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第一章 まだ時給を聞いてない

7.確かに今は無一文だ

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「確かに今は無一文な私に言えることじゃないのはわかってる。宿代だってラースに借金してる状態だし。だけど、なんで同室なの?」

「子供一人で泊まらせるわけにいかないだろ? 事情を明かすわけにもいかんし。ここで魔王ってバレると面倒だぞ?」

 その話はわかる。
 しかし、だからといって抵抗が薄れるわけではない。
 ラースは何でもないことのようにごろりとベッドに横になり、脇に来いというようにぽんぽんと布団を叩いた。

「子供に手ぇ出すほど困っちゃいない。俺はボンキュボンの大人の魅力たっぷりのオネエサンにしか食指は動かん」

 それはそうだろう。
 果てしなくわかる。
 黙っていても漂う大人の色香をお持ちで、宿の女将にも女難の相があるとまで言われていた男が女に不自由などしているわけがない。
 村を歩いている時も、何人かの女の人が「ふうん」と値踏みをするように、紫色がかってそうな視線を送ってきていた。
 あれは今夜一晩の相手に狙われているんじゃないだろうか。だって、ラースの服の裾に珠美が繋がっているのに気付くと、「なんだ」というように興味を失くしてしまうのだ。
 もしかしたら、ものすごく邪魔をしてしまったのではないだろうか。

 その懸念が伝わったのだろう。ラースは「大丈夫だ」と先んじて掌を珠美に向けた。

「行きずりに手を出すほど困ってもいない」

 珠美に気にするなと言ってくれているのはわかる。
 だがふと、決まった人がいるということだろうかと考えてしまった。だとしたらそれも問題ではないか。
 ラースがどう思っていたとしても、一応十八歳の珠美が同じベッドで寝たと知ったら相手は嫌な気持ちになるだろう。
 そしてふと気が付いた。行きがかり上護衛なんて頼んでしまったが、よかったのだろうか。

「ねえ、ラースは用事とか仕事とか、大丈夫だったの?」

「ちょうど次の仕事でも探すかなと思ってたところだ。おかげで話が早く済んで助かった」

 珠美が考えていることは何でもお見通しのようだ。
 そんなに顔に出ているだろうかと、思わず頬をむにむにしてしまう。

「ははは、おまえはかわいいなあ。大丈夫だ、そんなに心配しなくても、迷惑なんかかけられてねえよ。なんかあれば俺は遠慮なく言うしな。ちゃんと契約した同士、お互いに利益のある仲なんだ。開き直って、料金分は頼れ」

 そうして手を伸ばし、珠美の頭をぽんぽんと撫でる。
 やっぱり猫か何かと思っていそうだが、反面、珠美を一人の人間として尊重してくれているのはよくわかっていた。
 村に入るときも、宿に入るときも、ラースは逐一珠美に意志を確認してくれたから。
 意外ときめ細やかに気を遣ってくれるし、その上珠美にも必要以上に気を遣わせないように気を配ってくれる。
 恩着せがましいところもなく、契約しているのだからあくまで対等だと態度で示してくれる。

 これまで会った人にはない、居心地のよさがあった。
 この世界に一人放り出されて、一番の幸運は真っ先に出会ったのがラースだったことだと珠美は思った。
 だからクライアはラースを選んだのかもしれない。
 話も聞かず早合点してしまうクライアに、吟味する時間があったとも思えなかったけれど。

 それでも一緒にベッドに横になることは別だ。
 床ででも寝よう、と思ったところで、ラースが「まあ、わかった」とむくりと起き上がった。

「俺がよくてもおまえが気にするのはわかる。だから、ちょっとそっち向いて待ってろよ」

 そう言ってベッドから立ち上がると、おもむろに服を脱ぎだした。

「わー!! 言ってることとやってることが矛盾してる!」

「だから見たくなきゃ、あっち向いてろって」

 呆れたように笑われて、珠美は慌てて背を向けた。
 カチャカチャとベルトの金具を外す音と、それが服と一緒に床に落ちる音が聞こえる。
 その音だけで珠美が思わず「キャー!!」と叫び出しかけたところ、ぼふん、と唐突に靄のようなものが辺りを覆った。

「な、なに!?」

 思わず振り返ると、靄の中心地には黄褐色の毛に黒の縞模様の一頭の勇猛な、虎の姿があった。

「これならいいだろう」

 喉の奥から唸るように発された獣の声は、確かにラースのものだった。
 尖った耳と尻尾はそのまま。
 どうやら人の姿と虎の姿とを自由に切り替えられるらしい。
 だんだん慣れてきたように思っていたが、さらに異世界感が強まって来た。

 だがそんな戸惑いとは裏腹に、ベッドに横たわり、招き入れるように太い尻尾でたすたすと布団を叩かれると、珠美はそっと布団に横になっていた。
 おずおずと虎の姿のラースの腹の内側に丸まり、そっと頬をそのもふもふに埋めた。

「あっ……」

 ――めっちゃもふもふ。めっちゃ気持ちイイ……。

 抗えない。
 もふもふに触れたい、埋もれたいという本能的な欲求からは。
 珠美の背中をラースの太い尻尾が撫でるようにふわふわと揺れる。
 全身をもふもふに包まれたようになり、珠美の体から力が抜けていった。

 ――何この底知れない安心感……。

 突然知らない世界に放り出され、心身共に疲れ切っていたのだろう。
 考えることを放棄して、珠美は気づけば目を閉じていた。

「ぐう。」

 そのまま夕飯も食べずに、珠美は深い眠りへと落ちていった。
 間もなくして、虎がくつくつと楽しそうに、愛しそうに笑う声も聞かずに。
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