異世界幻想曲《ファンタジア》

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アルトレイラル(召喚篇)

異世界の牙 3

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 トールキンが生み出した怪物、ジャイアントオーク。それはカリバー・ロンドでも存在し、凶暴な性格とその並外れた攻撃力・防御力で、幾多のプレイヤーたちをデスペナルティーに追い込んだボスモンスターだ。
 ゲーム内では、倒せない相手ではない。レベルを上げ、レイドを組めば、決して倒せない相手ではない。
 だが、ここは現実だ。
 俺たちは事象を改変させる魔法も、鉄すら切り刻む剣戟スキルも、痛覚キャンセラーも、HPバーすらも持っているわけではない。攻撃を食らえば痛みでのたうち回り、急所に当たれば一発であの世行きだ。もちろん、コンティニュー画面など出てこない。

 ——考えろ、考えろ、考えろ考えろ考えろ!

 止まりそうになる思考を無理やり回転させ、状況を整理し打開策を探る。

 ——走って逃げる……いや、その前に殺られる。あのこん棒投げられれば終わりだ。何か、何かあいつの気を逸らすもの……。
 ——石……は論外。食べ物……俺たちの方がうまいだろうな。何か飛び道具……。

「……!」

 あった。攻撃用ではないが、確実にあいつの目をつぶし、隙を作るためにうってつけのものが。

「——雨宮。ゆっくり下がれ」

 小声でそう言い、雨宮と飯田を後進させる。その間に、リュックを下ろし、中からお目当てのアタッシュケースを取り出す。
 シングルアクション・センターファイア式信号拳銃。震える手を押さえつけ、手探りで弾を取り出す。いくつか弾が落下した音がしたが、気にせず一発をつかみ色を見ずに装填する。
 幸いにも、オークは俺たちを舐めきっており、その顔には不快感と吐き気を掻き立てる気持ちの悪い笑みが浮かんでいる。足取りもゆっくりで、まるで俺たちが逃げられないことを確信しているようだ。
 チャンスは一回。それを外せば、次弾装填の時間はない。
 かかれ、かかれ、かかれ。
 食いつけ、食いつけ、食いつけ、食いつけ——。
 オークは大股で歩くため、距離は残り数メートル。勝利を確信したのか、身体をかがませ、顔を俺に近づける。
 距離、約二メートル。
 後ろに隠した信号拳銃に、不具合がないか確認する。
 距離、約一メートル。
 撃鉄を引く。カチリと、金属的な音が響き信号拳銃が狂気の塊を帯びる。
 距離、約八十センチ。

 ——いまッッ‼

 右人差し指が、絞られる。引き金が動き、撃鉄が落ちる。丸く見開かれたオークの目に、閃光が直撃した。

「——————ッ」

 耳をつんざくような悲鳴が、森中に木霊する。どんなに理解不能な生物でも、それが悲鳴であることはすぐに解った。いままで何もしてこなかった人間が、顔を焼くほどの攻撃をしたのだ。そんなこと、だれが想像できるだろう。
 オークは大きくのけ反り、眼球を押さえこん棒をめちゃくちゃに振り回す。それを見ることもなく、俺は後ろ二人に叫ぶ。

「走れぇぇぇぇぇえええ‼」

 雨宮が走り出す。それを追い抜き、下に下れそうな道を瞬時に探す。かなりうっすらとだが、向こうに人が踏んだものらしき道があるのが解った。
 雨宮たちを、そこに誘導しようとしたそのとき、


「何してるの⁉ 早く‼」


 声が響いた。思わず、振り返る。
 雨宮が叫んでいた。その声の先には、面に座り込み動かない飯田の姿があった。完全に、パニックになり正気を失っていた。

「…く、くるなぁぁ……。あ、あ、あっちいけぇぇ」

 いま逃げればその可能性も高いのに、いま逃げなければ死んでしまうのに、理性を失った身体は動くことを拒絶する。動かなければ助かると、そう考えてしまっている。
 完全に理性を失ったその手が、投げ捨てた信号拳銃に触れる。

「来るなぁぁぁぁああああ‼」

 引き金を引く。次弾が装填されていないため、もちろん発射はされない。
 耐え切れず、雨宮が走る。次に取ろうとした行動に、冷や汗が走り思わず叫ぶ。

「バカ‼ 触るな‼」

 想像してほしい。
 目の前に、正体不明の怪物がいたとする。それに今まで、自身の生死の運命を握られていたとする。そんな中、後ろから触られたらどう思うだろうか。
 少なくとも、仲間などとは思わないだろう。

「いまのうちに、早く——」
「うわああああああああああぁぁぁぁ⁉ 触るなぁぁぁぁあああ‼」
「あ、ちょっ⁉」

 雨宮の腕が、強くつかまれる。後ろに倒れる反動で、雨宮の身体は前へと押し出される。
 前には、血走った眼をしたオークが。
 雨宮の目が、大きく見開かれる。その目は、困惑と動揺が混ざったものだった。
 なぜ、自分が前へつんのめっているのか。そして、自分が身代わりにされたのだということに気づいた時の動揺。
 思わず、走り出す。
 周りの光景が、スローモーションのように鈍化する。
 金棒が、振り上げられる。誰にやられたのか、どうしてこうなったのか、オークは良く知っている。だが、視力の低下した眼球では、人間の個体差を見分けることなどできるはずもない。憎悪は、飯田一人に注がれる。
 つまり、その前にいる雨宮は、ただの障害物でしかないわけで——。

 ——届け、届け、届け‼

 かつてないほどの勢いで、雨宮のもとへ走る。
 金棒が、ゆっくりと下がり始める。雨宮の体勢では、回避することなど到底不可能。
 雨宮の服に、手が触れる。
 そのまま服をつかみ、抱き込むようにしてオークとの壁となる。
 ガツッ
 左腹部に、衝撃が走る。
 ナニカが持っていかれる感覚が脳へと届き、続いて襲ったのは横向きの激しいG。痛みはない、だが、骨が軋みを上げているのを他人事のように知覚する。
 そこで、時間拡張の感覚が元に戻り。
 景色が回る。二、三度の衝撃が襲う。
 視界が、暗転した。

◇◆

 頬に、あたたかい何かが落ちる。それは一度ではなく、そして絶えることのなく続く。

「…やくん! 神…くん! 神谷くん‼」

 雨宮が、呼んでいる。
 膠で張り付けたような瞼を強引に開ければ、視界の隅には大粒の涙を湛えた雨宮の顔が。顔の向きからして、どうやら俺は地面に寝っ転がっているらしい。
 そこまで考えて、先ほどのまでの記憶が戻る。
 感覚のない手を動かし眼前に持ってくれば、その手には明らかに鮮度の違う赤い血液が。指を切ったとき出る静脈血ではない。心臓から送り出され、酸素をたっぷり含んだ動脈血の色だ。
 不思議と痛みはない。だがさっきの記憶からして、どうやら、俺の腹部が丸ごと引きちぎられたようだ。

「あ……あ、ま——」

 声は続かず、小さくむせる。

「大丈夫だから‼ 大丈夫だから‼ すぐに止めるから! ごめんね、痛いけど我慢して」

 そう言って、雨宮は俺の腹部を圧迫する。保健体育の座学で習う、直接圧迫止血法だ。

 ——……無理だって。雨宮。

 痛みがない所為か、俺は不思議と冷静だった。
 まずその止血法は、傷口が解る程度の怪我に使うものだ。肉がえぐれていて、どこが傷口なのか解らないような怪我には意味がない。それに、動脈が破れていたらもう血は止まらない。

「はぁ……はぁ……。何で、何で止まらないの⁉ とまれ、止まってよ⁉」

 それに、痛みが解からないのだ。
 痛覚神経は、実は意外にも表層にある。重度のけが人よりもある程度軽症のほうが騒ぐのはそれが理由だ。
 つまり、俺の怪我はもうどうしようもない。

「や、やめぇえぇぇぇぇぇぇ⁉」

 視線を動かせば、オークが金棒を振り下ろした。狙いは、もちろん飯田。
 グシャっという明らかにおかしい音が、金棒の下から生まれた。
 ざまあ見ろ。不謹慎ながらそう思った。
 とっさとはいえ、意図していなかったからといえ、雨宮を盾にしたことへの天罰が下ったのだと、そう思った。
 あとは、雨宮が逃げればそれでいい。
 死ぬのは、怖い。
 怖くない人間などいないだろう。それ故に、不老不死を目的とする者が現れ、それを題材にした作品が存在し、あの世を想定した宗教というものが存在する。
 だがなぜだろう。俺の思考は、死とは別のことに思いを馳せる。
 なぜ、雨宮をかばったのだろうと。
 俺の性格じゃ、考えられないことだ。
 他人との距離をとり、遠ざけていた俺には。誰かのために動くことなど、あるはずがないのだ。
 そのために、距離をとってきたのだから。
 頬に、水滴が落ちる。
 誰のものかは言うまでもない、雨宮のものだ。いまもこうして、血を止めようと必死になっている。もう、止まるはずがないのに。
 オークが、こちらに近づいてくる。
 テスターと同じ形をしているのだ。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』オークの中でもそうなのだろう。どうやら、同じ形の俺たちも潰さなくては、気が収まらないらしい。
 近づけまいと、雨宮が信号弾を握っている。だが次弾を装填していない以上、それはアルミ合金の塊だ。
 さっさと逃げろよ。そうすれば、逃げられるのに……

 ◇◆   ◇◆   ◇◆

 脳内に、映像が投影される。
 全く記憶にない場所……それどころか、日本ですらない。
 俺は、そこにいる少女と話していた。
 顔はかすれて分からない。だが、状況は今と逆のようだ。
 意識が遠のく中、何かが引っ掛かる。
 そうだ、逆じゃない。
 あのときは。いまよりもっとひどかった。
 そうだ、この時、あいつは禁術の反動で死んだのだ。
 そして、オレも腹に風穴が開いていた。
 また、守れないのか? こんどは、何のしがらみもないのに。
 また、殺してしまうのか? どうしようもない状態じゃないのに。
 嫌だ、殺させてたまるか。
 やっと、願いがかなったのだ。あのときの夢がかなう途中なのだ。
 邪魔だけは、させてたまるか。

「……う、ごけ」

 動け、動けよ。

「ま……だ」

 動け。動け、動け、動け————ッ
 腹がえぐられたからなんだ。
 足が千切れたわけじゃない。腕が飛んだわけじゃない。頭が取れたわけじゃない。それならばまだ、戦える。
 右手が、何かに触れる。
 血で滑るが、間違いない。この手に吸い付く感覚を、忘れるわけがない。
 地面から抜き去り、ちらりと見る。

 ——やっぱり。

 刀身から柄まで、濁りのない黒で染め上げられたカタナ《連菊》。オレしかもっていない、俺の相棒。
 頼む、相棒。
 オレの命をくれてやる。だからもう一度だけ——、
 力を貸してくれ!

「ぉぉぉぉおおおおおおお——————ッ‼」

 力を振り絞り、立ち上がる。
 血が噴き出るのも、内臓が悲鳴を上げるのも関係ない。この瞬間だけ保てばいい。
 カタナから、青白い光が迸る。
 腰を落とし、カタナを真後ろに引き下げる。狙いは胴体、そこを打ち抜けばこちらの勝ちだ。
 オークの金棒が迫る。

「どけぇぇぇぇぇぇええええ——————ッ‼」

 カタナが、突き出される。
 金棒が触れ、まるで布でも斬るかのように、あっけなく貫通する。
 勢いは削がれない。それくらいじゃ、どうにもならない。
 すべての魔力を込めた一突きは、オークの胸部に炸裂し————、

 ◇◆   ◇◆   ◇◆

 そのときのことを、俺はよく覚えていない。記憶があいまいで、よく思い出せない。だが、最後に見た光景は、うっすらと覚えている。
 オークの胸には、ぽっかりと穴が開いていた。
 そのまま後ろに崩れ落ち、俺は前へと倒れ込む。そのさなか、視界に誰かが映っていた。
 意識を失う、その刹那。

 世界が、虹色に瞬いた。
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