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あと一押し
しおりを挟む目の前に憧れの瑠二君が居る──、
私の溜め込まれた感情が一気に決壊し、大粒の涙となって溢れ出す。
思わず瑠二君の胸に飛び込んだ。また拒否されるかも知れない、そんな感情は湧かなかった。ただ真っ直ぐに彼の胸へと飛び込んだのだ。
私は彼の腕で優しく受け止められ、その腕の中で、おんおんと涙を流した。
「ど、どうしたんですか……菜抽子さん」
「わ、わだし……瑠二君が好きなの……」
鼻を啜りながら絞り出した言葉がそれだった。
時間にして1分ほどは泣いただろうか。落ち着きを取り戻した私は、瑠二君にそっと体を起こされた。
「もう大丈夫ですか?菜抽子さん」
「え、えぇ……ごめんなさい」
瑠二君が近い。こんなに近くに居る瑠二君は初めてだ。それに触れている。
憧れの瑠二君に今、触れられている!
勿論顔も近い、その薄い唇には自然と吸い込まれて行きそうだ。
私は今思い出した。彼の為なら何でもできる。どんな困難も乗り越えられる。
「瑠二君……」
思わず私は目を閉じた。このまま優しくキスして欲しいと。
女の子のサインに気づいて瑠二君。
今ならできる、そんな気がしていた。あと一押しで──、
──しかし──
「あの、菜抽子さんは心配なんですけど、実は俺急いでいるんですよ。悪いんですけど、もう行きますね」
彼はそう言って私から離れると、すぐにでも駆け出したい様子で動き出した。また彼が遠くに行ってしまう。そんな思いから、私はその肩に思わず手をかけた。
「待って瑠二君! どこに行くの!?」
「病院ですよ。俺の後輩が事件に巻き込まれたらしくて。それで、心配でいてもたっても居られなくて。そういう訳なので、これで失礼します」
小走りで駆けて行く瑠二君の後ろ姿を見て思わず声が出た。
「待って、私も行くわ!」と。
■■■■
付いてきてしまった。
自ら刺した相手の、運び込まれたであろう病院まで来てしまった。彼女の顔を見る事が出来るだろうか、平常心を保てるだろうか?
でも私には瑠二君が付いてる。きっと大丈夫!
受付で小田真紀について尋ねると、たった今緊急手術をしている事がわかった。更に知人だと伝えると、手術室の前まで案内してもらうことが出来た。そこで目にしたのは──、
項垂れている人。泣きじゃくる人。怒りを顕にして落ち着かない人。
それぞれの感情を目の当たりにして、私はただただ立ち尽くす事しか出来ないで居た。
とその時、手術室の入口のドアが開かれ、お医者さんが出てきた。
「手術は成功しました。安心してください。幸い命に別条はありせん」
その言葉に一同歓喜の声と共に、安堵の表情を見せる。
──ただ1人を除いて──
し、死ななかった……あの女が生きている……
小田真紀が死ななかった事に一瞬ほっとしたが、すぐに別の感情が押し寄せてくる。
もしも小田真紀が目を覚まして、私の事に気づいていたら……
その事を警察に証言したら……
■■■■
その日は大人しく家に帰った。小田真紀が生きていた事により、更に不安が広がったのだ。警察の捜査を躱すだけでなく、小田真紀が気づいていない事まで願わなくてはならなくなった。
いっそ病院に忍び込んで殺そうか。
いややめた方がいい。これ以上動くと本当にバレてしまう。
あの時、あとほんの少し包丁を押し込んでいたなら……そう、こんな風に。
ザクッと熊五郎のお腹に包丁を突き刺し、私は後悔した。
あと一押し、あと一押しだったのにッ。
臆するという事は、自分の首を絞める事だと知った。
次は迷わない。
そう心に誓って眠りについた。
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