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ノアが出ていってどれくらい経っただろうか。何者かが侵入したと言っていたが、そんな気配は微塵も感じさせないほど静かだ。いつもの静寂と梟の声が聞こえる夜、ただノアがここにはいない夜。それはどれだけ心許ないことかをセレナはこの時初めて理解した。
早く帰って来てほしいと願ったその時、遠くからドンと爆発したような音が聞こえた。セレナは窓から身を乗り出し、音のした方を見やる。ここから1kmほどのそう遠くない場所で、再び爆発音と共に赤い光が夜の闇に迸る。
「本当に大丈夫なの…?」
セレナの不安は増すばかりだ。まるで地割れでも起きそうなほどの轟音は間隔を狭め、戦いの激しさを物語っていた。
「どうしよう…私も助けにいった方が…きゃっ!!」
突然家が激しく揺れ、セレナは尻餅をついた。窓の外に目を向けると、ノアが張ったであろう結界がひび割れていた。この家が攻撃されたのだと直感で察したセレナは、震える手を抑えながら立ち上がり、ダイニングに向かう。確かそこには剣が何本か置いてあったはずだ。
剣を使ったことなど勿論ない。それでもノアがいない今、自分の身を守れるのは自分しかいないのだ。今も侵入者が結界を壊そうと攻撃を仕掛け、立っていられないほど何度も揺れている中なんとかダイニングにたどり着いたセレナ。片隅に剣が立てかけてあり、セレナは走ってその剣を手に取ったその時。
「やあ、セレナ、久しぶり。剣を取って何をしようとしているのかな?」
聞き覚えのある声がセレナの背中越しに聞こえる。セレナが恐る恐る振り返ると、そこには見覚えのある顔ーー元婚約者の王太子オーフェスだ。鎧を纏ったオーフェスは、一緒に城の庭園を散歩していたあの時のような優しい笑顔を浮かべてみせた。セレナの背筋が凍った。
「オーフェス様、なぜここに?」
震える声を隠すように強い口調で問うも、オーフェスは表情ひとつ変えず柔和な微笑を湛えたままだ。
「なぜって、君があの日、突然いなくなったからじゃないか。どうしていなくなったんだい?」
オーフェスはじりじりとセレナに近づいてくる。逃げたら負けだとわかっていたが、いつもの笑顔で何事もなかったかのように歩み寄るオーフェスに恐怖しか感じなかったセレナは本能的に後ずさってしまう。
「どうしても何もあなたが追い出したんじゃない、私を悪女だと言い放って…!」
「嫌だな、僕がそんなことをするはずがないだろう?それに見てくれ、僕と君はまだ婚約中だ」
オーフェスは懐から一枚の紙を取り出す。それは確かに婚約した時の契約書だ。
「そんなの無効よ!もう私はそちらの世界には戻らないもの。それにここまで何しに来たの!?」
「決まっているだろう、君を迎えにきたんだよ!」
にじり寄っていたオーフェスが突然大股でセレナに向かってきた。セレナは小刻みに震える手で剣を鞘から抜こうとするも思うように抜けない。
ーーノア、助けて…!ーーセレナが目を瞑ったその時。
「おい、お前の相手はこの私だろう?いつこの家に入っていいと言った?」
この声は…!セレナがゆっくり目を開けると、ノアの背中が目の前にあった。ノアが生きててくれた…私のもとに戻ってきてくれた…セレナは緊張の糸が解けてその場にへたり込んでしまった。
「セレナ、怖かったろう。だがもう大丈夫だ。残すはこの男だけだ」
ノアは顔だけ振り返りセレナにふっと微笑みかける。セレナはいつもの笑顔に安堵した途端、その目は涙で滲んだ。
「残すはって…まさか外にいた我が軍を…!?」
「ああ、その通りだ。だがこの地をお前らの血で汚したくないからな、少し痛めつけて元の世界に送り返してやったぞ?」
オーフェスの顔色が見る見るうちに青ざめていく。
「そんな…五千人もの兵と魔術師を動員したんだぞ…」
五千人もの軍勢で攻め入ってくるなんて…セレナは心底恐怖したと同時に失望した。
「まあ、私が作ったこの空間に入ったことは褒めてやろう。相当有能な魔術師らを集めたんだな。まあここにはもういないが」
ノアはにやりと不敵な微笑を湛えると、オーフェスはひぃっと間抜けな悲鳴を上げ後退りした。
「つまりここに残っているのは…」
「そう、お前だけだ」
オーフェスはそれを聞くや否や跪き、そのまま頭を床につけた。
「助けてくれ!!この通りだ!!」
「お前をか?」
「それもだが…ってそうじゃない!!向こうの世界が大変なんだ!!」
セレナの胸の鼓動が大きく音を立てた。
「向こうの世界が大変って、どういうこと?」
セレナが立ち上がり、ノアの背中越しにオーフェスに問いかける。向こうの世界には、断ち切ろうとしたとはいえ家族がいる。大変だと聞き心配にならないわけがなかった。
オーフェスはセレナを見上げ、気まずそうに小声で話し出した。
「セレナ、どうやら君が聖女だったようなんだ…。君が悪女だと追い出したあの日から、我が国は恐ろしいほどの天変地異に遭い、穀物は枯れ果て、もはや飢饉に等しい。それを好機とばかりにこの数十年冷戦状態だった隣国も攻め入ってきた。セレナがいなくなってあまりにも急にこんなことになったものだから、皆は悪女の呪いだとか言い始めた。だが過去の文献を調べたらそれは悪女の印ではなく聖女の印だとする書物があったんだ。だとしたら納得がいく。君がいなくなったからこの国に災厄が降りかかっているのだと…。正直このままでは…この国は終わってしまう…!!だからどうか…戻ってきてくれないか!!この通りだ…!!」
オーフェスは再度頭を床につけた。彼の言うことは真実なのだろう、王太子が魔王と追放した女に跪くなど有り得ないのだから。それに終始オーフェスの眼差しは真剣で、国を憂う王太子そのものであった。それなら一大事だ。
「勝手です。私を悪女だと決めつけ、一方的に婚約破棄したかと思ったら今度はまだ婚約中ですなんて契約書を持ってきて、国が大変だから戻ってきてくれなんて」
セレナはノアを押し退け前に出る。オーフェスは顔を上げようとしない。
「本当に申し訳なかった、この通りだ。戻ってきてくれるなら何でもする」
「…わかりました、戻ります」
思いの外あっさりと承諾するセレナに目を丸くするノアとこれでもかと喜びに満ちた顔で見上げるオーフェス。ただし、とセレナは続ける。
「何でもするとおっしゃいましたよね?私が今から言う条件を全て受け入れてくださるなら戻ります」
「戻ってきてくれるなら何だって構わない!条件は何だ!?」
オーフェスはすくっと立ち上がり目を輝かせてセレナに迫り寄る。セレナは咳払いをして口を開く。
「まず、オーフェス様とは結婚致しません。婚約は破棄でお願いいたします」
「は!?それじゃ意味が…」
「私がそちらの世界に戻れば良いのですよね?それなら結婚は関係ないはずです」
オーフェスは唇を噛んで黙り込んだが、しばらくして頷いた。
「…わかった、私から王に伝えよう。他には?」
「私は魔王ノアと結婚しそちらの世界で暮らします。私たちはどこか静かなところで暮らしますから、そちらは一切干渉したり、ましてや攻め入るなど絶対にしないと約束してください。以上を守ってくださるなら、私はそちらの世界に戻ります」
あまりにも突飛な条件にノアもオーフェスも開いた口が塞がらないと言った様子でセレナを見つめていた。セレナはハッと我に帰ると顔を真っ赤にした。
「悪くない条件だ、セレナ。さてどうする?お前は受け入れるか?この魔王の私が契約書を作ってやろう、お互いの命を賭けた契約書だ」
ノアが指を鳴らすと、紙とペンが落ちてきた。セレナが紙を拾うと、そこには先ほどセレナが言った条件が既に明記されており、後はお互いサインをするのみだった。
「どうする?魔王が立会人を申し出ているんだ、ありがたく思うんだな」
ノアは不敵に微笑む。セレナはすぐさまペンを手に取り、スラスラとサインを書く。
「セレナ、お前は本当にいいんだな?この契約書は魔王の私でも破棄にはできんぞ?」
「構わないわ。覚悟の上よ。それに私にはあなたがいれば十分だもの」
セレナはどこか清々しいような笑顔を浮かべた。
「お前はどうする?国の窮地なのだろう?迷ってる暇などあるのか?」
「わ…わかった…わかったよ!!契約成立だ!!」
オーフェスは頭を掻き毟りながら荒っぽい筆遣いで書面にサインをすると、ノアの胸元に契約書とペンを押し付けた。
「よし、これで契約成立だな」
ーーー…
とある丘の上の小さな家で、若夫婦が暮らし始めた。
「ノア、ただいま!市場でね、こんな果物が売ってたの!」
セレナが紙袋いっぱいに果物を抱え、薪を割るノアに駆け寄った。どうやらこの世界ではノアも人間らしく振る舞おうと魔法を一切使っていないようだ。ノアは斧を置いた手を腰に当て、溜息をつく。
「だからお前は私が目を離している隙に…!一人で外に出るなと何度言ったら…!」
「いいじゃない、公爵令嬢だった時は一人で外に出て買い物なんてできなかったんだもの、楽しくて仕方ないの!」
満面の笑みでセレナに見つめられてノアが黙るのはいつもの光景だ。
あれからひと月が経った。
自身が聖女だと確信を持てずに元の世界に戻ってきたが、不思議なことに未曾有の災害はセレナが戻ってきてからピタリと止み、何があったか隣国の軍隊も撤退していった。枯れ果てた穀物や農作物は時の流れを早送りしたように突如実りを迎え、セレナが戻ってきて一ヶ月も経たないうちに国は元の姿に戻り始めていた。
「そういえばこんなのが届いてたぞ」
ノアが一通の煌びやかな装飾の施された手紙をセレナに渡す。
「私とノアに国を救った御礼と先日の謝罪を王が直接したいから宮殿に招待…?また何かする気じゃ…」
手紙をしかめ面で見つめるセレナに、ノアは思わず吹き出す。
「大丈夫だろ、こっちに何かしてきたら契約違反で王太子の息の根が止まるんだから。それに人間の魔術師如きが何か仕掛けたところで私には効かないしな」
「それもそうね。頼もしいわ、ノア」
丘にひっそりと建てた小さな家に好きな人と二人で生活するのは、セレナにとってとても幸せだった。ノアの生み出した閉ざされた空間で暮らすのも悪くはなかったが、やはりどこか物足りなさを感じてしまっていた。
こちらの世界に戻ってきた今、物足りなさは感じていない。街へ出れば色んな人がいて、たくさんの出会いがある。もちろん不自由なこともあるしうまくいかないこともある。公爵令嬢だった時と違って裕福ではないからセレナもノアも働かなければならない。
しかしそれさえセレナにとって楽しく刺激的に思えた。ノアが魔法を使ってしまえば何事も容易く上手くいくが、自分の力で苦労しながら成し遂げることにセレナは日々、自分が生きているのだと強く実感できた。
「そういえばノアは、どうしてあの時、突然私の前に現れて王宮から連れて出してくれたの?それに結婚までしてくれるなんて」
梟の声が聞こえる夜、暖炉の前でソファに座り紅茶を啜りながらセレナはノアに問いかけた。ノアはあー、と言って少し沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「十年前か。お前が幼い頃、公爵家の庭で足を怪我した黒猫がいたのを覚えているか?」
「ええ、私あの時初めて猫に手当てしてあげたのよね、あの子あれからどうなったのかしら…って、何でノアがそんなこと知ってるのよ!?」
セレナは紅茶をテーブルに置いて立ち上がり、ノアの真正面に立って問い詰める。ノアは笑って右足のズボンの裾を捲ると、そこには傷跡が残っていた。
「え…これは…?まさか…え、嘘よね?」
セレナは屈んでノアの傷跡にそっと指を添えた。
「そのまさかだ。あの時、私はここの世界の偵察に来てたんだ。目立ちたくなくて猫の姿になって高い塀の上を歩いてたらまさか落ちるとはな。慣れない姿になるもんじゃないな。元の姿に戻って魔法で治そうと思ったところにお前が…まだ幼いセレナが来て、手当てしてくれたんだ」
セレナはあまりにも信じられない話に呆然としながらノアの傷跡を見つめていた。
「そうだったの…あの時のあの子がまさかノアだったなんて…」
信じ難い話ではあるが、あの時の出来事を鮮明に話すノアをセレナは信じることにした。
「がっかりしたか?」
「まさか!元気で良かったわ!」
セレナが顔をあげると、ノアは少し寂しげな笑みを浮かべていた。驚いたセレナは慌ててその骨張った手を握りしめた。ノアがそんな表情をするとは思わなかった。呆れられると、失望されると思ったのだろうか…だから今まで自分から言おうとしてこなかったのだろうか。そう思うと途端にノアのことが可愛らしく思えた。
「まさかあの時の子猫と結婚するなんて思わなかったけどね」
「まあ私はあの時からずっとそのつもりだったがな」
「え!?」
セレナが顔を赤らめながらノアの顔を見上げると、先ほどの憂いは何処へやら、ノアは優しい瞳で微笑みながらセレナを見つめていた。
「あの時から私はずっとセレナが好きだったんだ」
あの時から、ずっと…
セレナの目からは涙が溢れる。
ずっと両親から敬遠されていた。婚約した王太子からは悪女だと追放された。誰からも必要とされていないのだとずっと思っていた。
そんな自分を、幼い時から見ていてくれて、好きだと言ってくれる人に出逢った。なんと幸せなのだろう。
セレナはノアの胸に飛び込んだ。溢れる涙が止まらない。
「ノア、ありがとう。私もノアと一緒になれて本当に幸せよ…!ずっと一緒にいてね?」
「誰が離すものか」
暖炉の灯火が部屋を優しく照らす夜。二人は微笑み交わし、抱きしめあった。
⭐︎終⭐︎
最後までご愛読ありがとうございました!
早く帰って来てほしいと願ったその時、遠くからドンと爆発したような音が聞こえた。セレナは窓から身を乗り出し、音のした方を見やる。ここから1kmほどのそう遠くない場所で、再び爆発音と共に赤い光が夜の闇に迸る。
「本当に大丈夫なの…?」
セレナの不安は増すばかりだ。まるで地割れでも起きそうなほどの轟音は間隔を狭め、戦いの激しさを物語っていた。
「どうしよう…私も助けにいった方が…きゃっ!!」
突然家が激しく揺れ、セレナは尻餅をついた。窓の外に目を向けると、ノアが張ったであろう結界がひび割れていた。この家が攻撃されたのだと直感で察したセレナは、震える手を抑えながら立ち上がり、ダイニングに向かう。確かそこには剣が何本か置いてあったはずだ。
剣を使ったことなど勿論ない。それでもノアがいない今、自分の身を守れるのは自分しかいないのだ。今も侵入者が結界を壊そうと攻撃を仕掛け、立っていられないほど何度も揺れている中なんとかダイニングにたどり着いたセレナ。片隅に剣が立てかけてあり、セレナは走ってその剣を手に取ったその時。
「やあ、セレナ、久しぶり。剣を取って何をしようとしているのかな?」
聞き覚えのある声がセレナの背中越しに聞こえる。セレナが恐る恐る振り返ると、そこには見覚えのある顔ーー元婚約者の王太子オーフェスだ。鎧を纏ったオーフェスは、一緒に城の庭園を散歩していたあの時のような優しい笑顔を浮かべてみせた。セレナの背筋が凍った。
「オーフェス様、なぜここに?」
震える声を隠すように強い口調で問うも、オーフェスは表情ひとつ変えず柔和な微笑を湛えたままだ。
「なぜって、君があの日、突然いなくなったからじゃないか。どうしていなくなったんだい?」
オーフェスはじりじりとセレナに近づいてくる。逃げたら負けだとわかっていたが、いつもの笑顔で何事もなかったかのように歩み寄るオーフェスに恐怖しか感じなかったセレナは本能的に後ずさってしまう。
「どうしても何もあなたが追い出したんじゃない、私を悪女だと言い放って…!」
「嫌だな、僕がそんなことをするはずがないだろう?それに見てくれ、僕と君はまだ婚約中だ」
オーフェスは懐から一枚の紙を取り出す。それは確かに婚約した時の契約書だ。
「そんなの無効よ!もう私はそちらの世界には戻らないもの。それにここまで何しに来たの!?」
「決まっているだろう、君を迎えにきたんだよ!」
にじり寄っていたオーフェスが突然大股でセレナに向かってきた。セレナは小刻みに震える手で剣を鞘から抜こうとするも思うように抜けない。
ーーノア、助けて…!ーーセレナが目を瞑ったその時。
「おい、お前の相手はこの私だろう?いつこの家に入っていいと言った?」
この声は…!セレナがゆっくり目を開けると、ノアの背中が目の前にあった。ノアが生きててくれた…私のもとに戻ってきてくれた…セレナは緊張の糸が解けてその場にへたり込んでしまった。
「セレナ、怖かったろう。だがもう大丈夫だ。残すはこの男だけだ」
ノアは顔だけ振り返りセレナにふっと微笑みかける。セレナはいつもの笑顔に安堵した途端、その目は涙で滲んだ。
「残すはって…まさか外にいた我が軍を…!?」
「ああ、その通りだ。だがこの地をお前らの血で汚したくないからな、少し痛めつけて元の世界に送り返してやったぞ?」
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「そんな…五千人もの兵と魔術師を動員したんだぞ…」
五千人もの軍勢で攻め入ってくるなんて…セレナは心底恐怖したと同時に失望した。
「まあ、私が作ったこの空間に入ったことは褒めてやろう。相当有能な魔術師らを集めたんだな。まあここにはもういないが」
ノアはにやりと不敵な微笑を湛えると、オーフェスはひぃっと間抜けな悲鳴を上げ後退りした。
「つまりここに残っているのは…」
「そう、お前だけだ」
オーフェスはそれを聞くや否や跪き、そのまま頭を床につけた。
「助けてくれ!!この通りだ!!」
「お前をか?」
「それもだが…ってそうじゃない!!向こうの世界が大変なんだ!!」
セレナの胸の鼓動が大きく音を立てた。
「向こうの世界が大変って、どういうこと?」
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オーフェスはセレナを見上げ、気まずそうに小声で話し出した。
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「勝手です。私を悪女だと決めつけ、一方的に婚約破棄したかと思ったら今度はまだ婚約中ですなんて契約書を持ってきて、国が大変だから戻ってきてくれなんて」
セレナはノアを押し退け前に出る。オーフェスは顔を上げようとしない。
「本当に申し訳なかった、この通りだ。戻ってきてくれるなら何でもする」
「…わかりました、戻ります」
思いの外あっさりと承諾するセレナに目を丸くするノアとこれでもかと喜びに満ちた顔で見上げるオーフェス。ただし、とセレナは続ける。
「何でもするとおっしゃいましたよね?私が今から言う条件を全て受け入れてくださるなら戻ります」
「戻ってきてくれるなら何だって構わない!条件は何だ!?」
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「まず、オーフェス様とは結婚致しません。婚約は破棄でお願いいたします」
「は!?それじゃ意味が…」
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オーフェスは唇を噛んで黙り込んだが、しばらくして頷いた。
「…わかった、私から王に伝えよう。他には?」
「私は魔王ノアと結婚しそちらの世界で暮らします。私たちはどこか静かなところで暮らしますから、そちらは一切干渉したり、ましてや攻め入るなど絶対にしないと約束してください。以上を守ってくださるなら、私はそちらの世界に戻ります」
あまりにも突飛な条件にノアもオーフェスも開いた口が塞がらないと言った様子でセレナを見つめていた。セレナはハッと我に帰ると顔を真っ赤にした。
「悪くない条件だ、セレナ。さてどうする?お前は受け入れるか?この魔王の私が契約書を作ってやろう、お互いの命を賭けた契約書だ」
ノアが指を鳴らすと、紙とペンが落ちてきた。セレナが紙を拾うと、そこには先ほどセレナが言った条件が既に明記されており、後はお互いサインをするのみだった。
「どうする?魔王が立会人を申し出ているんだ、ありがたく思うんだな」
ノアは不敵に微笑む。セレナはすぐさまペンを手に取り、スラスラとサインを書く。
「セレナ、お前は本当にいいんだな?この契約書は魔王の私でも破棄にはできんぞ?」
「構わないわ。覚悟の上よ。それに私にはあなたがいれば十分だもの」
セレナはどこか清々しいような笑顔を浮かべた。
「お前はどうする?国の窮地なのだろう?迷ってる暇などあるのか?」
「わ…わかった…わかったよ!!契約成立だ!!」
オーフェスは頭を掻き毟りながら荒っぽい筆遣いで書面にサインをすると、ノアの胸元に契約書とペンを押し付けた。
「よし、これで契約成立だな」
ーーー…
とある丘の上の小さな家で、若夫婦が暮らし始めた。
「ノア、ただいま!市場でね、こんな果物が売ってたの!」
セレナが紙袋いっぱいに果物を抱え、薪を割るノアに駆け寄った。どうやらこの世界ではノアも人間らしく振る舞おうと魔法を一切使っていないようだ。ノアは斧を置いた手を腰に当て、溜息をつく。
「だからお前は私が目を離している隙に…!一人で外に出るなと何度言ったら…!」
「いいじゃない、公爵令嬢だった時は一人で外に出て買い物なんてできなかったんだもの、楽しくて仕方ないの!」
満面の笑みでセレナに見つめられてノアが黙るのはいつもの光景だ。
あれからひと月が経った。
自身が聖女だと確信を持てずに元の世界に戻ってきたが、不思議なことに未曾有の災害はセレナが戻ってきてからピタリと止み、何があったか隣国の軍隊も撤退していった。枯れ果てた穀物や農作物は時の流れを早送りしたように突如実りを迎え、セレナが戻ってきて一ヶ月も経たないうちに国は元の姿に戻り始めていた。
「そういえばこんなのが届いてたぞ」
ノアが一通の煌びやかな装飾の施された手紙をセレナに渡す。
「私とノアに国を救った御礼と先日の謝罪を王が直接したいから宮殿に招待…?また何かする気じゃ…」
手紙をしかめ面で見つめるセレナに、ノアは思わず吹き出す。
「大丈夫だろ、こっちに何かしてきたら契約違反で王太子の息の根が止まるんだから。それに人間の魔術師如きが何か仕掛けたところで私には効かないしな」
「それもそうね。頼もしいわ、ノア」
丘にひっそりと建てた小さな家に好きな人と二人で生活するのは、セレナにとってとても幸せだった。ノアの生み出した閉ざされた空間で暮らすのも悪くはなかったが、やはりどこか物足りなさを感じてしまっていた。
こちらの世界に戻ってきた今、物足りなさは感じていない。街へ出れば色んな人がいて、たくさんの出会いがある。もちろん不自由なこともあるしうまくいかないこともある。公爵令嬢だった時と違って裕福ではないからセレナもノアも働かなければならない。
しかしそれさえセレナにとって楽しく刺激的に思えた。ノアが魔法を使ってしまえば何事も容易く上手くいくが、自分の力で苦労しながら成し遂げることにセレナは日々、自分が生きているのだと強く実感できた。
「そういえばノアは、どうしてあの時、突然私の前に現れて王宮から連れて出してくれたの?それに結婚までしてくれるなんて」
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「ええ、私あの時初めて猫に手当てしてあげたのよね、あの子あれからどうなったのかしら…って、何でノアがそんなこと知ってるのよ!?」
セレナは紅茶をテーブルに置いて立ち上がり、ノアの真正面に立って問い詰める。ノアは笑って右足のズボンの裾を捲ると、そこには傷跡が残っていた。
「え…これは…?まさか…え、嘘よね?」
セレナは屈んでノアの傷跡にそっと指を添えた。
「そのまさかだ。あの時、私はここの世界の偵察に来てたんだ。目立ちたくなくて猫の姿になって高い塀の上を歩いてたらまさか落ちるとはな。慣れない姿になるもんじゃないな。元の姿に戻って魔法で治そうと思ったところにお前が…まだ幼いセレナが来て、手当てしてくれたんだ」
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「そうだったの…あの時のあの子がまさかノアだったなんて…」
信じ難い話ではあるが、あの時の出来事を鮮明に話すノアをセレナは信じることにした。
「がっかりしたか?」
「まさか!元気で良かったわ!」
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「まさかあの時の子猫と結婚するなんて思わなかったけどね」
「まあ私はあの時からずっとそのつもりだったがな」
「え!?」
セレナが顔を赤らめながらノアの顔を見上げると、先ほどの憂いは何処へやら、ノアは優しい瞳で微笑みながらセレナを見つめていた。
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あの時から、ずっと…
セレナの目からは涙が溢れる。
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そんな自分を、幼い時から見ていてくれて、好きだと言ってくれる人に出逢った。なんと幸せなのだろう。
セレナはノアの胸に飛び込んだ。溢れる涙が止まらない。
「ノア、ありがとう。私もノアと一緒になれて本当に幸せよ…!ずっと一緒にいてね?」
「誰が離すものか」
暖炉の灯火が部屋を優しく照らす夜。二人は微笑み交わし、抱きしめあった。
⭐︎終⭐︎
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それは、自分の寿命を削って他者を癒す力だったのだ。
故に、聖女は力を使うのを拒み続けたが、国の王子が難病に掛かった事によって事態は急変するのだった。
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