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第二十六夜 魔神の愛し子

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「…………お母様」
 
 ハティーシャはじっと女魔神ジンニーヤを見つめた。
 人々が戸惑い、怯え、驚き、混乱するこの場において、たった一人ハティーシャだけが平静を保っているように見えた。
 
 ジンニーヤの燃えるような金の瞳、豊かに波打つ黄金の髪。艶やかな褐色の肌。そのどれもが、ハティーシャに瓜二つであった。
 
『おや、いつから気づいていたのじゃ。ハティーシャよ』
「お母様が、きっと普通の人間ではないということには薄々気づいていたわ。だって普通の人間は『私は明日死にます』なんて言って死なない。でもまさか、まさか……ジンニーヤだったなんて……昨夜、あの尖塔に閉じ込められるまでは、勿論思いもしなかった、けれど……」
 
 かの魔神の尖塔で。
 これで最後になるかも知れぬ、と諦めにも似た気持ちでハティーシャは歌った。母に教えられた、思い出のあの歌を。
 そして、暗闇の中に忽然と現れた宝石箱を見つけたのだ。
 
「ま、待ってくれ……! ハティーシャ姫が、魔神の……娘?」
 
 恐る恐る言葉を紡いだのは、ルスラン王子であった。
 ジンニーヤは裂けた無花果のように紅い唇を持ち上げ、妖艶に微笑んだ。見目とは違い、その表情も仕草も親子と言えどもハティーシャとは似てもにつかない。
 
『いかにも、ハティーシャは我が血を分けた愛しき娘。その魅了の瞳も歌声も、人ならざる者のみが持つ、力のしるし』
 
──ワォ、ンッッ……
 
(な、なんだと…………)
 
 つい声を上げた魔導師を、もしや全く気づいておらなんだのか? とでも言わんばかりに、ジンニーヤは愉快そうに一瞥した。
 
 女魔神の燃える瞳は、ついで、王座の前で呆然と立ち竦む国王に注がれる。
 
『………王よ、シャーハーンよ。我が君。……ふふ、懐かしいことよのう』
 
 その声には幾許かの言葉にならない感傷が込められていた。言葉の通り過去を懐かしむような、それでいて目の前で力なく震える王への憐れみと失望とを混ぜ合わせたような。
 呼びかけに、国王は漸く枯れた声で紡ぐ。
 
「……は、ハーテレフ……そ、そなたは……一体いつから、否、まさか最初から……?」
『……そうとも、全ては我が身のたくらみよ』

 ジンニーヤは語る。それは己の昔語りのようでもあり、何処か遠い御伽噺のようでもあった。

『……最初の王は、良い男であった。飢え乾く砂漠の民らを想い、この地に決して枯れることのない大いなるオアシスを願った。だからこそ、我が身は願いを叶えてやったのじゃ。
 最初の王も、その子も、孫も、……この国の王たちと、我が身は契約を交わし、仕えた。幾つもの願いを叶えてやった。だが、王族共は代を重ねるごとに魔神の力を巡って争い合い、憎しみ合い、力を持て余し……遂には我が身を魔導具に封じた』

 ジンニーヤは深く、嘆息した。その嘆きと怒りと共に、金の髪からチラチラと炎の欠片が舞う。飛び散る火花は吐息を焦がした。

『……信頼する契約者から、”君への贈り物だ”と差し出された宝石箱に、この身を封じられた恨みがお前達に分かるか? あれほど尽くしてやったのに! 長年守護してやった人間に裏切られた、この気持ちが!』
 
──バリンッ!
 
 ジンニーヤの怒気に、大気が震える。窓に嵌った装飾硝子が音を立てて割れる。ただでさえ蒼白で怯えていた国王は、震え上がった。震えながらも問いかけた。未だ信じ難い、信じたくないとでも言わんばかりに。
 
「だ、だが……ならばどうやって……? 封印は、王家の血を引く者にしか解けぬはず。どうやって外に出て、庭師の娘に……人間の娘に、ハーテレフに化けたというのじゃ……?」
『”封印は王家の血を引く者にしか解けぬ”……口惜しいことに、いかにもその通り。だが、幾ら強固な封印でも、数百年もすれば綻びが目立つものよ。我が身には、魂のかけらを分霊体として外の世界に放つことぐらいは、容易いこと。その一つを、今にも命尽きんとしていた庭師の娘の体へ受肉させたのじゃ。後はもう、お前が一番よく知っておろう? 王よ、毎夜我が身が歌ってやったのを、忘れたとは言うまい』
「何故じゃ……一体、何故そのような……」
『……愚かな王よ。まだ分からぬか?』
 
 狼狽する老王を、ジンニーヤは唇を歪めて嘲笑う。
 
『我が身には、人の体が必要だったのじゃ。いつか、我が身の真の封印を解くであろう、王家の血を引く愛し子を宿す為に』
 
 国王はあまりの事に、腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。情けなく蹲る男に、ジンニーヤは最早興味を失ったようだった。
 再び、ふわ、り、と舞うように広間の中心で薄絹が舞う。金色の髪が光を纏い、真昼の日輪のように煌めく。狭い箱の中ではない、何物にも縛られぬ自由を謳歌するかの如く。
 
 そうして、ジンニーヤはハティーシャの目の前まで来ると、また、蕩けるような眼差しで微笑みかけた。
 
『そう、最初はただ、それだけの為だった……だが、ハティーシャ。そなたは真実この世でただひとり、我が身が腹を痛めて生んだ子じゃ。いざ生み育ててみれば、人の子というのはかわゆうてかわゆうて、仕方のないもの』
「お母様…………」
『信じておくれ。我が身がそなたを愛する気持ちは、誠であると』
 
 己は封印を解くために必要な、王家の血を引く道具に過ぎない。そう、母たるジンニーヤに言われてもハティーシャは然程動じなかった。
 
 旅から旅へと移動する行商人の天幕で、母は毎晩己を抱きしめて、優しい声で歌ってくれた。母一人子一人。それでも己は幸せだった。母に心から愛されていると、疑ったことなどなかった。
 例えその正体が人間ではなかったとしても、それだけは確かなことだった。
 
「……えぇ、お母様。信じてるわ」
 
 触れようにも、抱きしめようにも、超常の存在たるジンニーヤには生身の体がない。ただそっと、ハティーシャの体を金の光が靄のように包む。
 眩い光の中で、ジンニーヤは尋ねた。
 
『ハティーシャよ、…………母の積年の願いを叶えて貰ったからには、お前の願いもひとつ、叶えてやろう。何が望みじゃ? 何でも言うがよい。可愛いお前を虐めたあの醜い女をヒキガエルに変えてやろうか。それとも尖塔の天辺から突き落としてやろうか』
 
 その言葉に、ひぃ、と妃は悲鳴を上げ、逃げ出そうと腰を浮かした。けれど魔神の金の瞳に一瞥されただけで、まさに蛇に睨まれたカエルのようにその場に縫い留められ一歩たりとも動けなくなる。
 
「……いいえ、いいえ、お母様。私は復讐など望みません」
『なに……? では何じゃ、何が望みじゃ? そうじゃ……あれも、お飾りの王座に座り続けることにそろそろ倦み疲れたであろう。代わりにお前をこの国の女王にしてやろう。そうでなければ、お前が望むなら、いっそこの国をただの砂地にしてやることとて、我が身には出来るのじゃぞ』
 
「いいえ、私は、この国も、栄華も、望みません」
『では、では! なんじゃ、何が望みだと言うのじゃ! 』
 
 ジンニーヤは焦れた。

 ハティーシャに、迷いはなかった。
 何故ならその為に、魔神の封印を解いたのだから。
 
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