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第1章 Departure for the Fantastic World
第26話 Ancient Lost beasts(4)
しおりを挟む目の前の霧は、気体というよりも壁という方が正しいような気がする。
風に乗せられて薄まるということは無い。まるで細かい水の粒ひとつひとつが糸でその場所につながれているみたいに、真っ白な壁を作っている。霧の向こうは何も見えない。昨日の迷い霧の森とは大違いだ。あれも大概だとは思うけれど、こっちと比べてしまうとどうしてもマシに思えてしまう。
「すごいだろ? ここの霧」
準備を終えたハルが、わたしの横に立った。
「ええ。まるで壁みたい」
「この霧はマナが充満してるから、普通の霧と違ってこの場所に留まるんだ。おかげで視界は最悪。マナも干渉してくるから方向感覚も狂うし……正直すげーめんどくさい」
うへぇ、と顔をしかめてハルが石を蹴っ飛ばす。転がった石は霧の中に姿を消す。
「同じところをぐるぐる回ったり、そんな感じ?」
「んー、近いんだけどそうじゃないっていうか何というか……そうだ、試しに入ってみなよ」
「わ、わたしが!?」
「そそ。なにごとも経験、経験」
「えぇ? ……でも」
そう言って、半ば強引にわたしの背中を押し霧のすぐ前まで連れて行く。もう一歩前に踏み出せば身体が霧に入ってしまうような場所だ。目と鼻の先で霧がうごめいている。かすかに木の折れる音が聞こえる。
「…………」
ごくりという、唾を飲み込む音が異様にはっきり聞こえた。
霧の向こう側は全く見通せない。向こうには何があるのか、何が起こっているのかが全く分からない。もしかしたらこの先には地面なんかないのかもしれない、そんな突拍子もないことさえ考えてしまう。
いつか、どこかの本で読んだ言葉を思い出す。人が恐怖を抱くのは、それに対して無知であるからだと。あの時はピンとこなかったけれど、今はその言葉が正しかったんだということが嫌というほど分かる。
「ほい。こいつ持ってて」
立ち止まったわたしに、ハルが渡してきたのはカンテラだった。
片手で持ち上げるための取っ手が付いた、全面ガラス張りのカンテラ。その中にはロウソクが入っていて、透明で青い炎が揺らめいている。不思議な炎だ。見ているだけでなぜだか心が落ち着いて行く気がする。
――綺麗……。
「『辿たどりカンデラ』っていうんだ。元来た場所を差してくれる。焔が揺れてる方向がこの場所だから、何かあったらそれをたどって」
「分かったわ」
「あと、入ったらびっくりするだろうけど、絶対その場を動かないこと。ちゃんと見つけるから。オーケー?」
「……お、おーけー」
「しっかり握って」
言われて、カンテラを握りしめる。そう言えば、いつ入ればいいのかということを話していないことに気が付いた。そのことを訊くため後ろを振り返る。
寸前、
とんっと、背中を押された。全くの不意打ちに数歩よろける。
途端に、視界が白一色に染まった。
地面が消える。温かかった身体が、水をかぶせられたみたいに鳥肌が立つ。
気が付くと、わたしは白い世界にいた。
――……?
本気で今まで何をしていたのかを一瞬思い出せなかった。
音が無い。
木も、草も、何もない。感じているのは、踏みしめている地面の感触のみ。カンテラで四方を照らす。だけど、わたしの周りに広がっているのは真っ白な空間だけ。
何も見えない。何も聞こえない。耳の中に水が入っているみたいに気持ちが悪い。
手の平を見る。顔と手の平の間で、靄のような微粒子がゆっくりと漂っている。ああ。ここは霧の中だ。数秒遅れて、この状況にようやく理解が及ぶ。
「……ハル?」
こんなに小さな声だっけ? 本気でそう思った。
呼びかける。だけど返事はない。わたしの声ですら、響くことなく霧の中に文字通り霧散してしまう。手を伸ばす。それでも手には何の感触もない。まるで、物体という物体がわたし以外この世界から消えてしまったように。
つぅーッと、冷たい汗が頬を伝う。普段は聞こえない心臓の音が、血管を伝い耳奥の鼓膜へと直に届いて、ドクッ、ドクンと脈打っているのが分かる。
ハルの言おうとしていることが、今になってやっと分かったような気がした。いや、むしろ賛同できない。これが面倒くさい? 冗談じゃない。面倒なんてレベルじゃない。
何か大きなものに飲み込まれた時のような、宙づりになって空だけが見えているときに感じるような、底のない恐怖心が芯を締め付ける。こんな感覚、いつぶりだろう。
普段は聞こえない心音が、大太鼓のような声で早鐘を打つ。
息の音がやけに大きく聞こえる。こんなに不規則な呼吸をしていたっけ。
怖い。
わたしという存在を守っていた何かが剥ぎ取られて、むき出しになった内側を霧がこすり取っていくような不快感が止まらない。
怖い。怖い。
気を抜けば、呼吸が止まっていそうで。
次の瞬間にも、足元が抜けて奈落へ落ちていくように思えてしまって。
怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い―――――――、
「ほい、みっけ」
トン、
と背中を叩かれる。
待ち焦がれていた声が、耳元で聞こえた。
途端に、狂っていた感覚が元に戻る。頭が雑音を〝音〟と認識して、雑音が一斉に耳に流れ込んでくる。木の折れる音、草の葉がこすれる音、木の洞で共鳴する風の音、そこかしこから聞こえてくる何かの声……この森には、こんなに音があったのかといまさらになってそんな感想を抱く。
「ハル……」
「な? こんな感じ。すごいだろ? ここだって霧に入ってまだ五歩も歩いてないんだ」
わたしの背中に手を添えて、黒い瞳がはにかんでいた。
すぅっと、気持ちが落ち着いて行くのが分かった。
「驚いた?」
「うん。少しだけ」
誰かがいる。わたしの鼓動以外の声が聞こえる。誰かと触れられる。普段の〝わたし〟をわたしたらしめているのは、こういうなんでもない情報なんだと気づかされる。当たり前のことが、砂漠の途中で見つけたオアシスみたいにありがたい。
何だろう。たった数十秒のことなのに、長い夢を見ていたみたいに感じてしまう。だけどもう、恐怖は感じなかった。
ハルがいる。何かあっても守ってくれる相棒がいる。少し前に交わしたあの約束が、わたしの勇気を底上げしてくれている。もう大丈夫。
「アルマは?」
「あとで行くってさ。少し回り道するらしいし、向こうで落ち合う約束をしてるから心配ないよ」
そう言って、ハルが左手をわたしに差し出してくる。その手にカンテラを渡そうとする。だけど、ハルが首を振ってわたしを止めた。
「行こう。手、出して」
ハルの手は、わたしよりもずっと暖かかった。
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