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放蕩息子

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『兄様…ご機嫌麗しゅう…』
 バイラムは黒く艶やかな髪を揺らし、その身をキャンパスからドアの方へ振り返ると、金色の目に兄と兄の側近を捉えた。
 
 
『見事なものだな…』
 フィデリオはバイラムの宮殿内にある小さなアトリエに居る。バイラムは体調が良い時、アトリエに籠って絵を描く習慣があった。
 帝国の名だたる絵師に手解きを受けたバイラムの腕は確かなもので、名を隠して密かに展覧会に出品したり、どうしてもと望まれれば売ることもあった。
 
 
 武術も嗜んでいるが、長時間は叶わない。
 
 重い喘息がそれを妨げ、バイラムに死さえ覚悟させる苦しみをもたらすからだ。
 


 
『ベルネルディ卿、お加減はいかがですか?』
 レオは恭しくバイラムに頭を下げる。
 
『お陰様で、問題ございません』
 
 バイラムは、遠出は出来ない。
 
 なので、異国へ行った者に土産話をせがむのはいつもの事で、今回もフィデリオにそれを聞かせてもらった。
 勿論、トロメイ、の名は伏せて…
 
 
 
『外の世界は誠に物騒ですね。僕の趣味といえば、絵画や植物の手入れくらい…隠居した老人のような生活をしてる身には刺激的です』
 バイラムはそう笑みを浮かべると、椅子から立ち上がり、使用人へお茶の用意をさせる。
 
『世間には物騒な世界に意気揚々と踏み込む、随分若々しい老人が居るのだな』
 促されるままソファに腰掛け、フィデリオはバイラムを意味ありげな瞳で見た。
 
『…』
 バイラムはバツの悪そうな笑みを浮かべてフィデリオとレオを見る。
 
 
『体調が良いからと調子に乗ると、オクサナ妃にいよいよバレるぞ。姉上は既にご存知だろう。宮殿内の事は、全て筒抜けだ…』
 
 フィデリオは両眉を上げて、バイラムを見る。
 
『はー…姉様にはやはりバレてたか…』
 
 
 
 バイラムの本来の性質は好奇心旺盛で情熱を持って物事に打ち込み、陽の下で動き回りたいような性分だった…病に抑圧された生活の中でも、それは決して抑えられない。
 
 
『わざわざ女の格好までしてるのに…誰が姉様に言ったのだろう?兄様?』
 バイラムはソファに体をだらしなくもたれてそう呟く。
 だが、その声色はどこか明るく、嬉しそうだ。
 
『私とレオはわざわざ面倒ごとに首は突っ込まない』
 
 もうすでに手一杯どころか溢れそうなほどだというのに…とフィデリオは溜め息を吐く。
 
 
『でも1番面倒なのは母様だなー…バレたら2度と外に出してくれなさそう…』
 バイラムはフィデリオよりも深く長い溜め息を吐いた。
 
 母であるオクサナ妃は、バイラムの望みをなんでも叶えてくれる。だから、その代わり、心配させるような事はするな、と言葉で無い強い圧を掛けて、バイラムに言い聞かせているのだ。
 
 いつもいつも、オクサナ妃の金色の目には不安が映っている。
 
 悲しそうで、苦しそうで、バイラムを常に憐れむ視線…
 
 いつからか、その瞳を向けられると、バイラムは息が詰まるようになった。
 病の苦しさでは無い。
 何か、説明のつかない無力感に苛まれ、自分は哀れみを掛けられ同情されるべき人間だと常に突きつけられている気がした。
 
 
 
『そなたを思ってこそ…母を悲しませてやるな』
 フィデリオの言葉に、バイラムは姿勢を正す。
 
 フィデリオの母、皇后は既にこの世に居ないからだ。
 
『分かっています…。分かっていますが、母様のお気持ちは少し、重たいのです…』
 バイラムは言葉を選び、気まずそうな笑みを浮かべた。
 
 
 
 …そう思えば尚更、オクサナ妃がミリアムを海の向こうへみすみす嫁がせるとは思えないのだが…フィデリオは先日キアラに聞いた話を思い出す。
 
 実の子達には一層愛情を掛けるオクサナ妃が、皇帝陛下も可愛がる末の娘を…

 この辺りにも、まだ知らない複雑な事情が絡んでそうだ…とフィデリオは用意されたコーヒーへ手を伸ばした。
 
 
 
 
『…そういえば、最近王国と何か揉めてた様ですが、落ち着いたのですか?』
 
 バイラムの口から王国の話が出てくるとは意外だ。しかも″揉め事″とは中々に不穏な事だ、とフィデリオは微笑んでバイラムを見る。
 
『…揉め事?そんな話があるのか?』
 
 隣に座るレオもコーヒーへ手を伸ばす。
 
 非公式に進められた春の楽園の処理… 揉めるに揉めてた話もようやくひと段落といった所だろう。
 
 
『そんな噂を聞いたのです、…っ』
 バイラムそう言うと、ハッと息を呑み、言葉を不自然に止める。
 
『どこで?』
 フィデリオは相変わらずの微笑みを浮かべて首を傾けた。
 
『…。街で……』
 目を泳がせて、バイラムは歯切れが悪い。
 
『街?女の格好で?夜な夜な宮殿を抜け出して遊び歩いている街で一体何を聞いたんだ?』
 
『街では女の格好はしておりませんっ!』
 バイラムは身を乗り出して、フィデリオにそう言った。
 
 
 暗闇の中で煌めくその街で、バイラムは夜に紛れて身を隠し、人生で初めて味わう感覚を堪能していた。
 
 名前や身分を偽り、同じく芸術を愛する仲間とサロンやカフェ、時にキャバレーにさえ入り浸り、熱く言葉を交わす。
 
 時に酒を浴びるほど飲み、どうでも良い話で笑い転げ、美しい体を露わにした女性達とダンスや歌を楽しむ…
 
 宮殿の中には無かった世界が外にはあった。
 
 自分は可哀想では無い、哀れでも無い、
 重苦しい病への恐怖とオクサナ妃の悲しみに満ちた絡みつく視線…そこから唯一解放してくれる時間が、確かにそこに存在したのだ。
 
 
 
 最近では体調が安定して来て、以前よりも羽目を外していたのは確かに少なからずバイラムにも自覚があった訳で…
 
 
『ああ、そうみたいだな。街ではちゃんと男の格好をしていると聞いた。でなければ入れない店もある。随分色んな女性と楽しんでいるそうじゃないか。
 …そうだな、レオ?』
 
 フィデリオはレオにそう確かめる。
 
 その瞬間、バイラムが青い顔でレオを見た。
 
『フィデリオ殿下…』
 レオは困った顔でフィデリオを見返す。
 
『…いつからですか?』
 バイラムはやっと絞り出した声でレオなのかフィデリオだかに尋ねる。
 
『そんなの決まっているだろう。そなたが初めて抜け出した日からだ。皇族に護衛が付かない訳がないだろう。脇が甘いんだ、お前は。
 時折人員が回らずにレオにその任が任された時があったのだ。そなたが、抜け出す日が余りにも多くてな』
 
 バイラムは項垂れ、声にならない声で唸っている。
 
 レオは気まずそうな顔で、目を伏せた。
 
 
『細い体をしてお前もタフだな。とても重い病を持ってるとは思えぬ。まぁ、しかし…それは朗報だ。なんなら私より健全と言っていい。誰にも言えぬ話だが』
 
 フィデリオはコーヒーを啜りながら、横目でバイラムを見た。
 
 
 このまま体調も良ければ、結婚も早まるかもしれない…子の心配はしなくて良さそうだ、とフィデリオは自らの立場を棚に上げてそう思っていた。
 そうすれば、自分の結婚の話題は暫く無いだろう、と踏んで…
 
 
 
『なんと…姉様もご存知なのでしょう?
 …もうお会いした時どんな顔をすれば…』
 
『胸を張って毅然としていろ。脇が甘いのはいただけないが』
 
 バイラムは相変わらず赤くなったり青くなったりしながら項垂れている。
 
 
 
『それで…街で何をお聞きに?』
 
 話題を変えるべく、レオは助け舟を出した。
 
『ああ…何か王国へ恨みを持っている連中が最近目立つそうです』
 
 フィデリオとレオはお互いの目を見る。
 
『恨み?争いも治って久しいというのに』
 フィデリオはあくまで軽い口調でそう言った。
 
『交流は以前より活発ですが、未だに他国を蔑む者も少なくありません。そういった心情を利用する者も居ます』
 
 バイラムが幾分自然な色になった顔を上げる。
 
『…遠くない森深くにそういったことを説いている者が居るそうです。自分達の境遇や政治のことなどの不満や不安を王国に向けさせて発破を掛けてるとか。
 王国に対してのエルメレの姿勢も込めて…』
 
 
『…森?誰がそんな者の話をわざわざ有り難がって聞くのだ?』
 
 フィデリオは眉を顰めた。
 
『最初はただ、悩みや苦しみを癒せるという噂で心身が弱っている者や貧しい者が集まって来たと聞きました。今では意思を同じくした者達がそこで暮らし、仲間を増やしているとか…
 救いの地とか、理想郷と表現する者も居ますが…そこではガンジャ…大麻が日常的に用いられてるらしいので、正気かも分かりません。…以前王国で流行った春の楽園とガンジャでは危険度が違いますが…。きな臭いです。
 街で知り合う者にも時折この話が出ます。政治にも関心が高いようで、話すと面倒です。芸術の事が国の話になったりして、皆熱くなってるので喧嘩もしょっちゅうですよ』
 
 フィデリオはレオをもう一度見る。
 
 ガンジャはエルメレで特別珍しい物でも無いが…
 
 今この時に、そのような話はマズイ。まだ伏せられている今後の予定に大きく差し支える…
 
 
『誰に聞いた?』
 
 バイラムも雰囲気を察して姿勢を正した。
 
『サロンの仲間の1人です。王国の人間ですよ。お互い素性に詳しい訳じゃありませんが…良い奴です。色白で、身なりも良くて、随分男前な…』
 そう言いながら、バイラムが席を立つ。
 
 少し離れた棚の中から何かを掴むと、戻って来てそれを机に置いた。
 
『彫刻家になりたいと言ってました。音楽の才があるのに、指を傷つけるなんて馬鹿なやつだと笑われてましたが』
 
 そこには石で精巧に彫られた狼の置物がある。
 
『なんでも、母方が北方民族の血を引いているとか…それに因んだものだそうです。名前は…エディと皆呼んでます。
 エルメレに住んで長いのか、言葉も堪能で、服装もこちらのものでしたよ』
 
 フィデリオがレオを見る。
 
 レオは、その彫刻をじっと凝視していた。
 
『…狼。王国の北方民族……』
 フィデリオが、小声でそう呟く。
 
 フィデリオとレオにはエディと呼ばれるその人が、一体どんな人物か大体検討が付いた。
 
 狼というより、狐や蛇と揶揄されるその一門を、2人はよく知っている。
 
 レオの遊色を放つ瞳が翳る。
 
 やはり、なんでも一筋縄ではいかないな…とフィデリオはその様子を怪訝な目で眺めていた。
 
 
 
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