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第一章 伯爵令嬢と吸血鬼
9.暗躍 ※ギルバート視点
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時は戻り、授業が始まる前のこと。
シェリアを執拗に追いかけていたヴルグをなんとか遠ざけた男たちは、やれやれと肩を下ろした。
それから自然とにやけた笑みが浮かぶ。
「これでシェリア嬢に恩が一つ売れたなあ。どう有効に使わせてもらうかな」
「まあ名前も覚えてなさそうだったが」
「それならそれで都合がいい使い方もあるだろう。こっちは三人いるわけだしな」
昏く嗤い始めた男たちの後ろで、カサリと木の葉を踏む音が響いた。
「誰だ!」
勢いよく振り返った男たちは、そこに立っていた女生徒の姿に戸惑った。
「あらごめんあそばせ。慣れぬ場所で迷ってしまいましたわ。お邪魔してしまったかしら」
制服こそこの学院のものではあるが、その顔には誰も見覚えがなかった。
波打つ銀髪も、紫の瞳も、一度見たら忘れないほどの印象深さなのに。
しかも妖艶と言えるほど大人び、完成された顔立ちで、制服の胸がはち切れんばかりのスタイルのよさだ。
常にいい女を物色しては影でいいように利用しようとしてきた三人が、これまで見過ごしていたわけがない。
「見かけない顔だが。どこのご令嬢か」
男たちは訝しげに眉をひそめたものの、その目には好奇の色が浮かんでいる。
「私はエヴァ=アシュタルト。先日、短期留学でこの学院にまいりましたの」
口元を扇で隠しながらも、笑う目元は妖艶だ。
男たちはまだこの学院に来たばかりだったのだろうと合点し、口調を改め、紳士的な笑みを浮かべた。
「そうでしたか。どこへ向かうご予定だったのです? よければ、我々が案内しましょう」
「お言葉に甘えて、お願いしてもよろしいかしら」
目的地を告げれば、一人が先に立って歩き、一人が傍に立ちエスコートし、一人が隣で優雅に話しかけた。
俺が俺がと競うことのないそのスムーズな流れには、男たちが手慣れているのがわかった。
「ありがとうございます。助かりましたわ」
先程の場所から十分離れたところに辿り着き、彼女は目的を遂げた。
もう一つの目的、彼らに強い印象を深く刻み込むというのももう十分だろう。
「いえ。昼休みにはこの学院を隅から隅まで案内しますから」
そう言って別れた彼らの顔からは、新たに現れた獲物の代わりにシェリアへの悪だくみなど消えているようだった。
男たちの後ろ姿を見送った彼女――妖艶な留学生に姿を変えたギルバートは、握られていた手を汚らしそうに何度か振り払うと、ふん、と鼻で息を吐いた。
「これは面倒だが確実な手だな。今後はこの手でいくとしよう」
荒事が嫌いなシェリアに非難されることもない。
学院の中には入れない執事の姿も、表立って動くことのできないコウモリの姿も、ここでは手出しができずに歯痒いばかりだったから。
成長につれシェリアの美しさは際立ち、人目を惹いてやまぬようになってしまった。
「シェリアの真価など知りもしない有象無象が近づこうとするだけで怖気がする」
新しく見目のよい女が現れれば目移りしてしまう程度なのに。
しかもよからぬことを企むなど放っておけたものではない。
本気に目を染められてもそれはそれで邪魔なのだが。
この姿に目を奪われずそれでもシェリアに近づく者には本気でかかる必要がある。
手加減ができる自信はなかったが。
ミシェルが学院に通い始めた頃は、あれこれと脳内で捏造した醜聞をばらまくものだから、ほとんどの者がシェリアを遠巻きにしていた。
だが一貫していないミシェルの主張に、すぐにそれが根も葉もないと皆の知れるところとなってしまっていたから、今では女子生徒も男子生徒もシェリアを好意的な眼差しで見る者がほとんどだった。
シェリアはミシェルに何を言われても凛としたたたずまいを崩さず、ただ己を保ち、真っすぐに歩み続けた。
その姿勢に惚れ惚れとしたのは男だけではない。
シェリアは家で長いこと休まらぬ日々を送ってきたせいで表情は豊かではなかったが、だからこそその言葉に嘘はなく、思慮深く、人の心に届く言葉を持っていた。
そんなのは偶像にすぎない、と常に傍にいるギルバートにはわかっていたが。
本当のシェリアは負けん気が強くて、幼い頃はミシェルにやり込められてはやり返し、その度に義母に手酷い折檻を受け泣いてばかりいた。
抗うことをやめたのは、ギルバートが執事として家に入ってしばらく後のことだった。
風のように凪いだ瞳で見逃し、やり過ごし、聞き過ごすようになった。
どうでもいい。
ありありと見えるそんな表情に、ミシェルはより一層怒りをたぎらせた。
それでもやり返さなければ義母まで手を出すことはない。
シェリアの耐えなければならない苦痛は半分に減った。
そしてそのうちミシェルの実のない言葉の暴力など、本当に心からどうでもいいと思えるようになったようだった。
何が彼女を強くしたのかはわからない。
だが傍に仕えるようになってからシェリアの目の輝きは日に日に増していき、そこに宿る光は強くなっていった。
そんな成長を、変化を、ずっと傍で見守り続けてきた。
「今更どこぞの誰かになんぞ、手を出されてはたまらんからな」
うっかりと低い地声で言ってしまい、「あら失敗」と紫の扇で口元を隠す。
エヴァ=アシュタルト。
シェリア以外でギルバートが知る限り、最も美しい姿を持つ者と言えば、同じ吸血鬼である姉しか思い浮かばなかった。
その名と姿を借りたギルバートは、シェリアと同じ制服に身を包み、ふふ、と静かに嗤って扇を閉じた。
「さあて、あの犬っころはどうやって排除しようかしらね」
痛めつけられるのが好きな性分なのか、本来ならシェリアに近づくのも嫌なはずだろうに、ヴルグは日増しにシェリアに近づいて来る。
「これだから本能で生きる戦闘種族は嫌ですわ」
シェリアがヴルグにとって危険だとわかっているからこそ、放ってはおけないのだろう。
自分が最強でなければならないから。まだ正体もつかめないながらも、警戒しているのだ。
そしてそのうち正体などどうでもよくなって、とにかく駆逐さえしてしまえばいい、と考えだすのも時間の問題に思えた。
「困ったこと。あの子は荒事が好きではないのに。でも仕方がないわね」
もしそうなったら。
返り討ちにするほかはないのだから。
「獣なら吸血鬼のマーキングくらい匂いで感じ取ればいいのに。もしかしたらその匂いが吸血鬼のものだとは知らないのかしらね」
――もう少し強く匂いを残すとするか。
スカートを翻し歩き出したギルバートの口元は、楽しそうに笑んでいた。
それが吸血鬼のものだとわからなくとも、誰かの所有物であるのだとわからせればいい。
妖艶な口元をさらに笑みに吊り上げて、ギルバートは早く家に帰りたいと、そればかりを思った。
少し触れただけで顔を真っ赤にする彼女が、早く見たい。
彼女はまだ何もわかってはいない。
恋も、愛も。
いつも傍にいる吸血鬼が彼女に何を望んでいるのかも。
けれど、まだもう少しこのままでいてほしいとも思う。
そうでなければ、契約を果たすその時まで、ギルバートの理性がもちそうにないから。
ギルバートにだけ向ける、すべて信頼しきったようなあの涼やかな笑みは何よりも甘く――このまま永遠の時を二人で過ごしてしまいたくなる。
それはギルバートの長年の望みと相反することであるのに。
幼かったシェリアが成長するのを見守るにつれ、己の中に育って行くものに気が付いたとき、初めてギルバートは永遠の意味を知ったのだった。
頬を撫でる風に、雨の匂いが混じり始めた。
いつかギルバートは、シェリアを泣かせるのかもしれない。
それでもギルバートの望みは、変わることはない。
泣かせずに済むような言葉を、用意しておかなければならない。
契約を果たすその時は、近づいているのだから。
シェリアを執拗に追いかけていたヴルグをなんとか遠ざけた男たちは、やれやれと肩を下ろした。
それから自然とにやけた笑みが浮かぶ。
「これでシェリア嬢に恩が一つ売れたなあ。どう有効に使わせてもらうかな」
「まあ名前も覚えてなさそうだったが」
「それならそれで都合がいい使い方もあるだろう。こっちは三人いるわけだしな」
昏く嗤い始めた男たちの後ろで、カサリと木の葉を踏む音が響いた。
「誰だ!」
勢いよく振り返った男たちは、そこに立っていた女生徒の姿に戸惑った。
「あらごめんあそばせ。慣れぬ場所で迷ってしまいましたわ。お邪魔してしまったかしら」
制服こそこの学院のものではあるが、その顔には誰も見覚えがなかった。
波打つ銀髪も、紫の瞳も、一度見たら忘れないほどの印象深さなのに。
しかも妖艶と言えるほど大人び、完成された顔立ちで、制服の胸がはち切れんばかりのスタイルのよさだ。
常にいい女を物色しては影でいいように利用しようとしてきた三人が、これまで見過ごしていたわけがない。
「見かけない顔だが。どこのご令嬢か」
男たちは訝しげに眉をひそめたものの、その目には好奇の色が浮かんでいる。
「私はエヴァ=アシュタルト。先日、短期留学でこの学院にまいりましたの」
口元を扇で隠しながらも、笑う目元は妖艶だ。
男たちはまだこの学院に来たばかりだったのだろうと合点し、口調を改め、紳士的な笑みを浮かべた。
「そうでしたか。どこへ向かうご予定だったのです? よければ、我々が案内しましょう」
「お言葉に甘えて、お願いしてもよろしいかしら」
目的地を告げれば、一人が先に立って歩き、一人が傍に立ちエスコートし、一人が隣で優雅に話しかけた。
俺が俺がと競うことのないそのスムーズな流れには、男たちが手慣れているのがわかった。
「ありがとうございます。助かりましたわ」
先程の場所から十分離れたところに辿り着き、彼女は目的を遂げた。
もう一つの目的、彼らに強い印象を深く刻み込むというのももう十分だろう。
「いえ。昼休みにはこの学院を隅から隅まで案内しますから」
そう言って別れた彼らの顔からは、新たに現れた獲物の代わりにシェリアへの悪だくみなど消えているようだった。
男たちの後ろ姿を見送った彼女――妖艶な留学生に姿を変えたギルバートは、握られていた手を汚らしそうに何度か振り払うと、ふん、と鼻で息を吐いた。
「これは面倒だが確実な手だな。今後はこの手でいくとしよう」
荒事が嫌いなシェリアに非難されることもない。
学院の中には入れない執事の姿も、表立って動くことのできないコウモリの姿も、ここでは手出しができずに歯痒いばかりだったから。
成長につれシェリアの美しさは際立ち、人目を惹いてやまぬようになってしまった。
「シェリアの真価など知りもしない有象無象が近づこうとするだけで怖気がする」
新しく見目のよい女が現れれば目移りしてしまう程度なのに。
しかもよからぬことを企むなど放っておけたものではない。
本気に目を染められてもそれはそれで邪魔なのだが。
この姿に目を奪われずそれでもシェリアに近づく者には本気でかかる必要がある。
手加減ができる自信はなかったが。
ミシェルが学院に通い始めた頃は、あれこれと脳内で捏造した醜聞をばらまくものだから、ほとんどの者がシェリアを遠巻きにしていた。
だが一貫していないミシェルの主張に、すぐにそれが根も葉もないと皆の知れるところとなってしまっていたから、今では女子生徒も男子生徒もシェリアを好意的な眼差しで見る者がほとんどだった。
シェリアはミシェルに何を言われても凛としたたたずまいを崩さず、ただ己を保ち、真っすぐに歩み続けた。
その姿勢に惚れ惚れとしたのは男だけではない。
シェリアは家で長いこと休まらぬ日々を送ってきたせいで表情は豊かではなかったが、だからこそその言葉に嘘はなく、思慮深く、人の心に届く言葉を持っていた。
そんなのは偶像にすぎない、と常に傍にいるギルバートにはわかっていたが。
本当のシェリアは負けん気が強くて、幼い頃はミシェルにやり込められてはやり返し、その度に義母に手酷い折檻を受け泣いてばかりいた。
抗うことをやめたのは、ギルバートが執事として家に入ってしばらく後のことだった。
風のように凪いだ瞳で見逃し、やり過ごし、聞き過ごすようになった。
どうでもいい。
ありありと見えるそんな表情に、ミシェルはより一層怒りをたぎらせた。
それでもやり返さなければ義母まで手を出すことはない。
シェリアの耐えなければならない苦痛は半分に減った。
そしてそのうちミシェルの実のない言葉の暴力など、本当に心からどうでもいいと思えるようになったようだった。
何が彼女を強くしたのかはわからない。
だが傍に仕えるようになってからシェリアの目の輝きは日に日に増していき、そこに宿る光は強くなっていった。
そんな成長を、変化を、ずっと傍で見守り続けてきた。
「今更どこぞの誰かになんぞ、手を出されてはたまらんからな」
うっかりと低い地声で言ってしまい、「あら失敗」と紫の扇で口元を隠す。
エヴァ=アシュタルト。
シェリア以外でギルバートが知る限り、最も美しい姿を持つ者と言えば、同じ吸血鬼である姉しか思い浮かばなかった。
その名と姿を借りたギルバートは、シェリアと同じ制服に身を包み、ふふ、と静かに嗤って扇を閉じた。
「さあて、あの犬っころはどうやって排除しようかしらね」
痛めつけられるのが好きな性分なのか、本来ならシェリアに近づくのも嫌なはずだろうに、ヴルグは日増しにシェリアに近づいて来る。
「これだから本能で生きる戦闘種族は嫌ですわ」
シェリアがヴルグにとって危険だとわかっているからこそ、放ってはおけないのだろう。
自分が最強でなければならないから。まだ正体もつかめないながらも、警戒しているのだ。
そしてそのうち正体などどうでもよくなって、とにかく駆逐さえしてしまえばいい、と考えだすのも時間の問題に思えた。
「困ったこと。あの子は荒事が好きではないのに。でも仕方がないわね」
もしそうなったら。
返り討ちにするほかはないのだから。
「獣なら吸血鬼のマーキングくらい匂いで感じ取ればいいのに。もしかしたらその匂いが吸血鬼のものだとは知らないのかしらね」
――もう少し強く匂いを残すとするか。
スカートを翻し歩き出したギルバートの口元は、楽しそうに笑んでいた。
それが吸血鬼のものだとわからなくとも、誰かの所有物であるのだとわからせればいい。
妖艶な口元をさらに笑みに吊り上げて、ギルバートは早く家に帰りたいと、そればかりを思った。
少し触れただけで顔を真っ赤にする彼女が、早く見たい。
彼女はまだ何もわかってはいない。
恋も、愛も。
いつも傍にいる吸血鬼が彼女に何を望んでいるのかも。
けれど、まだもう少しこのままでいてほしいとも思う。
そうでなければ、契約を果たすその時まで、ギルバートの理性がもちそうにないから。
ギルバートにだけ向ける、すべて信頼しきったようなあの涼やかな笑みは何よりも甘く――このまま永遠の時を二人で過ごしてしまいたくなる。
それはギルバートの長年の望みと相反することであるのに。
幼かったシェリアが成長するのを見守るにつれ、己の中に育って行くものに気が付いたとき、初めてギルバートは永遠の意味を知ったのだった。
頬を撫でる風に、雨の匂いが混じり始めた。
いつかギルバートは、シェリアを泣かせるのかもしれない。
それでもギルバートの望みは、変わることはない。
泣かせずに済むような言葉を、用意しておかなければならない。
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