『魔法使いと植物図鑑― The Mage and Magic arts Tree book ―』

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第1章 Departure for the Fantastic World

第23話 Ancient Lost beasts(1)

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 靄の中は、水に潜っているみたいだった。
 柔らかくて、でも確かにそこにあるねっとりとした流体が、身体にまとわりついて熱い頬を撫でつけているということだけは分かった。音も、身体の重さも感じない、上下の無い空間を歩いているような不思議な感覚だ。

 だけどそれは一瞬。もう一歩、反対の足を前に踏み出すと、身体にまとわりつく冷たいものが一気に後ろへと逃げて行った。

 身体が急に軽くなる。
 途端に感覚が戻ってくる。まず聴覚、次に触覚、嗅覚、味覚、温感と順番に戻ってくるその瞬間が鳥肌の立つくらいはっきり分かった。

 ブーツ越しに、軟草を踏む感触が伝わる。少し水気を含んだ土が、わたしの体重で音を立てる。虫が周りで鳴いている。鳥の鳴き声だろうか、遠くからは、ヒューイという澄んだ高い声が聞こえる。

 空気はさっきより少し暖かい。湿っていて、いかにも森の中の空気そのものだ。大きく息を吸う。鼻から入ってきた空気は、わたしの知っているものよりも少しだけ甘い風味がした。

「到着。目、開けて見なヨ」

 軽く背中を叩かれる。アルマの言葉で、わたしは恐る恐る目を開ける。

「わぁ……!」

 言葉が出なかった。出たのはため息。

 わたしたちがいたのは、深い縦穴の中だった。地面がくり抜かれたみたいに、岩壁はきれいな円を描いて一周している。わたしたちがいる穴の直径はたぶん数百メートル。ところどころに穴が開いていて、そこから見たことない生き物が顔を出しいたり飛び立ったりしている。

 異様に広い穴の中に、森がすっぽりと収まっているような印象だ。ずっと向こうから、気球が姿を現して昇って行った。いま立っているここより下にも、まだ穴は続いているらしい。

「不思議な場所だロ? ここは有翼種の幻獣や小型の奴らがいるところなんだ。穴のあちこちに引き出しみたいな感じで地面が突き出してるんだヨ。都合がいいからあたしたちの集落もここにあル。なんでこんな場所ができたかまでは知らないけどサ」

 ごうっ! っと、アルマの言葉を証明するかのように穴の下から巨大な影が上へとすごいスピードで上昇していった。わたしたちに当たる陽光が、その巨体で遮られてしまうくらいだ。
 ラベンダー色の体だった。コウモリのような翼をはためかせ、すごい速さで穴の外に飛びだしていった。

「おっきい」

「今のはラベンダー・グルトン。あんなナリしてるけど、肉食じゃなくて鉱物を食べて育つんダ。この穴の最下層にいるヨ」

「すごい。……こんな場所、来たことない」

「そうだロ? 気に入ってもらえたならあたしも嬉しいヨ」

「でも、どうしてだろう。どこかで見た気がする」

 妖精の国は、見たことない世界だ。あり得ないような場所に、見たことない生き物たちが棲んでいる。地面の奥深くに魔法が使える種族たちが棲んでいるなんて本気で考えている人なんかほとんどいないはずだ。わたしの、人間の想像外の世界だ。

 だけどどうしてなのか、似たような場所を知っているような気がする。地下奥深くに謎の場所があって、わたしたちが知らない生物たちが生きていて、魔法みたいなことが平然と起こる世界。

 ――ああ、そっか。〝地底旅行〟だ。

 思い出した。わたしの記憶は、「地底旅行」のものだ。あまり見たことが無い世界だったから、一体どうやって思いついたんだろうと感心しながら何度も読みこんで想像に浸っていた記憶がある。そうか、だから見覚えがあったんだ。
もしかしたら、「地底旅行」や「海底二万マイル」を書いたジュール・ガブリエル・ヴェルヌも、わたしと同じようにこの世界に迷い込んでしまったことがあるのかもしれない。

 が、そんなことより。

「あれ? そう言えばハルは?」

 やっと、ようやく、今になって。
 今までずっと一緒にいた黒髪の相棒がこの場所にいないことにわたしは気が付いた。怪訝そうに目を細め、アルマが辺りを見渡す。

「そーいえばいないナ。どこ行ったんダ」

「……ここ、だよ」

 アルマの独り言に、生気の無いかすれ切った声が頭上から降ってきた。わたしたちの立っているちょうど後ろからになる。振り向くと、後ろはちょっとした崖のようになっていた。わたしの身長の倍くらいで、何もなしに登るのははっきり言って無理な場所だ。

 そこに、ハルはいた。
 巨大な犬に

「うわぁ!? で、でっか!」
「あー、そいつに掴まってたのカ」

 思わず素の声が出た。対してアルマは、なぜか納得したような表情で気の毒そうに笑っていた。
 ハルを咥えているのは、黒緑の毛におおわれた犬だ。牛みたいに巨大な図体に、アンバランスな丸いしっぽが可愛らしく揺れている。ハルを口にくわえてはいるけれど、食べるというつもりではないみたいだ。くりくりとした目でわたしたちを見下ろして、時々ハルを口の中で舐め回す。いったい何を考えているんだろう。

 のそりと、唐突に巨体を揺らして犬が起き上がった。咥えられたハルが欲し肉みたいにぶらんぶらん揺れる。そのまま一、二歩前に進んで、崖を飛び降りた。

 音もなく、わたしたちの目の前に着地する。だけどそれ以上は何をするわけでもなく、ただじっとわたしたちを見つめている。鼻が少しだけ動いているから、臭いは嗅いでいるみたいだ。ちなみに、飛び降りたとき「ぐえぇ!?」という、そこそこ苦しそうなうめき声がした。
 犬が口を開く。ベチャっというヌメリ気たっぷりの音を立ててハルが地面に落下した。今度は、「おぐぅ」という汚い声が聞こえた。

 ハル――沈黙。

「災難だナ」

 しゃがみ込んで、アルマがそう話しかけた。芋虫みたいにハルが身体をくねらせて縮まる。たっぷりと服にまとわりついた粘っこいアレで、身体中がテラテラと光を反射している……触りたくない。

「それにしても、お前はどうしてでっかいのには好かれるんダ?」

「知らないよ……他にはすっげぇ嫌われてるのに」

 産まれたての小鹿みたいにおぼつかない足取りでハルが立ち上がる。膝を笑わせながらジャケットを脱いで、草の上に広げて落とす。杖を取り出して何か唱えた。すると、杖の先から風が吹き出し手草が揺れる。わたしの顔が一気に熱くなった。なるほど、魔法で熱風を出しているんだ。

 そして相変わらず、目の前の巨大犬はわたしたちのことを見つめている。
 しっぽを振るわけでもなく、威嚇するわけでもなく、特注サイズのガラス玉をはめ込んだような瞳にわたしたちを映すだけだ。見つめ合うこと、三秒、五秒、十秒……一向に何の感情も読み取れない。怒っているのだろうか。それともただ単に好奇心がうずいただけだろうか。

 と、

《…………。》

 ピクピクっと鼻が動き、

《………………バフっ》

 鳴いた。おじいさんが咳をしたみたいに。

「おっ、大丈夫みたいだナ。こいつは珍しいゾ」

 それを見て、アルマが口笛を鳴らした。

「この子は?」

「…………クー・シー、この森の番犬だよ。名前はバフ」

 わたしの質問に答えたのは、げっそりとした表情をしたハルだった。
 乾いて白くなったジャケットを腰に巻いている。下のシャツもヨレヨレだった。袖口を鼻に当てた後、うへぇ、と顔をしかめる。なぜだろう、一気に十歳くらい老けたように見える。

「えーっと、大丈夫?」

「いいよ、もう。いつものことだし……で? 直す場所はどこ」

「竜谷のもっと先。〝ミラージュ〟の縄張りだよ」

「えー……めちゃくちゃ遠くじゃん。俺ヤだよ、あんなとこまで行くの」

「歩くなんて誰も言ってないだロ。いま呼ぶからちょっと待ってテ」

 露骨に顔をしかめて泣き言をこぼすハル。それを見てあきれ顔で言い返すアルマ。首元から服の中に手を入れて、紐のついた何かを引っ張り出す。

 笛だ。風船みたいに膨らんだ、握りこぶしくらいの大きさをした不思議な形の笛。それを縁に持って行き、思いっきり息を吹き込んだ。
 ピュィィーーィイっ! と、聞いたことない澄んだ音が辺りに響いた。まるで生き物の鳴き声にも聞こえる不思議な音。穴の壁に反響して、ゥワンゥワンという揺らぎを立てる。

 すると、

 ―― ヒュゥゥーーーーィ! ――

 最初は、木霊かと思った。それくらいそっくりだった。

 だけど違う。吹かれた笛の音よりも、それはずっと長く穴の中で響いた。しかも音は刻々と大きくなっていく。ああそうか、その笛はあの動物の鳴き声を真似たものなんだ――そう気が付くのに大して時間はいらなかった。

 笛を吹いてから、約一分。

 わたしたちの頭上を、巨大な影が覆った。同時に突風が吹き、とんでもない風圧で草木を地面に押さえつける。風切り音に混ざって聞こえる羽ばたきの音。地面が揺れるほどの轟音を立てて、風が一気に止んだ。
 目を開ける。ずっと風を受けてきた目が乾いてシバシバする。瞬きをする、一回、二回、三回。


 目に入ったのは、視界いっぱいの


 それしか見えなかったのは、わたしの近くにそれがいたからじゃない。視界に収まらないくらい巨大だったからだ。妖精犬のバフなんか比ではないくらい、大きな怪鳥。羽だけで一〇メートルは軽く超える規格外の大きさだ。猛禽類特有の丸い眼、鋭いくちばし。地面は体重に耐え切れなくて爪が埋まっている。 

 そして後ろには二回りくらい小さいものがもう一羽、警戒するように隠れながらわたしたちを観察している。多分親子なんだろう。大きい方がわたしを品定めするように丸い眼を細めている。

 ああ、なるほど。蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちだったんだ――パニックになったわたしの頭は、現実と逃避をするみたいにそんなことを考えていた。それも、何か言いたげに怪鳥がうなった時点で現実に叩き落されたけれど。

「………………!? …………っ! ……‼」

 指をさす。何か言おうとして開けたはずの口は、ぱくぱくと不格好に閉じたり開いたりするだけ。わたしにも何を言おうとしたのか覚えていない。バフを見た時はまだ余裕があった。大きいと言っても犬だったから。だけど今度は、もう声を上げることすらできなかった。

 だけどそれはわたしだけだったみたいだ。ハルとアルマは、何事もないようにその怪鳥たちに近づいていく。鳥の方も、ハルとアルマにはなぜか懐いているみたいだった。

「久しぶり。元気だったか? ヒューイ、カヌレ」

「呼び出してごめんナ、後でとびっきりの肉をやるかラ」

 近づくハルに、ヒューイと呼ばれた大きい方の怪鳥がくちばしをこすりつける。くちばしを抱えてとんとんと優しく叩いてハルがさすると気持ちよさそうにヒューイが目を細める。鼻から出た息がハルの服をはためかせる。アルマはカヌレと呼んだ小さな方を撫でながら、口を開けさせて中を覗いている。カヌレも無抵抗に、アルマに体重を預けている。

 傍から見れば、よれよれの格好で怪鳥に倒れかかる少年と、頭を喰われかけている少女、その真横でじっと二人を見つめる巨大な犬の絵。
 一言で言うならカオス。一昨日までのわたしなら、これが現実なんて絶対に信用はしない。

「こいつらはシームルグ。ペルシアのアルボルズ山脈に住んでいる幻獣だヨ。ハンターたちに駆られそうになってたのをあたしたちがこっちに連れてきたんダ」

 カヌレの口の中から顔を出して、アルマがわたしを見ながら笑ってそう言った。それに同意するみたいに、またヒューイがこっちを見て低く鳴いた。今度は威嚇じゃないと分かったけれど、身体が反射的に跳ねてしまう。

 わたしの反応を見て、ケタケタとアルマがまた笑った。

「そんなに警戒しなくてダイジョーブだっテ。こいつはあたしたちの言葉を理解できるくらい賢いシ、優しい人を見分けられるんダ。いま威嚇されてないならもう危険はないヨ。な? ヒューイ」

 くちばしに抱き着いていたハルも、同意するみたいに頷く。本当に言葉を理解しているのか、話を振られたヒューイはまた短く鳴いて、今度は頭を地面につけて腹ばいになった。羽は畳んで、そう簡単に広げられないようにしてくれている。それを見て、カヌレも真似をしてうつぶせになった。

 ほら、安心して。わたしたちは何もしないから――そう言っている気がした。

「リーナもこっちに来なよ。ヒューイが触らせてくれるってさ」

 ハルが手招きをする。一歩、二歩、恐る恐るだがヒューイに近づく。
 近づくと、やっぱりヒューイは巨大だ。ワシをベースにして他の鳥類をいくつか混ぜたような体は、色んな鳥の特徴を持っている。特に羽毛が顕著だ。ワシ特有の固いそれじゃなくて、フクロウや他の鳥みたいに真っ白で柔らかそうに見える。

「ほら、ここ。胸のあたりが一番柔らかいんだ」

 そう言って、ハルはうつぶせになって見えているヒューイの胸の羽毛を触る。
 ハルの言った通り、わたしが感じた通り、ヒューイは何もしなかった。ただわたしを一瞥して、ゆっくりと目を閉じただけ。身じろぎも、鳴きもしない。アルマがヒューイに登って何かを始めても、全く反応はしなかった。されるがままに、身体に回るロープを受け入れている。

 わたしも手を伸ばす。やっぱり、ヒューイは何もしない。
 羽毛に手をうずめる。

「……わぁ」

 思わずため息が漏れた。それくらい心地よかった。
 羽毛は綿より柔らかくて、わたしの手を優しく包み込んでくれる。たっぷり熱が溜められていて、羽毛の中は暖炉の前みたいに熱いくらいあったかい。暖炉の前で毛布にくるまっているような気持になる。呼吸に呼応してゆっくり膨らんだり縮んだりを繰り返す羽毛の動きが、言い様のない安心感を与えてくれる。

 顔までうずめたい。この中に飛び込みたい。何時間でもこの中にいたい……。

 気が付くと、ヒューイたちに抱いていた恐怖心はすっかりなくなっていた。

「これに乗っていくの?」

「うん、乗るならこいつがいちばんいいんダ。速いし、頭もいいシ」

「ふーん……っわ! わわ!?」

 突然、ヒューイが頭をもたげる。そしてわたしにくちばしを押し付けて、お腹の下に潜り込ませる。ちょうど、くちばしの上にわたしが乗せられてる状態だ。

 そのまま、ヒューイは頭を持ち上げた。くちばしに乗せられているわたしだって、必然的に持ち上がる。グンっと、一気に視界が十数メートル持ち上がった。地面が遠い。「わわっ!?」という声が出てしまった。高いところがダメというわけじゃないけれど、やっぱりいきなりこうなるとかなり驚いてしまう。

 落ちないようにくちばしに掴まっていると、ヒューイが頭を回して首の後ろにくちばしを持って行った。そこでわたしを落とす。首から大きな背中に向かって滑り台の要領でわたしは落ちて行った。ちょうど羽の付け根辺りで止まった。この間、わたしの意志は一切無視。

 ――もう、どうにでもなれ……。

 仰向けになりながら、投げやりに心の中でそうつぶやいた。

「ナ? 結構乗り心地良いだロ?」

「……うん」

 覗き込むようにして、いつの間にかアルマがヒューイの上に乗っていた。足元を見ると、ヒューイの背中には鞍のようなものが付いていた。なるほど、さっきカヌレとヒューイによじ登っていたのはそういうことだったのか。

「それじゃあここに座っテ。紐で身体を縛れば落ちないかラ」

 アルマが据わった後ろに、わたしがしがみつくように座る。ちょうど、わたしの中にアルマがすっぽりと収まってしまうような座り位置だ。アルマの柔らかくて小さい体の感触がダイレクトに伝わる。真っ赤な髪からは、嗅いだことのないハーブのような香りがした。

「あ、そう言えばハルは?」

「ハルはあっチ。カヌレのとこロ」

 下を覗き込む。カヌレだって、小さいと言ってもひと一人くらいは軽く乗せられるくらい巨大だ。その鞍を付けていない広い背中にハルが乗っていた。

 ハルと目が合う。大丈夫だと言わんばかりに、わたしに向かって親指を立てた。なんだか目がキラキラしている。
 わたしの心臓も、ばくばくと弾けんばかりになっていた。これは恐怖じゃない。ドラゴンと会ったあの夜に感じた感情と同じ。新しい本を読み始めたあの時と同じ気持ち。

 駆けだしたいくらいの高揚感と、未知の世界への興味と、抑えがたい興奮だ。

「こいつをかぶってゴーグル付けて、結構風が強いかラ。それじゃあ飛ぶよー、捕まっテ」

 言うが否や、

 ぐんっ、と視界が持ち上がる。ヒューイが立ち上がったんだ、そう気が付いた時には金の混ざった白銀の翼が左右いっぱいに開いていた。

《ヒュゥゥゥ――――ィッ!》

 透き通る笛の音のような鳴き声が、空気をビリビリとどこまでも揺さぶった。
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