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門出

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 その後ザイラ・フェルゲイン夫人は肺炎と熱病が重なり合併症を起こして呆気なく亡くなった。
 看護していたエルメレ側の侍女が熱病に感染し、屋敷は蔓延防止のため迅速な対応を迫られた。
 
 遺体には決して近付いてはならない
 
 エルメレ帝国の医師とクレイグ・フォーサイス医師は共通してそう主張し、国王陛下の命の下、フェルゲイン夫人は密葬後速やかに火葬された。
 火葬は異例であるが、感染病の蔓延防止には効果があるという。
 今回の夫人の症状は合併症によるもので、感染した侍女達も順調に回復し病状は安定している。現在の所、感染状況に逼迫した危機は無いと先程の両医師は声明を出した。


 豪華な客船の上。
 デッキの手すりに体を預け、潮風に当たりながら新聞を読んでいる短めの黒いベールを被った女は、その見事なシナリオに驚嘆した。
 
 
 ユージーン皇太子と面会した後から、上手い事言いくるめられて、ザイラは気付けば船の上だ。
 
 どんな話があったか詳細は知らされていないが、フィデリオは何の心配も無いとザイラの背を押した。
 どうやらユージーン王子では無く、国王陛下と直接話をつけたらしい。
 確かにユージーン王子がこの事実を知れば、フェルゲイン侯爵に漏らしかねない…


 
 乗船するにあたって、傷跡に障りがあるからと太陽の光を遮るため薄い黒のベールを被り、顔色もより褐色に見えるよう茶色い白粉を塗って肌の色を誤魔化した。
 目の下にはエルメレにもよくある化粧に倣い瞳を強調するように黒いペンシルで線も引く。
 ベールはエルメレの伝統衣装の一つでもあるし、船の中でも特段目立つ訳でも無い。
 身内でもそう簡単にザイラとは分からないはずだ。
 
 
『もう中に入りましょう、体に障ります。』
 暖かく大きな手がザイラの腰にそっと添えられる。
 今日のレオは金髪に近い淡い髪色をきっちりと後ろに掻き上げ、肌色は白いとも褐色ともとれない。
 顔立ちが神秘的なのでどこの国の人間か分からない。服装も裕福な商人といったところだ。

 フィデリオをはじめとするエルメレ帝国一行の帰還に合わせて、ザイラとレオは別便で偽名を使い豪華な客席に乗船した。
 
 乗船前にあらかた生存を知らせても大丈夫であろうという数人には全て知らせを出した。勿論、それも偽名で。
 
 ナディアが心臓発作でも起こすとコナーもショックで倒れるであろうし、フィアニスもローリー伯爵相手にお先真っ暗になってしまう。
 アレシアにはショックを与えないためにクレイグは事細かにいろいろ余計な事まで知らせているだろうが…
 皆一様に口は固い…と信じている。
 
 バラしたら…死ぬ、とは書いておいたのできっと大丈夫だろう。
 
 アイヴァンは…新聞に写真が載っていたが、新妻との突然の別れに悲嘆にくれている、らしい。
 それは本当かどうかは分からないが、
ミア嬢とその後どうなったのか、侯爵はどう思っているのかそれを知る術は無い。
 ただ、侯爵は概ね満足しているのでは無いだろうか…両家の結束がより強くなるかもしれないし、死別ならば致し方ない事だ。
 事業が安定すれば、フィアニスに侯爵の息がかかった令嬢を当てがうか、エドガーやアイヴァンにより良い結婚相手を用意するだろう。
 
 当たり前だがアイヴァンには何も伝える事は出来なかった。
 ただ、手紙を送った。
 さようなら、どうかお幸せに、と。
 病状が悪化した妻から夫へ今生の別れの手紙だ。
 
 何を書こうかと思った時、少ないけれどアイヴァンと過ごした記憶が呼び起こされた。
 
 エルメレの童話集を手に微笑んだ事。
 ″馬を買おう″と言ってくれた事…
 高熱に魘された時、涙を拭い手を握ってくれた、肩を貸してくれた…
 些細な事も、よく思い出された。
 
 あの時のアイヴァンの姿に、偽りは無かっただろう。
 
 ブローチも一緒に送り返そうと考えていた。
 だが、ブローチは相変わらず手元にある。いや、売れば先立つ物となって心強いのだ。
 今やザイラはザイラでは無く名も国籍も無い幽霊のような存在になってしまった。とは言え、幽霊もこの世で生きていくには金が要る。それだけだ。
 
 ここにきてフォーサイス子爵夫人から貰った報酬がこれ程有り難いと思った事はない。あの魔女は先も見通していたのだろうか…
 
 
 初めての船旅は不自由もなく快適に過ごせている。侍女や侍従まで居て戸惑ったが、傷も癒えきっていないザイラの身の回りの手伝いにはとても助けになる。
 
『ベルナルディ卿…』
 
『エラ、私の事はカリオと呼んで下さい』
 レオは体を屈めて耳元でそう囁いた。
 ザイラの耳はすぐに熱を持つ。
 
 サッと体を後ろにひいて距離を取るが、腰に添えられていたはずの手はガッチリと腰を抱えて思うように距離を取れない。
 
『…偽名を使えるなら、夫婦を偽る必要は無かったのでは?』
 頬まで赤くなって無い事を祈りながら怪訝な目でザイラはレオを睨んだ
 
『夫婦が1番怪しまれないのです。私たちは今誰がどう見ても仲睦まじい夫婦に見えると思いますよ』
 レオは優しい眼差しでニコリと笑う。
 
 この船旅で1番気に食わないのは、レオが夫に扮して甲斐甲斐しく世話を焼く事だろう。
 勿論感謝しているので無碍にも出来ない。
 
 まさか到着後もこの調子なのか…?
 
 先の見えない旅は始まったばかりだ。
 
 
 
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