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最終話(ユージーン視点)
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笑ってくれていい。
「ユージーン=エスライト! あなたとは婚約破棄させてもらうわ!」
全てを話そうと決意し、メイシアを訪ねた朝。
出迎えた玄関で、開口一番にメイシアに告げられた瞬間、私は走り出していた。
「断る」
そう言い置いて。
わけがわからないメイシアは、当然私を追いかけてきた。
「なんでよ! 婚約破棄させてよ! お願いだから!」
必死に言い募るメイシアを振り切る勢いで、私は走った。
「そもそもが婚約破棄ではなく婚約解消だ。どちらにせよここでそんなことが決められるわけがない。両家の問題なのだからな」
「じゃ、じゃあお父様にお願いするわ。ユージーンとは婚約解消したいって」
「ほう……? したいならそうすればいい。だが我が家がそれに応じるかはまた別の話だがな。私は決して応じない。何があってもな」
話を引き延ばすためのそんないきがった言葉にメイシアは「なんでこうなった」とでも言いたげに悲壮感漂う顔で唇を噛みしめ、ただひたすらに追いかけてきた。
滑稽だと笑ってくれていい。
私はメイシアにどんなにかわいくお願いされても、泣かれても、それだけは受け入れるわけにはいかないのだ。
走って、走って。私は一本の大きな木に登った。
さすが走り慣れている私たちは息を切らすこともなく、木登りも子供の頃から慣れっこなメイシアもあっという間に追いついてきた。
てっぺんははるか上だが、私はそこで手と足を止めた。
これより上の枝は私達の体重を支え切れない。
「どうして? ユージーンにはリリアナ様がいるのに。だから私は、」
私は追いついたメイシアが上った枝に移動した。
私は木の幹側にいる。
メイシアは逆に追い詰められた形になった。
「これでもう逃げられないよ」
完全に悪役である。
安心させるためににっこりと笑んだが、ダメ押しだ。
メイシアは、はっと身を引こうとしたが、奥へ行くほど枝は先細りする。仕方なく向き直り、何故こんなことをするのかと心底から疑問そうな目を向けた。
「ごめんね、メイシア。今日だけは、逃げずに話を聞いてほしかったんだ」
部屋に鍵をかけるなど紳士のすることではない。
外では先程のように延々追いかけっこをする羽目になって話にならない。
勿論木の上に追い詰めるのが紳士のすることではないともよくわかっている。
それでも、これ以上すれ違ってしまわないためには、こんな無理矢理な状況を作ってでも私たちは向き合って話す必要があったのだ。
誹りならいくらでも受ける。情けないと言われてもいい。
メイシアを失ってしまうよりは。
「好きだ。メイシアが好きだ」
唐突に告げた私に、メイシアは訝しげに眉を顰めた。
「それは――。私が婚約者だから。浮気を許さず、互いに思い合う家庭を築きたいから、私を好きになろうと」
「そうじゃない。初めて会ったあの時から、メイシアのことが好きだ。ずっとずっと、メイシアだけを見てきた。リリアナは、それを知っていて虫よけとして協力してくれていたに過ぎないんだ。リリアナは隣国の王太子と婚約していて互いに都合がよかっただけ、気持ちは微塵もない。それどころかリリアナは私を見下げ果てているし、私はメイシアのことしか見ていない」
そう告げてもメイシアの眉間の皺は解かれなかった。当然だと思う。
「どうして今さらそんなことを言うの? 何故先に教えておいてくれなかったの」
「リリアナの婚約のことは国の問題だから手紙に書くことはできない。会いにもいけず、会いにいっても逃げられてまともに話ができるかもわからなかったし、リリアナは虫よけとして傍にいるだけだと手紙に書くだけでは、体よく浮気を正当化するための言い訳だと誤解されかねなかったからだ。不安にさせたくなかったんだ。だが結局はこんなことにまでなってしまってすまなく思っている」
メイシアは俯き、じっと黙り込んでいた。
私はその間を恐れるように、言葉を継いだ。
「本当はリリアナの手を借りたくはなかった。だが学院では目の届かないことが多くなる上、常に同じ生徒である令嬢たちに何をされるかわからない状況にある。男が入れない場所もある。以前舞踏会で連れ去られたこともあったから、メイシアが害されるのだけは避けたかったんだ。令嬢たちを逆なでせず、穏便に手を引かせたかった」
情けないそんな告白も、メイシアは黙って聞いてくれていた。
それからぽつりと呟いた。
「リリアナ様は素晴らしい人だわ。胸も大きいし。最初はどうあれ、傍にいるうちに心が動かされたとしても、私は責めないわ」
「そんなことはありえない。私は徹頭徹尾メイシアだけが好きだ」
メイシアはどこか力がなかった。
もしかしたらもう諦めきってしまっているのかもしれない。
私はメイシアの俯く瞳を祈るように見つめた。
「頑張り屋なところも、逃げながらも前向きなところも、意地っ張りだけど素直なところも、知っている」
メイシアの黒い瞳が揺れ、そっと私を見上げた。
「真っ赤になった顔も、逃げる姿も、隠れる姿も、その後に私を傷つけたかなとそっと窺う姿も。全部全部、好きだよ」
震える黒い瞳から、ぽろりと涙が零れた。
私の言葉は、メイシアの胸に届いただろうか。
祈るようにメイシアを見つめると、その小さな口をそっと開いた。
「私も。私も、ユージーンが好き」
そう言って、メイシアはしゃくりあげた。
「本当はユージーンが誰を好きでも、見ないふりをしようとした卑怯者なの。自信なんていつまで経ってもないくせに、それでも私はユージーンの婚約者でいたかったから。だけど、ユージーンの幸せを考えたら、って」
涙は後から後から零れていった。
私はそっと手を伸ばし、メイシアの涙を拭った。
「メイシア。私の幸せはメイシアの隣にいることだよ。メイシアが逃げても構わない。私は何度でも追いかけるし、いつまででも待つ。そのつもりで、幼い頃にこうして木の上で理想の結婚像を語ったんだよ。浮気もしないし、婚約者であるメイシアと添い遂げるつもりだから、安心してと言いたかったんだ」
あまりうまく伝わらなかったどころか、「婚約者だから好きになろうとしている」などと誤解されてしまったのだから失敗と言わざるをえなかったが。
メイシアはただ黙って、私の顔を見つめていた。
目と目が合うのはいつぶりだろうか。
メイシアの潤んだ黒い瞳には、ぼやけた自分の姿が映っていた。
「メイシア。君の手に触れてもいい?」
怯えさせたくはなかったし、無理に距離を詰めてしまいたくもなかった。
メイシアはただ、こくんと頷いた。
私はそっと、メイシアの手に触れた。
冷たい手だった。
けれど手と手を重ねるうち、次第に私の温もりが移り、冷たいと感じなくなった。
「メイシア。君の頬に触れてもいい?」
もう一度、こくんと頷いた。
私はまだ涙に濡れている白い頬にそっと触れた。
メイシアのもう一つの冷たいままの手が重ねられた。
だからつい、祈るように訊ねていた。
「メイシア。キスしてもいい?」
メイシアの黒い瞳を覗き込めば、メイシアの頬は赤くなった。
いつものように。
そうして静かに、こくりと頷いてくれた。
心底からほっとして、肩から力が抜けた。
拒まれたらどうしようかと思っていた。
昨日の涙がトラウマとなって一生キスができなくなるかと思った。
これ以上の幸せと安堵はないかもしれない。
満たされた気持ちで、ぎゅっと目を瞑ったメイシアに、触れるだけのキスをする。
ぼんやり目を開けたメイシアに、そっと笑みを浮かべた。
「これが初めてのキスということにしよう。だから、あの時の痛いだけのキスは忘れて?」
あれは事故だったのだから。
けれどメイシアはふるふると首を振った。
「ユージーンとのことは、何一つ忘れたくない」
そう言って、唇をきゅっと引き結んだ。
なんてかわいいのか。
後悔だらけでやり直したいとばかり思っていたあの時のキスが、メイシアの一言でこれほどに輝く思い出になるとは。
私は堪らなくなって、メイシアをそっと抱きしめた。
メイシアはぱたぱたと私の背中を叩いたものの、やがて静かになり、きゅっと服の背を握り返した。
「メイシア。好きだよ」
「うん。私も好き」
幼い頃。
同じように木漏れ日のこぼれる木の上で。
あの時もらえなかった言葉を、やっともらえたのだ。
こんなに簡単なことだったのに。
私達にはとても難しく、とても遠い旅路で、だけど必要な遠回りでもあったのかもしれない。
◇余談◇
メイシアは逃げなくなった。
とは言っても、これまで沁みついた習性が簡単に消え去るわけではない。
私が近づけば反射的に駆け出しかけたが、それでもぐっと足を堪え、くるりと私を振り返ってくれた。
そんなメイシアが可愛くて、たまらなくて、私はようやっと幸せな学院生活を手に入れることができた。
ただ、そんな私の前には新たな障壁が立ちはだかった。
「おい。何故私をお茶に呼ばない」
学院の東屋でカップを手に、うふふ、うふふと楽しげに笑い合っているのはリリアナとメイシア。
私はむっすりとして自ら椅子を運び、どん、と音を立てて置いた。
「あら、たまには女同士で楽しくお茶したっていいじゃない。どうせユージーンはメイシアにべったり張り付いてるんだし」
べったりという言葉には語弊がある。三人分くらいの距離は常に開いている。だから狭い道を歩こうと企めば、メイシアは私の後ろに三人分くらいの距離を開けてついてくる。
私の戦いはまだ終わったわけではない。
それなのに。
「私も、リリアナ様とお話するの、楽しいです」
私以外にはなんと素直で、なんとゼロ距離なことか。
メイシアは頬を染めてちらりとリリアナを見上げ、目を合わせては互いに微笑みあっている。
子兎が天使になった。
いや、メイシアは元々、私がいないところでは天使だった。盗み見て――いや、影から見守っていたから知っている。
しかし、何故リリアナにはこんなにも簡単に懐くのか。
それも頬を染めて。
黒い瞳をきらきらと輝かせて。
リリアナの人たらしの能力は本物だった。
いや、メイシアが純粋すぎるのか。
負けまいとメイシアの隣に置いた椅子に腰を下ろせば、メイシアははっとして、椅子をずりずりとリリアナの方へと寄せた。
「メイシア? それはどういうことだ」
「いや、あの、ちょっと、あんまり近いと、あの、その」
相変わらずか。
私に対してだけ相変わらずなのか。
いや、贅沢を言ってはいけない。
駆け出さなくなるまでにだってここまで時間がかかったのだ。
もう少し時間をかければ、慣れてくれるはず。待つと決めたのだから、ぐだぐだ言わずに待とう。
だが目の前で距離などなく仲睦まじく楽しげにされると、ずるいと思わずにはいられない。
「そうむくれないのよ、ユージーン。どうせあなたはこれから一生一緒にいられるんだからいいじゃない」
そうだった。リリアナは卒業後、隣国へと嫁ぐのだ。
すまない、と言いかけた私に、リリアナは「だから」とにっこり笑みを向けた。
「メイシアを自治会に誘おうと思ってるの。優秀だし、頑張り屋さんだし、これ以上の人材はいないでしょう?」
「待て。それは駄目だ。あんなクソ忙しい所にメイシアを入れるわけにはいかん」
「クソ忙しいから一人でも手が欲しいんじゃない。それに、自治会に入ればもっと一緒にいられる時間が増えるわよ」
最後に「私も」とリリアナが付け足したのは完全に無視して、首を振った。
「駄目だ」
「どうしてユージーンが決めるの? 私のことは私が決めるわ」
口元をむっとさせたメイシアを、驚愕の目で見つめ返す。
「な……! な…………!!」
「その通りね。いくら婚約者だからって行動まで制限される謂われはないわね」
わなわなと震える私に向き直り、メイシアがじっと黒い瞳を向けた。
「やってみたいの。誰かの役に立ちたいし、そこで頑張れば周りの人たちも私のことを認めてくれるようになるかもしれない。リリアナ様やユージーンに守られるだけじゃなくて、自分自身で、認めてもらえるように頑張りたいの」
なんといじらしいお願いだろうか。
じっと黒く丸い瞳に見つめられれば、冷たくそれを断ち切ることなどできない。
「わ……、わかった」
仕方がなくそう答えれば、メイシアはほっとしたように頬を緩め、「ありがと」と笑った。
――くっっっっっそかわいいか!!!
「よかったわね、メイシア」
思わずテーブルをダンと拳で打ち付け、悶絶する私にリリアナの冷ややかな視線が降りかかっていたのはわかっていたが、メイシアが「はいっ」とキラキラ答える声に私の胸は満たされた。
学院のティールームにはまばらに人がいたが、近くに寄っては来なかった。
今もメイシアを悪く言う声が消えたわけではない。
私が牽制したことで、よりいっそう陰で手を出されることが増えるのではと懸念していたが、今のところはリリアナの威光――いや、人望のおかげか、そのような気配があってもなんとか未然に防げている。
それに甘んじず、自分の手でなんとかしたいと言うメイシアは、幼い頃から変わっていない。
舞踏会という切り取られた場だけでなく、学院の中で、自然体で過ごすメイシアの姿が人々の目に触れていけば、きっとそのうち理解もされるだろう。
何よりメイシアは今、一人で頑張っているのではない。
「メイシア。何か困ったことがあったらすぐに私を頼るように」
ふるふると首を振ったメイシアに項垂れれば、「相談はする」と答えが返った。
思わず嬉しくなって飛びつこうとしたら、リリアナの腕がさっと伸びた。
「させるか」
心臓をばくばくさせるように顔を白くしたメイシアが、リリアナの腕に抱きついていた。
ふっと笑ったリリアナは、これ以上もなく勝ち誇って見えた。
私の戦いは、まだ始まったばかりだ。
「ユージーン=エスライト! あなたとは婚約破棄させてもらうわ!」
全てを話そうと決意し、メイシアを訪ねた朝。
出迎えた玄関で、開口一番にメイシアに告げられた瞬間、私は走り出していた。
「断る」
そう言い置いて。
わけがわからないメイシアは、当然私を追いかけてきた。
「なんでよ! 婚約破棄させてよ! お願いだから!」
必死に言い募るメイシアを振り切る勢いで、私は走った。
「そもそもが婚約破棄ではなく婚約解消だ。どちらにせよここでそんなことが決められるわけがない。両家の問題なのだからな」
「じゃ、じゃあお父様にお願いするわ。ユージーンとは婚約解消したいって」
「ほう……? したいならそうすればいい。だが我が家がそれに応じるかはまた別の話だがな。私は決して応じない。何があってもな」
話を引き延ばすためのそんないきがった言葉にメイシアは「なんでこうなった」とでも言いたげに悲壮感漂う顔で唇を噛みしめ、ただひたすらに追いかけてきた。
滑稽だと笑ってくれていい。
私はメイシアにどんなにかわいくお願いされても、泣かれても、それだけは受け入れるわけにはいかないのだ。
走って、走って。私は一本の大きな木に登った。
さすが走り慣れている私たちは息を切らすこともなく、木登りも子供の頃から慣れっこなメイシアもあっという間に追いついてきた。
てっぺんははるか上だが、私はそこで手と足を止めた。
これより上の枝は私達の体重を支え切れない。
「どうして? ユージーンにはリリアナ様がいるのに。だから私は、」
私は追いついたメイシアが上った枝に移動した。
私は木の幹側にいる。
メイシアは逆に追い詰められた形になった。
「これでもう逃げられないよ」
完全に悪役である。
安心させるためににっこりと笑んだが、ダメ押しだ。
メイシアは、はっと身を引こうとしたが、奥へ行くほど枝は先細りする。仕方なく向き直り、何故こんなことをするのかと心底から疑問そうな目を向けた。
「ごめんね、メイシア。今日だけは、逃げずに話を聞いてほしかったんだ」
部屋に鍵をかけるなど紳士のすることではない。
外では先程のように延々追いかけっこをする羽目になって話にならない。
勿論木の上に追い詰めるのが紳士のすることではないともよくわかっている。
それでも、これ以上すれ違ってしまわないためには、こんな無理矢理な状況を作ってでも私たちは向き合って話す必要があったのだ。
誹りならいくらでも受ける。情けないと言われてもいい。
メイシアを失ってしまうよりは。
「好きだ。メイシアが好きだ」
唐突に告げた私に、メイシアは訝しげに眉を顰めた。
「それは――。私が婚約者だから。浮気を許さず、互いに思い合う家庭を築きたいから、私を好きになろうと」
「そうじゃない。初めて会ったあの時から、メイシアのことが好きだ。ずっとずっと、メイシアだけを見てきた。リリアナは、それを知っていて虫よけとして協力してくれていたに過ぎないんだ。リリアナは隣国の王太子と婚約していて互いに都合がよかっただけ、気持ちは微塵もない。それどころかリリアナは私を見下げ果てているし、私はメイシアのことしか見ていない」
そう告げてもメイシアの眉間の皺は解かれなかった。当然だと思う。
「どうして今さらそんなことを言うの? 何故先に教えておいてくれなかったの」
「リリアナの婚約のことは国の問題だから手紙に書くことはできない。会いにもいけず、会いにいっても逃げられてまともに話ができるかもわからなかったし、リリアナは虫よけとして傍にいるだけだと手紙に書くだけでは、体よく浮気を正当化するための言い訳だと誤解されかねなかったからだ。不安にさせたくなかったんだ。だが結局はこんなことにまでなってしまってすまなく思っている」
メイシアは俯き、じっと黙り込んでいた。
私はその間を恐れるように、言葉を継いだ。
「本当はリリアナの手を借りたくはなかった。だが学院では目の届かないことが多くなる上、常に同じ生徒である令嬢たちに何をされるかわからない状況にある。男が入れない場所もある。以前舞踏会で連れ去られたこともあったから、メイシアが害されるのだけは避けたかったんだ。令嬢たちを逆なでせず、穏便に手を引かせたかった」
情けないそんな告白も、メイシアは黙って聞いてくれていた。
それからぽつりと呟いた。
「リリアナ様は素晴らしい人だわ。胸も大きいし。最初はどうあれ、傍にいるうちに心が動かされたとしても、私は責めないわ」
「そんなことはありえない。私は徹頭徹尾メイシアだけが好きだ」
メイシアはどこか力がなかった。
もしかしたらもう諦めきってしまっているのかもしれない。
私はメイシアの俯く瞳を祈るように見つめた。
「頑張り屋なところも、逃げながらも前向きなところも、意地っ張りだけど素直なところも、知っている」
メイシアの黒い瞳が揺れ、そっと私を見上げた。
「真っ赤になった顔も、逃げる姿も、隠れる姿も、その後に私を傷つけたかなとそっと窺う姿も。全部全部、好きだよ」
震える黒い瞳から、ぽろりと涙が零れた。
私の言葉は、メイシアの胸に届いただろうか。
祈るようにメイシアを見つめると、その小さな口をそっと開いた。
「私も。私も、ユージーンが好き」
そう言って、メイシアはしゃくりあげた。
「本当はユージーンが誰を好きでも、見ないふりをしようとした卑怯者なの。自信なんていつまで経ってもないくせに、それでも私はユージーンの婚約者でいたかったから。だけど、ユージーンの幸せを考えたら、って」
涙は後から後から零れていった。
私はそっと手を伸ばし、メイシアの涙を拭った。
「メイシア。私の幸せはメイシアの隣にいることだよ。メイシアが逃げても構わない。私は何度でも追いかけるし、いつまででも待つ。そのつもりで、幼い頃にこうして木の上で理想の結婚像を語ったんだよ。浮気もしないし、婚約者であるメイシアと添い遂げるつもりだから、安心してと言いたかったんだ」
あまりうまく伝わらなかったどころか、「婚約者だから好きになろうとしている」などと誤解されてしまったのだから失敗と言わざるをえなかったが。
メイシアはただ黙って、私の顔を見つめていた。
目と目が合うのはいつぶりだろうか。
メイシアの潤んだ黒い瞳には、ぼやけた自分の姿が映っていた。
「メイシア。君の手に触れてもいい?」
怯えさせたくはなかったし、無理に距離を詰めてしまいたくもなかった。
メイシアはただ、こくんと頷いた。
私はそっと、メイシアの手に触れた。
冷たい手だった。
けれど手と手を重ねるうち、次第に私の温もりが移り、冷たいと感じなくなった。
「メイシア。君の頬に触れてもいい?」
もう一度、こくんと頷いた。
私はまだ涙に濡れている白い頬にそっと触れた。
メイシアのもう一つの冷たいままの手が重ねられた。
だからつい、祈るように訊ねていた。
「メイシア。キスしてもいい?」
メイシアの黒い瞳を覗き込めば、メイシアの頬は赤くなった。
いつものように。
そうして静かに、こくりと頷いてくれた。
心底からほっとして、肩から力が抜けた。
拒まれたらどうしようかと思っていた。
昨日の涙がトラウマとなって一生キスができなくなるかと思った。
これ以上の幸せと安堵はないかもしれない。
満たされた気持ちで、ぎゅっと目を瞑ったメイシアに、触れるだけのキスをする。
ぼんやり目を開けたメイシアに、そっと笑みを浮かべた。
「これが初めてのキスということにしよう。だから、あの時の痛いだけのキスは忘れて?」
あれは事故だったのだから。
けれどメイシアはふるふると首を振った。
「ユージーンとのことは、何一つ忘れたくない」
そう言って、唇をきゅっと引き結んだ。
なんてかわいいのか。
後悔だらけでやり直したいとばかり思っていたあの時のキスが、メイシアの一言でこれほどに輝く思い出になるとは。
私は堪らなくなって、メイシアをそっと抱きしめた。
メイシアはぱたぱたと私の背中を叩いたものの、やがて静かになり、きゅっと服の背を握り返した。
「メイシア。好きだよ」
「うん。私も好き」
幼い頃。
同じように木漏れ日のこぼれる木の上で。
あの時もらえなかった言葉を、やっともらえたのだ。
こんなに簡単なことだったのに。
私達にはとても難しく、とても遠い旅路で、だけど必要な遠回りでもあったのかもしれない。
◇余談◇
メイシアは逃げなくなった。
とは言っても、これまで沁みついた習性が簡単に消え去るわけではない。
私が近づけば反射的に駆け出しかけたが、それでもぐっと足を堪え、くるりと私を振り返ってくれた。
そんなメイシアが可愛くて、たまらなくて、私はようやっと幸せな学院生活を手に入れることができた。
ただ、そんな私の前には新たな障壁が立ちはだかった。
「おい。何故私をお茶に呼ばない」
学院の東屋でカップを手に、うふふ、うふふと楽しげに笑い合っているのはリリアナとメイシア。
私はむっすりとして自ら椅子を運び、どん、と音を立てて置いた。
「あら、たまには女同士で楽しくお茶したっていいじゃない。どうせユージーンはメイシアにべったり張り付いてるんだし」
べったりという言葉には語弊がある。三人分くらいの距離は常に開いている。だから狭い道を歩こうと企めば、メイシアは私の後ろに三人分くらいの距離を開けてついてくる。
私の戦いはまだ終わったわけではない。
それなのに。
「私も、リリアナ様とお話するの、楽しいです」
私以外にはなんと素直で、なんとゼロ距離なことか。
メイシアは頬を染めてちらりとリリアナを見上げ、目を合わせては互いに微笑みあっている。
子兎が天使になった。
いや、メイシアは元々、私がいないところでは天使だった。盗み見て――いや、影から見守っていたから知っている。
しかし、何故リリアナにはこんなにも簡単に懐くのか。
それも頬を染めて。
黒い瞳をきらきらと輝かせて。
リリアナの人たらしの能力は本物だった。
いや、メイシアが純粋すぎるのか。
負けまいとメイシアの隣に置いた椅子に腰を下ろせば、メイシアははっとして、椅子をずりずりとリリアナの方へと寄せた。
「メイシア? それはどういうことだ」
「いや、あの、ちょっと、あんまり近いと、あの、その」
相変わらずか。
私に対してだけ相変わらずなのか。
いや、贅沢を言ってはいけない。
駆け出さなくなるまでにだってここまで時間がかかったのだ。
もう少し時間をかければ、慣れてくれるはず。待つと決めたのだから、ぐだぐだ言わずに待とう。
だが目の前で距離などなく仲睦まじく楽しげにされると、ずるいと思わずにはいられない。
「そうむくれないのよ、ユージーン。どうせあなたはこれから一生一緒にいられるんだからいいじゃない」
そうだった。リリアナは卒業後、隣国へと嫁ぐのだ。
すまない、と言いかけた私に、リリアナは「だから」とにっこり笑みを向けた。
「メイシアを自治会に誘おうと思ってるの。優秀だし、頑張り屋さんだし、これ以上の人材はいないでしょう?」
「待て。それは駄目だ。あんなクソ忙しい所にメイシアを入れるわけにはいかん」
「クソ忙しいから一人でも手が欲しいんじゃない。それに、自治会に入ればもっと一緒にいられる時間が増えるわよ」
最後に「私も」とリリアナが付け足したのは完全に無視して、首を振った。
「駄目だ」
「どうしてユージーンが決めるの? 私のことは私が決めるわ」
口元をむっとさせたメイシアを、驚愕の目で見つめ返す。
「な……! な…………!!」
「その通りね。いくら婚約者だからって行動まで制限される謂われはないわね」
わなわなと震える私に向き直り、メイシアがじっと黒い瞳を向けた。
「やってみたいの。誰かの役に立ちたいし、そこで頑張れば周りの人たちも私のことを認めてくれるようになるかもしれない。リリアナ様やユージーンに守られるだけじゃなくて、自分自身で、認めてもらえるように頑張りたいの」
なんといじらしいお願いだろうか。
じっと黒く丸い瞳に見つめられれば、冷たくそれを断ち切ることなどできない。
「わ……、わかった」
仕方がなくそう答えれば、メイシアはほっとしたように頬を緩め、「ありがと」と笑った。
――くっっっっっそかわいいか!!!
「よかったわね、メイシア」
思わずテーブルをダンと拳で打ち付け、悶絶する私にリリアナの冷ややかな視線が降りかかっていたのはわかっていたが、メイシアが「はいっ」とキラキラ答える声に私の胸は満たされた。
学院のティールームにはまばらに人がいたが、近くに寄っては来なかった。
今もメイシアを悪く言う声が消えたわけではない。
私が牽制したことで、よりいっそう陰で手を出されることが増えるのではと懸念していたが、今のところはリリアナの威光――いや、人望のおかげか、そのような気配があってもなんとか未然に防げている。
それに甘んじず、自分の手でなんとかしたいと言うメイシアは、幼い頃から変わっていない。
舞踏会という切り取られた場だけでなく、学院の中で、自然体で過ごすメイシアの姿が人々の目に触れていけば、きっとそのうち理解もされるだろう。
何よりメイシアは今、一人で頑張っているのではない。
「メイシア。何か困ったことがあったらすぐに私を頼るように」
ふるふると首を振ったメイシアに項垂れれば、「相談はする」と答えが返った。
思わず嬉しくなって飛びつこうとしたら、リリアナの腕がさっと伸びた。
「させるか」
心臓をばくばくさせるように顔を白くしたメイシアが、リリアナの腕に抱きついていた。
ふっと笑ったリリアナは、これ以上もなく勝ち誇って見えた。
私の戦いは、まだ始まったばかりだ。
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