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第3章
第1話 帰ってきた人
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「予定より早い訪問となってしまったところを快く迎え入れていただき、ありがとうございます」
膝をつき、礼をしたのは隣国クレイラーンの第三王子エドワード殿下だ。
一か月をかけてクライゼルを見て回り、王城を訪問することになっていて、音楽祭も歓待の一つとして予定されていた。
だが今王城でエドワード殿下を迎え入れているのは、それらとはまた別の理由によるもので、だから予定より早い訪問となった、らしい。
それもエドワード殿下の背後にいる人物を見れば、事情はなんとなく察せられた。
そこにいたのは、毎日見ていた義姉。
全ての役目を放り出しておいて、どんな顔で――と思ったら、なるほど、『被害者』だと思っているらしい。
目を伏せ『辛いです!!』という顔が全開だった。
逆に私のほうがベールを被せられ、顔を伏せさせられている。
何故だかこの場に来る前にレガート殿下と国王陛下が『顔を見られると面倒だな』と何やら話し合っており、結果こうなったのだ。
わけを聞くと、時間がないから後でと流され、私は今、非常にもやもやしている。
「我が国をひと月見て回られたとのことですが、いかがですかな? 何か得られるものでもあったのならばよいのですが、その結果がそこに連れておられます女性ということでしたら、我が国の心中としては穏やかではいられませんな」
謁見の間にクレイラーン側の人間とクライゼル側の人間がずらりと向かい合っているわけだが、先日まで聖女であり王太子の婚約者であった義姉は完全にクレイラーン側に立っている。
そしてその胸には母の形見である大ぶりなルビーのネックレスが光っている。
「彼女とは王都へと繋がる街道にある宿場町で出会いました。金品を盗られてしまい、立ち往生していたようで、困りきった様子に放っておけず声をかけさせていただいたのです。そこで事情があって家を出てきたクライゼルの令嬢と聞き、保護しておりました」
金品を盗られたというのは予想通りだったけれど、ネックレスが無事であったことにほっとした。
きっと服の内側にでも隠していたのだろう。
エドワード殿下はキリッと強い目を私とレガート殿下に向けた。
「やはり話に聞いていた通り、義妹であるあなたがあらぬ悪評を立てて追い出し、クリスティーナから何もかも奪ったのですね」
「奪った、とは? 具体的に何のことですかな。それにクリスティーナ嬢のあらぬ悪評など聞いたこともないが」
初耳だと言わんばかりの声をあげたのは国王陛下だ。
エドワード殿下は陛下に目を戻すと、咎めるように続けた。
「私も演説の内容はあちらこちらで耳にしました。クリスティーナの義妹であるローラ嬢は、レガート殿下の婚約者となったのでしょう。聖女であり、殿下の婚約者であったクリスティーナを追い出し、婚約者を奪うとはなんたる厚顔な……」
「はて。どうにも物事の順序というものを自由に入れ替えるとそのような物語になってしまうようですな」
「なんですと……?」
「国の要である聖女および王太子の婚約者を好んで追い出したい王家がありますかな? さらには義理の妹による愚行であるのにその後釜に据えるようなことを貴殿だったら選択すると?」
「私はそんなことはしない!」
「そうでしょうな。それはこの国も同じですよ」
「だったら何故……!?」
エドワード殿下の背後に隠れた義姉を見透かすように陛下が目を向けるが、義姉は顔を上げようとはしない。
陛下は側に立っていた側近に目線をやり、エドワード殿下に一枚の紙を差し出させた。
それはあの日義姉が部屋に残していった置手紙だ。
「これは……! やはりクリスティーナは辛い思いをしてきたのだな。だから家を出ざるを得なかった。その証拠ではありませんか!」
「これは読む者によって異なる『事実』を見せる不思議な手紙なのですよ」
「どこからどう見ても、虐げられてきた一人の哀れな女性が出奔するに至った辛い事情が綴られているだけではないですか!」
「『ひたすらに努力をしてきた』というのが、まあ、事実だったとして、どんな努力でも、すれば役目を果たしたということになりますかな?」
手紙というものは主観で綴られるものであり、主観がいつも事実と同一だとは限らない。
どういうことかと戸惑うエドワード殿下に、国王陛下は続けた。
「私に見える『事実』はクリスティーナがあらゆる重責を担いながら、そのどれも文句ばかりでまともに務めず、果ては話し合いの用意があったのにも関わらず身勝手にも逃げ出し、ローラにすべてを押し付け出奔した、というものなのですよ。それだけの役目をクリスティーナ嬢が負っていたことをご存じなのでしたら、いなくなった後どのような騒ぎになるかなど、エドワード殿下にも簡単に想像がつくことでしょう。誰も代わりになることはできず、これまで通りの国の安定には多大な労力が必要とされた。その犠牲の上に今この国は平穏を保っている」
「しかし、クリスティーナはずっと義理の妹に奪われ続けてきたのだ。逃げ出すのも当然ではありませんか!」
「ローラは伯爵とは血が繋がっておらず、平民の出身。再婚した母も既に亡く、魔力もない。その立場で、手紙に書かれているそれらが本当に奪えるとお考えですかな?」
エドワード殿下は明らかに動揺していた。
言われて初めて疑問を抱いたのだろう。
多大な能力と立場を生まれ持った義姉が何もかも奪われるだなんて、じゃあ義姉は一体何をしていたというのか、という話だ。
「一人の主観に基づく手紙を証拠として物事を判断するのは些か王族としての資質が疑われますから今後はよく考えて発言なされるとよい」
「いえ、し、しかし、聖女の務めを果たさねばならないクリスティーナに王太子妃の婚約者という重責を押し付け、しかも学院では生徒会副会長まで務めていたというではありませんか。一つでも十分な重責であるというのに、常人にこなせるわけがないのですから、三つも押し付けるなどあんまりです」
「仰る通り失策でしたな。聖女である彼女が『私しかいない』と触れ回ったおかげで、誰もがひいてしまったために仕方なく彼女を選んだ。私の妻もまた、現王妃であり現聖女であり、学院に通っていた頃は生徒会長も務めていたものですが、だからといってクリスティーナ嬢にもできるわけではないのですから」
「ええ、素晴らしいことに、王妃殿下は常人離れした能力をお持ちだったというだけです」
「そうですな。まずクリスティーナ嬢には王太子妃教育を受けてもらい、少しずつ様子を見ながら聖女のつとめを果たしてくれればと思っていましたが。結局何も進まないままでしたから、見込み違いも甚だしかったわけです」
陛下の見下ろす視線を後頭部で受けたまま、義姉が初めて口を開く。
「……王太子妃教育は重箱の隅をつつくようなもので、無駄なことばかりでしたもの。まずはそれを是正しなければ」
「無駄であると判ずるまえに、それが何故必要とされたのか、考えてはみたかしら?」
笑顔を浮かべたままそう割り入ったのは王妃殿下だ。
「それは、国や王家の決まり事など最初から無駄だらけで、何も考えず代々引き継がれてきてしまったから――」
「あら、論理的な根拠もないの? あなたがもしまだどこかの国の王子妃になるつもりなら、今度は物事を広い視野で見られるようにするといいわ」
当然ながら義姉はそれ以上の言葉を紡げない。
頭を伏せるようにして顔を隠しているが、背の低い私にはその口元が苦々しげに歪んでいるのが見えた。
「生まれ持ったものがいかに優れていようと、それを活かすつもりがなければ宝の持ち腐れ。国の利益にもならない。本人の資質を見極め、もっと慎重に判断すべきであったと私も反省している」
陛下がため息を吐き、エドワード殿下はどういうことかと訝しむように背後の義姉を見つめていた。
聞いていた話と違ったのだろう。
だがまだ義姉を信じているようで、陛下のほうが都合よく話を捻じ曲げていると思い直したようだ。
そんなわけないと思いたいのだろう。
「どこまでも彼女のせいにするつもりなのですね。お言葉ですが、一国の王が見苦しいのではありませんか?」
「ハハハ! 義憤に駆られているようだが、もっと自身の目と耳で事実を知るべきと爺は苦言でも送っておきましょうか。国を背負う立場ならいつまでも若さを言い訳にはできませんぞ」
悔しそうに唇を噛みしめるも、エドワード殿下はすぐに開き直るように表情を改めた。
「そこまでおっしゃるのであれば、クリスティーナはこの国にとってはもう必要がないということでよろしいいですか? でしたら私がクレイラーンへとお連れしても問題はありませんよね。まあ、国の機密情報を喋られては困るということもありましょうから、誓約書なりなんなりを交わして――」
「ああ、それはかまわんよ。誓約書も不要だ。今後どこで暮らそうと本人の自由。好きになされい」
「は――? しかし彼女は聖女で多大な力を持っていて、しかも王太子の婚約者だったのですから我が国へ来るとなれば不利益を被ることになるのでは?」
「先日の演説の内容を聞きかじったのであればご存じのことかと思うが、この国はもう聖女として誰か一人を国に縛り付けるつもりはない。それに彼女はこの国の機密など知らん」
「彼女の立場でそんなことがあるわけ……」
「ですから、彼女はまだ何もしていないのですよ」
肩書きと予定が入っていただけで中身は空っぽ。
揚々と引き受けたはずが役目を負った途端に文句ばかりで何もしない人に国の機密など伝えるわけもない。
そもそもそこまで教育が至っていない。
「王妃を始めとして、義理の妹であるローラ嬢も何度もクリスティーナを諫めておったのだがな。彼女は文句を言うばかりでその態度は改まりはしなかった」
諦めるように、陛下は小さく息を吐いた。
エドワード殿下は怒ったようにカッと頬を染めた。
「そうして苦しんでいるクリスティーナを追い込み、虐げてきたのですか! もういい。彼女にはクレイラーンに来ていただく。後で返せと言われても応じはしませんよ。私は彼女が聖女だから国に連れて帰るわけではない。自由に生きる場所を与えてやりたいと思うだけなのです」
「先ほども言ったように、彼女は自由だ。好きになされい」
ただ義姉を不憫に思っているだけなのか、聖女を連れて帰りたいのか、エドワード殿下の目的はわからない。
だが後者だとしても、重い役目を負わせたと責めておきながら、聖女にしたいから連れ帰るとは言えないだろう。
そもそもそれを言ったら義姉も逃げ出すと思うのだが。
だが実際にはクレイラーンにとって聖女は手に入るなら手に入れてみたいものだろう。
クレイラーンには聖女がおらず、防御壁もないからだ。
長く武力に頼り、魔法など邪道という考えが浸透しているそうで、聖女という存在を国民が好意的に受け入れるのは難しいだろうが、防御壁など目に見えないのだから知らせずに張ってしまえばよく、それで魔物被害が少なくなれば国民も納得させられると考えるかもしれない。
だが実際は義姉一人がクレイラーンに行ったところで、クライゼルのような防御壁は築けない。
演説を聞いていたのなら、今後は国民たちがそれぞれ祈りを捧げて防御壁を維持することは知っているはずで、その方法が『守りの石』と呼んだ水晶に祈りを捧げることだとも既に聞いているはず。
クライゼルと同じように魔力を持つ人間はいるだろうから、その水晶さえあればクレイラーンにも同じように防御壁が築けると考えたことだろう。
だがただの水晶にそんな力はない。
この国で産出した水晶に王妃殿下が媒介としての魔術を刻んだことで、この地を覆う力を発揮するのだ。
仮に守りの石をクレイラーンに持って帰ったところで、何の役にも立ちはしない。
そんなことはおつとめを拒否していた義姉が知るわけはないし、クレイラーンで聖女としての役割を求められても同じことを繰り返すだけに思う。
いや、今度こそ期待に応えようとするかもしれない。
そうなったらクレイラーンもクライゼルも平和なわけで、それならそれでいいのかもしれない。
ただ、エドワード殿下が義姉をどうするつもりかはまだはっきりとはわからない。
拍子抜けしたように戸惑うエドワード殿下に、国王陛下は「ただし」と続けた。
「仮にもこの国の大事な民の一人を連れて行くのですから、きちんと責任はもっていただきたい。クライゼルに帰りたいなどと言わせるようなことのないように」
「それはもちろんです。クライゼルに尽くすつもりだった気高い彼女に相応しい居場所をご用意します。ですからこのことを禍根とせず、今後も変わらず我が国とお付き合いいただけますね?」
「もちろんだ。今回のことでクレイラーン国との関係が何ら変わることなどない」
陛下は笑みをたたえ、鷹揚に頷いた。
ほっとしたように頭を下げたエドワード殿下が、ふと一点に視線を留め、凝視するように眉を寄せた。
膝をつき、礼をしたのは隣国クレイラーンの第三王子エドワード殿下だ。
一か月をかけてクライゼルを見て回り、王城を訪問することになっていて、音楽祭も歓待の一つとして予定されていた。
だが今王城でエドワード殿下を迎え入れているのは、それらとはまた別の理由によるもので、だから予定より早い訪問となった、らしい。
それもエドワード殿下の背後にいる人物を見れば、事情はなんとなく察せられた。
そこにいたのは、毎日見ていた義姉。
全ての役目を放り出しておいて、どんな顔で――と思ったら、なるほど、『被害者』だと思っているらしい。
目を伏せ『辛いです!!』という顔が全開だった。
逆に私のほうがベールを被せられ、顔を伏せさせられている。
何故だかこの場に来る前にレガート殿下と国王陛下が『顔を見られると面倒だな』と何やら話し合っており、結果こうなったのだ。
わけを聞くと、時間がないから後でと流され、私は今、非常にもやもやしている。
「我が国をひと月見て回られたとのことですが、いかがですかな? 何か得られるものでもあったのならばよいのですが、その結果がそこに連れておられます女性ということでしたら、我が国の心中としては穏やかではいられませんな」
謁見の間にクレイラーン側の人間とクライゼル側の人間がずらりと向かい合っているわけだが、先日まで聖女であり王太子の婚約者であった義姉は完全にクレイラーン側に立っている。
そしてその胸には母の形見である大ぶりなルビーのネックレスが光っている。
「彼女とは王都へと繋がる街道にある宿場町で出会いました。金品を盗られてしまい、立ち往生していたようで、困りきった様子に放っておけず声をかけさせていただいたのです。そこで事情があって家を出てきたクライゼルの令嬢と聞き、保護しておりました」
金品を盗られたというのは予想通りだったけれど、ネックレスが無事であったことにほっとした。
きっと服の内側にでも隠していたのだろう。
エドワード殿下はキリッと強い目を私とレガート殿下に向けた。
「やはり話に聞いていた通り、義妹であるあなたがあらぬ悪評を立てて追い出し、クリスティーナから何もかも奪ったのですね」
「奪った、とは? 具体的に何のことですかな。それにクリスティーナ嬢のあらぬ悪評など聞いたこともないが」
初耳だと言わんばかりの声をあげたのは国王陛下だ。
エドワード殿下は陛下に目を戻すと、咎めるように続けた。
「私も演説の内容はあちらこちらで耳にしました。クリスティーナの義妹であるローラ嬢は、レガート殿下の婚約者となったのでしょう。聖女であり、殿下の婚約者であったクリスティーナを追い出し、婚約者を奪うとはなんたる厚顔な……」
「はて。どうにも物事の順序というものを自由に入れ替えるとそのような物語になってしまうようですな」
「なんですと……?」
「国の要である聖女および王太子の婚約者を好んで追い出したい王家がありますかな? さらには義理の妹による愚行であるのにその後釜に据えるようなことを貴殿だったら選択すると?」
「私はそんなことはしない!」
「そうでしょうな。それはこの国も同じですよ」
「だったら何故……!?」
エドワード殿下の背後に隠れた義姉を見透かすように陛下が目を向けるが、義姉は顔を上げようとはしない。
陛下は側に立っていた側近に目線をやり、エドワード殿下に一枚の紙を差し出させた。
それはあの日義姉が部屋に残していった置手紙だ。
「これは……! やはりクリスティーナは辛い思いをしてきたのだな。だから家を出ざるを得なかった。その証拠ではありませんか!」
「これは読む者によって異なる『事実』を見せる不思議な手紙なのですよ」
「どこからどう見ても、虐げられてきた一人の哀れな女性が出奔するに至った辛い事情が綴られているだけではないですか!」
「『ひたすらに努力をしてきた』というのが、まあ、事実だったとして、どんな努力でも、すれば役目を果たしたということになりますかな?」
手紙というものは主観で綴られるものであり、主観がいつも事実と同一だとは限らない。
どういうことかと戸惑うエドワード殿下に、国王陛下は続けた。
「私に見える『事実』はクリスティーナがあらゆる重責を担いながら、そのどれも文句ばかりでまともに務めず、果ては話し合いの用意があったのにも関わらず身勝手にも逃げ出し、ローラにすべてを押し付け出奔した、というものなのですよ。それだけの役目をクリスティーナ嬢が負っていたことをご存じなのでしたら、いなくなった後どのような騒ぎになるかなど、エドワード殿下にも簡単に想像がつくことでしょう。誰も代わりになることはできず、これまで通りの国の安定には多大な労力が必要とされた。その犠牲の上に今この国は平穏を保っている」
「しかし、クリスティーナはずっと義理の妹に奪われ続けてきたのだ。逃げ出すのも当然ではありませんか!」
「ローラは伯爵とは血が繋がっておらず、平民の出身。再婚した母も既に亡く、魔力もない。その立場で、手紙に書かれているそれらが本当に奪えるとお考えですかな?」
エドワード殿下は明らかに動揺していた。
言われて初めて疑問を抱いたのだろう。
多大な能力と立場を生まれ持った義姉が何もかも奪われるだなんて、じゃあ義姉は一体何をしていたというのか、という話だ。
「一人の主観に基づく手紙を証拠として物事を判断するのは些か王族としての資質が疑われますから今後はよく考えて発言なされるとよい」
「いえ、し、しかし、聖女の務めを果たさねばならないクリスティーナに王太子妃の婚約者という重責を押し付け、しかも学院では生徒会副会長まで務めていたというではありませんか。一つでも十分な重責であるというのに、常人にこなせるわけがないのですから、三つも押し付けるなどあんまりです」
「仰る通り失策でしたな。聖女である彼女が『私しかいない』と触れ回ったおかげで、誰もがひいてしまったために仕方なく彼女を選んだ。私の妻もまた、現王妃であり現聖女であり、学院に通っていた頃は生徒会長も務めていたものですが、だからといってクリスティーナ嬢にもできるわけではないのですから」
「ええ、素晴らしいことに、王妃殿下は常人離れした能力をお持ちだったというだけです」
「そうですな。まずクリスティーナ嬢には王太子妃教育を受けてもらい、少しずつ様子を見ながら聖女のつとめを果たしてくれればと思っていましたが。結局何も進まないままでしたから、見込み違いも甚だしかったわけです」
陛下の見下ろす視線を後頭部で受けたまま、義姉が初めて口を開く。
「……王太子妃教育は重箱の隅をつつくようなもので、無駄なことばかりでしたもの。まずはそれを是正しなければ」
「無駄であると判ずるまえに、それが何故必要とされたのか、考えてはみたかしら?」
笑顔を浮かべたままそう割り入ったのは王妃殿下だ。
「それは、国や王家の決まり事など最初から無駄だらけで、何も考えず代々引き継がれてきてしまったから――」
「あら、論理的な根拠もないの? あなたがもしまだどこかの国の王子妃になるつもりなら、今度は物事を広い視野で見られるようにするといいわ」
当然ながら義姉はそれ以上の言葉を紡げない。
頭を伏せるようにして顔を隠しているが、背の低い私にはその口元が苦々しげに歪んでいるのが見えた。
「生まれ持ったものがいかに優れていようと、それを活かすつもりがなければ宝の持ち腐れ。国の利益にもならない。本人の資質を見極め、もっと慎重に判断すべきであったと私も反省している」
陛下がため息を吐き、エドワード殿下はどういうことかと訝しむように背後の義姉を見つめていた。
聞いていた話と違ったのだろう。
だがまだ義姉を信じているようで、陛下のほうが都合よく話を捻じ曲げていると思い直したようだ。
そんなわけないと思いたいのだろう。
「どこまでも彼女のせいにするつもりなのですね。お言葉ですが、一国の王が見苦しいのではありませんか?」
「ハハハ! 義憤に駆られているようだが、もっと自身の目と耳で事実を知るべきと爺は苦言でも送っておきましょうか。国を背負う立場ならいつまでも若さを言い訳にはできませんぞ」
悔しそうに唇を噛みしめるも、エドワード殿下はすぐに開き直るように表情を改めた。
「そこまでおっしゃるのであれば、クリスティーナはこの国にとってはもう必要がないということでよろしいいですか? でしたら私がクレイラーンへとお連れしても問題はありませんよね。まあ、国の機密情報を喋られては困るということもありましょうから、誓約書なりなんなりを交わして――」
「ああ、それはかまわんよ。誓約書も不要だ。今後どこで暮らそうと本人の自由。好きになされい」
「は――? しかし彼女は聖女で多大な力を持っていて、しかも王太子の婚約者だったのですから我が国へ来るとなれば不利益を被ることになるのでは?」
「先日の演説の内容を聞きかじったのであればご存じのことかと思うが、この国はもう聖女として誰か一人を国に縛り付けるつもりはない。それに彼女はこの国の機密など知らん」
「彼女の立場でそんなことがあるわけ……」
「ですから、彼女はまだ何もしていないのですよ」
肩書きと予定が入っていただけで中身は空っぽ。
揚々と引き受けたはずが役目を負った途端に文句ばかりで何もしない人に国の機密など伝えるわけもない。
そもそもそこまで教育が至っていない。
「王妃を始めとして、義理の妹であるローラ嬢も何度もクリスティーナを諫めておったのだがな。彼女は文句を言うばかりでその態度は改まりはしなかった」
諦めるように、陛下は小さく息を吐いた。
エドワード殿下は怒ったようにカッと頬を染めた。
「そうして苦しんでいるクリスティーナを追い込み、虐げてきたのですか! もういい。彼女にはクレイラーンに来ていただく。後で返せと言われても応じはしませんよ。私は彼女が聖女だから国に連れて帰るわけではない。自由に生きる場所を与えてやりたいと思うだけなのです」
「先ほども言ったように、彼女は自由だ。好きになされい」
ただ義姉を不憫に思っているだけなのか、聖女を連れて帰りたいのか、エドワード殿下の目的はわからない。
だが後者だとしても、重い役目を負わせたと責めておきながら、聖女にしたいから連れ帰るとは言えないだろう。
そもそもそれを言ったら義姉も逃げ出すと思うのだが。
だが実際にはクレイラーンにとって聖女は手に入るなら手に入れてみたいものだろう。
クレイラーンには聖女がおらず、防御壁もないからだ。
長く武力に頼り、魔法など邪道という考えが浸透しているそうで、聖女という存在を国民が好意的に受け入れるのは難しいだろうが、防御壁など目に見えないのだから知らせずに張ってしまえばよく、それで魔物被害が少なくなれば国民も納得させられると考えるかもしれない。
だが実際は義姉一人がクレイラーンに行ったところで、クライゼルのような防御壁は築けない。
演説を聞いていたのなら、今後は国民たちがそれぞれ祈りを捧げて防御壁を維持することは知っているはずで、その方法が『守りの石』と呼んだ水晶に祈りを捧げることだとも既に聞いているはず。
クライゼルと同じように魔力を持つ人間はいるだろうから、その水晶さえあればクレイラーンにも同じように防御壁が築けると考えたことだろう。
だがただの水晶にそんな力はない。
この国で産出した水晶に王妃殿下が媒介としての魔術を刻んだことで、この地を覆う力を発揮するのだ。
仮に守りの石をクレイラーンに持って帰ったところで、何の役にも立ちはしない。
そんなことはおつとめを拒否していた義姉が知るわけはないし、クレイラーンで聖女としての役割を求められても同じことを繰り返すだけに思う。
いや、今度こそ期待に応えようとするかもしれない。
そうなったらクレイラーンもクライゼルも平和なわけで、それならそれでいいのかもしれない。
ただ、エドワード殿下が義姉をどうするつもりかはまだはっきりとはわからない。
拍子抜けしたように戸惑うエドワード殿下に、国王陛下は「ただし」と続けた。
「仮にもこの国の大事な民の一人を連れて行くのですから、きちんと責任はもっていただきたい。クライゼルに帰りたいなどと言わせるようなことのないように」
「それはもちろんです。クライゼルに尽くすつもりだった気高い彼女に相応しい居場所をご用意します。ですからこのことを禍根とせず、今後も変わらず我が国とお付き合いいただけますね?」
「もちろんだ。今回のことでクレイラーン国との関係が何ら変わることなどない」
陛下は笑みをたたえ、鷹揚に頷いた。
ほっとしたように頭を下げたエドワード殿下が、ふと一点に視線を留め、凝視するように眉を寄せた。
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