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麦酒

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「奥様」
 
「奥様」
 
 アンナの声がする。
 薄らとザイラが目を開けると、アンナは血相を変えてザイラの顔を覗き込んでいた。
 
「あぁ…おはよう、アンナ」
 ザイラはそう言ってすぐ刺すような頭の痛みに顔を歪ませ、こめかみを押さえた。
 
「奥様…ベットでお眠りにならなかったのですか?」
 
 ザイラは窓際まで持ってきたシングルソファーに座ったまま、昨日は寝てしまったらしい。
 体が妙に固まって、伸ばすと節々に痛みが走った。
 のと同じ位に頭がガンガンと痛む。
 
「…少し飲み過ぎになられたのでは?頭痛薬と、二日酔いに効くお飲み物をお持ちします…」
 アンナは、淡々とだが心配そうにザイラにそう言った。
 
「…ありがとう。アンナ、お休みは?」
 
 ザイラは痛む頭を押さえながら余計な事は言わない優秀な侍女に聞く。
 
「ありがとうございます。お陰様で昨日は家族と一緒に過ごせました。」
 
「そう、良かった」
 
 ザイラはそう言いながら体をベットに移す。
 
「なんなら今日も休んでいいわ。私も身の回りの事は一通り田舎で仕込まれてるから、気にしないで。」
 貴族の令嬢にあるまじき発言だが、本当なのだから仕方が無い。
 ナディアは厳しかった。
 本当に厳しかったが、今となっては何処へでも生きていける自信が確実についた。
 
 ザイラが横になっても、アンナは部屋を整理したり、昨日のワインのボトルを片付けたりときびきびと仕事をこなしている。

「昨日充分お休みをいただきましたよ。」
 アンナはザイラにニコっと微笑んだ。
 
 
 今日は、収穫祭の最終日。1番盛り上がる日といっていい。
 そして、ザイラがこの世に産まれ落ちた日だ。
 
 だが今日1日ベットで過ごす事になるだろう。
 時間が過ぎるのをただ待つのみだ。
 これが過ぎればまた日常が戻ってくる。
 
「お食事はいかがしますか?こちらにお運びしてよろしいですか?」
 
「…あまり食欲が無いから、いいわ。」
 どちらかと言えば、二日酔いで頭が痛んでも何か酒の類が欲しかった。
 アンナの許可が下りるかは分からないが…
 
 
「スープや…何か消化の良い物はいかがですか?お酒ばかりではお体にも良くありません。それに、それ以上お痩せになられては、っ……」そう言って言葉は不自然に詰まる。
 困る?アンナは確かに心配してくれるだろう。
 それとも、…アイヴァンが?そんな事に果たして気付くだろうか?


「大丈夫よ。アンナが思うほど私は痩せても無いし。収穫祭の間くらいハメを外したいでしょ?誰でも」
 そう微笑むが、アンナは頑なに何か食べ物を流し込ませる気だろう。
 上手い事言って、あの儚げだが意思の強い瞳で。
 
 アンナに言われると、聞かなければという気になってしまうのも不思議なものだ。
 
「分かったわ…何かスープをお願い出来る?」
 
 その言葉にアンナは満足そうに笑みを浮かべて頷くと部屋を出て行く。
 
 スープを飲んだら、また眠ろう。
 眠って起きたら、明日になってたりするかもしれない。
 
 
 アイヴァンはきっと来ない。
 連絡もあれから無いのだから。
 
 妊娠の初期は悪阻であったり体調が悪化する事も多いと聞く。ミア嬢を1人には出来ないだろうし、妊娠の噂を広めないように手も回さないといけない。
 正しく大忙しだ。
 時間を作ろうと思っても不可能だろう。
 
 何もする事が無いザイラには眠るか飲むかしか方法が無い。
 
 暫く微睡んでいると、アンナがスープを持ってきてくれた。
 口に付けるまで、離れませんといった態度で。お陰で全て飲み干した。
 やはりしっかり流し込まされた。
 
 
 
 今度こそ眠ろう。眠ってしまえばいい。
 
 
 
 外が騒がしい…
 いつの間にか眠りに落ちた目を半分開くと、昨日よりも更に賑やかな音楽が窓を閉めていても聞こえる。
 時計に目をやると、もう昼を過ぎ夕方に差し掛かろうとしていた。
 
 重い体を起こし、窓から街を見下ろす。
 色鮮やかで、陽気な音楽に満ちたその光景は、誰であってもワクワクするに違いない。
 
 今日はザイラの誕生日だ。
 まるで、自分を祝ってくれているようじゃないか。
 そんな風に思い込むと、なんだか無性に外に出たくなった。
 
 
 酷い顔色を化粧で隠して、動きやすいワンピースに袖を通し、それと同じデザインの靴を履いた。髪を纏めて帽子を被る。
 
 小さな鞄を持って、屋敷をそっと出た。
 誰かにどこへと聞かれるのが今日はうっとおしかった。
 今日だけでも良い、1人で気兼ねなく自由に出掛けたかった。
 
 どこの通りも人でいっぱいだ。
 
 庶民だけではない、目立たないが質の良い服を着た貴族達も多く楽しんでいるようだ。
 大きく響く美しい歌声に、昨日より更に陽気な音楽、色とりどりの出店がそこかしこに立ち並んで、皆笑顔に満ちている。
 
 キョロキョロと辺りを見回していると、ふいに真っ赤な顔をしたふくよかなおばさんから飲み物を渡された。
 飲め飲めと言われて口をつけると、雑味があるが麦酒だった。
 ローリー領でもたまに口にしていたが、とても美味しい。思わず一気に飲み干すと歓声が上がり、おばさんからもう一杯飲みな、と木のコップを渡される。
 
 自分も陽気な人達の一員となるのにそう長くはかからなかった。
 
 あとは気の向くまま、渡された酒を飲み、子供と手を繋いで踊ったり歌ったり、
 気が付けば屋敷から随分遠くに来ていた。
 
 誰とも知らない人と他愛も無い話しをして、歌い踊る、ちっとも寂しさなんて感じなかった。
 あの荘厳で格式高い舞踏会なんかより、ずっと良い。
 
 
 誰も、ザイラを野蛮だなんて言わない。 ローリーの令嬢とも、フェルゲイン夫人とも。
 ヒソヒソとされる事も無い。
 そんなものは関係無く、笑って飲んで踊った。
 気が付けば帽子も靴も無かったが、そんな事も気にしてなかった。
 
 
 アルコールのせいで随分と目が回るが、喉も渇いて何か飲み物でも飲もうか、と思った時、頬にポツリと水滴が当たる。
 
 その水滴は、一気に勢いを増してやがて雨になった。きゃーという声や、余計に盛り上がるような歌声が響く。濡れていても皆お構い無しだ。
 茜色の空はそのままに、雨がザアァーっと降り頻る。
 
 軒下に行かねば。
 貴族ならこんな事しててはダメだ。
 
 誰かに見られたら…ナディアが居たらお説教だ、なんて考えていたが、火照った体に雨が気持ち良い。
 
 渇いた体に、水が染み込んでいくような、そんな感覚だ。
 
 不意に目を閉じる。
 そのまま顔を上に上げて、空を見上げた。
 
 顔に当たる水滴が、言い表せない程心地が良い。
 ずっとこうしていたい…
 そう思った。
 
 
 ふいに目頭が熱くなり始めた。
 呑みすぎたのだろうか。
 
 帰らないといけない。
 もうすぐこの楽しい1日は終わる。
 あれだけ身構えてた誕生日も終わるのだ。良かったじゃないか、こんな1日を送れたのだから。
 例えアイヴァンからの連絡が無くたって、充分な程笑い踊った。
 
 また屋敷に戻れば、自分はアイヴァンの妻だ。
 アイヴァンが屋敷に立ち寄る時は、引き出しの奥に仕舞ったあのブローチを付けて出迎えるのだ。
 
 大丈夫、私には出来る。
 
 
 
 なのに、何故私は子供の様にこんな所で人目憚らず顔を歪めている?
 涙は幸い流れてない。
 幾ら泣いたとて雨が洗い流してくれる。
 降り頻る雨に甘えて、声を押し殺し思い切り顔を歪ませた。
 
 
 舞踏会で泣き喚くミア嬢の事を言えた義理じゃ無い。
 
 呑みすぎだ。
 あの麦酒が悪いのだ。
 やはり何か入っていたのかも。
 知らない人に渡された物をなんの疑いも無く呑むからこうなるんだ。
 
 



『風邪をひきますよ、レディ…』
 雨音はするのに、突然雨が止んだ。
 
 そっと目を開けると、大きな黒い傘の下に居た。
 大柄なその人物は後ろからザイラを見下ろしている。
 今日はまた、あのベージュの髪で肌は白い。まるっきり王国の人間だ。
 
 ただこの灰色と金色とが混ざった、作ったように美しい瞳は誤魔化せないんだろう。
 
 ザイラを見下ろすその顔は、呆れているのか、憐れんでいるのか、悲しんでいるのか、眉を顰めて顔色は曇っている。
 
 この変装上手な男がどう思っているかは知らない。例えこんな子供のような事をして、と蔑んでいたとしても憐れんでいたとしても、その瞳の美しさに免じて…今日は見逃そう。
 
 
 だから、そんな顔で自分を見ないで欲しい。どうか、今日だけは。
 
 
 
   
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