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匣の中

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 レオの母がレオを産み落とした時、それは孤独な瞬間だった。もう戻れない…とレオの母が呟いても、誰も返す者は居ない。
 
 
 自分の中で何かが消え去って、また新たに芽生える…そんな事はレオの母には起きなかった。
 起きないように努めた。何かに執着すれば、心許せば、永遠にそれを失うかもしれない。
 あの骨ばった大きな手によって…
 
 
 
 
 レオの記憶に残る母の顔はいつも悲しげで、いつも何かに怯えていた。
 
 それでも、自分と過ごす時は時折微笑んで、よく手だけで舞の真似を見せてくれた。足は使えない。
 
 足には重く冷たい足枷が嵌めてあった。
 
 
 
 後々分かったのは、足の腱を切らない代わりに、父が嵌めたという。
 
 逃げないように。
 
 自分以外の前で舞を踊れないように。
 
 母が、飛び立って行くのを父は恐れていたのだろう。
 
 
 
 父…そう呼べるかも分からない。
 
 レオの記憶の中の人物の顔は、はっきりとは覚えていない。
 宮殿にある肖像画を見て初めて、この人がそうなのかと認識した程度だ。
 
 ただ朧げに覚えているのは、屈強で大きな体躯に、恐ろしいほどの威圧感を纏った、その雰囲気だけだった。
 
 
 
 母とレオ、数人の使用人が居るだけの広い屋敷は、レオの幼心にも常に息苦しかった。
 
 時折父が現れる時は、屋敷の雰囲気でそれが伝わる。皆が一層怯えているからだ。まるで、屋敷の中の空気が凍りつき、呼吸さえも胸が痛む。
 
 
 
 ああ…あの人が来るのだと…
 レオもまた、体を硬くした。
 
 
 
 母は、さまざまな異国の血が入った流浪の民で、踊り子だったという。
 その神秘的な美貌と舞は、行く場所行く場所で話題となり、富がある者はこぞって母を呼びたがった。
 
 父の目の前で母が初めて舞った時、それは父をもてなす酒の席だったという。
 
 父はそれ以降、母を攫う様に囲って誰の前にも見せなくなった。
 
 母を返してくれ、そう言う者の首は全てを刎ねて捨て置いて…
 
 
 
 母は心身を病み…それと同時に、時折現れる父に最初は抱かなかった感情を抱き始めた。
 
 恨んで憎んでも終わりの見えない相手なのに、閉鎖された空間に射す光に見えたのだ。
 そう思い込みたかったのだろう。
 歪んだ救い、または依存だったのかもしれない。母を訪ねる相手は、父しかいないからだ。恐怖に支配された母は、父に執着し始めた。
 
 だが、父には既に正室も居れば側室も居た。当然、子も何人も…。
 
 戦に明け暮れ、移り気で飽き性の父は、母を度々忘れて放置した。
 
 母は孤独に打ちひしがれ、嫉妬にその身を燃やし、返事が来ない文をただひたすら送り続けた。
 
 
 そして稀に正気に戻ると、その苦しみから解放して欲しいと1人呟いていたと言う。
 生きて出る事の出来ない場所から、出るたった一つの方法を、母は望んでいた。
 
 
 忘れられていた母の元へ父が戻った時、母は恨めしそうな目で父に言った。
 
 
 
『…所詮私は卑しい産まれの踊り子。私が何者でも無いように、子を産んでも…この子は何者にもなれません。
 あなたが物珍しさに捕らえた鳥は、既に羽を折られおります。何の価値もございません。どうか籠より解き放ち下さい。
 どうせ外でも長くは生きられません。 それとも…あなた様が…この場で息を止めて下さいますか?私はあなたの鳥… その大きな手で、私の首をへし折るのも容易い事…。私をここへ捕らえる為、あなた様が刎ねた首の数を覚えておられますか?そこへ…1つ2つ首が増えても、あなた様はすぐにお忘れになるのでしょう?』
 
 父は母のその言葉を聞いて、直ぐ屋敷を後にした。
 
 
 
 そして、もう一度母の元へ戻ると、その姿は体中が血に塗れていた。
 自らの正室と側室、その子供たち全て皆殺しにしたと母に告げるために戻ってきた、と。
 
 
 
 父は、母を罰した。
 母を返せと懇願した者たち同様、その命を容易く奪い、母に罪悪感を植え付けさせて苦しめさせるために。
 
 そして、同時に、母に唯一の物を与える為に…。これで、父の唯一になったと、教えてやった。
 
 
 
 既に、流された血の多さ、戦場の惨たらしさと残酷さに、父は狂っていた。
 それを止められる者は居ない。
 争いごとには右に出る者もいない。
 奪う事に長け、その残虐性で領土は広がった。
 
 だが、政や人に、父は興味が無かった。
 全て盤の上の駒にしか、見えていなかっただろう。
 
 
 
 父がしでかした事を覆い隠す為に、より多くの犠牲が必要となった。
 
 1番必要だったのは、父の命そのものだ。
 
 
 
 父の兄である、皇帝陛下の指揮の下…
 あくまで内々に事は進められた。
 
 母はその過程で、遂に心折れてパタリと事切れた。最後まで幻覚や妄想に悶え苦しむ姿は幼いレオの脳に強く刻み込まれた。
 
 
 
 そして、無力で幼いレオだけが残った。
 
 
 
『…この幼子は、陛下と同じ帝国の血脈を宿す者です。どうか、ご容赦を…ご慈悲をお与え下さいませ』
 身内を切り捨てなければならない皇帝陛下の心情を汲み取り、あえて進み出たのがベルナルディ侯爵だった。
 
 皇帝陛下は、弟を恐れながら、嫌悪しながら、誰よりもその弟を愛していたのをベルナルディ侯爵はよく知っていたからだ。
 
 
「この子はベルナルディの家の子。私の息子です。全てを話した上で…この子が骨身を惜しみ国に尽くせる人間に致します。後のことは…陛下の御心のままに」
 
 
 
 
 ここまで詳細をレオが知るのは、皇帝陛下の息のかかった使用人が、いつも母とレオの側にいたからだ。
 報告という名の記録は、生々しい程詳細に取られていた。
 記録を一枚一枚捲る程、レオの目は血走って、指が震える。自分の体の隅々まで、全ての文字が行き渡り、染み込んでいった。
 
 
 
 
 ベルナルディ侯爵は、レオが物心ついた時、記録と共に全てをレオに話した。
 
 大人になる前に話したのは、レオの混乱を避けたかったからだ。
 例え養子であっても、包み込むだけの愛情を侯爵夫妻がレオへ掛けている自負もあった。我が子同様に、愛していた。
 
 救われた命を、国の為に、身を粉にして尽くせと侯爵はレオに言い聞かせた。
 
 
 ベルナルディ侯爵はとても優しい人だったが、同時に凄まじく厳しかった。
 
 だが、それも、レオが生き延びる術を与える為だと分かったのは、過酷な状況を幾度も乗り越えた時だ。
 
 
 レオは従順な子供だった。
 聞き分け良く、文武両道で成績も申し分無い、侯爵夫妻の自慢の息子だった。
 
 
 
 レオは自分の役割をよく理解していた。
 
 
 だがレオの体に傷が増えるたび、レオが戦場で自らの命を顧みずに戦果を上げるたび、侯爵夫人は酷く狼狽た。
 
 
 
『…あの子を戦から遠ざけなければなりません。自ら志願したとしても、です。 あの子の戦いに大義など建前。死ぬ理由を探しているのです。死に急いでいるのです、あの若さでっ!』
 侯爵夫人の叫び声に似た声が屋敷に響く。
 
 ベルナルディ侯爵は動揺した。
 
『自惚れていたのだ。生き延びる術が全て死に向かっていくとは思わなかった。あの子は従順な息子だったから…
 いくら止めても、レオは最前線へ駆けていってしまう』
 
 侯爵夫妻はなんとかレオを止めたかった。
 
 
 だが何度話しても、分かった様に頷いても、戦に出ればレオは変わる。
 残酷な程奪う事に長け、誰よりも弱さを見抜いて相手に恐怖を植え付ける。
 それはまるで、父の面影さえ感じさせた。だが、同時に自らを駒として容易く命を投げ出そうとする姿に、侯爵は長く苦悩することになる。
 まるで父の面影を消そうともがいているように見えたからだ。
 
 
 
 
 
『貴方は、貴方の命を蔑ろにしています。 貴方の怪我が増える度、母がどれほど苦しいか、考えてみてください。よくお父上の言う事を聞いて、これからは勝手はなりません。武人が命を賭ける時は、自ずとやってくるもの…貴方がそう急がなくても、です』
 母がさめざめと泣きながら、レオを抱きしめる。
 
 
 レオは侯爵夫人の姿に胸が痛むが、それよりももっと大きな恐怖がいつもその身を突いてくる。
 
 もし何かのキッカケで…自分が父と同じようになってしまったら…その恐怖が体の内側から湧き上がってくる。
 
 
 レオは自分の命を持って償わなければならない宿命があると理解している。
 ベルナルディ侯爵が命乞いしなければ、とっくに尽きていたこの命の価値を知りたかった。
 
 そして、死が近付くと…レオは生きていると実感した。
 
 
 自身が報われる時は、死ぬ時だと信じて疑っていなかった。だが、いくら近付いてもその体は生きようとしてしまう。
 
 
 その矛盾にも飽きた頃、海の向こうの小国へ行くように命じられた。
 
 
 
 
 本当に欲しいものは要らなかった。侯爵夫人の愛情でさえ、時に鬱陶しい。惜しむ気持ちが生まれれば、判断が鈍る。 レオの行く先には必要無い。
 
 
 1人で居れば、その方が身軽で楽だった。だから、人の心を弄び、望む言葉を言って、心にも無い演技も出来た。
 
 
 
 
 それなのに、かつてエルメレで真珠と例えられた容貌を野蛮と貶されながら生きる婦人に、一瞬にして心を奪われてしまった。
 
 決して奪われまい、奪わせないとさせてきた、レオの何重にも重ねた扉は呆気なく開かれた。
 
 過酷な状況でも毅然と身を張るその姿に、レオは目を離せない。
 
 
 
 
 どうか自分だけを見て欲しい…無性に湧き上がる熱に、抗えなかった。
 
 全てを受け入れて欲しいと願ってしまった。
 醜く残酷なこの身の上を、自らを罰するように、話さなければならなくなる。
 
 受け入れられないかもしれない恐怖に苛まれながら、もしもを夢見たくなる。
 
 
 
 眠る時、レオはふと思い浮かべた。
 目を瞑り、その人の横に居る自分を想像してみた。
 自分の目に映るその人が、笑みを浮かべて自分を見ている…
 
 
 ただそれだけなのに、レオの胸は潰れそうになる程苦しい。
 
 
 そして、今まで感じた事無い温かさに、その胸はこれ以上ない程満たされた。
 
 
 
 
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