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廻者
しおりを挟む一体いつまでこの異様な空気に馴染んだ生活をしなければならないんだか…
オーエンは誰にも分からぬように溜め息を吐き、酷い匂いの肥溜めを掻き回す。
これはここでは大切な仕事だった。
肥溜めは床板を剥ぎ取った床下に幾つもあり、民家に混じってこの肥溜めだけの小屋が点在する。
この悪臭に耐える苦行はこの集落では限られた者が行える仕事だ。
皆どんな思いでこうしているか…暮らしに役立つと本当に思っているのか疑問だったが、この集落を維持するには欠かせない。
人数も随分増えた…とオーエンも感心する。
草木で染めた質素な服を皆身に纏い、田畑を耕して衣食住を共にする仲間…
この集落を築いた人物を祖と仰ぎ、その教えに身も心も心酔する…するフリもそろそろ飽きて来て自分で自分に笑ってしまいそうな時がオーエンにはあった。
最初こそ熱い使命とやる気に燃えていたが、段々とバカらしくなってきて1日でも早く出たかったあの寒々しい故郷に、今は1日も早く帰りたい…
もし自分の正体がバレたら…そう思えばいつだって気も抜けず緊張感もあるが、慣れとは恐ろしいものだ。
オーエンは鼻を泥で汚れた手で掻き、赤っぽい髪の毛から滴る汗を手で拭う。
日に焼けた肌は、いつも泥で汚れていた。
最近はより馴染むために恋人まで作ったが、子供が欲しいと言うので、オーエンは逃げ出したいことこの上無い。
だが、それは許されない。
ひっそりと確実に、ここでの情報を主人に渡さなければならない。仕事を全うしなければ、一体あの主人にどうドヤされる事か…
質素な小屋の開け放たれた窓から、年老いて紫色の目を持つ日に焼けた老人が見えた。
真っ白な長髪を靡かせて道を通る。
皆手を止めて、頭を下げた。
だがその老人の足取りは既におぼつかず、今は側近の壮年の男性や女性がその補助をしている。
この集団の頂にして、祖としてこの村を作り上げた人物だ。
その人物は貧しい者、病める者、全てを受け入れてこう説いた。
皆等しく平等で、皆は皆のためのに居る…と。そう言いつつ、皆がそう説く人等に頭を下げて崇める。
どこだって同じだ…上の者に、下の者は身を粉にして尽くさねば生きてはいけない。ここで生きて行きたいのなら、尚更だ。自ら望んで、この理想郷と言われる場所へ足を踏み入れたのだから。
ここは小さく平和な私達だけの国
皆が平等で等しく尊い
そう言って老人は訪れる者全てに食事を分け与えた。
1人の強者も居ない、そして苦しむ弱者も居ない、皆で分け合い支え合おう…
その言葉の通りに役割や仕事を与えて、仲間を増やす。
ガンジャの蔓延したこの集落で、この世の中の不満や不条理を謳い、権力者や富を独占する事こそが悪だと説いた。
暗に、この帝国への批判だ。
そして意外な事に、数ある海を挟んだ国の中でも、王国の事を老人はよく知っていた。
長い争いで培われてしまった恨みや憎しみがあるのか、はたまた個人的な恨みがあるのかはオーエンには分からない。
女より産まれた男が悪魔に心臓を渡した時にあの国が出来た…と以前老人が溢した事があった。
男の権利が強い王国を蔑み、女に同情してるのかもしれない。
ただでさえ国からあぶれてしまった者がそう聞けば、己をそうさせた国を憎むに決まっている。どの国でも、必ずそういう者達が居る。
最近では噂を聞いたのか、王国人らしい住民も増え始めた。
勿論、オーエンもそうだが、肌はすっかり焼けてしまっていつも泥が付いてるような身なりだ。多民族国家のエルメレでは日に焼けた者が多いので、馴染みはすこぶる良い。寡黙で良く働き、よく気が利けばすんなりと集落からの信頼は得られた。
集落に生きる者達の中で、本当に心酔している者は果たしてどのくらいだろう…この集落を支える資金源が何なのか、気づいている者も居るはずだ。
そして上の者程それを利用し、富を得ている事だろう。
疑問を持てば、人は知りたくなる…
だが、今までの生活を思えばみすみす手に入れた衣食住を手放す事も無い。
見ないフリをすれば、ここは確かに穏やかな時間が流れる永遠の理想郷だろう。
すぐ近くで楽器の演奏が聞こえて来た。
ああして特技のある者はそれを惜しみなく披露して皆を楽しませる。歌う者、踊る者…だがそれを胡散臭くするのはガンシャのせいだろうか…。
匂いにも慣れて鼻にすっかり染みついた。
芸術や音楽に勤しむ者はここでは重宝される。
確かに…楽園のように思えるのかもしれないが…数多く作られた無数の肥溜めと、住民の中でも更に限られた者しか採取できない植物…これは確かに、この集落の要であり、虎の子だ。
「あなたも是非ここで過ごしてみてくれ、気に入るはずだ。大きなアトリエもあるから、作品も制作出来るよ」
まだ入ったばかりの若い男が、興奮気味に数人の男達にそう言った。
王国の言葉だ…
聞こえていない振りをして、オーエンはそちらを横目でチラリと見た。あくまで自然に。
「空気が清涼で、本当に気持ちいいね。 こんな所は久しぶりだ…」
思わずオーエンは目を見開き、顔を伏せた。
そして誰にもその動作が見られていないか、あくびをするフリをして確認する。
向こうが分かるはず無い。
だが、オーエンはよく知っている。
とはいえ、実際に姿を見たのは3回ほど。より幼かった頃だ。
肩まで伸びた美しい銀髪に、紫色の目をしたまるで彫刻のような男…
エルメレに居るのは聞いていたが、まさかこんな場所で会うとはオーエンも予想していなかった。
まさか…既にあちらには何か知られているのだろうか?仲間からあの男がこちらへ来るとは知らせは来ていない…
いやもしかすると…
途端にオーエンの体中に汗が噴き出す。
知らせなければ…
早く…
焦りこそが最大の敵であるのに、今回ばかりは落ち着いてはいられなかった。
肥溜めを掻き回す手に力が入る。
その頃には酷い悪臭さえすっかり気にならなくなっていた。
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