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第1章 Departure for the Fantastic World
第11話 魔法の夜間飛行(2)
しおりを挟む「逃げよう」
少年が発した言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかった。
「へ?」
「立って」
意図せず、素っ頓狂な声が出てしまう。だけどそんなわたしなどお構いなしに、少年はわたしの腕を引っ張り強引に立ち上がらせる。
「付いてきて。時間が無い」
わたしの手を引き、強引に走り始めた。
倒れた木々を飛び越え、ドラゴンが拘束されている原っぱから遠ざかる。そしてそのまま濃い霧の中に飛び込む。
一瞬視界がホワイトアウトする。次に視界が晴れたとき、目に入ったのは見覚えのある道。わたしがここに来るまでに通った霧のトンネルだ。ここまで来た道をそのまま、出口に向かって一直線に駆け抜ける。
「逃げちゃってもいいのっ?」
「あいつらに引き渡すと色々厄介なんだ。理由は後で話すから、とにかく走って!」
直後、
ギギギという、何かがきしむ音が森に木霊した。
霧ではっきりとは見えない。だけど、その向こうで何か黒い大きな影がうごめいている。わたしたちを覆うように霧の向こう側に居るそれは、少しずつ、ほんの少しずつわたしたちに覆いかぶさり始めているようにも見える。それと対応するかのように唸る森。正体不明のそれらに呼吸がかき乱される。
この音は、聞いたことがある。聞き覚えがある音だ。
特別な音なんかじゃない、日常生活でもよく聞いてきた音。階段を上るとき、古い家の床を踏んだ時、柱にぶら下がったとき、そんなときに聞こえた音とすごく似ている。
——木の音?
正確には、木材がきしむ音。
ということは、霧の向こう側でうごめいているアレは……。
「クソっ、もう閉じ始めた。もっと速く! 閉まったら出られなくなる!」
横で少年が悪態をついた。
それをあざ笑うかのように、〝声〟が聞こえた。
キキキキ……
クキキ
ニゲタ、ニゲタ
ハシレ、ハシレェ
とっさに、開いた方の手で片耳を押さえる。そんなに大きな音じゃないけれど、耳に入ってくるだけで身の毛がよだつ。まるで、金属片で頭蓋骨の裏側を削っているような音だ。
霧の向こうがざわめくたびに、それは聞こえる。耳をふさいでも意味がなかった。まるで直接鼓膜に響いているように、悪意たっぷりのそれはわたしの中で木霊する。
うるさい。うるさい うるさい うるさい!
ぎゅっと固く目をつむり、頭を振って声を追い出す。
足がもつれる。体が震える。寒気がする。耳鳴りがする。たった数分聞き続けただけで頭がおかしくなりそうだ。
「————チッ、ちょっと遠いけど呼べるか……」
舌打ちが聞こえた。
「何かするのっ?」
「ホウキが痛むからあんまりやりたくないんだけどっ」
そう応える口は、いつの間にか一本の短い棒きれをくわえていた。長さは手の平ふたつ分くらい。指揮棒よりも少し長い位だ。表面には細い線で模様がびっしり彫られていて、黒く塗られたその指揮棒では模様が宙に浮かんでいるように見える。
真っ赤なグローブをまとった手で指揮棒を掴み口から引き抜く。
「RevenuRuce!!」
棒を横方向へと一気に振り抜き、そう叫んだ。
スゥゥ——っと、棒から青い線が先端から一筋伸びる。ペンで線を引いたような光が、わたしたちの顔をわずかに青く照らす。だけどそれも数秒だ。
空中に残った線は水に溶けるように消えていき、また元の暗い霧の道に戻る。
「いまの何っ?」
「ただのおまじない!」
はぐらかされる。これ以上訊いてもきっと答えてくれないような気がするから、訊くことは諦めて走ることだけに集中する。
「はっ……はぁ……はぁ……」
この息の乱れは、きっと走っているせいだけじゃないはずだ。
今この瞬間も、あの嫌な声たちがわたしに語り掛けてくる。言葉として聞き取れたのは今日が初めてだ。声が意味のある言葉だと解った途端、それがとても気持ちが悪いものに感じて身の毛がよだつ。
声の主たちは、壊れた蓄音機みたいに同じ単語を繰り返している。だけど、それにもちゃんとした意志が感じられる。多分、繰り返す言葉も意味を解って使っている。それが余計に心をイラつかせる。
気が付くと、霧の向こうで何かがわたしと並走していた。それも複数。わたしの膝くらいまでの大きさの何かが、からかうような奇声を発しながら走っている。ひとつが転ぶと、それを乗り越えて新しい影が前へと踊り出る。わたしの両横を、付かず離れず走り続ける。
怖い……。
こんなに怖いと感じたのは一体いつぶりだっただろう。孤児院で過ごした時も、こんなことはなかった。教会の中は安心さえしていた。思い当たる記憶は一つだけあるけど、あの時はどちらかと言えば罪悪感の方が強かった。
知らなかった。未知の恐怖というものが、ここまで心を締め付けるなんて。底の見えない海に入って下を覗き込んでいるようで、もしかしたら、いきなり大きな口が現れて身体を丸ごと飲み込まれるかもしれない――そんな気持ちに駆られる。
相変わらず、霧の向こうでは影がからかうように追いかけてくる。一瞬、見ないはずの目が合ったような気がして視線を逸らす。
数十秒、もしかすると数分走り続けたかもしれない。
「—————来た。合図したら跳んで」
「跳ぶ!?」
「いいから! 先、走って!」
つないでいた手が離れる。
そう言い残して、少年が歩を緩めた。途端にその姿は霧の中に消え、すぐに見えなくなってしまう。少年の言葉に従って一心不乱に走る。後ろなんか振り返らない。振り返ったら、きっと立ち止まってしまうような気がするから。
数秒後。
「跳べっ!!」
「——!」
後ろから、待ち望んだ声が聞こえた。
何も考えず、声を信じて跳躍する。
「—————っ」
ぐいっと、ベルトが引っ張られた。
思わず目をつむる。着地し軍用靴から伝わったのは、地面の感触とは別の何かだ。硬くて、揺れる不安定な足場だ。
目を開ける余裕なんかなかった。まるで、空中ブランコに立っているみたいに足元がぐらぐらと揺れる。思わずふらついたわたしの身体を、少年が抱え込んだ。それに甘え、わたしも少年の背中に腕を回して胸に顔をうずめる。
びゅうごぉお、と唸り声をあげて、耳元を風が通り過ぎる。何が起こっているのかは分からないけれど、自分が動いているんだということだけはかろうじてわかった。前か横か、はたまた上かは知らないが、わたしたちはどこかに向かって進んでいる。
風を切る音、キィィ——ィンという金属管が共鳴するような軽くて鋭い音が耳を突く。
ふらつく足元から伝わるのは微かな振動。
服の端が頬をばたばたと叩き、抱き着いている少年の胸からは、速い鼓動をわずかに感じる。
どれくらい、そうやっていただろうか。
空気が変わった。正確に言うと、冷たく乾いた空気になった。さっきまでの湿って生暖かい霧の中じゃなく、今の季節ちょうどの爽快感ある夜の風だ。
「はぁ~~……抜けた」
それを証明するかのように、少年の安堵のため息が耳元で聞こえる。
気が付くと、あれだけ耳障りだった声が消えていた。耳に入ってくるのはうるさいくらいの風の音だけだ。だけど、それでもなお静かだと思った。
草木がこすれる音、霧の向こうで何者かが足踏みする音、木がきしむ音、虫が這う音、虫が飛ぶ音――不快な声の他にも、あの森の中にはいろんな雑音がひしめいていたんだ。
いつの間にか、揺れも治まっていた。耳元でうなる風はそのままだけれど、足元はさっきよりも安定しているように感じる。
「目、開けていいよ」
耳元で少年が笑う。そこでようやく、わたしは今までずっと目を閉じていたことに気が付いた。
少年の言葉で固く閉じていた目を開けて……、
「—————!? わっ! わわっ!!」
仰天した。
空を飛んでいたから。
遥か下にあるのは迷い霧の森。迷い霧の森上空を、わたしたちは飛翔している。すぐ上を見れば、月の光に照らされた雲が近く見える。遠くには小さな光が密集している。それが町だと気が付くのに、すこし時間がかかった。
いま足を掛けているのは長方形の細長い板の上だ。
長方形の金属板が、真ん中に箒のような形をした長い棒をはさんで両側に二枚。一枚にはわたしが、向こう側にはわたしに向かい合うようにして少年が立っている。しかも、手すりや命綱みたいなものは全くない。完全にバランス感覚だけで立っている。一歩間違えると、確実に下へと真っ逆さまだ。
例えるなら、〝空飛ぶ箒〟。
そんな場所に、わたしたちは立っていた。
「わ! わわわ!?」
「あんまり動かないでっ。コレ一人用なんだ!」
動揺に答えるように、空飛ぶ乗り物は不安定に揺れる。慌てた様子の少年からそう叱られる。
意味不明!
そう言いたい気持ちを押さえつけて、差し出された少年の腕を掴む。どうやらこれは体重移動で方向を変えているらしく、動くのを止めると揺れもすぐに止まった。
顔を上げると黒い瞳と視線が交錯した。
どちらからともなく、ほっ、と息をついた。そしてこれもどちらからともなく、自然と笑いが起こった。しばらくの間、乗り物を揺らさないようにクツクツと小さく肩を震わせる。
三十秒ほど笑っただろうか。ふぅぅ、と深呼吸し少年が口を開いた。
「家まで送るよ。君の家は?」
「あ、その前に、わたしの使用人が森の近くで待ってるの」
「場所は?」
「あっち。まっすぐ東側」
「了解。近くまで飛んで死角に降りようぜ」
「摑まってて」その言葉と共に〝空飛ぶ箒〟は下降を始めた。
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