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嵐の前
しおりを挟む『ラティマ、夫人の状態は?』
寝不足続きで酷い顔のフィデリオは自らの屋敷で看病するザイラの様子を侍医に問うた。
『肺炎を起こしかけてます…あまり良い状態とはいえません。骨が内臓に刺さってないのは幸いでしたが…』
ズレた眼鏡を指でクイっと掛け直したラティマは、付きっきりでザイラの治療に当たる。癖の強い黒髪は余計に乱れ、優しげな顔にも疲労が見えている。
ザイラの頬と顎、手には縫い傷が、肋骨も折れ恐らく胸骨にもヒビが入っているかもしれない…まさにアザだらけ傷だらけだ。
痛々しい姿を見るたびに、フィデリオは胸が痛む。
それに加えて高熱が出てしまったので思う様に治療は進まない。
『クレイグ…もしくは、フォーサイス子爵に協力を仰いでも?』
ラティマは足りない薬品や医療品を補充したかった。
フィデリオは暫し考え込む。
ここで彼女を死なせる訳にはいかない。だが、ここに今王国の国民を引き入れるのは考えものだ。
例えフォーサイスでも…
夫人が失踪、誘拐された事は表沙汰になっていない。
届出がされていないので、なりようも無いが…
夫人が重症を負い病に伏せっているためフィデリオの屋敷に居る事は国王、皇太子、そしてフェルゲイン侯爵とアイヴァンしか知らない事だ。
勿論、コリン始め関係者も既に拘束し屋敷内で勾留している。
詳細はまだ先方に伏せているが、この屋敷はエルメレの大使館と同じ敷地内にある。ここはエルメレなのだ。事態は何か些細なこと1つですぐに緊迫する。
タイミングや切るカードを間違える事はできない。
何度となく夫人とコリンへの面会もしくは申し開きの要請を方々から受けていた。
ザイラはまだ目覚めていない。
重症なので面会謝絶の旨はラティマからも書簡を送らせたが、話半分でしか受け止めていないだろう。
だが、詰めれる話はそろそろ詰めないとならない。言い掛かりをつけられるのも面倒だ。
ここは致し方無い…
夫人の命には換えられない。
″ただ僕の前に連れて来て欲しい″
フィデリオの頭の中にクレイグの言葉が響く。
コリンをどうするか決めなければならないが、なんともややこしい事に公爵家は王族とも血縁がある。
血縁があるが故、お互いが一歩間違えれば戦争へのこじつけになり得てしまう。
あの″春の楽園″をエルメレへ流したのはディオン公爵だった。
海運王は実に上手い事栽培から加工販売までを細かく分けて売り捌き、手間暇かけた分以上の巨万の富を得ていた。
公爵が病に倒れてからはコリンがそれを引き継いでいた様だが、コリンは公爵ほど慎重でも無く賢くも無かった。
公爵も病苦から遂に春の楽園に手を出しもう先も長く無いと聞く。
なので手間と人員は割いたが証拠は思いの外楽に集まった。
本人も薬物中毒症状が出ていたのでまともな思考は出来ていないのかもしれない。
夫人の証言があれば、もう言い逃れも出来ないだろう。
クレイグに言われてからは実にトントン拍子にことが進んだ印象だ
故にそこの落とし所も詰めないとならない。
それは王国側にも言えることだ。
『分かった…だがあくまで非公式に。
まだ屋敷までは来させるな。周りに勘付かれてはならない。フォーサイスにも火の粉が降りかかる恐れがある』
フィデリオはそう言うが、ラティマはその火の粉に関しては全く心配して無かった。
相手はフォーサイス、そしてクレイグだ。
むしろ補充の目処が出来て安堵する。
『畏まりました、殿下』
ラティマは頭を下げた。
『…私はまたこれから2、3日本館に行く。後を頼んだぞ』
フィデリオは重い足取りで本館、つまりは来賓のもてなしや歓談をする棟に向かう。
王国側が一体今度は誰を出してくるやら…
『もう強壮剤はありませんよ?寝不足もほどほどになさってください』
ラティマは苦笑いを浮かべる。
『じゃあそれもクレイグに頼んどいてくれ』
フィデリオは首を回し、骨をポキポキと鳴らす…
それと…
『レオ、そなたはいつまで仕事を放棄するのだ。そなたの仕事は私の護衛と補助であろう?夫人の看病人に指名した覚えは無いぞ』
レオはあれから殆どの時間をザイラのベットの横で過ごしている。
ラティマも最初は困惑したが、今では立派な助手だ。
今回の事で大人しくしてないだろうな、とフィデリオも予想はしていた。ただこの男が居れば、百人力…とは言い過ぎかもしれないが、この男が居ると現場に居る者たちの士気も自然と上がる。
それこそ実力が伴わなければ皇族の護衛など務まらない。
命令に従ったわけでは確かに無いが、殺さずにコリン達を連れて来た点は評価しよう…
『救い出した事に免じて夫人が目覚めるまでは大目に見よう。だが、少し休め。テレサと代わるといい。テレサは今回の貢献人であろう?やつの合図が無ければ立ち入れなかった。大丈夫だ。安心して任せよ』
フィデリオに負けず劣らず顔色の悪いレオは返事もしない。
ただ沈痛な面持ちでザイラを見ている。
『命令だ。休め』
そう言ってフィデリオはレオの肩を軽く叩いた。
レオは命令通り、テレサと呼ばれる女性とザイラの看病を代わった。
最初ラティマがテレサを連れてきた時レオは断ったが、テレサは夫人も女性ですから体を清めたいはずです、と押し通された。
と言っても数時間だ。
その間に溜まっている仕事をレオも少しでも片付けなければならない。
『ベルナルディ卿、よろしいでしょうか?』
自室に向かう道中、守衛の伝言を持った護衛に声を掛けられる。
『…またフェルゲイン卿がいらっしゃってます。一目奥様に会えないかと…』
護衛は気まずそうにレオの顔を伺う。
『誰も通すな』
レオはそれだけ言うと、また歩を進め始めた。
『面会謝絶の旨はラティマ様からもお伝えしていますが、これだけ毎日来られますと…』
断りづらい、と言いたげな護衛をレオはじっと見つめた。
『殿下が屋敷にいない間、この屋敷の全ての権限は私が持っている。誰であろうと一切許可は与えない』
抑揚の無い声と何の感情も読み取れないその表情は今にも襲いかかりそうな深い闇の様で、護衛の男は歯をカチカチと鳴らした。
レオの表情に怒りは見えないが、首元から顎にかけて、力を込めた血管が破裂しそうな程浮き上がっていた。
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