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シガレットケース
しおりを挟む『もう来てるのか?』
フィデリオはゆっくりとした足取りで応接室へ向かう。
『先程から殿下をお待ちです』
レオも、フィデリオを急かしたりはしない。
『…しかし、息子の方で大丈夫だろうか』
まさか、のっぴきならない状況でも延期では無くそちらを出してくるとは、王国側の焦りが見える。
『事の重大さは認識されているかと。
お若い分まだ柔軟な所もありましょう』
警備の者によって応接室の立派な扉が開かれる。
「お待たせして申し訳無い。他の来客に時間を取られてしまいました」
この王国で、その者にそんな事を出来る人間は2、3人程しか居ないだろう。
だが、フィデリオは構わずそう言った。
「…いえ。私も到着したばかりですので」
待たされた男は建前の言葉を述べて椅子からスッと立ち上がる。
控えていた側近の2名も同じように立ち上がり、恭しくフィデリオに頭を下げた。
待たされた事に隠しきれていない不満さを醸し出す、うら若き王国の第一継承者、ユージーン王子はじっとフィデリオを見た。
柔軟な所、ねぇ…
先程のレオの言葉を反復しフィデリオはニッコリと外交的な笑顔を浮かべる。
フォーサイス家から届けさせた強壮剤は確かなもので、重度の寝不足であっても今日のフィデリオは随分気分が良かった。
あれは本当に強壮剤なのか…と疑いたくなる程だ。
「…本日お越しになられるのは国王陛下とお伺いしておりましたが…」
フィデリオは笑顔のまま、美しい真っ青な織模様の布張りがされた椅子にドカッと座り、足を組む。
利き手には宝石で彩られた金のシガレットケースを手に持ち、肘掛けに肘をついた。
なんとも横柄な態度といっていいだろう。
その後ろには、フィデリオを咎めもしないレオが控えていた。
「…父は、今回の事で対応に追われており宮殿を空けることが難しく…」
栗色と金色の混ざった髪は美しく整えられ、青い目を持つまだどこか生意気そうな麗しい王子のその口からは、側近が考えたであろうお決まりのセリフが続く。
フィデリオの耳には既に、国王が体調を崩している旨は入っていた。
この場所に来られないほどであれば、かなり容態は深刻だろう。
素直に事情を言うわけではないと思ってはいたが、フィデリオにも立場がある。
「王国はこの問題を国王陛下では無くうら若きユージーン王子が対処するのが適格だと?」
笑みを浮かべたまま、フィデリオが問う。
「ディオン公爵家コリンの不当な拘束については王国は速やかな解放、引き渡しを再三に渡り要請して参りました。
あの…赤い館については調べがついておりますが、エルメレ帝国側の今回の対応は過度であったのでは、とこちらも疑問を持っています。多くの怪我人が出た事に、こちらもそれなりの説明を求めます。
フェルゲイン夫人の容態に関しましても、不明瞭な点が多く未だに夫であるフェルゲイン卿は面会も叶いません。」
ユージーンは威厳を持ってフィデリオを見据え、そう伝える。
赤い館の後にフェルゲイン夫人の話とは…誤解を招きそうな言い方だな、とフィデリオは思った。
まるでフェルゲイン夫人も赤い館の常連であるとか、そんな印象を持たれるような感覚だ。
まぁあの館に確かに居たが…夫人にもまるで咎があるような話の持って行き方をしたい、それがフィデリオには透けて見えた。
「コリン殿の拘束が不当?我々はかねてから不当な扱いをされていた同胞を助けたまで。ディオン公爵家コリンが何をしたのかは最初にお伝えした筈だ。エルメレの者が血を流したのなら、エルメレの方法で裁いても良い所をわざわざ書面を送り、適切な環境で勾留しています」
「不当な扱いを受けた同胞?娼館で働く貴殿の国の女性は違法滞在者も居たと聞く。それが、あそこまでの騒ぎを起こす程の事でしょうか」
やはりわかってないな、とフィデリオは安心した。知ってて分からない振り、にはユージーンの感情の剥き出し方を見るにあり得ないだろう。
エルメレの女性を騙し、拐い、娼館で無理矢理働かせていた…その情報も嘘ではなかった。
カマをかけたのだ。
ザイラについて王国側は把握していない。同胞、それにはザイラのことも含まれる。
切れるカードがまだ生きていた。
そして、ディオン公爵家についてどこまで分かっているかによっては…対応は変わる。かなり攻撃的な方に。
「フェルゲイン夫人に関しても既に私の侍医と、王国側からはフォーサイス医師の書面が渡されているはずです。
面会謝絶、動かすにはまだ早い、と。王国側の証人がフォーサイス医師ではご不満か?それとも、夫人を利用するため人質に取っていると?」
一瞬ユージーンに動揺が走ったのがフィデリオにはわかった。
ユージーンは、フェルゲイン侯爵を随分と頼りにしているらしい。侯爵からどんな話を聞かされているか知らないが、ただでさえフェルゲインは今愛人の妊娠騒ぎで体面が損なわれているのだから、正妻は手元に置きたい所だ。夫人が重傷ならば、尚更。
このままでは夫人に同情が集まりすぎてしまう。
英雄コナー・ローリーの姪としての夫人を加味すれば…その反感は抑えきれないだろう。
あのコナー将軍を丸っ切り敵に回す事になる。
だが、まさか侯爵も夫人がエルメレ側の屋敷に居るとは思っていなかったのだろう。
落とし所として夫人が愛人と逢瀬していたとか一時失踪したとか、両家おあいこ程度にしておければ今後の選択肢も増えた。
もし侯爵が、夫人の血筋までを正確に把握し、尚且つエルメレ側の動きを察知していれば先に手を打ったはずだ。
そこまで手が回らなかったのか…あるいは…
やはり、侯爵の目的は別にあるらしい。
コリンの解放とフェルゲイン夫人の正確な様子を知りたい…そして王国側の目の届く場所に置いておきたい…
簡潔に言えばユージーンの要望はこの2つだ。
「既に何度もお伝えしたが…」
フィデリオは微笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「コリン殿にはある中毒症状が顕著に出ている。我が侍医が哀れみをかけて解毒、中和処置をしているが禁断症状が出ているものの発言も意識も格段にハッキリとしてきた。
喜ばしい事だ。この屋敷で彼は最高の治療を受けている。
非公式だが、その処置にはフォーサイス医師も付き添っていただいた。両国にとって公平に、誤解が無いように…私がそうするように命令した。記録も全て取ってある。このままフォーサイス医師の下コリン殿が治療を続けるのであれば解放しても構わない」
緊張が走ったが、思いの外すんなりとコリンが解放される事にユージーンも側近も目も見合わせている。
その様子を見てフィデリオは徐にシガレットケースからタバコを一本取り出した。
「ユージーン王子も如何ですか?」
まるでその場にそぐわないフィデリオの振る舞いに、ユージーンは身を硬くする。
「…いえ、恐れながら煙草の嗜みはありませんので」
断られてもフィデリオは絢爛豪華なシガレットケースを開けたままユージーンに差し出している。
「いや、ダメだ。あなたも手に取らなければならない」
フィデリオの顔から笑みが消えた。
フィデリオに気圧されたユージーンはゴクリと唾を飲み込み、一本タバコを手に取る。
レオはフィデリオのタバコに火を付けた。
「…この香りをご存知かな?甘いでしょう?あなたにも経験がおありか?
この国でも今流行っているのでしょう?これは意匠を凝らしてタバコの葉にある麻薬を漬け込ませたものです。
あなたもよくご存知のはずだ。我が国が長い間どれほどこの甘い香りに苦しめられ、どれほどの血を流したか…そしてあなたの父君が水際でなんとか食い止めようとしていたか…」
ユージーンが持っていたタバコを、隣に座っていた側近がすぐに取り上げようとした。
「手を出すな。許可は出していない」
フィデリオの鋭い声が冷たく部屋に響く。それとは反対に、部屋の中には甘い香りとタバコ独特の苦い香りが立ち込める。
「我々の国が王国へ持ち込んだと噂で持ちきりだそうだ。強硬派は戦争も辞さないと?お望みならば、それも良かろう」
フィデリオはレオに目配せす
すると、レオは扉の前の立つ護衛を見た。
扉が開かれ、木の箱や大小のトランクケースがいくつか運ばれてくると無遠慮にテーブルに全て置かれた。
「本当にコリン・ディオンが不当に拘束されているのかこの資料をよく読んで考えてみると良い。我々が苦しんだ期間、流れた血をどう償うかを考えながら…」
ユージーンと側近は真っ青な顔をして置かれた品々を見る。
「…ディオン公爵家があの薬を貴国に流したと?」
ユージーンの問いに、フィデリオはまた笑みを浮かべてレオが差し出した灰皿にタバコを押し潰す。
「我々が下手に出ていたのを良い事に無能だとでもお思いになったか?
格下相手に?」
言葉の荒さとは裏腹にフィデリオは皇族らしくスマートにユージーンに問いかけた。
「本当の交渉はここからだ。さぁ、話し合いを始めましょう」
机に置かれたトランクの上に、フィデリオがあのシガレットケースを乱暴に放り投げる。
勢いで残りの煙草が思い切り飛び出した。
今日のフィデリオはやっぱり随分と気分が良かった。
あの強壮剤よりも遥かに効いたのは、青白い血の気の失せた王国の面々をじっくり眺められたからかもしれない。
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