明な呪文は、悪魔を向こうの世界から無理やり引きずり出すためのものだ。エネルギーを、マナが高濃度に濃縮された霊水という触媒でブーストさせ、もっとたくさんある手順をすっ飛ばすという乱暴な儀式。
 それはつまり、俺自身にかかるセーフティーを必要最小限まで取り払ったということだ。
 いうまでもなく、召喚方法の中でも最も危険な部類に入る。

 だけどこの方法なら、確実に悪魔を引きずり出せる。

「汝が本物なのだというのなら、その力を示せ!」

 詠唱が終わる。
 術が俺の制御下から離れ、半ば自動的に動き始める。

 まるで水を打ったかのように、ほんの一瞬、静寂があたりを支配した。
 刹那、



 真っ黒な煙玉が、三角形召喚陣の中から天井に向かって打ちあがった。

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