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第十六夜 落とし子の決意

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 その夜、ハティーシャは中々寝付けなかった。
 大鷹に襲われ危うく命を落としそうになったことの衝撃も勿論あったが、おそらく理由はそれだけではなかった。

 
 鷹狩りでの一件は公にはせず、王子が内々に事の次第を調べてくれることになっていた。明らかに鷹はハティーシャだけを狙って襲い掛かって来ていた。だが、まだ事故か事件か決まった訳ではない。いたずらに騒ぎ立てて事を大きくするのは避けたかった。
 
 誰かに命を狙われているかもしれない。
それは目の前で激しく燃え上がる炎のような憎悪ではない、朔の暗闇から忍び寄る冷たい切っ先のような怨嗟。誰かから仄暗い感情を向けられているという恐怖は、ハティーシャの心を曇らせる。

 けれど、目を閉じれば目蓋の裏に浮かぶのは、砂漠の青い空だ。

 雲一つない大空を、シャーヒーンは自由に飛んでいく。

 あの空は、王宮の片隅で忘れられたようなこの離れからは決して望めぬものだった。


※※※


 お気に入りの星の形の飾り格子がはまった出窓に腰掛け、ハティーシャは溜息をついた。金の睫毛を微かに震わせ、ほぅ、と悩ましげに吐息を零す物憂げな様子はいかにも美しい。窓の色硝子ごしに差し込む月明かりさえも、ハティーシャの美しさを際立たせる脇役でしかなかった。

 最早何度目かも分からぬ溜息を聞きながら、魔導師は気が気ではなかった。

 鷹狩りから戻って来てから、ハティーシャの様子はあきらかに変だった。
 出窓から空を眺めては溜息を零す。まるで叶わぬ恋に苦悩する乙女のようだ。

──クゥン、クゥーン……?

(ど、どうした……? ハティーシャ……まだ昼間の一件が気になっているのか? いや、それはそうだ! 無理もあるまい、何せ命を狙われたのだからな!?)

 魔導師はせめてそう思いたかった。柄にもなくオロついた。オロオロとハティーシャの周りを落ち着きなくうろつき、膝に寄り添い、濡れた鼻面を押し付けた。我ながら、こんな情けなく甘えた姿は他の者には断じて見られてはならぬ、と思った。
 
 ハティーシャは大狼のねだるような仕草にこたえ、黒い毛並みを抱き寄せて鼻先に口付ける。鬣のような首毛のモフモフに埋もれて頬擦りした。

(そうだ、さぞや恐ろしかったであろう、哀れなハティーシャよ……)

 考えすぎだ、と魔導師が安堵しかけた、その時。ハティーシャは不意に呟いた。

「ねぇ、ダリル……ルスラン王子の故郷のシャムザ神聖王国というのは、どんな国なのかしら……」
 
──ク、ゥーン……!?

(な、な……なぜ今あの男の話が出てくるのだ……!?)

 慌てふためく魔導師を置き去りに、ハティーシャは続けた。

「ジャスミンの花の咲く季節に、お祭りがあるそうよ。大陸各地から人々が訪れ、音楽や舞や歌を楽しみ、咲いたばかりのジャスミンの花を愛する人に贈るのですって」

──ワ、フッ……ワフッ、ウ、グルゥ……

(イズファハーンの夏の大祭なら、勿論我とて知って居ようとも! だがあの男の言うほど大したことはないぞ! イズファハーンの夏は馬鹿みたいに暑いし、どこもかしこも人は多いし客引きは鬱陶しいし物価は高いし……)

「……素敵ね。私も、一度でいいから見てみたい」

──フ、ゥゥ、ゥン……

(は!? いや……無論、そなたがそう言うのならば………)

 ハティーシャは何かを決意したかのように、ゆっくりと頷いた。そして。

「ダリル……私ね、やっぱりここを出ようと思うの。ずっとここで、鳥籠の鳥のように暮らすのは、もうたくさん!」

──ァウン!?

(……なに!? そ、それはまさか……)
 
 魔導師は思わず妙な声を洩らした。
 

「お父様にはお会い出来たし、娘であることを信じると言ってもらえたのだから、それで十分だわ。せめて最後に一度だけ、お父様とお話をさせて頂いて……それから、ここを出ましょう」

 ハティーシャは一呼吸でそう言ってしまうと、身を起こして大狼に向き直った。
 紅色の瞳をじっと見つめる。まるで、その赤い瞳の奥底まで覗き込むようにじっくりと。

「ダリル……私に付いてきてくれる?」

──ァオン!

(……当前だ)

 魔導師は吠えた。一も二もなく頷いた。ハティーシャの頬に大狼の濡れた鼻面を押し当て、精一杯の口付けをお返しした。
 
 だがその心中は複雑なままだった。
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