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第二夜 落とし子のハティーシャ
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魔導師が持つ『変化の秘術』は、かつて魔神によって授けられたものであった。
この砂漠には『魔神』と呼ばれる種族が存在する。
地に住まう人と天に住まう神との真ん中、空に存在する契約の種族。
彼ら彼女らは煙無き炎から生まれたとも、隕鉄の欠片から生まれたとも言われる。
時に人の良き隣人であり、恐ろしき脅威であり、人智を超えた力を行使する魔術の支配者。
そして、魔神は『願いを叶える力』を持つという。
魔導師は若い頃、魔神を呼び出したことがあった。
師から授けられた魔術の印を幾重にも刻み、贄を捧げ魔神召喚の秘儀を行った。
魔導師の目論見通り、魔神は現れた。
褐色の肌に豊かな金の髪を持つ、光り輝くような美しい魔神であった。
しかし呼び出した魔神は、本体ではない分霊体で、大いなる力を持つ魔神の魂のひとかけらであるという。
それでも、魔神の持つ秘術は驚異的で、「この世に存在するありとあらゆる者に変化出来る」と豪語した。そうまで大口を叩くからには、もし出来なかった場合は我に力を授けよ、と約束させた。
魔導師は魔神に告げた。
「この世で最も大きな獣に変化してみせよ」
魔神は長身の魔導師でさえ見上げるばかりの大きな象に瞬く間に変化して見せた。
「ならば、この世で最も恐ろしいものに変化してみせよ」
魔神は豪胆な魔導師でさえ思わず目を背けたくなるような醜い喰人鬼にあっという間に変化して見せた。
「では、我の『愛するもの』に変化してみせよ」
魔神は出来なかった。何故なら魔導師には生まれてこの方後にも先にも『愛する者』など存在しなかった。幾ら魔神でも、存在せぬ者には変化出来ない。
魔神は恐ろしい力を持つが、決して約束を違えぬ種族だ。
そうして、魔神の変化の秘術は魔導師のものとなった。
だが、魔神は言った。
「しかし、ひとつだけ注意するが良い。その力は人たる身には余りある力。制約が必要じゃ。制約により、お前が『愛するもの』の前では決して変化が解けぬ。術も使えぬ。元の人間の姿には戻れぬぞ」
魔導師は答えた。
「……好かろう」
そこで、不意に夢は途切れる。
「ねぇ、ダリル……起きて頂戴……」
優しい娘の声に、魔導師は目を覚ました。
※※※
納屋に差し込む朝日が眩しい。
魔導師がそっと目を開けると、すぐそばで金色の瞳の娘が微笑んでいた。
――ハティーシャ。
この王国の、忘れられた末の姫君。ずっと探していた、命の恩人。
「おはよう、ダリル。よく眠れた?」
娘は日輪の花のように微笑む。
深い愛情と親愛が込められた甘やかな声音は、魔導師にくすぐったいような照れくさいような、不思議な懐かしさをもたらす。
ダリル、というのは娘がつけた名前だ。
数年前、初めて出会ったあの日から。
娘は魔導師のことをただの犬だと思っている。
実は変化したこの姿は砂漠に住まう狼であり、それより何より人間の男であり力ある魔導師であったが、訂正する術も機会も未だ訪れずにいる。
(んむ……おはよう。ハティーシャ……)
魔導師は戸惑いながらもそう発したつもりであった。けれど喉から漏れるのはクゥン、と甘えたような獣の鳴き声である。
相変わらず、変化の術は解けない。魔導師の姿は黒い狼のままであった。
ハティーシャは麦わらのベッドの上に寝転んだまま、並んで横たわる狼の首に両腕を回して抱き寄せた。大きな狼の頭を柔らかい胸元に抱き込んで、湿った鼻頭にちゅ、と口付ける、おはようのキス。それから真剣な眼差しで紅の瞳を覗き込んだ。
「あなたが居なくなってから……ずっと、ずっと探していたのよ。またどこかで傷ついて倒れているのではって、心配していたのだから!」
(すまない……しかし我にも事情があったのだ、仕方あるまい。だからこそ、こうして迎えに来てやったではないか!)
魔導師は言い訳と共に反論したつもりだったが、狼の口からはキュゥ、ン、と申し訳なさげな鳴き声が漏れるのみである。
「ふふっ……でも、良いの。だって無事に元気で、また私のところに戻って来てくれたんですもの!愛してるわ、私の可愛い子!」
ハティーシャはたてがみのような毛を撫でながら、びっしりと鋭い牙が並ぶ大きな口元に恐れずにキスをする。ヒゲの生えた頬に何度もスリスリと頬擦りする。
相変わらず率直な愛情表現と過剰なまでのスキンシップに、魔導師は慌てた。
思わず逃れようと動かした前脚がふにふにと柔らかい胸を押し返し、一層狼狽えた。
(や、やめよ!もう、そなたも分別のない子どもではないのだぞ!?)
抱きしめた腕の中でガゥガゥと不服げに暴れる大きな狼に、ハティーシャはようやく腕の力を緩めた。
「でも……本当に、あなたが居てくれて心強いわ。ダリル……ねぇ、ダリル」
そっと狼の頬を撫でる、何処か緊張した面持ち。伏せた睫毛の作る影さえも嫋やかで美しかった。
「私ね、お父様に会いに来たの……お母様はいつも言っていたわ。『いつかあなたをお父様に会わせてあげたい』『いつかあなたを本当の娘だと認めて欲しい』って……最期まで」
ハティーシャの母は亡くなったと聞いた。その想いを遂げる為、王宮にやって来たのだということも。
「……ダリル。お願い、そばにいて。私を、見守っていて」
――アォォン!
魔導師は無論そのつもりであった。
この砂漠には『魔神』と呼ばれる種族が存在する。
地に住まう人と天に住まう神との真ん中、空に存在する契約の種族。
彼ら彼女らは煙無き炎から生まれたとも、隕鉄の欠片から生まれたとも言われる。
時に人の良き隣人であり、恐ろしき脅威であり、人智を超えた力を行使する魔術の支配者。
そして、魔神は『願いを叶える力』を持つという。
魔導師は若い頃、魔神を呼び出したことがあった。
師から授けられた魔術の印を幾重にも刻み、贄を捧げ魔神召喚の秘儀を行った。
魔導師の目論見通り、魔神は現れた。
褐色の肌に豊かな金の髪を持つ、光り輝くような美しい魔神であった。
しかし呼び出した魔神は、本体ではない分霊体で、大いなる力を持つ魔神の魂のひとかけらであるという。
それでも、魔神の持つ秘術は驚異的で、「この世に存在するありとあらゆる者に変化出来る」と豪語した。そうまで大口を叩くからには、もし出来なかった場合は我に力を授けよ、と約束させた。
魔導師は魔神に告げた。
「この世で最も大きな獣に変化してみせよ」
魔神は長身の魔導師でさえ見上げるばかりの大きな象に瞬く間に変化して見せた。
「ならば、この世で最も恐ろしいものに変化してみせよ」
魔神は豪胆な魔導師でさえ思わず目を背けたくなるような醜い喰人鬼にあっという間に変化して見せた。
「では、我の『愛するもの』に変化してみせよ」
魔神は出来なかった。何故なら魔導師には生まれてこの方後にも先にも『愛する者』など存在しなかった。幾ら魔神でも、存在せぬ者には変化出来ない。
魔神は恐ろしい力を持つが、決して約束を違えぬ種族だ。
そうして、魔神の変化の秘術は魔導師のものとなった。
だが、魔神は言った。
「しかし、ひとつだけ注意するが良い。その力は人たる身には余りある力。制約が必要じゃ。制約により、お前が『愛するもの』の前では決して変化が解けぬ。術も使えぬ。元の人間の姿には戻れぬぞ」
魔導師は答えた。
「……好かろう」
そこで、不意に夢は途切れる。
「ねぇ、ダリル……起きて頂戴……」
優しい娘の声に、魔導師は目を覚ました。
※※※
納屋に差し込む朝日が眩しい。
魔導師がそっと目を開けると、すぐそばで金色の瞳の娘が微笑んでいた。
――ハティーシャ。
この王国の、忘れられた末の姫君。ずっと探していた、命の恩人。
「おはよう、ダリル。よく眠れた?」
娘は日輪の花のように微笑む。
深い愛情と親愛が込められた甘やかな声音は、魔導師にくすぐったいような照れくさいような、不思議な懐かしさをもたらす。
ダリル、というのは娘がつけた名前だ。
数年前、初めて出会ったあの日から。
娘は魔導師のことをただの犬だと思っている。
実は変化したこの姿は砂漠に住まう狼であり、それより何より人間の男であり力ある魔導師であったが、訂正する術も機会も未だ訪れずにいる。
(んむ……おはよう。ハティーシャ……)
魔導師は戸惑いながらもそう発したつもりであった。けれど喉から漏れるのはクゥン、と甘えたような獣の鳴き声である。
相変わらず、変化の術は解けない。魔導師の姿は黒い狼のままであった。
ハティーシャは麦わらのベッドの上に寝転んだまま、並んで横たわる狼の首に両腕を回して抱き寄せた。大きな狼の頭を柔らかい胸元に抱き込んで、湿った鼻頭にちゅ、と口付ける、おはようのキス。それから真剣な眼差しで紅の瞳を覗き込んだ。
「あなたが居なくなってから……ずっと、ずっと探していたのよ。またどこかで傷ついて倒れているのではって、心配していたのだから!」
(すまない……しかし我にも事情があったのだ、仕方あるまい。だからこそ、こうして迎えに来てやったではないか!)
魔導師は言い訳と共に反論したつもりだったが、狼の口からはキュゥ、ン、と申し訳なさげな鳴き声が漏れるのみである。
「ふふっ……でも、良いの。だって無事に元気で、また私のところに戻って来てくれたんですもの!愛してるわ、私の可愛い子!」
ハティーシャはたてがみのような毛を撫でながら、びっしりと鋭い牙が並ぶ大きな口元に恐れずにキスをする。ヒゲの生えた頬に何度もスリスリと頬擦りする。
相変わらず率直な愛情表現と過剰なまでのスキンシップに、魔導師は慌てた。
思わず逃れようと動かした前脚がふにふにと柔らかい胸を押し返し、一層狼狽えた。
(や、やめよ!もう、そなたも分別のない子どもではないのだぞ!?)
抱きしめた腕の中でガゥガゥと不服げに暴れる大きな狼に、ハティーシャはようやく腕の力を緩めた。
「でも……本当に、あなたが居てくれて心強いわ。ダリル……ねぇ、ダリル」
そっと狼の頬を撫でる、何処か緊張した面持ち。伏せた睫毛の作る影さえも嫋やかで美しかった。
「私ね、お父様に会いに来たの……お母様はいつも言っていたわ。『いつかあなたをお父様に会わせてあげたい』『いつかあなたを本当の娘だと認めて欲しい』って……最期まで」
ハティーシャの母は亡くなったと聞いた。その想いを遂げる為、王宮にやって来たのだということも。
「……ダリル。お願い、そばにいて。私を、見守っていて」
――アォォン!
魔導師は無論そのつもりであった。
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