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第一章 まだ時給を聞いてない

8.おにぎりが食べたいんだな

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 ぐっすりと寝た。
 珠美が異世界に来て初めての夜だとは思えないくらいに。

 珠美がカーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさに目を覚ますと、隣で微睡む虎の姿があった。
 一晩中この姿で傍にいてくれたのだろうか。
 はっと気づくと、ラースの胸元の毛をがっしとわしづかみしていたことに気が付いた。

「わ! ラースごめん、痛くなかった?」

 慌てて飛び起きると、ラースがのそりと首を上げた。

「起きたか。よく眠ってたな」

 ぐるぐると喉を鳴らすように低い声が響き、くわぁっと大きく口を開けて欠伸をした。
 鋭い牙がぞろりと並んでいたが、不思議と恐ろしくは感じない。
 まあ、でなければ一晩ももふもふに包まれて眠ったりしないのだが。

 その毛皮はそっと触れるとごわつくような感じもあるのだが、深いところは存外やわらかくもふもふだった。
 顔を埋めたときの多幸感といったらなかった。

 ラースは尻尾を一振りすると、ベッドからすたっと降りる。

「さて、朝食を食べに行くか。少しあっちを向いていろ」

 言われて何故だろうと首を傾げたが、すぐに気が付いて慌ててラースに背を向ける。
 すぐに背後からぼふぅん、と白い靄が押し寄せ、衣擦れの音やカチャカチャ鳴る金具の音がして、元の姿に戻って着替えているのだとわかる。

 珠美は着替えを持っていなかったからそのままだ。
 水色のシャツに、ラースにもらった紐で腰のあたりを縛っている。
 ラースを待って階段を下りていくと、食堂に人はまばらだった。

「あらおはよう。よっぽど疲れてたんだろう。やはり子供の足で旅するのは大変だねえ。もう朝ごはんも終わっちゃってるけど、おにぎりを作っておいたからお食べ。二人とも、昨夜も食べてなかったろう?」

「すまないな。助かる」

 ラースまで夕飯を食べ逃してしまったのかと知り、申し訳なくなる。
 しかしそれよりも珠美は、つい『おにぎり』という言葉に鋭く反応してしまった。
 この世界にもあるのか。
 洋風な世界観だから米があるとは思っていなかった。

「ありがとうございます」

 女将に小さな頭をぺこりとして案内された席に座ると、三角に握られたおにぎりと湯気の立ったスープが置かれた。

「いただきます」

 手を合わせてそっとおにぎりを手に取る。
 はくっと一口かぶりつくと、海苔は巻かれていなかったが、確かに米で、おにぎりだ。中には何か白身魚のようなものが入っていた。

「どうだ? 食べられそうか?」

 頬杖をつき、その様子を見守っていたラースにこくこくと頷いて見せると、ラースはふっと笑いを浮かべた。

「慌てずゆっくり噛めよー」

 また子ども扱いする、とむっとしたが、珠美は食べるのに忙しく文句を言う暇はなかった。
 スープは根菜がよく煮込まれていて、とろとろだった。
 一つ目のおにぎりを平らげて空腹だった腹が落ち着くと、ごくごくと水を飲み干してぷはっと一息つく。

「まさか異世界でおにぎりが食べられるとは思わなかった」

「米はこの国の特産品なんだよ」

 ふうん、と相槌を打って、珠美は二個目のおにぎりに手を伸ばす。
 今度の具はカリカリに焼いたベーコンだった。
 この世界なりにアレンジされているようだったが、これはこれでとてもおいしい。
 誰かが握ったおにぎりなど食べたのはいつぶりだろうか。
 元の世界でもしばらく食べた記憶がなかった。
 そもそも誰かが作ったご飯というのも久しぶりだった。

 お腹の底から暖かくなって、全身に染み渡るようだった。
 ご飯は生きる源だ。強くそう実感した。

 珠美用に握られていた小さなおにぎりを二個完食すると、あとはスープだけでもうお腹はいっぱいだった。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせてぺこりとすると、いつの間に食べ終えたのか、ラースが笑みを浮かべて見ていたのに気が付いた。

「いい食べっぷりだったな。見ていて気持ちがいいもんだ」

 そう言ってラースも珠美の真似をするように手を合わせ「ごちそうさまでした」をした。
 そこに食べ終わるのを待っていたように女将がやってきて、珠美に「はい、これ」と手にしていた服を手渡してくれた。

「昔娘が着ていたものなんだけど。よかったら着てちょうだい」

「ありがとう、ございます」

 ぶかぶかのシャツを紐で縛って無理矢理着ていたから、他に服がないとわかったのだろう。
 丸一日以上着たままだったから、とてもありがたかった。

「男っていうのはこういうところまで気が回らないからねえ」

 ちらりと視線を投げかけられると、ラースは「すまん、助かる」と苦笑した。

「私はミイル。ラースに困らされたら、この宿に戻ってきなさいな。ラースは強いけど、私には勝てないんだよ」

「おいおい」

 ラースは苦笑したけれど、宿の女将、ミイルは珠美にいたずらっぽくウインクをして「着替えておいで」と部屋に促した。
 なんとなくだけど、確かにラースはミイルに勝てなそうだと珠美は思った。

     ・・・◆・・・◇・・・◆・・・

 ミイルが渡してくれた服は、生地は簡素なものではあったが、パフスリーブの袖にレースがついているかわいらしいものだった。旅をすることを考慮してくれたのか、下はスカートではなくキュロットのような分かれているもので動きやすい。
 ぶかぶかの服を無理矢理着ていたから、着替えただけでかなりさっぱりした気持ちになれた。
 お風呂には入れなかったものの、濡れたタオルで体を拭けたのもありがたかった。
 ミイルはお弁当まで持たせてくれた。旅人に渡しているものらしい。

「なんとか今日中に城に着きたいところだな。こっから先は城の近くまで宿がないからなあ」

 朝も起きるのが遅かったし、子供の体の珠美を連れていてはなお遅れるだろう。

「寝坊してごめんなさい」

 珠美のために城まで行こうとしているのに、と反省する。
 しかしラースはぐりぐりと珠美の頭を撫でた。

「ぐっすり眠れるのはいいことだ。じゃないとまともに動けないからな。間に合わなかったら担いでやるから安心しろ」

 それは嫌だ。
 早足で、しっかり歩こう。
 珠美はそう心に決めた。

 村を抜けて再び森に入ると、植生が微妙に変わっているようだった。
 スペードの形の葉はほとんどみかけなくなり、かわりに大きな葉が鬱蒼と茂るようになった。まるで森への侵入を拒んでいるかのようで、途端に辺りが薄暗く感じる。

 ――なんか出そう。

 そう思った珠美の予感は鋭かったと言えるかもしれない。
 ただ、『出る』の種類が違っていたが。

 ぴたりとラースが足を止めたので何事かと顔を上げれば、ぽりぽりと頬をかいている。
 その姿からは緊張感は感じられないが、ラースの手は腰のダガーに伸びていた。
 はっとして、ラースから離れようと踵を返した。闘うラースの邪魔になると思ったからだ。
 しかしその首元をラースがぐいっと引っ張り、肩に担ぎ上げる。

「きゃあっ?!」

 思わず悲鳴を上げて、ラースの首にしがみついたからずり落ちてしまった。

「離れると守れない。そこにくっついてろ」

 慌てた様子もなく平然とそう言って、ラースは左腕で珠美を抱えた。
 首に抱きつくような形になってしまったが、年頃の珠美でもどぎまぎしている余裕はなかった。
 珠美の耳にも、もはや隠す気のなくなった足音がざっざと聞こえてきていたからだ。

「よーお。おっさんとガキが一人か。この先は魔王城しかねえ。そんなところに一体何の用だ?」
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