上 下
7 / 29

第六夜 大狼ダリル

しおりを挟む
 
 井戸の底から掬い上げた金の指輪を手に、魔導師は納屋へと戻った。
 
 ハティーシャの前では『変化の秘術』が解けない。
 魔神の課した制約によって、元の姿に戻れぬばかりか術のひとつも使えない。
 その姿は、どうあがいても黒々とした毛並みの大狼のままである。
 だが彼女がぐっすりと眠っている時だけは、魔導師は人間の男であった。
 
「ハティーシャ……」

 麦わらの上で丸まって眠る娘を見下ろし、狼の時と変わらぬ濃い紅色の瞳を細める。唸り声ではない己の声で、娘の名を紡ぐ。
 
 魔導師は身をかがめ、恐る恐る、眠る娘の頬に触れた。

 ただ、優しく触れる。
 それさえも狼の姿では叶わないことだ。鋭い牙の並んだ口も、爪の生えそろった前脚も、ともすれば娘の柔肌を傷つけかねない。

 長く節くれだった男の指先は、涙の跡が残る柔らかい頬の稜線を、慈しむように何度も辿った。
 緩やかに波打つ金の前髪を優しく掻き分ける。さらした褐色の額に、そっと微風の如き控えめな口付けを落とす。
 
 ただそれだけで、胸の奥が締め付けられる。
 感じたこともない切ない喜びと苦しみが、空虚なはずの胸を満たす。己の中に人間らしい感情の揺らぎというものがあったことに、魔導師は新鮮な驚きを覚えた。
 
 恋心とは、甘い夢の如きもの。
 生来傲慢でひねくれ者の魔導師でさえ、素直に認めざるを得なかった。この娘のためならば、己に出来ることは何でもしてやろう、とさえ思ってしまう。
 
「ハティーシャ、ハティーシャ……我が『愛するもの』よ……」
  
 魔導師は眠るハティーシャの指に、金の指輪をはめてやった。
 

※※※

「……っ!?……どうして……一体だれが?」

 目が覚めて真っ先に、ハティーシャは己の指にはまる金の指輪に気づいた。それは確かに、昨日侍女の女が井戸に投げ入れてなくした筈の形見の指輪であった。輝く金の瞳を目いっぱい見開いて、まだ夢を見ているのではないか、と何度も何度も目をこする。

「嗚呼、太陽の男神様、月の女神様、砂漠の神々に感謝いたします……!」

 その奇跡に、思わず神の名を口にするハティーシャの姿に、狼の姿に戻り傍らに寝そべっていた魔導師は不服げに唸った。

──ウ゛ルゥゥゥ……

(ハティーシャめ……神ではなく我に感謝するべきであろうが!)

 だが魔導師の不満にハティーシャが気づく筈もない。

「嗚呼!こんな嬉しいことってないわ!ねぇダリル、ダリル!私今日、お父様にお会い出来るのよ!これがあれば、きっと娘だと認めて貰えるに違いないわ!」

 ハティーシャは花咲くような美しい笑顔と共に、魔導師を覗き込む。抱き寄せられれば褐色の頬が近づく。今日もまた、ハティーシャはちゃんと忘れずにおはよう、と囁きながら口付けてくれる。
 
 彼女の笑顔を見ていると、魔導師はふわふわと心地よい幸せに包まれる。
 これはいつぞやの恩返しなどではない。
 己の手でその涙を拭ってやることが出来ぬなら、せめて雨雲も嵐も何もかも、彼女の上から取り除いてやろう。そう思った。
 己が間違っていた。例え直接感謝されずとも、ハティーシャが笑顔であるならそれで十分だ、と魔導師はモフモフの体を抱きしめられながら思い直した。柄にもなく満足した。


 しかして、その日の午後。
 ハティーシャと魔導師は白亜の王宮に案内された。

 恐ろしげな大狼を共に連れていきたいと主張するハティーシャに、王宮からの使者は懸念を示した。しかし、どうしてもダリルも一緒にと頼み込むハティーシャに、王宮内では首輪と引き縄を付けることを条件に渋々許可が下りた。

 魔導師は憤慨した。

(聡明なる魔導師たる我が首に、理性なきケダモノのように首輪と引き縄だと!? えぇい!不敬であるぞ!引き裂いてやろうか!)

──グゥ、ルルル!

 断固として抗議の唸り声を上げた。
 けれど、ハティーシャは狼の前に跪いて、ぎゅ、とそのフワフワの毛に覆われた頬を両手で挟む込む。

「お願いよ、ダリル。首輪だなんて嫌なのは分かるけれど、少しだけ堪えて言うことを聞いて頂戴。でないと私たち、また離れ離れになってしまうわ」

──クゥン……

(ぐ、ぅ……ハティーシャ、そなたがそこまで懇願するのならば……致し方あるまい……)

 そっと頬を撫でながら囁きかけるハティーシャに、魔導師は易々と折れた。
 灯火のように眩い金の瞳に覗き込まれると頭の奥がぼんやりする。ふわりと抱きしめられると甘い蜂蜜のような匂いにクラクラする。大人しく首を垂れ、首輪を受け入れた。
 丈夫な首輪から伸びる引き縄の先に、ハティーシャの華奢な指先が絡む。大事そうに握りしめる。途切れることなく繋がる一本の縄を見ると、魔導師は何故だか満更でもない気持ちになった。



 白い大理石の回廊を、ハティーシャと狼は並んで歩く。

(一体何処まで歩かせるつもりだ? たかだか砂漠の小国の国王如きが、勿体ぶり過ぎではないか?)

 広い庭園の端から王宮へ、そしてまた王宮の回廊から回廊へ。アーチ状の飾り屋根が美しい回廊が続いている。散々歩かされてくたびれた魔導師が心中悪態をつきだした頃。先達の使者が大きな扉の前で立ち止まった。

 使者は扉の前で朗々と響く美声で口上を述べる。

「太陽の男神のご寵愛深き、国王陛下に申し上げます!ハティーシャなる娘をお連れしました」

「……入れ」

 扉の奥から聞こえたのは、老いた男のしわがれた声だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

崖っぷち令嬢は冷血皇帝のお世話係〜侍女のはずが皇帝妃になるみたいです〜

束原ミヤコ
恋愛
ティディス・クリスティスは、没落寸前の貧乏な伯爵家の令嬢である。 家のために王宮で働く侍女に仕官したは良いけれど、緊張のせいでまともに話せず、面接で落とされそうになってしまう。 「家族のため、なんでもするからどうか働かせてください」と泣きついて、手に入れた仕事は――冷血皇帝と巷で噂されている、冷酷冷血名前を呼んだだけで子供が泣くと言われているレイシールド・ガルディアス皇帝陛下のお世話係だった。 皇帝レイシールドは気難しく、人を傍に置きたがらない。 今まで何人もの侍女が、レイシールドが恐ろしくて泣きながら辞めていったのだという。 ティディスは決意する。なんとしてでも、お仕事をやりとげて、没落から家を救わなければ……! 心根の優しいお世話係の令嬢と、無口で不器用な皇帝陛下の話です。

美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛

らがまふぃん
恋愛
 こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。 *らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

砂漠の国のハレム~絶対的君主と弱小国の姫~

扇 レンナ
恋愛
――援助を手に入れるために必要なのは、王の子を産むということ―― ナウファル国は広大な砂漠にある弱小国のひとつ。 第七皇女であるアルティングルは、《とある目的》のために、砂漠を支配する三大国のひとつであるイルハムにやってきた。 そこを治めているのは、絶対的な君主である王メルレイン。 彼にとある申し出をしたアルティングルだったが、その申し出は即座に却下された。 代わりとばかりに出された条件は――《王の子》を産むことで……。  ++ イルハム国の絶対的な君主メルレインは疲弊していた。 それは、自身の母である先王の正妻が、《世継ぎ》を欲しているということ。 正直なところ、メルレインは自身の直系の子である必要はないと思っていた。 だが、母はそうではないらしく、メルレインのために後宮――ハレム――を作ってしまうほど。 その後宮さえ疎んでいたメルレインは、やってきた弱小国の姫にひとつの提案をした。 『俺をその気にさせて、子を産めばその提案、受け入れてやってもいい』  ++ 《後宮――ハレム――》、それは愛と憎しみの《毒壺》だ。 *hotランキング 最高81位ありがとうございます♡ ▼掲載先→エブリスタ、カクヨム、アルファポリス ▼アラビアン風のファンタジーです。舞台は砂漠の国。なんちゃってアラビアンなので、深いことは考えずに楽しんでいただきたいです。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

処理中です...