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1巻

1-2

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 翌朝目覚めると、全身がむずむずとかゆかった。
 これはまずい。あの前兆だ。
 頭痛の種から解放されてスッキリしたと思っていたけれど、それでも心身ともに疲れはあったのだろう。
 なのに、今日は城に行かねばならない。年の近い第二王女エリーゼ様の話し相手として、定期的に城へ呼ばれているからだ。
 せめて明日だったらよかったのに。
 タイミングの悪さに、ため息を吐き出す。
 ――もう少し、もってくれるといいけれど。
 おそらく今日のうちには起こるだろう。
 自分の体なのに、いくら努力をしてもこればかりはどうにもならなかった。
 いや、努力をすればするほど、悪循環におちいっていくのだ。
 そうはわかっていても、頭痛の種たちが私に絶えずストレスを送ってくるのだから、いかんともしがたい。
 疲れた体を引きずってなんとか無事に王宮に入ったのだけれど、運の悪いことに令嬢方の一群に出くわしてしまった。
 リーナ様とサンドラ様の一派だ。

「あら、ロゼ様ごきげんよう。本日もエリーゼ様とお茶にいらしたのですか?」

 すでに無意識にかいてしまいそうなほどにかゆみが強くなっている。時間がない。
 早く人目のないところに行かねばならないのに。
 焦りを押し隠し、『完璧な淑女』の仮面をしっかり被り直してから、声をかけてくれたサンドラ様に笑顔を向ける。

「ええ、これからお伺いするところですの」
「王女様の信頼もあついだなんて、さすがロゼ様ですわ。今日のドレスも素敵ですし」
「ありがとうございます。皆様はどちらへ行かれるところだったのですか?」

 矛先ほこさきを私からズラそうと話を向ければ、いつもは堂々としたお姉様風なサンドラ様が、珍しく恥ずかしそうに頬を染めた。

「第一騎士団の修練場に見学に行ってまいりましたの」

 代わりに隣のリーナ様がおうぎで口元を隠しながらそっと教えてくれた。なるほど、と察する。

「第一騎士団というと……ジーク騎士団長、ですか?」
「は、はい! あのしいお姿を一目見たいと……」

 サンドラ様をはじめとして、皆様一様に頬をぽっと染めて恥ずかしがるのがかわいらしい。

「私は婚約者がおりますので、そういった対象ではないのですけれど、やはり見ているだけで、その、目にうるおいがあると言いますか……」

 言い訳をするように恥じらうリーナ様に微笑んで、「わかりますわ」と一つ頷く。

「ジーク騎士団長は騎士団一の強さと言われていますし、筋肉も隆々としていますものね」
「ロゼ様、わかってくださいます⁉ そうなんですの! いえ、お顔だけでしたら第二騎士団長のユアン様のほうが整っていらっしゃいますし、『微笑みの貴公子』の通り名の通り素敵な方なのですけれども、ユアン様は、その……」
「いえ、ユアン様は心に決めた方がいらっしゃるという噂もありますし、ね……」

 リーナ様は言いかけて言葉をにごし、サンドラ様も曖昧な笑みを浮かべたけれど、言わんとしていることはわかる。
 筋骨隆々、もくで生真面目な第一騎士団長ジーク様と対をなしてよく語られるのが第二騎士団長のユアン=クラディス様。史上最年少で騎士団長の任に就いた実力の持ちぬしだ。
 加えて『微笑みの貴公子』と呼ばれている通り、整った顔に笑顔を浮かべれば令嬢方がふらりとよろめくほどのうるわしさな上に、公爵家次男という文字通りの貴公子。だというのに、とある理由から令嬢方の憧れの対象にならないでいる。
 サンドラ様はいらぬ話をしてしまったというように軽く咳払いをすると、話を切り上げた。

「エリーゼ様のところへ向かうところでしたのに、お引き止めしてしまい申し訳ありません」
「いえ、また今度、ゆっくりお話しさせてくださいませ」

 令嬢方と挨拶あいさつを交わし合い、解放されたことにほっとしながらも、胸中で一人、ぽつりとつぶやく。
 ――ユアン様のほうが格好いいのに。誰も本当のユアン様を知ろうとはしないのね。
 おかげで第二騎士団の修練場はいつもガラ空きだから、私にとっては助かるのだけれど。
 急ぎエリーゼ様のもとへ足を向けるが、かゆみはいつの間にかかきむしりたいほどに強まっている。
 私は淑女らしさをかなぐり捨てぬよう注意を払いながら、少しずつ足を速めた。
 ――まずい、まずい、まずい!
 かゆみを我慢しながらひたすら足を動かし、やっと目的の部屋に辿り着くと、侍女のシンシア様が迎え入れてくれた。

「ロゼ様、どうぞこちらでお待ちください」
「シンシア様、まずいです。早く扉を――」

 部屋に通され、なにごとかを察したシンシア様が素早く扉を閉めた瞬間。
 思わず肌を擦ってしまいたいほどむずむずしていた体から、突然かゆみが消えた。

「――あ」

 小さなつぶやきがれるのとともに、驚いたようなシンシア様の顔が消える。
 いや、そうではない。私の視界ががくんと下がったのだ。
 いま私の目の前に見えるのは、シンシア様の紺色のスカート。先ほどまで着ていたドレスが肩にぶら下がっていて、いまはとても重い。
 シンシア様は動じることなく、「あらあら」と頬に手を当てる。

「ロゼ様。なにか大変なことがおありだったのですね?」
「ええ、昨日抱えていた面倒ごとが片づいて大変スッキリしたのですが、徒労感もその倍でして。いままでの苦労はなんだったのかと思ってしまったら、もうダメでした」
「なるほど。なんとなくお察ししました」
「エリーゼ様がいらしたら根掘り葉掘り聞かれるかと思いますので、その時にお話ししますわ」
「そのおかわいらしい姿ではなにかあったことが一目瞭然いちもくりょうぜんですから、ご覚悟なさったほうがよろしいでしょうね」

 そう。いまの私は七歳くらいの子供に縮んでいるのだ。
 初めてこんなことが起きたのは、いまから一年半ほど前。
 その時は確か、リリアナの散財で家の財政が大変なことになっているのが発覚して、立て直すべく商売をやろうと一念発起したものの、店を建てるための資材を買い付けたら資金を持ち逃げされ、ジョセフやメイシーは相変わらず面倒で、あれこれ重なって「もう嫌だ! 子供の頃に戻りたい!」と痛烈に思うくらいに疲労感が溜まっていて。
 なんだか全身がかゆくてむずむずするのを、疲労のせいだと思い我慢しているうちに、突然子供の姿に変わっていたのだ。
 居合わせた侍女と二人で頭を突き合わせても、どうしたらいいかわからないまま一日が経ち、医者を呼んだところで姿が戻った。
 おかげで『子供の姿に変化した』なんて荒唐無稽こうとうむけいな話を信じてもらえて、何度か問診を繰り返し、原因はストレスや疲労だろうということになった。
 心身のエネルギーを過剰に消耗しょうもうしたことで、体が消費を抑えようと子供の体に縮むのではないか、と。
 その理屈には頷きがたいものがあったけれど、魔法や呪いの類であると言われるよりはよほど信憑性しんぴょうせいがある。大昔にはそんなものがあったという言い伝えもあるけれど、確かな記述は一切残っていないから。
 それに、ストレスと言われれば納得せざるを得ない部分もある。
 私は野山を駆け回っていただけあって体力に自信はあったけど、のびのび育ったおかげでストレスには弱いのだ。
 特に頭痛の種であるあの三人のような価値観の違いすぎる人間といると、話の通じなさに無力感を覚えるし、努力は簡単に水の泡にされるし、とかく振り回され、心身ともにぐったりする。
 ただでさえ店の経営や当主代理としての仕事で多忙だったし、常日頃からストレスが溜まっている自覚もあった。
 それになにより、子供の姿に変わるのを繰り返すうち、ストレスが薄れていくと体が元に戻るということもわかったから、納得はできる。
 ただ原因がわかったところで、自由に駆け回れる野山はなく、せめて庭で無心に草取りでもと思っても、仕事熱心な庭師が根こそぎ抜いている。
 この王都では私がストレス解消する方法など見つからず、姿が元に戻るには、ただ時間が解決してくれるのを待つしかなかった。
 このことを知っているのは父と屋敷の一部の使用人、それからエリーゼ様とシンシア様だけ。
 エリーゼ様はこんな私の体質を気味悪がるどころか、ただ一人面白がっている。
 それは受け入れてくれたということでもあり嬉しかったけれど、出かけた先で姿が変わってしまうかもしれないと思うと外出が不安だった。
 だから今後はお茶会を辞したいと伝えたところ、エリーゼ様は言ったのだ。

『リスクがあるからと閉じこもってばかりいては、ストレスは溜まる一方よ。それよりも安全な場所を増やして、安心できる相手を増やして、居心地よく過ごすほうがよほど建設的でしょう?』

 ぐうの音も出ないほどの正論だった。
 それにその言葉通り、エリーゼ様は城内で私が駆け込める場所をいくつか教えてくれた。
 困った時はシンシア様を呼ぶようにとまで言ってくれて、現にこうして助けてもらっている。
 そこまでされて引きこもるわけにはいかない。
 そうして城に通って話をするうち、それがストレス解消となり、元の姿に戻りやすくなったから、エリーゼ様には感謝している。面白がられているのもやっぱり事実だけれど。
 さらにシンシア様はシンシア様で、私が子供の姿になるのを楽しみにしている節がある。

「ロゼ様、まずはお着替えをお手伝いいたしましょう」

 キラキラと目を輝かせたシンシア様にそう声をかけられ、私は慌てて「いえ、こちらを脱ぐだけで済みますので」と笑みを返した。
 シンシア様は子供の姿となった私を着せ替え人形にして遊ぶのが大好きなのだ。
 とってもでてくださっているのはわかるのだけれど、中身は十七歳だからあまりに子供扱いされるのは辛いものがある。
 そもそもシンシア様は侯爵家の三女で、エリーゼ様のお付きの侍女だ。手をわずらわせるわけにはいかない。

「そうですか?」

 残念そうなシンシア様を横目に、私はぶかぶかになって脱げ落ちたドレスの中から、よいしょと短い足を持ち上げて抜け出した。
 中にはシンプルでストンとした短いドレスを重ね着しているから、着替えと言ってもそれだけで終わりなのだ。
 脱げたドレスも子供の力で持ち運びできるよう、見た目は華やかながらも軽い素材で、畳んで袋に収納できるようになっている。

「器用なものですわね。あまりにおかわいらしい姿なので、つい手助けしてさしあげたくなってしまいますけれど」
「短い手足でも、慣れると大抵のことはできるのです。中身まで子供になったわけではありませんから」

 脱げたドレスを小さな手でなんとかまとめたところで、ドアがノックされる。エリーゼ様の用事が長引いているため、二時間ほど待ってほしいという言伝ことづてのようだ。
 相変わらずエリーゼ様は多忙だ。

「城内を散策されますか? こちらでお待ちいただくのであれば、私が退屈しのぎにお付き合いいたしますが」

 シンシア様はどこかわくわくした期待の目で見ているけれど、私は「では、少々出て参ります」と笑顔でやんわり断る。

「残念ですわ。またお時間のある時に、私とも遊んでくださいませ」

 私はごり惜しそうなシンシア様の視線を感じながらも、そそくさと部屋を出た。


 さて、ぽっかりと時間が空いてしまったけれど、そんな時にいつも行く場所がある。第二騎士団の修練場だ。
 小さな歩幅でぽてぽてと歩いていると時折迷子と間違えられるから、目的を持って歩いているとわかるように堂々とした顔をしていなければならない。
 今日も、「ちょっとそこまで」という顔でなにげなさを装い、なんとか誰にも止められずに目的地――第二騎士団の修練場へ辿り着く。
 修練場は試合も行われる場所で、周囲にはぐるりと観客席がしつらえてあった。
 試合がない時は見学自由なのだが、今日もそこには誰もいない。
 私は一番前の特等席によじ登るようにして座り、修練場に巻き起こる砂埃すなぼこりの中心に目を向けた。
 そこにいるのは、スラリとした長身で長い金髪を一つに束ね、涼やかに木剣を振るう一人の騎士。
 今日も第二騎士団長であるユアン=クラディス様は『微笑みの貴公子』の通り名にたがわず、切れ長の紺色の瞳にうるわしい笑みを浮かべている。たとえ、そこに数人の騎士が剣を構えて突進していたとしても。

「うわあぁぁぁ!」
「せいやあ――!」

 勇ましい掛け声の中に、ユアン様の涼やかな笑い声が響く。

「ははははは、勇ましいのは掛け声だけだね。脇がガラ空きだし、踏み出す足に全然力が載っていないよ。もうへばったのかい?」
「う、うらあぁぁぁ!」

 図星を指されたらしい騎士がふんしたように飛びかかるが、一瞬で横に吹っ飛ぶ。

「武器が剣だけだと思うなと、いつも言っているだろう?」

 繰り出されたのはその長い足による華麗な蹴り。
 他の男たちはあっけなく散った同胞にちらりと目をやると、ごくりと唾を呑み込み、覚悟を決めたように続く。
 だが次々と軽く剣でいなされ、息も切れ切れになっていく。
 ユアン様だけがいつまでも一人涼しい笑顔のまま。

「あっけないねえ。もう終わりかな? それじゃあ腕立て伏せとスクワットをそれぞれ三十回十セット、最後は柔軟体操もしておくように。しかばね相手にこれ以上やっても意味がないからね」

 変わらぬ笑顔でさらりと辛辣しんらつなことを言う。

「お……鬼……」

 ぽつりとれ聞こえたつぶやきにも、ユアン様はにっこりと笑顔を向けるだけ。
 そう。令嬢たちがユアン様に群がらない理由は、これだ。
 その笑顔は確かにうるわしいが、涼やかな口元からこぼれる言葉には容赦ようしゃのないトゲが含まれている。
『毒舌』『腹黒』、それが令嬢たちのユアン様への評価だった。
 しかし私は知っている。その毒舌だとか腹黒だとか言われているのは誤解で、ユアン様はいつでもどこでも誰にでも、ただ正直なだけなのだ。
 そして大抵のことを楽しんでいるから、いつも笑顔なだけ。
 よく見れば、その笑みにも種類があるし、さまざまな感情が表れている。
 とはいえ、私も最初はユアン様の笑顔をうさんくさいと思っていたのだけれど。
 訓練を終えてスタスタと扉のほうへ歩いていくユアン様を追いかけるため、私は椅子からぴょいっと飛び降りた。気配を感じたのかユアン様は振り返ると、嬉しそうな笑顔でひらひらと手を振り、口をぱくぱくと動かした。

『待ってて』

 そうして互いに修練場の出口へ向かい、落ち合う。
 けれど彼と会うのは私であって、私ではない。

「お待たせ、。今日も時間があるなら、一緒にお茶をしないかい?」
「はい、ぜひ」

 私が笑顔で答えると、ユアン様は嬉しそうに「今日はアップルパイがあるよ」と笑った。


 こうして私が子供の姿で『ルーシェ』としてユアン様に会うようになったのは、一年ほど前から。
 きっかけは、父にこの体質を相談したことだ。
 初めて子供の姿になってから、それが一度ならず二度三度と断続的に起こることがわかり、私は意を決して父に打ち明けることにした。
 だが父は、子供の姿の私を『ロゼ』だと信じなかった。
 必死に説明し、侍女たちも間違いなく真実だと口添えしてくれたけれど、イタズラだと決めつけるばかりでまともに取り合わず、私を追い出そうとした。
 父とは子供時代をほとんどともに過ごしていないのだから無理もないけれど、どこからどう見ても幼かった頃の娘の姿だろうに。
 結局、姿が変わるところをの当たりにさせて無理矢理信じてもらったのだが、すると父は予想外の行動に出た。
 見た目は子供で中身は大人な私を、利用することにしたのだ。
 父は子供の姿になった私をパーティに連れていき、動向を探りたい一団の近くに一人置き去りにした。子供の姿なら警戒されないからと、スパイにしたのである。
 鬼畜か。
 転んでもただでは起きないところが私の父であり、人の心中などおかまいなしなところがリリアナの父だなと思った。
 けれどいざ会場に入ってしまえば、案外誰にも怪しまれることはなかった。『社交』のために参加している大人にとって、子供なんて視野に入らないのだろう。
 だがざわついた中で、しかも自分の背よりはるか高いところで交わされるおじさんたちの会話などロクに耳に入るわけがない。私は早々に任務を放棄し、食いに走った。
 パーティとなると体型を気にする淑女たちのために、必ずティルニーという葉野菜などを使ったサラダが器に盛られていて、令嬢たちが退屈しのぎと空腹をごまかすために食べるのだけれど、そんなものでお茶をにごす私ではない。
 目と同じくらいの高さのテーブルに並ぶスイーツにうんしょと手を伸ばし、端から口にがふがふと突っ込んだ。
 そんなところに声をかけてくれたのが、ユアン様だった。

「君は不思議だね。こんなしいスイーツを口にして笑顔にならずにいられるなんて」

 じっと顔を覗き込み、本当に不思議そうな顔をされて、私は思わず考え込んでしまった。いまのは嫌味だろうか。それともただの疑問だろうか。
 彼が微笑みの貴公子と呼ばれる第二騎士団長でクラディス公爵家のユアン様だとすぐにわかり、なおさら悩んだ。常々彼をうさんくさいと思っていたから。
 とはいえ、相手は公爵家の人間だ。ここは無難にやりすごそうと、態度を淑女らしく改めて向かい合った。

「これはお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。実は、あまりにも腹立たしいことがあったものですから。食べ物に罪はないというのに、作ってくださった方にも失礼をしてしまいました」

 言ってから気がついた。いまは子供の姿なのだ。あまり大人ぶった話し方をしては怪しまれる。
 はっとして、どうしようと固まったけれど、ユアン様は気にするそぶりもない。それどころか、心底疑問というように首をかしげた。

「ふうん。甘いスイーツを食べながら別のことを考えられるなんて、器用だね。私だったらいま食べているスイーツのことか、次にどのスイーツを食べようかくらいのことしか考えないな。一体なぜそんなに腹を立てているんだい?」

 とにかくユアン様がスイーツ好きなことはよくわかったけれど、うながされるまま真実を話すわけにはいかない。父の鬼の所業を洗いざらい話せば、この体のことに触れざるを得ないのだから。
 実の親ですら信じないのだから、他人ならなおさらだ。話してみたところで、また一笑に付されるに決まっている。
 なんと返せばいいか迷っていると、ユアン様は「それなら代わりに楽しい話を聞こうじゃないか」とにっこり微笑んだ。

愚痴ぐちを吐くのはストレス解消になるけれど、逆のことを考えるのも手の一つ。スイーツをしく食べるなら、そっちのほうがいいしね」

 楽しい話と言われても急には出てこない。王都に来てからの日々はひたすら教育を受けたり足場固めに奔走ほんそうしたりするばかりで、楽しいことなどないに等しかったし。
 仕方がなくトルハインツでの思い出話をしてみると、ユアン様は公爵家次男なのに「懐かしい気持ちになるね」と微笑みながら話を聞いてくれた。トルハインツのことを田舎と馬鹿にしたり、私をさげすんだりすることもなかった。
 それでだんだん調子に乗り、どうせいまの私はロゼではないのだし、と素が出てくるのに任せて、いつもメイシーが私の物を欲しがる話だとか、わがままな姉の話をした。

「ははは、人の物を奪って手っ取り早く幸せになれると思うところが短絡的だよね。しょせん人から奪ったものなんて、それだけの価値しかないのに。むしろ、奪ったことで価値が下がるんだってそろそろ気づかないのかな?」
「自分のを押し通して周りを振り回す人の視野ってどうなっているんだろうね。馬くらい視野が広ければまともな行動がとれるのかな。まあ、他人なんてどうでもいいと思ってるんだろうから無意味か」

 などなど、にこやかなユアン様の口から次々と辛辣しんらつな言葉が出てきて、私はつい笑ってしまった。
『毒舌』『腹黒』と恐れられる『微笑みの貴公子』と聞いていたから、てっきり温和な仮面に本性を隠しているような人なのかと思ったけれど、笑顔も毒も、そのままこの人なのだ。
 最後に名を聞かれて、とっさに従姉妹いとこのルーシェの名を借りた。
 完璧な淑女として名の知れたロゼ=リンゼンハイムの名を語ったところで、笑われるだけだから。

「どこかで会ったことがある気がしたんだけれど。こんな小さな知り合いはいないし、人違いだったようだね」

 そう言われてドキリとした。
 ロゼとして、ユアン様と社交場で挨拶あいさつや短い会話を交わしたことはある。けれどロゼの顔など覚えてはいないだろうとたかくくっていた。
 脳裏に、子供の姿で「自分はロゼだ」と打ち明けた時の、父の顔が浮かんだ。
 なにを言っているんだ、とばかりにこちらを見下し、ゆがんだ顔。
 あんな顔は何度も見たくない。

「ロゼ=リンゼンハイムの従姉妹いとこなのです。似ておりますでしょう?」

 にっこり微笑むと、ユアン様は「ああ、なるほどね」と納得したような笑みを返してくれた。
 やはりこの姿でかつに誰かと関わるものではない。
 ――そう思ったのに。
 数日後、エリーゼ様とのお茶会で城を訪れた日のこと。その日も時間が空いて、気づけば私は第二騎士団の修練場へ足を運んでいた。
 先日騎士団長であるユアン様に会ったことで、久しく剣術に触れていないなあと懐かしくなったからだ。

『おや、ルーシェ。見学かい? ゆっくり見ていくといい。……ところで、この後少し時間はあるかな。来客の予定がなくなってね。焼きたてのスコーンがむくわれないのはしのびないと思ってるんだけど、付き合ってくれないかな?』

 私を見つけたユアン様は、いいことを思いついたというように嬉しそうな顔をすると、今日のように私をお茶に誘ってくれた。
 以来、時間が合えば私たちは一緒にお茶をするようになった。
 私はユアン様に愚痴ぐちを聞いてもらって、スッキリする。
 ユアン様は甘いものが好きすぎて普段は禁止されているけど、私という来客を理由に大好きなスイーツを食べられる。
 私たちは互いに利益のある関係になったのだ。
 騎士団の人たちもそれがわかっているから、七歳ほどの子供にしか見えないルーシェに、「ユアン様は働き過ぎなので、ぜひ休憩に付き合ってあげてください。ただ、おかわりは禁止ですし、一口ちょうだいと言われても断ってください」などとお願いしてくるのだ。
 史上最年少で騎士団長に上り詰めた二十三歳のユアン様は、訓練中こそ鬼と呼ばれているけれど、騎士団員にはとてもしたわれている。
 ユアン様より年上の人たちも、その誰もが彼の実力を認めていた。なにより、悪気なくものを正直に言いすぎるユアン様を憎めない――というか、見守っているといった感じだろうか。
 私には第二騎士団の関係性が少し不思議で、それからうらやましくもあった。仲間という感じがして、見ていると領地にいた頃を思い出す。
 王都に来てから私にそんな居場所はなかったから、そこに自分を投影して満足しているのかもしれない。なにより騎士団の中にいる時のユアン様は、いつも生き生きとしている。
 そんな姿を見るのが好きだった。


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