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第1章 Departure for the Fantastic World
第53話 禁忌の契約印(2)
しおりを挟むガードナーが杖をふるうと、事象が改変され魔法が発動した。
現れたのはうすぼんやりと光る空気の膜。ところどころ欠けているのは、あれがついさっき俺の攻撃を防いだ残骸だからだ。
一瞬にして膜に亀裂が走り、ガラスのように粉砕される。とがった破片がまるで重力なんてないかのようにその場に静止、一つ一つに意思があるかのように破片の先が同じ場所を向く。
その直線上にいるのは俺。つまり狙いは俺。
ヒュッ! という空気の裂ける音が一足先に届く。その音そのものを弾く勢いで、俺はカタナを振りぬいた。
ビリリと、腕がしびれた。
真っ黒な刀身が、あの破片に当たってはじき返したのだ。
「――――クッ!」
しびれる腕を無視し、身体をひねったカタナを腕ごと身体の前に戻す。そうせざるを得なかったのは、引き延ばされた灰色の世界でまだいくつもの破片が俺を狙っていることを認識したからだ。一つ、二つ、三つ……直撃しそうなのは七つか。
引き延ばされた時間間隔の中では、身体を動かすという行為そのものがまるで水の中で腕を振っているように重い。だけどそれは主観的な話で、周りから見れば俺の身体はあり得ない反応速度で動いているはずだ。
一つ、二つ、三つ。
直撃打となる破片の矢を捌いていく。
四つ、五つ、六つ。
一つは軌道を逸らして、次は天井に打ち上げて、その次は身体ギリギリの距離でカタナの刀身上を滑らせる。それでも間に合わない七撃目が足元を狙う。
思わず振りぬいた。再びビリリ! という衝撃が手のひらを伝って腕全体を麻痺させる。直撃しないと捌かなかった破片たちが、腕の、足の、頬の表面を撫でて後ろの壁に突き刺さる。
止めていた息を吐くと、引き延ばされていた灰色の世界が濃縮される。薄まっていた色が戻り、空気の密度が軽くなる。鉛のようだった身体が、羽毛のように軽くなる。まるでいきなり重力を振り切ったみたいだ。
「――――カハッ! うぇ、はぁっ、はぁっ」
コンマ数秒遅れて身体の感覚が戻る。死角と聴覚以外の情報が、押しとどめていた分も加算され一斉に脳内へと叩き込まれた。直後、心臓が破裂したような錯覚を抱く。
熱い。
身体が火であぶられているように痛い。肌が焼け付いて縮んでいくような錯覚にかられる。だけど、別に動揺はしない。なぜならこの副作用こそが、この魔法が正常に働いている証拠だからだ。
視界は高熱が出た時のようにグラグラと揺れ、誰かが勝手にピントをいじくりまわしているかのようにボケては定まってを繰り返す。こんな時になって、首を絞めつける枷の冷たさがありがたく感じた。
でもその代償と引き換えに身体は異常なほど軽い。足先に跳ね返ってくる重みは、とても全体重とは思えないほど軽く、柔らか。身体に当たっているはずの風は、まるで実体がないように身体の中をすり抜けていく。空気抵抗という概念がなくなってしまったかのようだ。
ガードナーの言う通り、この魔法は数十年前の大戦で使われ、そして廃れたものだ。魔法薬を服用することで一時的に獣人と同等の能力を得ることができる。だけどその代わりとして、身体が使い物にならなくなるだけじゃなく廃人化のリスクもある。こんな魔法をだれが使いたがるのか。人体実験ではなくするために、薬なのに『魔法』と称するやり方にも闇を感じる。
俺がこれを使えたのは、偶然副作用の効果を軽減させる植物を知っていたからだ。知っていたというより、もしかしてと思って試したら成功した、という方が正しいかもしれない。よくもまぁ、廃人になる可能性があるのに自分で試したと今でも思う。もう一度あの場に戻っても、自分じゃ絶対に使わない。
――クッソ! 足りない!
攻撃と攻撃の境目、刹那の瞬間に思わず漏れたのは舌打ちだった。このままではジリ貧なのだと、いやというほど理解せざるを得なかったからだ。
はっきり言おう。俺じゃこの人に勝てない。
『フェア』なんて言葉は嘘だ。ハッタリだ。正しくは、現状維持が何とかできる――にすぎない。いま俺が立っていられるのは、ガードナーが戦闘職でないからだ。こと戦闘に関する勘に俺が少しだけ敏感だからだ。こんな状況下だからこそ、俺の使える手段を全部使って、あの人の隙を突いて、やっと〝倒されない〟という状況が作れる。互角じゃない。相手を倒す隙なんて絶対にひねり出せない。
魔法の知識は明らかに向こうが上で、その気になればこの場所ごと吹き飛ばすことだってできる。あの障壁魔法を開発したという事実こそが、俺なんかよりもよっぽど魔法に精通している証拠だ。
だからこそ、こんな方法にすがってしまったんだ。
魔法の限界をよく知っているからこそ、魔法に見切りをつけたんだ。
魔法とは、言い換えれば理を組み替える行為だ。
切り刻み、継ぎはぎして、望むものに組み替える。本来なら起こるはずのない現象を、神の奇跡を再現させる。魔法が物理や化学と根本的に違う分野とされているのはそういう理由だ。
でもそれは、ひどく歪なものだ。考えれば簡単なことだ。元の理を切り刻んでいるのだから、元の形よりも安定したものになるはずがない。
なら、歪な形を造り出すには? それを維持するには?
少し考えればわかることだ。膨大なエネルギーが必要になる。得てして魔法とはそういうものだ。
理を解体するために、組み替えるために、維持するために、それぞれの過程ごとに膨大なエネルギーが必要になる。そのエネルギーとなっているのがマナと呼ばれるものだ。そして望む魔法が現実から離れれば離れるほど、事象改変が大きくなればなるほど、要するマナは指数関数的に膨れ上がる。
魔法に対して理解の無い人ならば、それでも魔法にすがっただろう。
この人だからこそ、理解してしまったんだ。どう頑張っても、魔法で妻を救えないと確信してしまったんだ。
病の原因も、有効な治療法すらも不明。それでも治すというのなら、身体中の細胞を入れ替えるくらいのことをしなければいけない。それを魔法で行おうとすれば、どうなるのか……。
それを知っているからこそ、あの人は魔法を見限ったのだ。自分の求めている結果を得るには、どんな方法を使ったとしても実現できないと理解してしまったから。
そして、悪魔の召喚《あの方法》に出会ってしまった。
最悪の状況で、最悪のものに、出会ってしまった。
いつもなら跳ね除けられるような悪魔の誘いが、心の隙を突いて入り込んでしまった。
解ってる。あの方法が禁忌であることなんて俺にもわかってる。だから止めた。それが魔法士としての義務だからだ。あの人に道を踏み外してほしくなかったから。
だけど、それは表向きの言葉だ。いや、本心じゃなかったと言った方が近い。
多分、もし本当に儀式が成功するなら、俺は止めないし、目をつむっていた――その自信がある。
だって、あの人の気持ちは痛いほど解るから。俺には、彼を蔑む資格すらないのだから。
でも、あの方法だけはだめなんだ。
ほかの方法は知らない。絶対に失敗するなんて俺には断言でいないから。もしかしたら、俺の知らない方法で成功することがあるのかもしれない。でもあの方法だけは断言できる。だってあの方法には、構造的な欠陥があるから。
俺は一度、その末路を見てしまっているのだから。
もしあの場でこのことを話せていたなら、もしかしたらこんなことしなくてよかったのかもしれない。
でも言えなかった。口から出たのはきれいごとばかりで、本当に言いたかったことは喉元まで上がって奥に引っ込んでいった。きれいごとしか出なかったのは、きっと俺自身が直視したくなかったから。俺の本心は、口から出た言葉とは真逆だったから。
それを話してしまえば、俺自身も《また》あの方法に囚われてしまいそうな気がしたから。
――ハル、おいで。ご飯ができたわ。お父さんを呼んできて――
礫を捌いていく中に生まれた刹那の空白で頭の中に木霊した幻聴。穏やかで、温かくて、やさしい声。忘れもしない。母さんの声。
死んでほしくなんかなかった人。もっともっと甘えたかった人。もっと抱きしめて欲しかった人。ほめて欲しかった人。ありがとうって言いたかった人。
俺の中で、たとえ禁忌を冒してでも取り戻したいと思える唯一の人。
ああ、やっぱりだめだ。
まだあの方法にしがみつこうとしてる。
あの人に偉そうに説教できる理由も資格も、彼に勝る意志さえも、俺には何一つない。
――《やっぱ》、勝てないや。
そう思った直後、
「――うっ!?」
ガクンと、膝の力が抜けた。
同時に、身体が鉛のように重くなる。大の大人に何人も飛び乗られたかのように。視界がぐらつくと、体温が急激に下がっていくように感じた。身体中から血が一気に抜けていくようだ。数拍遅れて、キーンという耳鳴りが始まり、視界に砂嵐のようなノイズが走る。
それが何を指しているのか、俺にはよくわかった。時間切れだ。
薬の効果が切れて、今度は先送りにしていた疲労とダメージが一気に襲ってくる。こうなったらもう戦うどころじゃない。予想よりも少し早かった。
何とか正面の攻撃は土壇場で捌き切った。しかしその直後、別方向から撃ち込まれた風の弾丸が俺の横っ腹を下から殴りつけた。
でも、
「………………」
チラリと、周りを見渡す。
今の立ち位置、状況、ガードナーの注意力。
――……何とか《及第点》かな?
《予定通り》、俺の身体は吹き飛ばされ宙を舞った。
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