パンドラ

チーズマニア

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第2話 迫る危険

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「亡くなったって……え……」


昨日まで、普通に話していたのだ。

それがいきなり亡くなったと聞かされ、アンナは混乱した。


「浜田先生が担当されていた講義は、当面の間すべて休講になります。警察が、亡くなる前日に会っていた人全員に事情聴取するらしいから、雪倉さんのところにも来ると思うわ」

「わかりました……あの、なぜ浜田先生はお亡くなりに?」

「……あなたは浜田先生の秘蔵っ子だから教えるけど、誰にも言わないでね」

「はい」


バクバクと心臓が派手に動き、iPhoneを握りしめる手にじっとりと冷や汗が滲む。

無人の部屋に、囁くような掠れた声がよく響いた。


「殺されたの。犯人はまだわからない」


目の前が真っ暗になり、アンナは呆然としながら電話を切った。








告別式が終わり、斎場から少しずつ人が捌けてきたところで、アンナは喪主である浜田俊夫と目が合った。


「この度は……」


続く言葉がどうしても出てこず、涙をこらえて頭を下げると、彼は憔悴しきった顔で呟いた。


「雪倉さん、妻はあなたを高く評価していました。たくさんの生徒を抱えてきた妻ですが、あなたは別格の存在だった」

「ええ。大変可愛がっていただきました。なのに、最期の会話が言い争いだったなんて……」


こんなことになるなら、論文の題材を素直に変えておけばよかった。

あれが最後の会話になるとわかっていたら、自分は一体何を話しただろうか。


「気に病まないでください。妻の死は誰にも予想出来ないものだった」

「はい……」

「あと一時間でも早く、僕が帰宅していれば……」


肩を落とし、今にも泣き崩れそうな俊夫を見て、さらにアンナの目頭は熱くなる。

しかし、不意に尋ねなければならないことがあったのを思い出し、高ぶりつつあった感情は少し抑えられた。


「実は、亡くなる前に先生からお電話があったんです。でもその時、私は電車に乗っていて……折り返しかけたのですが繋がらなくて」

「着信履歴を見ました。確かに、妻が最後に電話をかけたのはあなただった」

「卒業論文のことでお電話をくださったのだと思います。亡くなる前日に、テーマにと考えていた楽譜をお貸ししましたから、そのことかと」

「楽譜?」


俊夫が怪訝な面持ちになったことに疑問を持つが、アンナは頷く。


「はい。アルヴィーゼ・フランコというイタリアの作曲家の歌曲集です」


四十九日も済まないうちからこういう話をするのはどうかと思うアンナだが、一応貸したものがあることだけは伝えたかった。

一向に反応が帰って来ないため、やはり不謹慎であったかもしれない、と反省するが、アンナの心配をよそに俊夫は困惑したように呟いた。


「昨夜、妻の書斎を片付けましたが、その名前の作曲家の楽譜はありませんでしたよ」

「え?」

「僕も研究者ですから、国内外の作曲家の名前は一通り記憶しています。その作曲家の楽譜はうちにはない」


きっぱりと断言され、思わず目を丸くしてしまう。

そんなはずはない、という言葉をどうにか飲み込むが、表情には出ていたのかもしれない。


「見落としがあったのかもしれませんね。帰宅したら探してみます」


はっきと気遣われていることを感じ、申し訳なさからアンナは縮こまった。

やはり、今出すべき話題ではなかったのだ。


「それにしても、変ですね」


きっちりと整えられた口髭を撫でながら、俊夫は独り言のようにぼやいた。


「妻は大変几帳面な性格です。生徒から預かった楽譜を仕事部屋に置いていないなんて、いつもの彼女らしくない。それに、アルヴィーゼ・フランコという作曲家の名前も、どこかで聞いたことがある気がする」

「本当ですか?かなりマイナーな人物なのですが」

「ええ、もう何年も前にどこかで聞いたような……。ああ、そろそろ火葬場に向かわないと。雪倉さん、楽譜が見つかり次第すぐにご連絡いたします」

「ありがとうございます。いつでも構いませんので、ご連絡お待ちしております」


深々と頭を下げ、帰る間際にチラッと俊夫を盗み見た。

先ほどまでとは打って変わって、何やら考え込んでいるようだ。

出棺まで見送ったため、恩師はもう本当にこの世から去ってしまったのだと実感する。

どうしようもない虚無感を抱えながら斎場を出たところでちょうど良くタクシーが拾えたため、アンナは自宅の住所を告げて乗り込んだ。


「品川区小山3-15-△バルカローレ品川まで」

「ここからだとけっこう遠いですよ?」
 

まだ年若いアンナの財布事情を心配したのか、メーターを見ながら運転手がぼそりと言った。


「構いません。疲れたから早く帰りたいの」


財布からブラックカードをちらつかせると、運転手は一瞬目を見開いた。

その後は会話らしい会話もなく、静かにタクシーは東京の下町を走った。
 
座席に深く腰掛け軽く目を閉じ、アンナは自分の頭に浮かぶ様々な考えを拾う。


(浜田先生は旦那様の留守中に侵入してきた何者かに殺された。室内は荒らされ、盗まれたのはルビーの指輪と真珠のネックレスだけ。盗まれた物が少なすぎない?物色している最中に浜田先生が帰ってきたとか?もしあたしが強盗なら、浜田先生を殺したあとに金目の物が無いか探すわ)


本当に、金品が目当てだったのか。

胸の奥に突如沸き上がった疑問は、みるみる膨れていく。

浜田先生を殺すこと自体が目的なのだとしたら?

取って付けたような、貧相な盗みの内容も納得出来る。

しかし、なぜ彼女は殺されなければならなかったのか。

誰に命を狙われたのか。


(探偵でも雇おうかな。気になることが多すぎるし、もし故意の殺人だったなら、あたしが仇を討つ)


「お客さん、着きましたよ」

「え、ああ、どうも」


すっかり考え事に夢中になっていたアンナは、慌てて財布を開き、支払いを済ませた。

タクシーのドアが開き、見慣れたタワーマンションが視界いっぱいに広がる。

早くベッドで休みたくて、ドアマンへの挨拶もそこそこに、アンナは回転ドアに体を滑り込ませた。

大理石の床に黒いカーペット、無数のソファーに椅子、奥にはグランドピアノという、マンションのロビーにしては派手な内装が目に入る。

しかし住み始めて6年近い今は、この派手な内装にもすっかり馴染んでしまった。


「おかえりなさいませ、雪倉様」


帰宅前の恒例行事、コンシェルジュへの挨拶を済ませるべく、アンナは疲れた体を引きずってロビーへ立ち寄った。


「ただいま帰りました」

「本日はダイレクトメール以外の郵便物はございません。こちらで破棄しておきましょうか?」

「お願いします」


郵便が無いなら、あとはエレベーターに乗って帰宅するだけである。

ベッドまであと少し、と念じながら暗証番号を打ち込む。

間髪入れずに降りてきたエレベーターに乗り、5階のボタンに指を沈めた。

ほどなくして自宅がある階に到着し、ジャケットのポケットからカードキーを取り出す。

ゆっくりと差し込み、カチッと鍵が開く音を待つ。

しかしいつまで経っても音は鳴らない。

試しにドアを開けようとすると鍵がかかっている。

つまり、今まで鍵は開いていたということだ。

サッと血の気が引く中、再びカードキーを差し込むと今度こそ鍵が開いた。

不審者がいることを確信したアンナは、持っていたバッグを放り投げて、物音がしたリビングに飛び込んだ。


「そこにいるのは誰!?」


リビングにいたのは、マスクにサングラス、帽子で顔を隠した誰かであった。

華奢な骨格から性別はわからない。

それよりも、その誰かの腕に収まっているものの方が問題である。

アルヴィーゼ・フランコの楽譜が、なぜかその不審者の手中にあるのだ。

小さく舌打ちした不審者は、リビングの窓に向かって走った。

窓はすでに大きく開け放たれており、謎の人物はそこから飛び出そうとしている。

咄嗟にダイニングテーブルの果物篭からリンゴを掴み、アンナは狙いを定めて投げた。

飛び出る直前、リンゴは不審者の後頭部に命中し、楽譜はバサッと音を立てて床に叩きつけられる。

次は逃すまいと果物ナイフを片手に走ったその時、不審者はベランダから飛び降りた。

そして危なげなく着地するなり、街に向かって走り出した。


「嘘でしょ……」


その驚異の身体能力に愕然とするが、いつまでも呆けているわけにはいかない。

警察に通報しようと110番を押しかけ、途中で手を止める。

この家の間取りは3LDKと、一人暮らしの学生には似つかわしくない広さだ。

さらに、ゲストルームに置いてあるピアノも、リビングの天井からぶら下がってるシャンデリアや床を彩るラグも、なんなら玄関マットまで、室内は高級品だらけである。

父親はイタリアの大手製薬会社の社長なので、大学生らしからぬ豪華な品々がこの家に転がっていることは別段おかしなことではない。

しかし、この家を見た警察が自分について調べる可能性はある。

3日前の事情聴取は大学で行ったため、この部屋は警察に知られていない。

アンナにはあまり警察とは関わりたくない事情があるため、通報はやめて、代わりに荒らされた室内を見て回る。

寝室は外出前と変わり無いが、勉強に使っている部屋はかなり荒らされていた。

いつもはアルファベット順で整然と並べられている本棚だが、めちゃくちゃな順番で雑に本が突っ込まれている。

さらに、ノートパソコンとタブレットは高いところから何度も落とされたのか、あちこちにヒビが入っていた。

二つとも、もう使い物にはならないほどのダメージを受けている。

器物破損はこの二つだけだが、盗まれたものは特に無い。


「ま、パソコンとタブレットがやられても、こっちにもデータはあるし」


ジャケットのポケットに入っているiPhoneを一撫し、アンナは呟いた。

リビングの床に放り投げ出されたままの楽譜を回収し、喪服からラフな私服に着替え、キャリーバッグに当面の着替えと化粧品を詰めると、アンナは自宅を出た。

より安全な場所に移り、これからどうするのかを今夜じっくりと考えるのだ。


「雪倉様、お出掛けですか?」


ちょうどコンシェルジュを呼ぼうと思っていたアンナは、意識してにこやかに答えた。


「ええ、急用が出来たので。この喪服、クリーニングに出しておいてくださる?」

「かしこまりました。お戻りはいつ頃に?」

「しばらく留守にします。クリーニングが終わった喪服は保管しておいてください」

「ハウスキーパーの手配はいかがいたしましょう?」

「今回は結構です。帰ったら自分で掃除しますので。ああ、それから、いつも通り、私の友人二人は通しても構いません」

「美園様と巴様でございますね。かしこまりました。お気をつけて、いってらっしゃいませ」


笑顔を顔に張りつけたままマンションを出て、今夜から世話になるであろう友人に電話をかける。

幸運なことに、電話はワンコールで繋がった。


「あ、もしもしまゆり?突然悪いんだけど今夜から泊めてくれない?」

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