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第二章 世界樹と咎人
第2章-11 迷い霧の森 2
しおりを挟む「〝迷い霧の森〟……」
目の前に広がっていたのは、『濃霧』だ。
ミレーナ宅がある草原のさらに向こう側、人など絶対に入ることはない山の奥深く。そこにあったのは、広大な森とそれを覆い隠す濃霧。ミレーナに引き取られることになって真っ先に教えられた、行ってはいけない場所のひとつ。
『迷い霧の森』入ったら最後、帰り道を見失ってしまうほど濃い霧の森だ。
「三人とも、ここからはこれを持ちなさい」
その一言と共に、ミレーナは俺たちにカンテラのようなものを手渡す。片手で持ち上げるための取っ手が付いた、全面ガラス張りのカンテラ。その中には、透明で青い炎が揺らめいている。
「綺麗……」
うっとりとした表情で、雨宮が呟いた。
「『辿りカンデラ』だ。中で揺れている炎の指す方向に私たちの家がある。何かあったら、それをたどりなさい」
いつの間にか荷物をまとめ終ええていたミレーナが、行くぞ、と言って再び歩き始める。しかし、霧に入る直前でもう一度足を止める。そして、俺たちの方を向く。
「ちょうどいい。三人とも、先に入ってみたまえ。なぜ来てはいけないのかが解る」
「「「…………」」」
「一列にな」そう言われるままに、右から俺、ルナ、雨宮の順で霧の前に立つ。わずか三十センチ先には桐の壁が立ちはだかり、つかみどころのない不気味さと違和感が、威圧となって身体を押す。
霧の向こう側は、全く見通せない。
そのとき、
「カンテラを落とすなよ」
ゴウっと、一陣の風が吹く。
気が付くと、俺は白の中にいた。
音が無い。
木も、草も、何もない。感じているのは、踏みしめている地面の感触だけだ。
――……?
状況が呑み込めず、カンテラで四方を照らす。しかし、俺の真っ割にあるのは灰色がかった白い空間だ。
手の平を見る。顔と手の平の間で、靄のような微粒子がゆっくりと漂っている。
ああ。ここは霧の中だ。数秒遅れて、この状況にようやく理解が及ぶ。
「そっか。さっきの風で」
つまり、あの時に吹いた風によって、俺は霧の中へと押し込まれてしまったのだ。
「……雨宮? ルナ? ミレーナさん?」
四方に呼びかける。だが返事はない。俺の声すら、響くことなく霧の中に文字通り霧散してしまう。手を伸ばす。それでも、手には何の感触もない。まるで、物体という物体が俺以外この世界から消えてしまったように。
――……これ、ヤバくね?
つぅーッと、冷たい汗が頬を伝う。普段は聞こえない心臓の音が、血管を伝い耳奥の鼓膜へと直に届く。
入ってはいけないと言われた理由が、今ようやく理解できた。ここが『迷い切りの森』と呼ばれている理由も。視覚もダメ。聴覚もダメ。方向感覚もダメ。ここは、富士の樹海より質が悪い。入ってしまえば、確かに出て来れない。
何か大きなものに飲み込まれた時のような、宙づりになって空だけが見えているときに感じるような、底のない恐怖心が芯を締め付ける。こんな感覚、いつぶりだろう。
普段は聞こえない心音が、大太鼓のような声で早鐘を打つ。
息の音がやけに大きく聞こえる。俺は、こんなに不規則な呼吸をしていたのか。
こわい。怖い。恐い。
気を抜けば、呼吸が止まっていそうで。
次の瞬間にも、足元が抜けて奈落へ落ちていくように思えてしまって。
出なきゃ。出なきゃ、出なきゃ出なきゃ出なきゃ出なきゃ――。
これだけははっきりと解る。
――ここに居ちゃ、まずい。
「――――っと、これが入るなと言った理由だ」
突如、空いていた左手が温かいものに包まれた。
「!」
同時に聞こえる、落ち着いた声。半ば条件反射で振り向くと、そこには俺の手を握ってほほ笑むミレーナの姿があった。その後ろには、雨宮とルナもいる。二人とも、顔が少しだけ青いような……。
「訓練していない者がここに入ると、今のように情報が一切遮断される。そうなると、一歩先が霧の外であっても気が付かない。もちろん、目と鼻の先に仲間がいてもだ」
「下がっていたまえ」そう言って前に出たミレーナの片手には、普段は使うことのない杖が握られていた。あの迷宮攻略時にしか見たことのない杖。背丈の三分の二はあるんじゃないかと思うくらいの、木でできたシンプルな杖。それでいて、言葉にできない威圧のようなものを放っている。
ミレーナの顔から、笑みが消えた。
「……回れ、固まれ、精霊よ――」
ふぅっと短く息を吐き、続けられたのは魔法の詠唱。
「踊れ、絡まれ、笑え、笑え――」
それと同時に、杖の先端にうっすらとした球体ができ始める。透明で、色はついていない。だが、その存在ははっきりと見える。その場所だけに、良く解らない揺らぎのようなものができている。
ぽぅっと、球体が淡く光りだす。野球ボールほどの大きさになった光球は、杖の先から離れふらふらと前に飛んでいく。まるで、風船が風に流されるように。
そして、
「――歌え」
詠唱が終わる。
パン! という破裂音と共に、光球がはじけ飛んだ。
…………。
………………………。
……。
…………………………………。
再び、怖いくらいの静けさが満ちた。
いや……、
――クスクス……。
――ふふ、フフフ。
――クク、フクフフフ……。
「……声?」
はっとしたように、ルナが独り言ちた。顔を合わせ、頷く。雨宮にも俺にも、その声がはっきりと聞こえたのだ。
風の音や水の音のように、意識していなければ無意識に削除してしまいそうな印象を持つ不思議な笑い声。声のはずなのに、それは声帯を震わせて出すものとはどこか違う気がしてならない。
そこにあるのが自然とさえ感じるくらい、存在感がない。だが確かに存在し、一度聞いてしまえばなぜ聞こえなかったのかと驚愕するくらいはっきりと脳に響く。優しく鼓膜を揺さぶり、溶けるように意識の中へと入りこんでくる。
実体のない声。方向性が無く、水に溶かした塩のように偏りがない。まるでこの空間そのものが意志を持っているかのように、空気に満ちる。
「精霊だよ」
杖を下ろしたミレーナが、俺たちの方を振り向き口を開く。
「この辺りの精霊たちに力を貸してもらった。彼らを呼ぶには、精霊を使うのが一番効率的だ」「彼らって……」
つい口に出てしまう。
「想像はついているだろう?」
杖を腰のベルトに固定したミレーナが、笑った。
これから誰が来るのかは、多分ここにいる俺を含めた三人は解っている。
世界樹を守っているのは、精霊と妖精だ。そしてさっき、ミレーナは言った。「『入れてもらえない』の方が正しい」と。話題は変わっていない。当然、「彼ら」を指す内容が変わるはずもない。
つまり、今から俺たちが会うことになる相手とは…………。
そのとき、
ぽぅ……。
と、遥か向こう側で光が灯った。
ぽぅ……ぽぅ、ぽぅ。
最初は一つ。瞬きをした後には三つ。二つになったかと思えば、四つに増える。
違う。増えているんじゃない。
灯ったんじゃない。近づいてきているんだ。
「世界樹を守ることが目的なら、その場所に近づく人間を選別するのも妖精の役割だ」
現れたのは、ボロ衣を被った小柄な人間――に見えるもの――だった。
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