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1巻
1-3
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「今日ルーシェが来てくれてよかったよ。来客がなければ、せっかくのアップルパイが無駄になるところだった」
そう言って隣を歩くユアン様を見上げると、それはそれは嬉しそうに口元が緩んでいる。
「アップルパイ、お好きですものね。でもわかっていると思いますが、おかわりは禁止ですよ」
私も好きだけれど、淑女としてはアップルパイほど食べにくいものはない。こんな時だけは子供の姿でよかったと思う。
「いつまでも口調は硬いままだね。子供なんだから、もっと楽にしていいんだよ?」
「子供でも礼儀は礼儀ですから。それに、これでもずいぶん気楽に話させていただいていますし」
ユアン様はぴたりと足を止めると、くるりと私を振り返り、目の前にしゃがみ込んだ。
「本当にルーシェは生真面目だよね。だからいっつも眉間にそんな皺が寄ってるんだって」
言いながら、ぶすっと鋭く私の眉間を突き、ぐりぐりともみほぐす。
「……いたいです」
「だろうね」
わざとか。
「さて、じゃあ私の執務室へ行こうか」
そう言ってユアン様は、私をひょいと抱き上げた。
唐突な浮遊感に、思わず声を上げる。
「うわあ!」
元野生児でハリボテの令嬢な私は、ここでとっさに「きゃあ」は出てこない。
「うーん。ルーシェは小さいねえ、軽いねえ」
そんなことは気にもせず、ユアン様は私を片手で軽々と抱き上げたまま、執務室へ歩き出す。
ここで短い手足をジタバタさせれば服の中が見えてしまいかねない。
それでも大人しく連れ去られるわけにはいかない。恥ずかしすぎる。
「下ろしてください、ユアンさま!」
「ルーシェの小さな体で歩くより、こっちのほうが早いだろう」
ゆらゆら揺れるのが怖くて思わずしがみつくと、ユアン様がふっと笑ったのがわかった。
そんな優しい笑い方をされるときゅんとしてしまうからやめてほしい。
いつも私が子供の足と体力には広すぎる城内をてこてこと歩いてやってくるから、疲れていることに気づいているのだと思う。
言葉は辛辣だし、つまらないイタズラもよくするけれど、やっぱりその気遣いも行動も、『微笑みの貴公子』そのものだ。
その通り名は、見た目と身分を表すだけのものではないのである。
ユアン様は誰も騙してはいないし、なにも偽ってはいない。
ただ人間というものが、人を表面で判断しやすい生き物なだけなのだ。
団長用の執務室に、第二騎士団の補佐官が茶器とスイーツを運んでくれると、ユアン様は手慣れた手つきでお茶を淹れはじめる。
私がやりますと言っても、これだけは譲らない。
「ユアンさまはわたしを甘やかしすぎだと思います」
「そんなことはない。当然のことをしているまでだよ」
「お茶だけではありません。先ほどのこともです! あんな、子供のように抱き上げないでください」
「ルーシェは実際に子供なのだから、気にすることはないのに」
笑みを浮かべながらも至極真っ当というように言うから、からかっているのではなく本心からそう思っているのだとわかるけれど、それでも恥ずかしさが消えるわけではない。
ユアン様がカップにお茶を注ぐと、いい香りが立ちのぼった。
ユアン様が淹れるお茶は正直とても美味しくて、結局私は素直にカップを受け取る。
「ありがとうございます」
用意してくれたカップは、私の小さな手でも持ちやすい。それも、私にだけ『子供用』として出すのではなく、ユアン様も同じものを使っている。さもこれがこの執務室では当たり前に使うものだというように。
そんな細かい気遣いが嬉しいし、ユアン様が淹れるお茶とスイーツのいい匂いで満たされたこの空間は、とても居心地がいい。
カップを口元に運ぶと、スッキリとした、でも華やかな香りがする。
私はあまりお茶に詳しくないのだけれど、いつもスイーツに合わせたものを選んでいるようで、お茶とアップルパイを交互に口に運ぶと至福だ。
アップルパイはリンゴの酸味を残しながらも砂糖で煮詰めた甘さが口に広がり、それをお茶がスッキリと流してくれて、延々と食べ続けられそうだ。これはユアン様が食べすぎてしまうのもわかる。
「それで、あれからリリアナ嬢の様子はどうかな?」
「いまはリンゼンハイム伯爵が動いたおかげで大人しくしているようですが、それもいつまでもつやらですね」
「まさに眠れる獅子だね」
それは言い得て妙だ。
「まったく、病で臥せっているはずの人間が夜会へ行くようなドレスを何着も買い集めて、いつ着るのかと問い詰めたいところです。大量の指輪はどこに嵌めるんでしょうか」
「ドレスは家でも着られるし、指は二十本あるからね」
「普通、病弱を装って領地に引きこもったなら大人しくしてますよね」
「普通はね。普通じゃないから家を潰しかけるし、家族が苦労しているんだろう」
思わず大きなため息とともに頷く。
そんな私の愚痴の最中にも、ユアン様はくすくす笑いながらアップルパイをさくさくと優雅に切り分け、口へ運ぶ。
その顔がとろりと笑み崩れるのを見ると、餌付けしたくなる公爵家シェフの気持ちもわかる。
けれど、そのせいで家と騎士団の監視の目があるところではスイーツが食べられなくなったそうなので、両者ともお気の毒にとしか言えない。
つまり、こんなとろけた笑顔を見られるのは、いまや私くらいなわけで。独り占めである。
「領地が暇で耐えられない、綺麗で素敵なものに飢えて心を慰める必要があるとか言ってるんだろう? それなら、代わりに領地経営を行って税収を上げる工夫でもすればいいのにね」
「そんな話が通じたら、苦労しないんですけどね」
アップルパイはこんなに美味しいのに、ため息しか出なかった。
ジョセフとメイシーのことが片づいても、血縁であるリリアナはそう簡単にいかない。
いまは父の命令で、リリアナが商人を呼んでも屋敷に入れないようになったのだけれど、このままいつまでも大人しくしているとも思えない。
それにリリアナの散財に気づいた父が動き出しても、失われたお金はほとんど戻らなかった。父がトルハインツの屋敷に踏み入る前に、買いこんだ宝石は綺麗に隠されており、どれだけ邸内を探しても見つけられなかったのだ。
隠し財産を作るにはまだ若すぎるだろうに。
隠しようがないほど部屋を占拠するドレスはごっそり売り払ったけれど、それだけでは先行きの不安は拭えなかった。
それで私が興した事業というのが、リンゼンハイム家の領地トルハインツの特産物を扱うお店。領地の経済も回せるし、我が家も利益が得られるし、一石二鳥だ。
ただし、田舎を蔑む王都の貴族たちはそこで作られた食べ物すら受け付けないから、イメージ戦略が大切だった。
幸いにも、王都のお店のほとんどは王都のものを扱うのが当たり前ゆえに産地なんて明示しない。だから、わざわざトルハインツ産であることは示さなくて済んだ。
ただし長く隠すほど明るみに出た時に騒ぎになるから、信頼が築けた人からトルハインツ産なのだと明かしていき、少しずつ受け入れられるようにしていこうと考えている。
やっと軌道にのり、いまはほとんど支配人に店を任せているけれど、そういう理由もあって定期的に様子を見に行っている。
「本当にロゼ嬢は真面目だよねえ。そんなものは本人に穴埋めをさせればいいのに、自分でお店を起ち上げてしまうとは」
「ただ腹立ちを原動力に変えているだけですよ。どうせ動かぬ石にどれだけ労力をかけても無駄骨です。それよりも、継続して収益が入ってくる路を整えたほうが建設的ですし、家全体のためにも、自分自身のためにもなりますから」
「そこまで現実が見えているのに、腐らずまっすぐに動くだろう? そういうところがすごいと思うよ」
「腐っても自分に利益はありませんし、なにも解決はしませんから……と、わたしも思います」
うっかり自分のことのように話してしまい、慌てて言い足す。ごまかすように足をぶらりとさせれば、地面は遥か遠く心許ない。
感心するように言われてしまうとむずがゆいものがあった。
別に褒められるようなことではない。
うまくストレスも解消できずに体が縮むなんて非現実的な事態を招いてしまうし、こうしてユアン様やエリーゼ様にさんざん愚痴を聞いてもらったりして、なんとかやれているのだ。
「で。姉君が変わりないということは、今回は誰にどう振り回されたのかな?」
そう言ってユアン様は面白そうに頬杖をつき、私の目を覗き込む。
「ちょっとわくわくしてません?」
「今日はいつにも増して饒舌だし、ため息も多いだろう。相当のことがあったんだろうなと思ってね」
ご明察である。
「婚約破棄ですよ」
投げやりにそう答えると、ユアン様は驚いたように目を見開いた。
「なにがどうなって、そうなったんだい?」
少し動揺した様子で聞き返されて、はっとした。
まだ子供のルーシェが婚約破棄をされたなどというのは不自然だ。慌てて再び口を開く。
「わたしの話ではありません、いつものロゼの話です」
「完璧と称されるロゼ嬢が? 普通、彼女を自ら逃す婚約者なんていないだろう」
「その完璧さが彼にとっては欠点だったようですよ」
「そんな馬鹿な!」
それが本当のことなのである。
「隣にいるのが窮屈だとか。君のような完璧すぎる女と結婚したがる男なんていないだろうからこれから婚活に苦労するだろうが、それでも自分は新しい恋人を支えたい、というようなことを言っていたそうです」
「そうか、馬鹿なんだな……」
やや呆然としていたユアン様が納得したように呟いた。
その様子がおかしくて、その言葉が嬉しくて、思わず笑ってしまう。
人がこれまでしてきた努力の結果を欠点のように言われて少々腹が立っていたから、気が晴れる。
「最初はロゼ嬢をまともな教育を受けていない田舎者と見下していたくせに、努力をしたら今度は完璧すぎて自分が見劣りするようになったから苦痛だと? まったくもって彼には宝の持ち腐れだね。彼は一生幸せにはなれないよ。自分がなにを求めているのかもわからず、自分が何者かもわかっていない。その上自分はなにもしていないのに、他人を批判することで一端の人間になったつもりでいるのだから」
その口調は硬い。ユアン様も若くして騎士団長を務めるくらいに努力をしてきた人だから、それを否定するような言葉に腹が立つのだろう。
しかしふっと笑みを浮かべると、口調を改めて椅子にもたれた。
「しかし、虫よけとしてちょうどいいかと思っていたけれど、自らこんな流れを用意してくれるとは感謝しきりだよ。おかげで手間が省けた」
虫よけ? 手間?
なんの話だろうと思ったけれど、ユアン様はなぜかとても楽しそうに笑みを浮かべていていつになく饒舌だったから、小さな疑問は流れてしまった。
「彼にはずいぶん入れ込んでいる相手がいるらしいと噂で聞いたけれど、どうやら本当だったようだね。目の前にロゼ嬢のような人がいるのに、よくよそ見なんてできたものだ」
「彼女を守ってあげたいのだそうですよ。そしてロゼにはそういう隙がないから、彼にとって『いい婚約者』ではないのだろうと、以前エリ……、王女様もおっしゃっていました」
危うくエリーゼ様の名前を出しかけて、言い直す。ロゼならぬルーシェの身としても、王女の話し相手に呼ばれて城へ来ているのだと話しているけれど、年の離れたエリーゼ様では不自然なので、第四王女様の相手ということにしているからだ。
メイシーとジョセフに関する噂を聞いた時エリーゼ様は、『男とは庇護欲をそそられる相手を好きになるものなのよ。まあ彼の場合は単なる逃げでしょうけれど』とも言っていた。
リリアナは病弱だから守ってあげたい。メイシーは一人では生きていけないから守ってあげたい。ジョセフが好きになった相手を思い浮かべると、なるほどと思う。
私はそんな弱点のような『隙』があるのなら、極力潰したい。誰かに頼って生きなければならないのは窮屈だ。性に合わない。
ユアン様は、「わかってないなあ」と楽しそうに笑った。
「そんな誰にでも見えるようにさらけ出している隙なんて、私は魅力には感じないけどね。どんなに完璧に見えても、仮面を被っていても、好きになると隙は見えてくるものだし、自分にだけそれを見せてくれるから嬉しい。私はそう思うな」
「本当に完璧な人間なんていませんしね」
「そう。だから人は支え合って生きるんだよ」
その言葉に、私はどこか救われた気持ちになった。
これまで私を助けてくれる人はいなかったから、自分のことは自分でなんとかしなければと思い生きてきた。
だから必死に勉強し、必死に淑女の仮面を作り上げたけれど、中身はいつまでも野山を駆け回っていた頃のまま。本当の完璧になんてなれるわけがない。
けれど、完璧でなくても、すべて自分でどうにかできなくてもいいのなら。
婚約者がジョセフのような人間だったからなにも求めていなかったけれど、もし自分で相手を選べるのなら、ユアン様が言うように、お互いに支え合える人と結婚できたらいい。心が通じ合えたらなおいいけれど、そんな人が都合よく現れはしないだろう。
そんなことを考えてぼんやりしていると、ユアン様が「それで、その婚約の解消は決定したのかな?」と話を戻した。
「いえ、まだです。彼の様子ではロガート伯爵の許しを得ていないでしょうから。ただ、乗り気ではなかった父――いえ、叔父にロゼから手紙を出したそうなので、くつがえることはないでしょうね」
相手から言い出したことで、しかも浮気が原因だと知ればこれ幸いとさっさと解消手続きをしてくれるに違いない。ロガート伯爵とて息子のしでかしたことなのだから受け入れるほかはないはず。
「そう。彼が愚かな男で本当によかったよ」
ユアン様のそれはそれは楽しそうな笑みを見ながら、小さな手で思わず目をこすってしまった。とても瞼が重い。
「眠くなったかな?」
「はい、申し訳ありません。そろそろお暇させていただきます」
さくさくのアップルパイでお腹が満たされたせいだけではない。
実は私は、長く人と喋っていると眠くなってしまうのだ。もちろん、アップルパイに薬が盛られていたとかそういうことでもなくて、相手が誰でも、どんな場所でも、いつもそう。
おそらく、人付き合いに慣れない私は疲れやすいのだと思う。子供の体だからなおさらかもしれない。
ユアン様と話すのはとても楽しくて、その分たくさん喋ってしまうせいもあるだろう。
相手がユアン様だとどこか気が緩んでしまう。しっかりしなくてはと自分を戒めてみても、だんだん瞼を持ち上げられなくなっていく。
慌てて椅子から飛び降り、退室の礼を取ろうとしたけれど、あっという間にひょいっと抱きかかえられていた。
「子供が遠慮するものではないよ。王女との約束の時間になったら起こしてあげるから、少し休むといい」
「そんなわけにはまいりません」
「疲れているから眠くなる。眠いから寝る。シンプルな話だろう?」
「ですが――」
なお言い募ろうとしたけれど、ユアン様は私をソファにそっと寝かせた。
「疲れている子供をこんなだだっ広い城の中に放り出したら、部下たちから冷たい上司だと思われてしまうだろう? 気が咎めるなら、『優しい騎士団長』という印象向上に一役買ってくれていると思えばいい」
なにか言おうとしても、言葉はもごもごと口の中に沈んでいく。横になってしまえばもはや眠気には抗えない。
いつもいつも、ユアン様は私に甘い。
だから、つい私もユアン様に甘えたくなってしまう。
そんな風に思える人は、私にとってただ一人だった。
優しく頭を撫でながら声をかけられ、はっとして目覚めると、約束の時間の少し前だった。
がばりと体を起こそうとしたら、ユアン様の長い指がどすっと額に突き刺さり、ぐえっとソファに押し戻される。
「いきなり頭を起こすと危ないよ。ゆっくり起きるように」
「はい……。本当に眠ってしまい、ご迷惑をおかけしました」
「なんの迷惑もないよ。ただ子供が一人ソファで寝ているだけで、私はいつもと変わらず書類仕事をこなしていたのだから」
「ですが――」
「むしろ私は、先ほど美味しいアップルパイをいただいたからやる気に満ちているくらいだ。それに、早く仕事を片づけなければならない理由もできたしね」
急な用事でもできたのだろうか。そう言ってにっこりと笑まれれば、丁重にお礼を伝えるしかない。
「多忙な折に休ませていただき、ありがとうございました」
「送ろうか?」
「めっそうもありません」
向かう先がエリーゼ様のもとだとバレてしまう。
慌てて全力で首を振ると、ユアン様は「もっと甘えてくれればいいのに」と苦笑して見送ってくれた。
そうして私は再びエリーゼ様とのお茶へ向かったのだけれど。
「完璧すぎて婚約破棄されたなんて、さすがロゼね。本当にあなたの話は飽きないわ」
話を聞いたエリーゼ様は、思った通りそれはそれは楽しそうに微笑んだ。
整った目鼻立ちに、口元のほくろが女性でも見惚れてしまうような色気を添えている。
鮮やかな青のドレスにエリーゼ様の明るい金髪がよく映えて、他の令嬢たちとは圧倒的に存在感が違う。
こうして話していると、ただ好奇心が強い女の子のようだけれど。
「時間の問題だとは思っていたし、理由も想像していた通りではあったけれど。『完璧すぎて婚約破棄』という言葉が衝撃的でいいわ。思い出すだけでしばらくは笑っていられそう」
ユアン様もエリーゼ様も遠慮なくズバズバ言うところは同じだけれど、ただ違うのは、エリーゼ様は完全に私を面白がっているということだ。
第二王女であるエリーゼ様のほうが私よりもよほどストレスを受けていると思うのだけれど、こうしてそれを解消しているのかもしれない。
私がエリーゼ様に呼ばれてお茶をする時、部屋にはお付きの侍女シンシア様と三人だけ。
つまり、エリーゼ様が飽きるまで遠慮なくあれこれ聞かれるということ。
そんな相手に「婚約解消を突きつけられました」などと言えば面白がって根掘り葉掘り質問攻めされることはわかりきっていた。
けれど隠したところで婚約解消したことはいずれ知れ渡ることだろうし、耳の早いエリーゼ様ならなおさらだ。
後から噂を聞きつけて、黙っていたことを迫力のある笑顔で咎められるより、自ら話してしまったほうがいい。
そうして素直に聞かれるまま一通り話し終えると、エリーゼ様は満足そうに微笑んだ。
「ロガート伯爵も息子の勝手を聞いたら激怒するでしょうね。たいそうロゼを気に入っていたもの。あとは、これまで見えていなかった都合の悪い事実が見えてきた時に噂の彼女がどう立ち回るか、見ものだわ」
輝かんばかりの笑顔だ。完全にジョセフとメイシーの行く末を面白がっている。
「ロゼもよかったわね、やっとうだつの上がらない婚約者を捨てられて」
「はい。ただ、徒労感がすごいです。次の婚約者はこうならないよう慎重に選ばなければ」
「世間には、鍛えすぎて婚約破棄された令嬢もいるというわ。人の婚約事情なんて様々なのだから、また次もきっと――いえ、きっと次は大丈夫よ」
また次も楽しいことになるわ、とでも言おうとしていたのだろう。もはや平然としているエリーゼ様にツッコむ気にもならない。
「一から探さなければならないとなると少々途方に暮れてしまいます。これまで婚約者がいる身でしたから、社交界にいる異性は取引相手としか考えたことがありませんでしたし」
先ほど、ユアン様の言葉で一瞬結婚に夢を見てしまったけれど、そんな相手は身の回りにいない。となれば条件のいい相手を見つけて、そこからまた関係性を築いていかなければならないわけで。
「あら。呑気なことは言っていられないわよ。ちょうど今夜は舞踏会があるわね」
「この姿では、今日は行けませんよ」
「戻るかもしれないじゃない。戻ったら必ず出席すること。ああ、楽しみだわ。周りはロゼを放っておきはしないわよ。もちろん、子息たちがね」
「これまで声をかけられもしませんでしたよ。あっても事業の話ばかりですし」
「婚約者がいる相手にあからさまなアプローチなどできないからよ。それに、ロゼは仕事の話が終わるとさっさと切り上げてしまうのだもの」
「喋ると眠くなるので」
エリーゼ様は一瞬眉を吊り上げ、それから思い出したように笑みを浮かべた。
「面倒なら、手っ取り早く身近にいる人を結婚相手にすればいいじゃない」
「ですから、そんな人がいたら苦労はしません」
ため息まじりに返すと、エリーゼ様は「ふうん?」と面白げにお茶をすする。
身近といったら、私にとっては王都と領地トルハインツだけ。トルハインツで仲良くしていたのは、古くから別邸を管理してくれている使用人たちや、町の子供たちだ。
剣術を一緒に習っていたあの綺麗なおにいさんにはもう一度会いたいと思うけれど、そもそもどこの誰かも知らない。
王都に戻ってからは、利害関係が常につきまとう貴族社会の中で、心を許せる相手を見つけるのは難しかった。
ふとユアン様が頭に浮かんだけれど、すぐに『ナイ、ナイ』とその考えを振り払う。
ユアン様は公爵家の子息で、しかも騎士団長だ。
対してリンゼンハイム伯爵家は特に誉もないどころか、姉によって傾きかけているのだからまったく釣り合いが取れない。ユアン様には心に決めた人がいるという噂だってあるし。
そもそもユアン様が接しているのは子供のルーシェであって、ロゼではない。
「心配することはないわ。きっと、時間の問題でしょうから」
今日のお茶会は、そんなエリーゼ様の先を見通すような言葉と微笑みでお開きとなった。
疲れたけれど、話したことでどこかスッキリした。それに私のくだらないストレスもエリーゼ様が面白がって笑ってくれると、まあいいかと思える。
私の大変さなんて、王女であるエリーゼ様に比べたら小さなものなのだろうけれど。
そう思えたからか、エリーゼ様、ユアン様と話して膿を出し切ったからなのか、屋敷に帰り着いたところで私は元の姿に戻った。
これで舞踏会に出席できることになってしまった。苦手だと避けてばかりもいられないし、エリーゼ様に釘も刺されている。
諦めて着替えてから、はたと気がついた。
これまでジョセフと出席していたけれど、その婚約は解消されることになったばかりだ。
こんな時に頼める友人も身内もいないし、一人で出席するわけにはいかない。今日はやはり諦めるしかないだろう。
そう思っていた時だった。
「ロゼ様! 大変です、お客様です」
慌てた声になにごとかと部屋を出ると、自分の目が信じられないというような顔をした執事がそこに立っていた。
「お客様って、こんな突然に一体……」
「クラディス公爵家のユアン様がおいでなのです!」
「――ユアン様が⁉」
なぜ、私を訪ねてきたのか。
そう言って隣を歩くユアン様を見上げると、それはそれは嬉しそうに口元が緩んでいる。
「アップルパイ、お好きですものね。でもわかっていると思いますが、おかわりは禁止ですよ」
私も好きだけれど、淑女としてはアップルパイほど食べにくいものはない。こんな時だけは子供の姿でよかったと思う。
「いつまでも口調は硬いままだね。子供なんだから、もっと楽にしていいんだよ?」
「子供でも礼儀は礼儀ですから。それに、これでもずいぶん気楽に話させていただいていますし」
ユアン様はぴたりと足を止めると、くるりと私を振り返り、目の前にしゃがみ込んだ。
「本当にルーシェは生真面目だよね。だからいっつも眉間にそんな皺が寄ってるんだって」
言いながら、ぶすっと鋭く私の眉間を突き、ぐりぐりともみほぐす。
「……いたいです」
「だろうね」
わざとか。
「さて、じゃあ私の執務室へ行こうか」
そう言ってユアン様は、私をひょいと抱き上げた。
唐突な浮遊感に、思わず声を上げる。
「うわあ!」
元野生児でハリボテの令嬢な私は、ここでとっさに「きゃあ」は出てこない。
「うーん。ルーシェは小さいねえ、軽いねえ」
そんなことは気にもせず、ユアン様は私を片手で軽々と抱き上げたまま、執務室へ歩き出す。
ここで短い手足をジタバタさせれば服の中が見えてしまいかねない。
それでも大人しく連れ去られるわけにはいかない。恥ずかしすぎる。
「下ろしてください、ユアンさま!」
「ルーシェの小さな体で歩くより、こっちのほうが早いだろう」
ゆらゆら揺れるのが怖くて思わずしがみつくと、ユアン様がふっと笑ったのがわかった。
そんな優しい笑い方をされるときゅんとしてしまうからやめてほしい。
いつも私が子供の足と体力には広すぎる城内をてこてこと歩いてやってくるから、疲れていることに気づいているのだと思う。
言葉は辛辣だし、つまらないイタズラもよくするけれど、やっぱりその気遣いも行動も、『微笑みの貴公子』そのものだ。
その通り名は、見た目と身分を表すだけのものではないのである。
ユアン様は誰も騙してはいないし、なにも偽ってはいない。
ただ人間というものが、人を表面で判断しやすい生き物なだけなのだ。
団長用の執務室に、第二騎士団の補佐官が茶器とスイーツを運んでくれると、ユアン様は手慣れた手つきでお茶を淹れはじめる。
私がやりますと言っても、これだけは譲らない。
「ユアンさまはわたしを甘やかしすぎだと思います」
「そんなことはない。当然のことをしているまでだよ」
「お茶だけではありません。先ほどのこともです! あんな、子供のように抱き上げないでください」
「ルーシェは実際に子供なのだから、気にすることはないのに」
笑みを浮かべながらも至極真っ当というように言うから、からかっているのではなく本心からそう思っているのだとわかるけれど、それでも恥ずかしさが消えるわけではない。
ユアン様がカップにお茶を注ぐと、いい香りが立ちのぼった。
ユアン様が淹れるお茶は正直とても美味しくて、結局私は素直にカップを受け取る。
「ありがとうございます」
用意してくれたカップは、私の小さな手でも持ちやすい。それも、私にだけ『子供用』として出すのではなく、ユアン様も同じものを使っている。さもこれがこの執務室では当たり前に使うものだというように。
そんな細かい気遣いが嬉しいし、ユアン様が淹れるお茶とスイーツのいい匂いで満たされたこの空間は、とても居心地がいい。
カップを口元に運ぶと、スッキリとした、でも華やかな香りがする。
私はあまりお茶に詳しくないのだけれど、いつもスイーツに合わせたものを選んでいるようで、お茶とアップルパイを交互に口に運ぶと至福だ。
アップルパイはリンゴの酸味を残しながらも砂糖で煮詰めた甘さが口に広がり、それをお茶がスッキリと流してくれて、延々と食べ続けられそうだ。これはユアン様が食べすぎてしまうのもわかる。
「それで、あれからリリアナ嬢の様子はどうかな?」
「いまはリンゼンハイム伯爵が動いたおかげで大人しくしているようですが、それもいつまでもつやらですね」
「まさに眠れる獅子だね」
それは言い得て妙だ。
「まったく、病で臥せっているはずの人間が夜会へ行くようなドレスを何着も買い集めて、いつ着るのかと問い詰めたいところです。大量の指輪はどこに嵌めるんでしょうか」
「ドレスは家でも着られるし、指は二十本あるからね」
「普通、病弱を装って領地に引きこもったなら大人しくしてますよね」
「普通はね。普通じゃないから家を潰しかけるし、家族が苦労しているんだろう」
思わず大きなため息とともに頷く。
そんな私の愚痴の最中にも、ユアン様はくすくす笑いながらアップルパイをさくさくと優雅に切り分け、口へ運ぶ。
その顔がとろりと笑み崩れるのを見ると、餌付けしたくなる公爵家シェフの気持ちもわかる。
けれど、そのせいで家と騎士団の監視の目があるところではスイーツが食べられなくなったそうなので、両者ともお気の毒にとしか言えない。
つまり、こんなとろけた笑顔を見られるのは、いまや私くらいなわけで。独り占めである。
「領地が暇で耐えられない、綺麗で素敵なものに飢えて心を慰める必要があるとか言ってるんだろう? それなら、代わりに領地経営を行って税収を上げる工夫でもすればいいのにね」
「そんな話が通じたら、苦労しないんですけどね」
アップルパイはこんなに美味しいのに、ため息しか出なかった。
ジョセフとメイシーのことが片づいても、血縁であるリリアナはそう簡単にいかない。
いまは父の命令で、リリアナが商人を呼んでも屋敷に入れないようになったのだけれど、このままいつまでも大人しくしているとも思えない。
それにリリアナの散財に気づいた父が動き出しても、失われたお金はほとんど戻らなかった。父がトルハインツの屋敷に踏み入る前に、買いこんだ宝石は綺麗に隠されており、どれだけ邸内を探しても見つけられなかったのだ。
隠し財産を作るにはまだ若すぎるだろうに。
隠しようがないほど部屋を占拠するドレスはごっそり売り払ったけれど、それだけでは先行きの不安は拭えなかった。
それで私が興した事業というのが、リンゼンハイム家の領地トルハインツの特産物を扱うお店。領地の経済も回せるし、我が家も利益が得られるし、一石二鳥だ。
ただし、田舎を蔑む王都の貴族たちはそこで作られた食べ物すら受け付けないから、イメージ戦略が大切だった。
幸いにも、王都のお店のほとんどは王都のものを扱うのが当たり前ゆえに産地なんて明示しない。だから、わざわざトルハインツ産であることは示さなくて済んだ。
ただし長く隠すほど明るみに出た時に騒ぎになるから、信頼が築けた人からトルハインツ産なのだと明かしていき、少しずつ受け入れられるようにしていこうと考えている。
やっと軌道にのり、いまはほとんど支配人に店を任せているけれど、そういう理由もあって定期的に様子を見に行っている。
「本当にロゼ嬢は真面目だよねえ。そんなものは本人に穴埋めをさせればいいのに、自分でお店を起ち上げてしまうとは」
「ただ腹立ちを原動力に変えているだけですよ。どうせ動かぬ石にどれだけ労力をかけても無駄骨です。それよりも、継続して収益が入ってくる路を整えたほうが建設的ですし、家全体のためにも、自分自身のためにもなりますから」
「そこまで現実が見えているのに、腐らずまっすぐに動くだろう? そういうところがすごいと思うよ」
「腐っても自分に利益はありませんし、なにも解決はしませんから……と、わたしも思います」
うっかり自分のことのように話してしまい、慌てて言い足す。ごまかすように足をぶらりとさせれば、地面は遥か遠く心許ない。
感心するように言われてしまうとむずがゆいものがあった。
別に褒められるようなことではない。
うまくストレスも解消できずに体が縮むなんて非現実的な事態を招いてしまうし、こうしてユアン様やエリーゼ様にさんざん愚痴を聞いてもらったりして、なんとかやれているのだ。
「で。姉君が変わりないということは、今回は誰にどう振り回されたのかな?」
そう言ってユアン様は面白そうに頬杖をつき、私の目を覗き込む。
「ちょっとわくわくしてません?」
「今日はいつにも増して饒舌だし、ため息も多いだろう。相当のことがあったんだろうなと思ってね」
ご明察である。
「婚約破棄ですよ」
投げやりにそう答えると、ユアン様は驚いたように目を見開いた。
「なにがどうなって、そうなったんだい?」
少し動揺した様子で聞き返されて、はっとした。
まだ子供のルーシェが婚約破棄をされたなどというのは不自然だ。慌てて再び口を開く。
「わたしの話ではありません、いつものロゼの話です」
「完璧と称されるロゼ嬢が? 普通、彼女を自ら逃す婚約者なんていないだろう」
「その完璧さが彼にとっては欠点だったようですよ」
「そんな馬鹿な!」
それが本当のことなのである。
「隣にいるのが窮屈だとか。君のような完璧すぎる女と結婚したがる男なんていないだろうからこれから婚活に苦労するだろうが、それでも自分は新しい恋人を支えたい、というようなことを言っていたそうです」
「そうか、馬鹿なんだな……」
やや呆然としていたユアン様が納得したように呟いた。
その様子がおかしくて、その言葉が嬉しくて、思わず笑ってしまう。
人がこれまでしてきた努力の結果を欠点のように言われて少々腹が立っていたから、気が晴れる。
「最初はロゼ嬢をまともな教育を受けていない田舎者と見下していたくせに、努力をしたら今度は完璧すぎて自分が見劣りするようになったから苦痛だと? まったくもって彼には宝の持ち腐れだね。彼は一生幸せにはなれないよ。自分がなにを求めているのかもわからず、自分が何者かもわかっていない。その上自分はなにもしていないのに、他人を批判することで一端の人間になったつもりでいるのだから」
その口調は硬い。ユアン様も若くして騎士団長を務めるくらいに努力をしてきた人だから、それを否定するような言葉に腹が立つのだろう。
しかしふっと笑みを浮かべると、口調を改めて椅子にもたれた。
「しかし、虫よけとしてちょうどいいかと思っていたけれど、自らこんな流れを用意してくれるとは感謝しきりだよ。おかげで手間が省けた」
虫よけ? 手間?
なんの話だろうと思ったけれど、ユアン様はなぜかとても楽しそうに笑みを浮かべていていつになく饒舌だったから、小さな疑問は流れてしまった。
「彼にはずいぶん入れ込んでいる相手がいるらしいと噂で聞いたけれど、どうやら本当だったようだね。目の前にロゼ嬢のような人がいるのに、よくよそ見なんてできたものだ」
「彼女を守ってあげたいのだそうですよ。そしてロゼにはそういう隙がないから、彼にとって『いい婚約者』ではないのだろうと、以前エリ……、王女様もおっしゃっていました」
危うくエリーゼ様の名前を出しかけて、言い直す。ロゼならぬルーシェの身としても、王女の話し相手に呼ばれて城へ来ているのだと話しているけれど、年の離れたエリーゼ様では不自然なので、第四王女様の相手ということにしているからだ。
メイシーとジョセフに関する噂を聞いた時エリーゼ様は、『男とは庇護欲をそそられる相手を好きになるものなのよ。まあ彼の場合は単なる逃げでしょうけれど』とも言っていた。
リリアナは病弱だから守ってあげたい。メイシーは一人では生きていけないから守ってあげたい。ジョセフが好きになった相手を思い浮かべると、なるほどと思う。
私はそんな弱点のような『隙』があるのなら、極力潰したい。誰かに頼って生きなければならないのは窮屈だ。性に合わない。
ユアン様は、「わかってないなあ」と楽しそうに笑った。
「そんな誰にでも見えるようにさらけ出している隙なんて、私は魅力には感じないけどね。どんなに完璧に見えても、仮面を被っていても、好きになると隙は見えてくるものだし、自分にだけそれを見せてくれるから嬉しい。私はそう思うな」
「本当に完璧な人間なんていませんしね」
「そう。だから人は支え合って生きるんだよ」
その言葉に、私はどこか救われた気持ちになった。
これまで私を助けてくれる人はいなかったから、自分のことは自分でなんとかしなければと思い生きてきた。
だから必死に勉強し、必死に淑女の仮面を作り上げたけれど、中身はいつまでも野山を駆け回っていた頃のまま。本当の完璧になんてなれるわけがない。
けれど、完璧でなくても、すべて自分でどうにかできなくてもいいのなら。
婚約者がジョセフのような人間だったからなにも求めていなかったけれど、もし自分で相手を選べるのなら、ユアン様が言うように、お互いに支え合える人と結婚できたらいい。心が通じ合えたらなおいいけれど、そんな人が都合よく現れはしないだろう。
そんなことを考えてぼんやりしていると、ユアン様が「それで、その婚約の解消は決定したのかな?」と話を戻した。
「いえ、まだです。彼の様子ではロガート伯爵の許しを得ていないでしょうから。ただ、乗り気ではなかった父――いえ、叔父にロゼから手紙を出したそうなので、くつがえることはないでしょうね」
相手から言い出したことで、しかも浮気が原因だと知ればこれ幸いとさっさと解消手続きをしてくれるに違いない。ロガート伯爵とて息子のしでかしたことなのだから受け入れるほかはないはず。
「そう。彼が愚かな男で本当によかったよ」
ユアン様のそれはそれは楽しそうな笑みを見ながら、小さな手で思わず目をこすってしまった。とても瞼が重い。
「眠くなったかな?」
「はい、申し訳ありません。そろそろお暇させていただきます」
さくさくのアップルパイでお腹が満たされたせいだけではない。
実は私は、長く人と喋っていると眠くなってしまうのだ。もちろん、アップルパイに薬が盛られていたとかそういうことでもなくて、相手が誰でも、どんな場所でも、いつもそう。
おそらく、人付き合いに慣れない私は疲れやすいのだと思う。子供の体だからなおさらかもしれない。
ユアン様と話すのはとても楽しくて、その分たくさん喋ってしまうせいもあるだろう。
相手がユアン様だとどこか気が緩んでしまう。しっかりしなくてはと自分を戒めてみても、だんだん瞼を持ち上げられなくなっていく。
慌てて椅子から飛び降り、退室の礼を取ろうとしたけれど、あっという間にひょいっと抱きかかえられていた。
「子供が遠慮するものではないよ。王女との約束の時間になったら起こしてあげるから、少し休むといい」
「そんなわけにはまいりません」
「疲れているから眠くなる。眠いから寝る。シンプルな話だろう?」
「ですが――」
なお言い募ろうとしたけれど、ユアン様は私をソファにそっと寝かせた。
「疲れている子供をこんなだだっ広い城の中に放り出したら、部下たちから冷たい上司だと思われてしまうだろう? 気が咎めるなら、『優しい騎士団長』という印象向上に一役買ってくれていると思えばいい」
なにか言おうとしても、言葉はもごもごと口の中に沈んでいく。横になってしまえばもはや眠気には抗えない。
いつもいつも、ユアン様は私に甘い。
だから、つい私もユアン様に甘えたくなってしまう。
そんな風に思える人は、私にとってただ一人だった。
優しく頭を撫でながら声をかけられ、はっとして目覚めると、約束の時間の少し前だった。
がばりと体を起こそうとしたら、ユアン様の長い指がどすっと額に突き刺さり、ぐえっとソファに押し戻される。
「いきなり頭を起こすと危ないよ。ゆっくり起きるように」
「はい……。本当に眠ってしまい、ご迷惑をおかけしました」
「なんの迷惑もないよ。ただ子供が一人ソファで寝ているだけで、私はいつもと変わらず書類仕事をこなしていたのだから」
「ですが――」
「むしろ私は、先ほど美味しいアップルパイをいただいたからやる気に満ちているくらいだ。それに、早く仕事を片づけなければならない理由もできたしね」
急な用事でもできたのだろうか。そう言ってにっこりと笑まれれば、丁重にお礼を伝えるしかない。
「多忙な折に休ませていただき、ありがとうございました」
「送ろうか?」
「めっそうもありません」
向かう先がエリーゼ様のもとだとバレてしまう。
慌てて全力で首を振ると、ユアン様は「もっと甘えてくれればいいのに」と苦笑して見送ってくれた。
そうして私は再びエリーゼ様とのお茶へ向かったのだけれど。
「完璧すぎて婚約破棄されたなんて、さすがロゼね。本当にあなたの話は飽きないわ」
話を聞いたエリーゼ様は、思った通りそれはそれは楽しそうに微笑んだ。
整った目鼻立ちに、口元のほくろが女性でも見惚れてしまうような色気を添えている。
鮮やかな青のドレスにエリーゼ様の明るい金髪がよく映えて、他の令嬢たちとは圧倒的に存在感が違う。
こうして話していると、ただ好奇心が強い女の子のようだけれど。
「時間の問題だとは思っていたし、理由も想像していた通りではあったけれど。『完璧すぎて婚約破棄』という言葉が衝撃的でいいわ。思い出すだけでしばらくは笑っていられそう」
ユアン様もエリーゼ様も遠慮なくズバズバ言うところは同じだけれど、ただ違うのは、エリーゼ様は完全に私を面白がっているということだ。
第二王女であるエリーゼ様のほうが私よりもよほどストレスを受けていると思うのだけれど、こうしてそれを解消しているのかもしれない。
私がエリーゼ様に呼ばれてお茶をする時、部屋にはお付きの侍女シンシア様と三人だけ。
つまり、エリーゼ様が飽きるまで遠慮なくあれこれ聞かれるということ。
そんな相手に「婚約解消を突きつけられました」などと言えば面白がって根掘り葉掘り質問攻めされることはわかりきっていた。
けれど隠したところで婚約解消したことはいずれ知れ渡ることだろうし、耳の早いエリーゼ様ならなおさらだ。
後から噂を聞きつけて、黙っていたことを迫力のある笑顔で咎められるより、自ら話してしまったほうがいい。
そうして素直に聞かれるまま一通り話し終えると、エリーゼ様は満足そうに微笑んだ。
「ロガート伯爵も息子の勝手を聞いたら激怒するでしょうね。たいそうロゼを気に入っていたもの。あとは、これまで見えていなかった都合の悪い事実が見えてきた時に噂の彼女がどう立ち回るか、見ものだわ」
輝かんばかりの笑顔だ。完全にジョセフとメイシーの行く末を面白がっている。
「ロゼもよかったわね、やっとうだつの上がらない婚約者を捨てられて」
「はい。ただ、徒労感がすごいです。次の婚約者はこうならないよう慎重に選ばなければ」
「世間には、鍛えすぎて婚約破棄された令嬢もいるというわ。人の婚約事情なんて様々なのだから、また次もきっと――いえ、きっと次は大丈夫よ」
また次も楽しいことになるわ、とでも言おうとしていたのだろう。もはや平然としているエリーゼ様にツッコむ気にもならない。
「一から探さなければならないとなると少々途方に暮れてしまいます。これまで婚約者がいる身でしたから、社交界にいる異性は取引相手としか考えたことがありませんでしたし」
先ほど、ユアン様の言葉で一瞬結婚に夢を見てしまったけれど、そんな相手は身の回りにいない。となれば条件のいい相手を見つけて、そこからまた関係性を築いていかなければならないわけで。
「あら。呑気なことは言っていられないわよ。ちょうど今夜は舞踏会があるわね」
「この姿では、今日は行けませんよ」
「戻るかもしれないじゃない。戻ったら必ず出席すること。ああ、楽しみだわ。周りはロゼを放っておきはしないわよ。もちろん、子息たちがね」
「これまで声をかけられもしませんでしたよ。あっても事業の話ばかりですし」
「婚約者がいる相手にあからさまなアプローチなどできないからよ。それに、ロゼは仕事の話が終わるとさっさと切り上げてしまうのだもの」
「喋ると眠くなるので」
エリーゼ様は一瞬眉を吊り上げ、それから思い出したように笑みを浮かべた。
「面倒なら、手っ取り早く身近にいる人を結婚相手にすればいいじゃない」
「ですから、そんな人がいたら苦労はしません」
ため息まじりに返すと、エリーゼ様は「ふうん?」と面白げにお茶をすする。
身近といったら、私にとっては王都と領地トルハインツだけ。トルハインツで仲良くしていたのは、古くから別邸を管理してくれている使用人たちや、町の子供たちだ。
剣術を一緒に習っていたあの綺麗なおにいさんにはもう一度会いたいと思うけれど、そもそもどこの誰かも知らない。
王都に戻ってからは、利害関係が常につきまとう貴族社会の中で、心を許せる相手を見つけるのは難しかった。
ふとユアン様が頭に浮かんだけれど、すぐに『ナイ、ナイ』とその考えを振り払う。
ユアン様は公爵家の子息で、しかも騎士団長だ。
対してリンゼンハイム伯爵家は特に誉もないどころか、姉によって傾きかけているのだからまったく釣り合いが取れない。ユアン様には心に決めた人がいるという噂だってあるし。
そもそもユアン様が接しているのは子供のルーシェであって、ロゼではない。
「心配することはないわ。きっと、時間の問題でしょうから」
今日のお茶会は、そんなエリーゼ様の先を見通すような言葉と微笑みでお開きとなった。
疲れたけれど、話したことでどこかスッキリした。それに私のくだらないストレスもエリーゼ様が面白がって笑ってくれると、まあいいかと思える。
私の大変さなんて、王女であるエリーゼ様に比べたら小さなものなのだろうけれど。
そう思えたからか、エリーゼ様、ユアン様と話して膿を出し切ったからなのか、屋敷に帰り着いたところで私は元の姿に戻った。
これで舞踏会に出席できることになってしまった。苦手だと避けてばかりもいられないし、エリーゼ様に釘も刺されている。
諦めて着替えてから、はたと気がついた。
これまでジョセフと出席していたけれど、その婚約は解消されることになったばかりだ。
こんな時に頼める友人も身内もいないし、一人で出席するわけにはいかない。今日はやはり諦めるしかないだろう。
そう思っていた時だった。
「ロゼ様! 大変です、お客様です」
慌てた声になにごとかと部屋を出ると、自分の目が信じられないというような顔をした執事がそこに立っていた。
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「――ユアン様が⁉」
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