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運命の相手
しおりを挟む「奥様」
ああ、そうか、結婚したからか。
アンナはザイラをそう呼んで部屋のカーテンを開けた。
時計を確認すると、時計はとうに昼を過ぎている。
馬車でうたた寝した後、屋敷に戻っても倒れるように眠ってしまった。
屋敷に戻って倒れる前に、クラーク卿は相変わらず気まずそうに王国に提出する結婚証明書と教会に提出する宣誓書を出してきた。
正直、堅苦しい文字の羅列を読み取れる程の気力は残っていなかった。
ペンさえ握るのが億劫で、ミミズのような文字でサインしたが、あれで大丈夫だっただろうか。
ともあれ、夢を見ないのは久しぶりだ。
体も軽い。
「昨夜はお疲れになったでしょう。お食事はこちらにお持ちしますね。」
結婚した妻は、朝食をベッドで食べるか食堂で食べるか選べる。意味ありげだが、純粋にベッドまで持ってきて貰えるのは階下へ降りる準備をしなくて良いので大変助かる。
「…ありがとう。すっかり寝過ぎてしまったわ。」
ザイラはまだまだ眠気まなこだ。
「午後にフォーサイス様がいらっしゃるそうですが、いかがいたしますか?」
フォーサイス様、
フォーサイス様、
フォーサイス様…
寝ぼけた頭に何度もその名を唱えた。
「どの…フォーサイス様?」
「医師のクレイグ・フォーサイス様です。」
「あー…」
あの フォーサイスか…。なんだか急にまた体が重苦しくなってきた。
一度起き上がった上半身を、もう一度、思い切りベットに沈めた。
「なんだ、元気そうじゃないか。」
人払いをしたザイラの部屋に入ってくるなり、拍子抜けした顔でその医師は言った。
肩まで伸びた薄いベージュの髪を後ろで束ね、緑色の瞳にエルメレ製であろう高価なメガネをかけた中性的な美丈夫。
背は高すぎるが、ドレスを着れば女性にしか見えないかもしれない。
「…なぜ、こちらに?」
診察しやすいように背もたれの無い椅子に腰掛けたザイラは怪訝そうに尋ねる。
「いや僕は君に用事は無いんだ。ただアリーが…」
アリーが、と言って頬を染めて吐息を漏らし、顔を綻ばせる。
アリー、アレシアの愛称だ。ザイラもアレシアの事はお姉様やアリーと呼んでいる。
「アリーが、ザザが急ぎで結婚式を挙げたと聞いて心配なので体調を診てあげて、と言われたから来ただけだよ。」
ザザはザイラの愛称で、家族や親しい人は皆ザイラをそう呼ぶ。
ただ、この人物にザイラが親しみを感じているかと言うと、お互い全く親しみは感じていないだろう。
医師でありフォーサイス子爵家の嫡男でもあるクレイグ・フォーサイスという男は、アレシア以外の人間にさして興味を持つ事は無い。
無愛想で無表情で常に何を考えているか分からない。
そんなクレイグが人間らしい反応を見せるのはアレシアだけだ。
危うい程にアレシアだけを愛している男、彼こそアレシアの夫である。
「特に体調不良でも無いし痛みも熱も無いね?少し痩せた様だが、君は元々痩せているし。急激な体重の減少でも無いならそれは環境の変化とストレスというやつだ。
顔色も良いし、いくつか薬を持ってきたから使うと良い。裂傷の塗り薬と痛み止め、あとこれは潤滑油だけど鎮静効果も期待出来るのでもし使うなら性交しょ…」
「待って待って待って待って待って。
それ以上言わなくていいです、…お義兄様……」
何事にも明け透け無い義兄は同じ空間に居ると何を言い出すか分からないので、ヒヤヒヤして落ち着かない。
お義兄様、そう呼ぶ事さえなぜだか口が拒否して上手く回らない。
これで王国でも随一と謳われる大病院の医師の1人なのだから、実力は確かとして…主治医として患者に心身共に寄り添う事はクレイグには不可能だろう。
「…あー…なんだ、まだなのか。」
クレイグは緑色の瞳を上に向いて何かを数秒考えている。
「そういえば彼はどこか揉め事に向かわされたとかアリーから聞いた様な気がするな。
夜の指南書は持ってきてないが、必要なら後で届けさせよう。」
「要りません。」
ザイラが即答しても、既に聞いていないだろう。
クレイグはもう仕事は終わりました、とでも言いたげにメガネをケースに入れて鞄に仕舞うが、動きが止まった。
「…ああ、そうか。忘れてた。背中を見せて。」
そう言ってザイラを見ると、もう一度鞄からメガネを出した。
何回診せてると思ってるのか。
覚えて無い、というか興味が無いのだろ。
ザイラとて恥じらいや戸惑いは無い。
椅子に座ったままシャツを脱ぐと、クレイグに背中を見せた。
ザイラの背中には肩から腰にかけて、大きな傷跡があった。これは転生後のお転婆が過ぎた結果だ。
ローリー領の人たちと狩に出かけた時、山の岩場にあった沢で足を滑らせた。
滑らせた先に折れた大木があり、不運にも転げ落ちたザイラはその折れた木で傷を負った。
コナーの家に運ばれてすぐにナディアが処置した。
ナディアは戦時中看護婦として従軍してたので、手際は良かった。ローリー領の医師もそれはそれは丁寧に縫ってくれたが、傷が大きく深かったため傷跡はしっかり残っている。
ナディアは、嫁入り前にと随分嘆いた。
ザイラ本人は見えないので大して気にしていないが、貴族令嬢に傷は厳禁だ。
アイヴァンを騙した訳では無いが、ローリー伯爵もこの事は知らない。
コナー夫妻とローリー領の数人、アレシアしか知っている者は居なかった。
皆口は固く漏れる事は無い。
クレイグも今は知っているが、口が固いとか信用出来るとかより以前の問題な気がする。ので、漏れる心配は全くしていなかった。
「傷跡に変わりは無いけど。時間が経過してるから軟膏で劇的に何かが変わる訳じゃない。確かに縫い方は丁寧で細かいけど…」
不満そうだな。自分だったらこうしたという自信があるのだろう。
「傷跡を極力目立たないように今から再手術も出来るけど、完治まで時間かかる。
まぁ、寝てれば相手には見えないし。照明も暗くすればバレないよ」
それが曲がりなりにも伯爵家の令嬢に言う言葉なのだろうか。
初夜について余計な心配しているのがよく分かるんだが、心配というより対処法を教えてくれているだけな気がする。
「とはいえこの軟膏に意味が無い訳じゃない。太陽の光も背中なら当たらないから色素沈着の心配は無いけど、あまり陽の光に晒さない方が良いね。
とりあえず朝晩に塗るのを続けること。
あとは…
エルメレであれば新しい方法も試せる。 向こうの医療器具を借りられたらそれもここで出来るけど…。持ってきてるかなぁ」
持ってきてるかなぁ?まるで当てがあるみたいだ。エルメレに留学してたくらいだから、知り合いも居そうだけど…
クレイグが姿勢を戻したのを察してザイラも下着を直し、シャツを着た。
前向きに姿勢を戻すと、クレイグは鞄から本を数冊取り出した。
「じゃあ、はい。これ、母上から。」
膝の上に無造作に本が積み上げられる。
1冊ごと膝に重みがじんわりと響く。 積み上がったその上にポイ、とフォーサイス家の封蝋印が押された手紙を置いた。
「じゃあね、ザザ。あまりアリーを心配させないで。」
こちらも見ずにそう言うと、クレイグは足早に颯爽と出て行った。
クレイグという人間は、医師として治すのは建前で、その経過や効果を楽しんでいるように感じる。
未だにクレイグが愛というものを感じるのか疑問であるが、アレシアにだけはまるで初恋の少年のように純粋で一途な愛を注いでいるのは誰もが認めざるを得ない。
その愛が少々、いや大いにいき過ぎである事も。
最初に会った時は、アレシアとアレシア以外の人間に対する態度が余りに違うので呆れ返ったが、クレイグに接するローリー伯爵の困惑した顔は大変見応えがあった。
見かねたアレシアがやんわりと諭すと、自分なりに考えて対応をしようとする努力は見えたので、やはりアレシアの言う事はしっかり聞くのだ。
アレシアはどう思うか、幸せか、喜ぶのか、それだけを考えている。
誰よりも何よりも、アレシアを愛している。
少々度が過ぎてるとはいえ、アレシアも幸せなのだから、ザイラとしてはそれが1番だ。
ザイラの書斎机には写真立てが幾つか飾ってあるが、アレシアやアレシアの娘達、4歳のジャスミンと3歳のオーロラの写真が飾ってある。
2人ともアレシアにもクレイグにもよく似ているが、その愛らしさといったら言葉には言い表せない。
クレイグも写っていたが、その部分は折って見えないようにしている。
クレイグを見ていると、なんとも言い難い感情が湧いて、アレシアや娘達を見て感じる幸福感がなんとなく削がれるからだ。
娘達の外見は文句の付けようがないとして、クレイグの中身が遺伝しない事を祈らずにはいられない。
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