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天上からの誘い
しおりを挟むいつまでも鈍った体ではいられないので気分転換を兼ね、ザイラは辺りを散歩するのが日課になりつつあった。
本当は乗馬がしたいが、まだアイヴァンから馬は届かない。
馬を贈る…そんな事があっていいのだろうか、という事をいともさらりと出来てしまうのが大貴族たる由縁だろう。
まさかあんな事を言われるとは思わなかった。
純粋に、その好意は嬉しかった。
どんな思惑があるのかは分からない。
ただ、そう思っただけ、の可能性もあるが…
アイヴァンは、慈悲深い。
あの眼差しや伸ばされた手は、確かに温かなものだった、と感ぜずにはいられない旅だった。
と思うと余計に…今ミア嬢は…とついつい考えてしまう訳だが、自らの命に代えても、とフェルゲイン侯爵に屈しザイラと結婚した位だ。
そう易々と揺らぐ関係でも無いだろう。
だが、アイヴァンの葛藤や苦悶はよりいっそう深くなる…
妻、とされる女と信頼を築こうと思えば、最愛の人にとっては裏切りだ。
とはいえ、最愛の人を大切にしようとすれば世間も妻も切り捨てる覚悟が要る。
アイヴァンは侯爵家を捨てることは出来ないだろう。
正しく、アイヴァンの心は引き裂かれている真っ只中といえる。
一体落とし所はどこなのだろう…
何をしてもどこに転んでも、上手くはハマらない。
ただ分かっていることは皆が幸せには、決してなれない。
止まる事を知らないザイラの悩みは、大通りに面した異国風のカフェを前にして一時堰き止められた。
新しい店のようだが、王国風のティーサロンでは無い。エルメレ風だ。
周辺には高級な店が多くひしめく場所だが、造りも立派で、人の目を惹く。
こんな所にエルメレの店が出来るなんて、やはり時代は変わって来ている
抗う事の出来ない時の流れは、確かに両国の友好路線へと流れ始めてるらしい。
それに水を差すのがあの、春の楽園と言われる代物だが…
カフェの立派な扉が開き、ドアマンが2人扉の側に立った。
なんとも華々しいエルメレの伝統衣装を纏った数人の集団が、店を出る。
思わず見入ってしまったが、人と人の間から見知った人物とザイラは目があった。
「あ…」
あちらの声は聞こえないが、あちらもザイラと全く同じように口を開け、こちらを見ていた。
『皇子殿下にご挨拶申し上げます』
ザイラは恭しく頭を下げ、ドレスの裾を持つと軽く膝を折る。
『フェルゲイン夫人、まさかこんな所でお会いできるなんて思いもよりませんでした。直接御礼をお伝えしたかった』
フィデリオは整った顔からにっこりと柔和な笑みを浮かべると手を差し出す。
王国流の挨拶だ。ザイラもそこへ手を重ねた。
フィデリオがザイラの手の甲へ口付ける。
とすぐに先日のお姫様抱っこのくだりを思い出し、咄嗟に皇子の周辺を見た。
皇子がここに居るという事は…
王国の格好でいかにも王国人を装っていた男は、今日はエルメレの麗しくもセンスの良い衣装で、黒髪で小麦肌だ。
相変わらず美しい光彩を瞳から放っていた。
その瞳はザイラの目を捉えて離さない。
あの瞳を見ると、ザイラはいつも時を忘れて、吸い込まれてしまう。いつまでも眺めていたいと、思ってしまう程に。
鷲の目は目尻を下げ、片方だけ口角を上げると、少年のように意味ありげな笑みをザイラに送った。
やはり…同じ人物だ…
途端にザイラは俯く。頬や首が急激に熱くなってきた。
バレてる…やっぱりバレてる…
詳細を思い出すとまたあの熱に襲われるのだ。早く、ここから立ち去らねばならない。
『このような素敵なお店から、まさか皇子殿下がお出ましになるとは。今日はなんと幸運でしょう。皇子殿下も良い1日をお送り下さい』
そう言ってザイラは先程と同じように挨拶をして、一歩下がった。
空気が読めるならば目上の者は大抵これで去る。目上というより天上に近いが。
『正しく幸運。ここは同胞の持ってる店なのです。是非、お茶を共に』
フィデリオは大輪の華が如く笑みとオーラを放つ。
どうやらこの天上人は空気が読めない。
それもそうだ、天上人は下界の民の気など気にする必要はないのだ。
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