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冠
しおりを挟む『今日はなんだかお顔色が優れませんね』
オナシスはカウチに足を伸ばし、ゆったりと読み物をするキアラにそう言葉を掛けた。
『ノアにも、聞こえていたか…』
キアラは読み物から目を上げない。
オナシスをノア、と呼ぶのは宮殿ではキアラだけだろう。
ノアはキアラの後ろに回り、キアラの濡れた美しい髪に櫛を通すと、良質な織物で丁寧に水気を取る。
『あれほど大きなお声を出されれば、自然と…』
白を基調とした部屋の家具は暖かみのある茶系の家具で統一され、モダンだが洗練された雰囲気を醸し出す。
ノアはキアラがリラックスできる様な香を焚き、幾つも灯されたキャンドルの光が部屋を照らしていた。
湯浴みを終えた2人は無防備な薄い夜着しか身に纏っていないが、キアラの醸す雰囲気はまだリラックスしているとは言い難い…とノアは感じていた。
『…ベルナルディ卿と喧嘩でもされたのですか?
殿下が声を荒げるのを初めてお聞きしました』
ほんの少しの本音でも垣間見えれば…踏み込み過ぎないように、けれども堅苦しくならない程度に、ノアは言葉を選ぶ。
『…情けなくも、子供の頃に戻ったようだ』
キアラは読んでいたものを机へ乱暴に放り投げる。
怒っている訳では無い、それはノアにも分かった。
『殿下があのように感情をお見せになる方は限られます』
ノアは丁寧に丁寧に、キアラの髪を一束づつ手に取り、水気を拭う。
『…妬いたか?』
イタズラっぽい笑みを浮かべてキアラが振り返り、上目遣いでノアを見る。
『妬いて敵うお方でもありません』
ノアは柔らかな笑みを浮かべて首を軽く左右に振った。
恵まれた体躯、神秘的で人を惑わす麗しい顔立ち…それに見合う様に与えられた武人としての天賦の才…
ノアにとってのレオとは、自分とは違う世界の人物だった。
キアラが生きる世界、レオはそこに産まれ落ちた人だ。
ノアの一族であるオナシス家というのは、元は遊牧の民が定住し築いた小さな商家が始まりだと言う。
4代前の皇帝陛下は数多居る側室でもオナシス家の側室を死ぬまで寵愛し、莫大な富を与えた。
その恩恵を受け、オナシス家は今や立派な大貴族となった。
そして4代前の皇帝陛下は莫大な富と共に、オナシス家に特殊な称号も与えた。
類稀な秀麗さを讃える為に、〝美しい人″、〝プルケル″…その冠も。
性別問わず人を魅了する…その才はオナシス家特有の不思議な力だったかもしれない。
だが、与えられた冠は時と共にオナシス家に重くのしかかった。それに相応しく生きねばならない、という縛りとなって。
オナシスに産まれ落ちた日から、ノアはその称号に恥じぬ様に生きねばならなかった。
決められた型通りに自分をはめて、何者になりたいのか何がしたいのか…そんな自由な悩みを持って良いという許しさえ与えられなかった。
時の運が味方したのか、帝国の頂に近い場所へ呼ばれるかもしれないとなった時、オナシスの一族は大いに色めき立った。
一族の誇り、名誉、栄光の再来…
ノアは自分が報われた気がした。
この日のために自分は生きてきた、と。
だが、宮殿に呼ばれた時、そんな思いは卵の殻が如くいとも簡単に打ち砕かれる。
能力を競えば上には上がおり、美しさを競おうと思えばその種は余りに多種多様…
嫌というほどに世界の広さを見せつけられた。
ただ他よりも、自分にあったものといえば…
不意に、ノアは少し体を屈め、手に取ったキアラの長い髪へ唇を落とした。
『確かに奴に敵う者はこの国には少ないかもしれないな。腕は、確かに立つ。
だがあの無鉄砲さ…人には好かれるやもしれぬが、余りに危うい…』
キアラはレオのことを考えていた。
白か黒かでは無く、自分が生きるために必要な事は何か…にもう少し気を向けて欲しい。
だが、もし自分もレオの様な無鉄砲さで突き進めたなら…と自らの過去を思い返す。
いつ思い出しても、記憶の中のあの男は白か黒かもを超越し、ただ己の道しか見ていなかった…
思い出すと、キアラはふっと笑みが溢れてしまう。
『…あのように生きれる者は他にいないだろうが…誰かさんの様に生きれたら、私もレオも、何か変わっていたのかもな…』
揺るぎない自分を持ち、周りなぞ気にせずただただ前だけを見つめる緑色の瞳。
愛嬌一つ振りまかないくせに、己の好奇心には実に忠実で並々ならない情熱を注ぐ。
人にはまるで興味が無いという顔で、誰よりも細部に気付き大局を読むことに長けた者…
『…どなたの…お話ですか?』
キアラが余、では無く私、と言った。
キアラも気づいていないかもしれないが、ノアはすぐに気付く。
キアラが覆い隠すものをそんな風に曝け出させる者…ノアの胸にジワリと微かな炎が舐めるように揺れ動いた。
『こちらが何をしようと、向こうはそんな事お構いなしで、打てども響かない…。
そんな変わった男がおったのだ』
キアラは目を細めて笑みを浮かべる。
割れたメガネでは見えなかったものが、今はよく見えている事だろう…
奴は今日も、贈ったあの眼鏡を掛けたまま、見たいものを存分にその瞳に映している…
例え自分が隣に居なくとも、それで良い
海の向こうでも、よくよく働いてくれた
キアラは目を閉じ、その男を思い浮かべた。
ノアはその様子を見て、前に人伝に聞いた話を思い出す。
キアラが海の向こうの国から来た毛並みの違う変わった猫に随分目を掛けていたと。
ノアの胸の炎が、青く燃え広がる。
そしてそれはどうやら自分では消せない。
ノアはキアラに近づくと、そっとその唇へ口付けた。深くなる手前で、またそっと離す。
『…その話は、妬いてしまいますね』
ノアはニッコリと笑みを浮かべた。
キアラは何とも妖艶な目つきで試すようにノアを見つめている。
世界は広く、自分の存在なぞちっぽけなのをノアはよく理解している。
だが、何度打ち砕かれようとも、飢えた獣のようにこの冠に喰らい付いていく。
美しくも、たおやかでなくとも良い。
一目キアラを見た時から、そう強く決心していた。
どうか自分だけを見ていて欲しい…己の全てを曝け出してでも
この光り輝く女神の瞳に、1秒でも長く自分が映るために。
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