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第二十二夜 黄金の腕輪
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まるで警鐘の如く、部屋の中に鳴り響く音。
その音を聞きつけたのか部屋の外で衣擦れと共に女の声がする。
「姫様? パリヤール姫様? 今の音は……? どうなさったのです?」
「……待って! 大丈夫、何でもないわ。盆を取り落としてしまっただけよ。いいから、あなたは先に行っていて……」
驚くべきことに、王女パリヤールは侍女にそう言った。
これから浴場へでも行こうとしていたのだろうか。王女は忘れ物を取りにでも戻った、という風情であった。
だが、侍女を遠ざけて王女が振り向けば、そこにいるのは既に自分自身と瓜二つの女ではなかった。
目の前には、今にも呪い殺しそうな恐ろし気な顔をした長身痩躯の男──黒衣の魔導師である。王女は思わず息を飲んだ。
「あなたは…………」
「……黙れ。黙らねば今すぐその喉を掻き切るぞ」
(クソッ……こうなったからには仕方ない。いっそこの女を殺して、王女に成り代わるしかあるまい)
魔導師は即座に片手の先だけを猛禽の前脚と化し、鋭い爪先を王女の喉元に突きつける。強靭な大鷹の前脚なら、か弱い女の細首を引き裂くも捻り折るも容易い。
だが王女は黙らなかった。
その鳶色の瞳が魔導師を見つめる。相変わらず、まるで夢の中を揺蕩うような、現実味のない眼差しが揺れる。
「……あなたは”ダリル”でしょう?」
「………」
予想だにしなかったその言葉に、魔導師は動揺を悟られまい、と息を詰めた。だが王女の問いかけは確信めいた断定の響きを孕んでいる。
「なぜ、……」
「……あの時……はじめて、ハティーシャの部へ伺った時に。”視えて”しまったの。あなたの正体が」
「”視えて”しまった……?」
魔導師を王女をじっと見下ろした。一見平凡な茶色い瞳の奥では、靄かかるような淡い虹色の光が閃いては消え、消えては瞬く。砂嵐の中の雷鳴の如き、一瞬の閃光。
「お前、その眼はまさか…………妖精眼の持ち主か」
妖精眼──それは、この世ならざるものを見通すという瞳。神のご加護によって発現するというその不思議な目の持ち主にはあらゆる目くらましの術が効かず、魔神の秘術さえ見破るという。
魔導師は最初から感じていた違和感の正体に行きついて得心した。
(……初めて見た時から、妙な女だとは思っていたが……この、何処を見ているんだか分からぬぼんやりとした目つきはそのせいか)
「だが、何故………」
何故、黙っていたのか。何故、母である王妃に告げ口しなかったのか。
魔導師は訝しんだ。眉間の皴を深めて尚、鉤爪は喉元へ迫る。
「初めてお会いした時言ったことは、本心よ。嘘ではない。ハティーシャと、たったひとりの妹と、仲良くしたいと、……わたくしは、今でも思っているわ」
今にも柔肌を突き破らんばかりに迫る爪先に、王女の声は震えていた。
「……あの宴の夜のことをハティーシャに謝りたかったの。わたくしが考えなしに、お母さまにハティーシャは楽器や詩歌の暗唱をさせられなくて羨ましいなんて言ってしまったせいで、まさかあんなことになるなんて知らなくて……ごめんなさい……」
王女は心から申し訳ないと思っているようだった。己の生母との確執を、全く知らなかった筈はないが、甘く見ていたのはその通りなのだろう。
「あなたの御用は分かっているの。お母さまが、ハティーシャを魔神の尖塔に閉じ込めたのでしょう?」
「……知っていたのか」
王女はこくり、と頷いた。
「でも、あれは嘘なの。王家の者があの塔で一昼夜を過ごせば魔神が現れるなんて、お母さまの口から出まかせよ。……確かに王家の祖は魔神の契約者だった。けれど、それはもう何百年も昔のこと。尖塔の魔神は、魔導具に封じられてしまったの。確かにその封印は、”王家の血を引く者にしか、解けぬ”と言われているけれど……」
「なん、だと……! では、あの女、元よりハティーシャに証しする見込みのない試練を与えたということか!」
「……いいえ。答えのない謎かけなど、存在してはならないわ」
パリヤールは、するり、と己の手首にはめていた金の腕輪を外した。そして有無を言わせず魔導師の青白い手に押し付ける。
「これを、ハティーシャに渡してあげて」
それは随分と古めかしい意匠ながら、全く継ぎ目の分からない金で出来た腕輪であった。
「王家に伝わる魔導具のひとつよ。元々は、魔神のものだったと伝えられているの。内側に、魔神の名が刻んであるわ」
見れば、腕輪の内側に確かに随分とかすれた文字でひとつの名が刻んである。
「……ごめんなさい、と。ハティーシャに、そう伝えてくれるかしら?」
「……よかろう。借りは返してもらった」
(……だが、どうやって?)
魔導師はハティーシャの前では相変わらず人の姿には戻れない。
「さぁ、急いで……誰かに見つかる前に……!」
王女に急かされるまでもなく、長身痩躯の男は既に漆黒の鴉に姿を変えていた。
鴉は金の腕輪を首に通すと、暗い夜空へと飛び立った。
その音を聞きつけたのか部屋の外で衣擦れと共に女の声がする。
「姫様? パリヤール姫様? 今の音は……? どうなさったのです?」
「……待って! 大丈夫、何でもないわ。盆を取り落としてしまっただけよ。いいから、あなたは先に行っていて……」
驚くべきことに、王女パリヤールは侍女にそう言った。
これから浴場へでも行こうとしていたのだろうか。王女は忘れ物を取りにでも戻った、という風情であった。
だが、侍女を遠ざけて王女が振り向けば、そこにいるのは既に自分自身と瓜二つの女ではなかった。
目の前には、今にも呪い殺しそうな恐ろし気な顔をした長身痩躯の男──黒衣の魔導師である。王女は思わず息を飲んだ。
「あなたは…………」
「……黙れ。黙らねば今すぐその喉を掻き切るぞ」
(クソッ……こうなったからには仕方ない。いっそこの女を殺して、王女に成り代わるしかあるまい)
魔導師は即座に片手の先だけを猛禽の前脚と化し、鋭い爪先を王女の喉元に突きつける。強靭な大鷹の前脚なら、か弱い女の細首を引き裂くも捻り折るも容易い。
だが王女は黙らなかった。
その鳶色の瞳が魔導師を見つめる。相変わらず、まるで夢の中を揺蕩うような、現実味のない眼差しが揺れる。
「……あなたは”ダリル”でしょう?」
「………」
予想だにしなかったその言葉に、魔導師は動揺を悟られまい、と息を詰めた。だが王女の問いかけは確信めいた断定の響きを孕んでいる。
「なぜ、……」
「……あの時……はじめて、ハティーシャの部へ伺った時に。”視えて”しまったの。あなたの正体が」
「”視えて”しまった……?」
魔導師を王女をじっと見下ろした。一見平凡な茶色い瞳の奥では、靄かかるような淡い虹色の光が閃いては消え、消えては瞬く。砂嵐の中の雷鳴の如き、一瞬の閃光。
「お前、その眼はまさか…………妖精眼の持ち主か」
妖精眼──それは、この世ならざるものを見通すという瞳。神のご加護によって発現するというその不思議な目の持ち主にはあらゆる目くらましの術が効かず、魔神の秘術さえ見破るという。
魔導師は最初から感じていた違和感の正体に行きついて得心した。
(……初めて見た時から、妙な女だとは思っていたが……この、何処を見ているんだか分からぬぼんやりとした目つきはそのせいか)
「だが、何故………」
何故、黙っていたのか。何故、母である王妃に告げ口しなかったのか。
魔導師は訝しんだ。眉間の皴を深めて尚、鉤爪は喉元へ迫る。
「初めてお会いした時言ったことは、本心よ。嘘ではない。ハティーシャと、たったひとりの妹と、仲良くしたいと、……わたくしは、今でも思っているわ」
今にも柔肌を突き破らんばかりに迫る爪先に、王女の声は震えていた。
「……あの宴の夜のことをハティーシャに謝りたかったの。わたくしが考えなしに、お母さまにハティーシャは楽器や詩歌の暗唱をさせられなくて羨ましいなんて言ってしまったせいで、まさかあんなことになるなんて知らなくて……ごめんなさい……」
王女は心から申し訳ないと思っているようだった。己の生母との確執を、全く知らなかった筈はないが、甘く見ていたのはその通りなのだろう。
「あなたの御用は分かっているの。お母さまが、ハティーシャを魔神の尖塔に閉じ込めたのでしょう?」
「……知っていたのか」
王女はこくり、と頷いた。
「でも、あれは嘘なの。王家の者があの塔で一昼夜を過ごせば魔神が現れるなんて、お母さまの口から出まかせよ。……確かに王家の祖は魔神の契約者だった。けれど、それはもう何百年も昔のこと。尖塔の魔神は、魔導具に封じられてしまったの。確かにその封印は、”王家の血を引く者にしか、解けぬ”と言われているけれど……」
「なん、だと……! では、あの女、元よりハティーシャに証しする見込みのない試練を与えたということか!」
「……いいえ。答えのない謎かけなど、存在してはならないわ」
パリヤールは、するり、と己の手首にはめていた金の腕輪を外した。そして有無を言わせず魔導師の青白い手に押し付ける。
「これを、ハティーシャに渡してあげて」
それは随分と古めかしい意匠ながら、全く継ぎ目の分からない金で出来た腕輪であった。
「王家に伝わる魔導具のひとつよ。元々は、魔神のものだったと伝えられているの。内側に、魔神の名が刻んであるわ」
見れば、腕輪の内側に確かに随分とかすれた文字でひとつの名が刻んである。
「……ごめんなさい、と。ハティーシャに、そう伝えてくれるかしら?」
「……よかろう。借りは返してもらった」
(……だが、どうやって?)
魔導師はハティーシャの前では相変わらず人の姿には戻れない。
「さぁ、急いで……誰かに見つかる前に……!」
王女に急かされるまでもなく、長身痩躯の男は既に漆黒の鴉に姿を変えていた。
鴉は金の腕輪を首に通すと、暗い夜空へと飛び立った。
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