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 ビルが立ち並ぶ街の中央で、ミサは車の走行音を聞くともなく聞きながらスマホで時間を確認していた。

 約束の時間を過ぎて、十五分。そろそろ電話のひとつでもくれてやろうかと思った、そんな刹那。

「遅くなってごめん、姉さん」

 声と共に駆けてくる人影に、ミサは目をやる。
 そこにいたのは、申し訳なさそうに眉尻をさげた弟の姿だった。

「十五分の遅刻」

 返しながら、ミサは眉根を寄せて軽く相手を睨む。弟の遥は肩を竦めた。
「なかなか友達が解放してくれなくて」
「まったく……」

 時刻は午後五時に近い夕刻だった。周囲は帰路に就く人々でごった返している。
 ふたりは並んで歩き始め、その人混みの中に混ざった。遥が呟く。

「これから夕飯の買い出しだよね。今日のメニューなんだろう」

 ミサは自身のスマホを操作して、母から送られてきた買い物メモのメッセージを確認した。

「んー……チャーハンかなぁ。あ、そういえば私がうちを出る前、お母さん餃子の準備もしてたよ」
「わぁ、中華だね。楽しみだなぁ」

 目の前の信号が赤色になり、ふたりは足を止める。
 そのときだった。

「あっ!」

 遥が短く余裕のない声をあげ、見ると、彼の視線は道路に注がれているようだった。
 弟の目線の先を追って、ミサもぎくりとする。

 夕刻ということもあって、車の数は多い。そんな道路に、小さな女の子がおぼつかない足取りで歩んでいた。
 それに気付いた周囲のひと達も、ざわつき始める。

「ちょっと、アレまずいんじゃ……」

 ミサの声に、遥も頷く。

「大声で呼んでみる?」
「でも……」

 そんなことをして、驚かせたりしないだろうか。もしも意図せず驚かせてしまい、最悪な事態にでもなったら。
 ミサの躊躇に、しかし現実は非情だった。

 大型のトラックが、女の子に向かってきたのである。
 女の子は小さく、トラックの運転手からは他の車が邪魔になり、視認することは出来ないだろう。

 数秒先の惨状を予見して、周囲の人々が悲鳴をあげ始めた。
 それでも、女の子は歩みを止めない。小さな肉体は、大型トラックなどに撥ねられてしまえばひとたまりもないだろう。

 たまらず、ミサは走り出した。咄嗟に止めようとした弟の手を振り払い、まっすぐ女の子に向かって全力疾走する。
 背後から「姉さん、待って!」と遥の声が聞こえたが、足は止めなかった。

 道路を飛び出したミサを叱りつける車のクラクションが耳を刺し、視野の端には大型のトラックが迫る。

 けれど肝心の女の子は未だ現状を把握できていないようで、きょとんとした純粋な面持ちで、走ってくるミサを見返した。

 いつの間にか周囲の音がいっさい聞こえなくなり、ミサのすべての神経が女の子に注がれる。

 申し訳ないと思いながらもミサは腕を伸ばして、女の子を突き飛ばした。かかえて逃げていては間に合わないと思った。

 そして、間に合わないのは自分も同じだろうと漠然と察する。
 大型トラックの影は、もうすっかりミサを覆いきっていた。夕刻の影は濃く、ミサはまるで闇にでも飲まれた気分になる。

 覚悟を決める瞬間すらなかったが、人生とは案外こんなものなのかもしれない。
 しかし、その直後だった。ミサが違和感に襲われたのは。

 最初におかしいと感じたのは、足許だった。たしかにコンクリートを踏んでいるはずの感触が、突如として失われたのである。

 次いで襲ってきたのは、落ちる感覚だった。道路の上でそんな感覚に襲われるはずはないのだが、それでも、ミサは確かに落下していく己を自覚した。

 そんなミサを、妙にぬるい風が包む。その風の香りを鼻腔に感じ、ミサは怪訝に思った。

 その風には、今までに嗅いだことのない不思議な匂いが含まれていた。

 世界がスローモーションになり、ミサと女の子の視線が絡む。

 ミサに突き飛ばされながらも、きょとんと見返す幼女の無垢な瞳――それが、ミサが最後に見たものであった。



 トラックがたてるけたたましいブレーキ音と、それに重なる周囲の悲鳴に遥は血の気が引いた。
 震えそうになる足を叱咤して、声をあげる。

「姉さん!」

 タイミングよく信号が青に切り替わったため、あわてて地を蹴ってトラックの前にまで向かった。

 嫌な想像が、脳裏をよぎる。その想像を否定したい気持ちと、どこかで覚悟している自分がいた。

 トラックの正面にまわり込んで、遥は眼前の光景を確認する。
 が、肩透かしを食らって、思わず目をしばたたいた。

 トラックの正面――いや、その周辺にも、姉の姿がないのである。

 トラックの運転席を見上げてみても、そこには呆然としている運転手がいるばかりであった。

 目線を下げれば、ミサに突き飛ばされたのであろう幼い女の子がぽかんとして座り込んでいる。そうしてようやく転んだ際の痛みを思い出したのか、堰を切ったように泣き始めた。

 道路には姉の姿はおろか、血の跡さえない。あのタイミングでトラックから逃げられたとも考えづらいのに、だ。

 わけがわからず、遥はただ唖然としてそこに立ち尽くす。

 なにが起こったのかはわからないが、それでも、なにかありえないことが――ありえないなにかが目の前で起こったのだ、きっと。

 今の遥にわかるのは、ただそれだけであった。


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