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第二十七夜 ハティーシャの願い

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 ハティーシャの願い。
 それは。

 「……お母様。ダリルを、元の姿に戻して頂戴」

 ジンニーヤは一瞬、虚を突かれたように金の瞳を丸くした。それからくつくつとさも愉しげに肩を揺らし、妖しく輝く金眼を細め、何度も頷いた。
 
『よい、良い! 良かろう! 可愛い娘の頼みじゃ! 』
 
──ウォン!?

(なっ、な、何故だ……!?)

 最も仰天したのは他でもない魔導師であった。ずっと誰にも、特にハティーシャ自身には、己の正体を知られてはいないとばかり思っていた。ハティーシャにとっては己はただの狼でさえない、可愛い子犬なのだと、思い込んでいた。

「知っていたの。あなたが私のことを、ずっと見守っていてくれたこと」
 
 ハティーシャはじっと、食い入るように大狼を見つめていた。
 魔導師はその真摯な視線に大いに慌てふためき、その姿にジンニーヤは人間くさい仕草でくつくつとさも可笑しそうに肩を揺らす。

『いい気味じゃのう、魔導師ジャハーンダールよ! 今ならお前との知恵比べにも勝てようなぁ! どうじゃ、今すぐお前の ”愛するもの” に、変化してやろうか?』
 
 全て、見透かされている。
 
──オォォン!
 
(ぐッ……結構だ!) 

『ふん? その姿では何を言っておるのかさっぱり分からん。……さっさと制約を解いてやろう』

 ジンニーヤはグルグルワウワウ言葉にならぬ唸り声で文句を言う狼を一瞥し、高らかに告げた。

『我が娘、魔神の愛し子ハティーシャの望み、聞き届けたぞ!』
 
──カチ、リ!

 それは、願いの叶う音。
 鍵穴に鍵の嵌るのにも、歯車の噛み合うのにも似た、理に触れる硬質な音。

 魔導師を縛る秘術の制約が解かれる。
 
 人々が、ハティーシャが、瞬く間にその姿は変化する。
 鋭い爪のある前脚は長く骨張った男の手に、恐ろしげな牙のある大顎は不機嫌そうに歪んだ口に、ピンと立った大きな狼耳は長く真っ直ぐな黒髪に。黒々とした毛並みの大狼は、漆黒のローブを纏った人間の男に変わっている。
 
 男の蒼褪めた貌には、深く眉間の皴が刻まれていた。獣の四つ足から、魔導師はゆっくりと身を伸ばし、忌々しげにジンニーヤを見据えた。

「…………貴様、愛する娘と言いながら、何故全て分かっていて尚……ハティーシャを危険な目に合わせたのだ」

 怒気を孕んだ魔導師の問いかけにも、ジンニーヤはちっとも悪びれなかった。

『しかし、お前が我が愛し子を守ってくれたではないか?」
「だっ……だが……何故我が……ハティーシャを守るであろうなどと愚かな憶測を……」
『ん、ふふ……お前の行状は影の中より逐一見ておったゆえのう?』
 
  そう言うと魔神はこほん、とわざとらしい咳払いを一つする。そして甲高く耳障りの悪い、軋むような声で。

『……御主人様、御主人様! 天地の真なる支配者、常世に並ぶ者なき偉大なる魔導師、ジャハーンダール様。わたくしでございます。御身の忠実なるしもべでございます!』
「なっ……貴様……ッッ!」
 
 ジンニーヤはにたりと笑った。
 
『あれも、我が身の分霊体のひとつよ。世話になったのう、ジャハーンダール』

 ジンニーヤは、今度はふわりと穏やかに微笑んだ。愈々忌々しいことに、その顔はハティーシャとそっくりだった。

『さて、晴れて自由の身となったからには、この国に長居は無用』

 ジンニーヤが両手を掲げると、その体は金の光の粒子になって、消えていく。

 王座の間の割れた窓から、開け放たれた扉から。
 それは輝ける砂塵、砂漠を渡る風。変幻自在の神秘の光。
  ジンニーヤは、地に住まう人と天に住まう神との真ん中、空に存在する契約の種族。
 時に人の良き隣人であり、恐ろしき脅威であり、人智を超えた力を行使する魔術の支配者。
 契約も封じる術もなくては、最早一所に捕らえることなど出来はしない。

 冷たい夜にも関わらず、夜明けの日差しの如き暖かい光が、ハティーシャの頬を撫でた。
 ”愛し子よ、またいつか”、と優しく告げるように。

 天へ、空へ、光の粒子がすっかり消えてしまうと、見惚れて放心していた人々は急に魔法が解けたかのように我を取り戻した。

 
 実をいうと、この隙に姿を消すべきかどうか、魔導師は迷っていた。ずっと狼のフリをしていたのが、まさかバレていたとは。今更、一体どんな顔をしてハティーシャと向き合えば良いのか、皆目見当もつかなかった。
 そろり、と身を引き闇に溶け込もうとしたところで、ハティーシャにローブの裾を掴まれ、ぎくり、とする。

「は、ハティーシャ………」
「ダリル……いいえ、いいえ。ジャハーンダール」
 
 ハティーシャは魔導師を見上げた。並んで見れば頭一つぶん、長身痩躯の男の方が背が高い。
 夢か現実か、夜毎ハティーシャを抱きしめて眠っていたあの男に間違いなかった。

「私ね、あなたを愛しているわ。ずっと、一緒にいてくれてありがとう。これからも、私と一緒に付いて来てくれるのでしょう?」

 確かにそう、約束した。
 だが気圧されたように言葉に詰まり、目を白黒させて慌てる魔導師の様子に、ハティーシャは小首を傾げた。

「……どうしたの……?」
「……~ッッ!! 我が言おうと思っていたことを、そなたが全部先に言うでない!」

 これでは全く持って、これっぽっちも格好がつかない。 
 本来ならば、偉大なる魔導師の姿で、砂嵐と雷を従え花束のひとつ贈り物のひとつなど携えて、意気揚々とハティーシャを迎えに現れ出る算段であった。
 今は手ぶらだ。それどころか、台詞まで全部奪われた。

「ぐ、ぬ……ぅッッ……ハティーシャよ、光栄に思うが良い。そなたを、……我が妻にしてやろう」
 
 魔導師は何とか威厳を取り戻そうと、陰気なしかめっ面を浮かべて言った。
 
「……ふ、っ、ふふふ…………ふふ……」
「なッ、な、何を笑っている!?」
 
 求婚にしてはあまりにあんまりな言いぐさに、ハティーシャは思わず笑いを堪えきれずに噴き出した。ハティーシャにさも可笑しそうに大笑いされて、魔導師の真っ白い顔がサッと朱に染まる。羞恥に目が眩みそうだった。
 
 だが、ハティーシャは、一頻り笑い終わると、ふわりと薔薇の花がほころぶように嬉しそうに微笑んだ。
 
「……良いわ。 きっと、魔導師の妻には、魔神の娘が相応しい」
 
 そうして、白い手に、褐色の手を重ねて見上げる。
 
 見つめ合うのは、夢幻の中ではいつも閉じられていて一度たりとも見たことのなかった紅い瞳。けれどそれは、何度も覗き込んでいたあの大狼の瞳と同じ色をしていた。
 
「ジャハーンダール? 私ね、砂漠の空が見たいの。連れて行って頂戴」
「……良かろう」
 
──バヂンッッッ!!!
 
 魔導師が手を打てば、大広間の窓という窓が開け放たれる。
 冷たい砂漠の夜風が、王宮に吹き込んだ。
 
 魔導師は巨鳥ルフに姿を変えた。
 
ルフ──砂漠の御伽噺に登場する伝説の巨鳥は、象さえ抱えて飛ぶという。この世で最も大きな鳥だ。
 
「行くぞ、ハティーシャ」
 
 ハティーシャは巨鳥の足にぎゅっと掴まった。魔導師は落とさぬように娘の体を大事に抱える。
 
「……さようなら、お父様。さようなら、皆様。どうか、どうか、お元気で!」
 
 呆気にとられた様子の国王や王女、そしてルスラン王子に。
 ハティーシャはにこやかに別れの挨拶を告げた。
 
 巨鳥は、大きく翼を羽ばたかせた。
 
────バ、サザァァァ!!!!
 
 王座の間に暴風が吹き荒れる。
 
 バリン、バリン! と辛うじて生き残っていた窓が割れる。
 
 逃げようと王座から下りていた王妃が、吹き飛ばされて無様に転ぶ。
 勢いよく飛んできた鉢植えから、ルスラン王子が勇ましく王女を庇う。
 駆け付けた衛士達も室内で吹き荒れる暴風に、為すすべなく見守る。
 
 国王は王座から放心したようにその惨事を見下ろしていた。
 
──ガ、シャァァン!!!
 
 一際大きな両開きの大窓を半ば突き破り、巨鳥は砂漠の大空へと飛び出した。
 
 砂漠に落ちた一粒の真珠のような美しい白亜の王宮は、瞬く間に小さくなっていく。
 
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