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第3章
第3話 母を知る人
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髪が崩れた。
今日は急なことだったから、王妃殿下の侍女の方々が私の髪を結ってくださったのに、申し訳が立たない。
だがエドワード殿下が私以上に衝撃を受けたような顔をしているのが気にかかる。
その側近も何故だか幽霊を見るような顔で食い入るように私を見ている。
「私をご存じなのですか?」
「いや……、その……。ローラ・ファルコット嬢、ですよね。クリスティーナとは血が繋がっていないと聞きましたが、ローラ嬢の母君は?」
「既に亡くなっておりますが」
母の知り合いで、私の顔を見て似ていると思ったのだろうか。
側近と何やら目配せし合っているところからしても、『この顔に見覚えがあります』と言っている。
母が推測通りクレイラーンの出身なのだとしたら、以前に会っていたとしても不思議ではない。
後妻であることから義姉に配慮したのか、母はファルコット伯爵家に肖像画なんて残さなかったから、記憶頼りだけれど確かに似てはいると思う。
しかし、エドワード殿下は私とそれほど年が変わらないように見える。だとしたら、母とクレイラーンで会っていたとしても赤ん坊の頃ではないだろうか。
だとしたら、他人の空似かもしれない。
それとも、母の親戚に似ていた?
王子がぱっと見てすぐに似ていると思うほどよく見慣れた人ということになると、やはり母は貴族の令嬢だったのだろうか。
生活能力のなさからどこかのお嬢様だったのだろうとは思っていたけど、商家かどこかかと思っていた。
そんなことを考えていると、側近と目を見合わせるエドワード殿下に苛立ったように、義姉が声を上げた。
「ローラの母は平民です。殿下のお知り合いだなんてことは間違ってもありませんわ。私の母はサスティーナル侯爵家の出身で、祖父は宰相を務めていたそうです」
聞いていないのだが、エドワード殿下は慎重に見極めようとするかのように義姉に尋ねた。
「クリスティーナの母君は、その、実子? それともローラ嬢のように養女に入ったとか」
「いえ、母は生粋の貴族でしたわ。ですから私は貴族としてあるべき姿を常に追い求め、私の持っているものをこの国のために活かさなければと励んでまいりました。ですがローラはいつもただ笑ってばかりで、ファルコット伯爵家としての教育も受けておりませんでした」
「それは私が絶対に後継ぎにはならないからです。ファルコット伯爵家の血は一滴も流れていないのにそのような教育を私が受けたら、お義姉様は激怒なさったのでは? 私にどうあってほしかったのですか」
私が受けたのは一般的な教育と淑女教育だけで、義父も敢えてそうして差をつけることによって、義姉だけを後継ぎに考えていると示した。
そのことに義姉も満足していたはずだ。
義姉が答えずに憎々しげに私を睨む隣で、エドワード殿下と側近がまた何やら目配せをしあった。
そうして側近はエドワード殿下の側を離れると、義姉に手を差し伸べた。
「クリスティーナ様。本日はお疲れでしょうから、お部屋に戻りましょう。エドワード殿下がこの後お茶をご一緒したいとのことですから、どうぞこちらへ」
そう聞くと、義姉は怒りを収め、まんざらでもなさそうに笑みを浮かべた。
自分が選ばれたのだと私に誇示するようにゆっくりとした動作で側近の手を取ると、「では、準備をしてお待ちしておりますわ」と優雅に微笑み、くるりと踵を返した。
しかしエドワード殿下はその場に残ったまま。
邪魔者はいなくなったとばかりに改めて私に向き直った。
「ローラ嬢はほとんど市井では暮らさぬうちにファルコット伯爵家に連れて来られたのですか?」
「六歳までは町で暮らしておりました」
「そうですか……。幼い頃から身にしみついたものというのはふとしたときに出てしまうものですが、ローラ嬢の立ち居振る舞いは生粋の貴族と何ら変わりなく見えます。平民と言っても、どこか裕福な商家にでも生まれたのですか?」
「いえ、町はずれの粗末な家で、父が子どもたちに剣を教えて養ってくれました」
「父君が剣を? やはり……。ローラ嬢の教育は母君ですか? さぞ熱心な方だったのでしょうね」
厳しいというほどではないけれど、母からはよく姿勢を注意されていたし、食事のマナーも一通り教えてくれた。
そのおかげでファルコット伯爵家に来てもそれほど苦労はせずに済んだ。
だが――。
このまま会話を続けていていいのだろうか。
母の出自は知りたいが、エドワード殿下の疑いが確信に変わった時、どのような反応をするのかがわからない。
駆け落ちしたのだとしたら、誰かに迷惑をかけていたかもしれない。クレイラーンで何らかの罪に問われるようなこともあるかもしれない。
私を連れて帰ろうとするだろうか。
だが私はクレイラーンには行きたくない。
もし祖父母や親戚がいると言われても、それほど会いたいとも思わない。
だとしたら、この先の会話は避けたほうがいいのかもしれない。
でもそれは責任から逃れているだけにならないだろうか。
そうして態度を決めかねていると、エドワード殿下が核心に迫るように鋭い目を私に向けた。
「つかぬことをお伺いしますが、クリスティーナが身に着けていたあのルビーのネックレスはご存じで? もしや、ローラ嬢の母君のものだったりはしませんか」
これに答えるわけにはいかない。
義姉に盗られたと主張することにもなるし、何よりこれに答えたらきっとエドワード殿下は確信を得るだろう。
相手の思惑がわからない以上、こちらからだけ情報を渡すのは不利だ。
後手に回ってしまっては身動きが取れなくなる。
だが黙っていることそのものが答えだとばかりに、エドワード殿下は質問を変えた。
「母君のお名前を聞いても――?」
つい、母のことを知りたいという思いでここまで話してしまったことを後悔した。
しかし隣国の王族相手に嘘をつくこともできない。
「ご自分の母親の名前ですよ。忘れてはいませんよね? それとも何か言えないわけでもあるのですか?」
「――シーナです。平民でしたので姓はありません」
どうせ調べればわかることだと諦めた。
嘘をついたとわかれば、私が母の存在を隠そうとしていると思われ、立場を危うくしかねない。
だから正直に答えたのだが、エドワード殿下は眉を顰め、いかにも思ってたんと違うという顔をした。
「それは愛称、とかではなくてですか? 本当に? いや、偽名を名乗っていたという可能性もある。まさか、クライゼルの王家も知っていて、だからローラ嬢はベールで顔を――」
エドワード殿下が顎に手をあてぶつぶつと言い始めた時だった。
義姉から奪い返したベールが私の手からするりと引き抜かれ、驚いて隣を見上げると、レガート殿下が厳めしい顔でそのベールを私の頭に被せ直した。
「エドワード殿下。何故私の婚約者のベールをお取りになったのですか?」
「私ではない。それはクリスティーナが」
「ああ、そうでしたか。しかし、困りますね」
その言葉に、エドワード殿下が目を細めてレガート殿下を注視した。
「――何が困るのですか?」
「減るからです」
「………………は?」
たっぷりの間の後に、エドワード殿下が不審げに聞き返す。
「二度も婚約者に逃げられた間抜けな王太子と謗られるようなわけにはいかない。ゆえに、ローラのことは誰にも渡さないし、横から奪われたりせぬよう最大の警戒をしているのです。そのためのベールです。かわいらしい彼女を不用意に晒したくはありませんから。というわけで、そろそろローラは返していただこう」
そう言ってレガート殿下は私の肩をぐいっと抱き寄せると、眉を寄せるエドワード殿下を置き去りにして歩き出した。
その後をカインツ様が沈痛な面持ちでついてくる。
「レガート殿下、ローラ嬢、申し訳ありません。ベールで隠していたのは事情がおありだったのですね。姉妹間のことに私がしゃしゃり出ることでもないかと見守ってしまっておりました。レガート殿下のただのむきだしの独占欲ゆえと思っておりましたもので……」
「仕方がない。それもあるからな」
今この人はさらりと何て言った?
「事情を話せないにしても、ベールを死守しろと命じておくべきだったのにそれをしなかった私の落ち度だ。まさか彼女がそんな行動に出るとは予想もしなかった」
確かにわざわざ隠しているのに勝手にベールを剥ぎ取るなど意味がわからない。
そんなことをするのは義姉くらいのものだ。
そうして執務室にたどり着くと、カインツ様は気合いを入れ直すように廊下に控え、部屋には私とレガート殿下の二人きりとなった。
「レガート殿下。私の母が隣国の出身で、それもかなり王家に近い人間だと、国王陛下も王妃殿下もご存じだったのですね? そしてそれをクレイラーンの方々に気取られないためにベールをつけるようにおっしゃったのですね?」
今日は急なことだったから、王妃殿下の侍女の方々が私の髪を結ってくださったのに、申し訳が立たない。
だがエドワード殿下が私以上に衝撃を受けたような顔をしているのが気にかかる。
その側近も何故だか幽霊を見るような顔で食い入るように私を見ている。
「私をご存じなのですか?」
「いや……、その……。ローラ・ファルコット嬢、ですよね。クリスティーナとは血が繋がっていないと聞きましたが、ローラ嬢の母君は?」
「既に亡くなっておりますが」
母の知り合いで、私の顔を見て似ていると思ったのだろうか。
側近と何やら目配せし合っているところからしても、『この顔に見覚えがあります』と言っている。
母が推測通りクレイラーンの出身なのだとしたら、以前に会っていたとしても不思議ではない。
後妻であることから義姉に配慮したのか、母はファルコット伯爵家に肖像画なんて残さなかったから、記憶頼りだけれど確かに似てはいると思う。
しかし、エドワード殿下は私とそれほど年が変わらないように見える。だとしたら、母とクレイラーンで会っていたとしても赤ん坊の頃ではないだろうか。
だとしたら、他人の空似かもしれない。
それとも、母の親戚に似ていた?
王子がぱっと見てすぐに似ていると思うほどよく見慣れた人ということになると、やはり母は貴族の令嬢だったのだろうか。
生活能力のなさからどこかのお嬢様だったのだろうとは思っていたけど、商家かどこかかと思っていた。
そんなことを考えていると、側近と目を見合わせるエドワード殿下に苛立ったように、義姉が声を上げた。
「ローラの母は平民です。殿下のお知り合いだなんてことは間違ってもありませんわ。私の母はサスティーナル侯爵家の出身で、祖父は宰相を務めていたそうです」
聞いていないのだが、エドワード殿下は慎重に見極めようとするかのように義姉に尋ねた。
「クリスティーナの母君は、その、実子? それともローラ嬢のように養女に入ったとか」
「いえ、母は生粋の貴族でしたわ。ですから私は貴族としてあるべき姿を常に追い求め、私の持っているものをこの国のために活かさなければと励んでまいりました。ですがローラはいつもただ笑ってばかりで、ファルコット伯爵家としての教育も受けておりませんでした」
「それは私が絶対に後継ぎにはならないからです。ファルコット伯爵家の血は一滴も流れていないのにそのような教育を私が受けたら、お義姉様は激怒なさったのでは? 私にどうあってほしかったのですか」
私が受けたのは一般的な教育と淑女教育だけで、義父も敢えてそうして差をつけることによって、義姉だけを後継ぎに考えていると示した。
そのことに義姉も満足していたはずだ。
義姉が答えずに憎々しげに私を睨む隣で、エドワード殿下と側近がまた何やら目配せをしあった。
そうして側近はエドワード殿下の側を離れると、義姉に手を差し伸べた。
「クリスティーナ様。本日はお疲れでしょうから、お部屋に戻りましょう。エドワード殿下がこの後お茶をご一緒したいとのことですから、どうぞこちらへ」
そう聞くと、義姉は怒りを収め、まんざらでもなさそうに笑みを浮かべた。
自分が選ばれたのだと私に誇示するようにゆっくりとした動作で側近の手を取ると、「では、準備をしてお待ちしておりますわ」と優雅に微笑み、くるりと踵を返した。
しかしエドワード殿下はその場に残ったまま。
邪魔者はいなくなったとばかりに改めて私に向き直った。
「ローラ嬢はほとんど市井では暮らさぬうちにファルコット伯爵家に連れて来られたのですか?」
「六歳までは町で暮らしておりました」
「そうですか……。幼い頃から身にしみついたものというのはふとしたときに出てしまうものですが、ローラ嬢の立ち居振る舞いは生粋の貴族と何ら変わりなく見えます。平民と言っても、どこか裕福な商家にでも生まれたのですか?」
「いえ、町はずれの粗末な家で、父が子どもたちに剣を教えて養ってくれました」
「父君が剣を? やはり……。ローラ嬢の教育は母君ですか? さぞ熱心な方だったのでしょうね」
厳しいというほどではないけれど、母からはよく姿勢を注意されていたし、食事のマナーも一通り教えてくれた。
そのおかげでファルコット伯爵家に来てもそれほど苦労はせずに済んだ。
だが――。
このまま会話を続けていていいのだろうか。
母の出自は知りたいが、エドワード殿下の疑いが確信に変わった時、どのような反応をするのかがわからない。
駆け落ちしたのだとしたら、誰かに迷惑をかけていたかもしれない。クレイラーンで何らかの罪に問われるようなこともあるかもしれない。
私を連れて帰ろうとするだろうか。
だが私はクレイラーンには行きたくない。
もし祖父母や親戚がいると言われても、それほど会いたいとも思わない。
だとしたら、この先の会話は避けたほうがいいのかもしれない。
でもそれは責任から逃れているだけにならないだろうか。
そうして態度を決めかねていると、エドワード殿下が核心に迫るように鋭い目を私に向けた。
「つかぬことをお伺いしますが、クリスティーナが身に着けていたあのルビーのネックレスはご存じで? もしや、ローラ嬢の母君のものだったりはしませんか」
これに答えるわけにはいかない。
義姉に盗られたと主張することにもなるし、何よりこれに答えたらきっとエドワード殿下は確信を得るだろう。
相手の思惑がわからない以上、こちらからだけ情報を渡すのは不利だ。
後手に回ってしまっては身動きが取れなくなる。
だが黙っていることそのものが答えだとばかりに、エドワード殿下は質問を変えた。
「母君のお名前を聞いても――?」
つい、母のことを知りたいという思いでここまで話してしまったことを後悔した。
しかし隣国の王族相手に嘘をつくこともできない。
「ご自分の母親の名前ですよ。忘れてはいませんよね? それとも何か言えないわけでもあるのですか?」
「――シーナです。平民でしたので姓はありません」
どうせ調べればわかることだと諦めた。
嘘をついたとわかれば、私が母の存在を隠そうとしていると思われ、立場を危うくしかねない。
だから正直に答えたのだが、エドワード殿下は眉を顰め、いかにも思ってたんと違うという顔をした。
「それは愛称、とかではなくてですか? 本当に? いや、偽名を名乗っていたという可能性もある。まさか、クライゼルの王家も知っていて、だからローラ嬢はベールで顔を――」
エドワード殿下が顎に手をあてぶつぶつと言い始めた時だった。
義姉から奪い返したベールが私の手からするりと引き抜かれ、驚いて隣を見上げると、レガート殿下が厳めしい顔でそのベールを私の頭に被せ直した。
「エドワード殿下。何故私の婚約者のベールをお取りになったのですか?」
「私ではない。それはクリスティーナが」
「ああ、そうでしたか。しかし、困りますね」
その言葉に、エドワード殿下が目を細めてレガート殿下を注視した。
「――何が困るのですか?」
「減るからです」
「………………は?」
たっぷりの間の後に、エドワード殿下が不審げに聞き返す。
「二度も婚約者に逃げられた間抜けな王太子と謗られるようなわけにはいかない。ゆえに、ローラのことは誰にも渡さないし、横から奪われたりせぬよう最大の警戒をしているのです。そのためのベールです。かわいらしい彼女を不用意に晒したくはありませんから。というわけで、そろそろローラは返していただこう」
そう言ってレガート殿下は私の肩をぐいっと抱き寄せると、眉を寄せるエドワード殿下を置き去りにして歩き出した。
その後をカインツ様が沈痛な面持ちでついてくる。
「レガート殿下、ローラ嬢、申し訳ありません。ベールで隠していたのは事情がおありだったのですね。姉妹間のことに私がしゃしゃり出ることでもないかと見守ってしまっておりました。レガート殿下のただのむきだしの独占欲ゆえと思っておりましたもので……」
「仕方がない。それもあるからな」
今この人はさらりと何て言った?
「事情を話せないにしても、ベールを死守しろと命じておくべきだったのにそれをしなかった私の落ち度だ。まさか彼女がそんな行動に出るとは予想もしなかった」
確かにわざわざ隠しているのに勝手にベールを剥ぎ取るなど意味がわからない。
そんなことをするのは義姉くらいのものだ。
そうして執務室にたどり着くと、カインツ様は気合いを入れ直すように廊下に控え、部屋には私とレガート殿下の二人きりとなった。
「レガート殿下。私の母が隣国の出身で、それもかなり王家に近い人間だと、国王陛下も王妃殿下もご存じだったのですね? そしてそれをクレイラーンの方々に気取られないためにベールをつけるようにおっしゃったのですね?」
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