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第2章
第9話 修行と修行
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翌日。
アンジェリカ様の前でバイオリンを構え、第一音を「ギキィ」と鳴らしたところで追い払われた。
来週までにそれなりに仕上げてこなければ私とは組まないと、それはもう焼け焦げるほどの圧をかけられ、その足でレガート殿下と待ち合わせていた学院の練習室へと駆け込んだ。
そしてそこでは想像通りの地獄のしごきが待っていた。
一応私も基本は習っていたのだが、あまりに苦手で、平民として生きていくのに必要なものでもないと早々に自らに言い訳を許してしまったツケが回ってきた。
しばらく触れてもいなかったから、家で自主練習してのぞんだものの、レガート殿下の指導にはついていけていない。
「音が違う」
「テンポがズレている」
「指に力を入れ過ぎるな」
「背筋を伸ばす」
レガート殿下はただひたすらに淡々と指摘を繰り返し、私は「はい!」と返事をするので精一杯。
元々が苦手な上に、求められているのが『アンジェリカ様の足を引っ張らない』であるから、そこまで辿り着くにはかなり厳しい。
なんて難易度の高い作戦を立ててしまったのかと後悔したけれど、動き出したからにはやるしかない。
私は一週間の間、寝ても覚めてもバイオリンの練習に明け暮れた。
そうしてアンジェリカ様の第一の審判が下る日。
「あなた、意外と不器用なのね」
必死に弓を引いたバイオリンの音色はアンジェリカ様の眉根に二本の皺を刻ませた。
「面目もございません……」
「いいえ。不器用というよりも、あなた、音楽の才能がないのだわ」
その評価は致命的だ。
しかし自覚はある。
「あの第一音からしたら想像もできないくらいに上達はしているけれど。あなたは何でも器用にやるのかと思ったら、努力の人なのね」
そう言ってアンジェリカ様が私の手を見下ろしたことに気づき、ぼろぼろの左手を右手で覆うようにして隠した。
「いい? 音楽というものはただ技術を磨けばいいわけではないの。感性はその身に備わったものだけれど、それもまた磨くことはできるわ。あなたには感性を育むような人生経験が足りていないのでしょうね。まあ……学院であなたが駆けずり回っていた姿を思い起こせば、そんな暇などなかったのだろうこともわかるけれど」
「感性、ですか……。あの、それならもしかして、たいこでしたら――」
「あなたのその太鼓に対する絶大な信頼はなんなの? そもそも太鼓だってただ叩けばいいわけではないのよ。私の隣に立つことを甘く見るんじゃないわ」
「すみませんでした」
「まあ、あなたの努力は買うわ。何でも努力で補えるというわけではないけれど、令嬢の指をそれほど痛めさせておいてこれまでと言うつもりもない。――現段階ではね?」
「はい、ご厚情をいただきありがとうございます!」
「ただし、音楽祭の一週間前までにそのぽんこつな感性と技術が私の満足いく水準にまで達していなかったら、当日あなたには病気になってもらうわ。急病ばかりはいたしかたないものね?」
「そうならないように全力全身で邁進する所存です」
「その覚悟があるならいいわ」
そう言ってアンジェリカ様は口元を隠していた扇をパチリと閉じ、腕組みをした。
「まずあなたはその感性を磨きなさい。もっと身の回りに目を向けるのよ。といっても、あなたがいつもしているような観察や分析をするのではないわ。それに対して自分がどう感じるのか、心に耳を傾けなさい。そして相手が『どう考えているか』ではなく、『どう感じているか』。些細なことにも心を傾け、取りこぼさないようにしなさい」
どう感じているか、か。
確かに私はいつも周りを見てきた。
出自のことや義姉のことで周囲から様々に言われることが多かったから、貴族の社会で心穏やかに過ごせるようにと、人に嫌われないよう振舞おうとしたし、誤解があれば解こうとしたし、そのためにいつも周りを窺ってきた。
どんな人なのか、どう考えていそうか、じっと観察して分析して、それに対してどう行動するかを考えてきた。
けれどそれは生き抜くための策略のようなものであって、心や感性といったものからは遠い。
アンジェリカ様はそういうことを言いたいのだろう。
――めちゃくちゃ分析されている。
それもまあそうだろう。
アンジェリカ様もオリヴィア様も公爵令嬢だ。
人を使って情報を集め、誰が敵か味方か把握し、足を引っ張られないように、時には牽制し、今の地位を保ち、公爵家にとっての利益につなげる必要がある。
特に私は義姉のこともあったし、今の立場となりさらに注視されていたのだろう。
しかし、そんな人から感性が足りていないと言われると納得しかない。
この短期間でどこまで磨けるものか、不安があるけれど。
アンジェリカ様はそんな私を「ふん」と斜めに見下ろし、再び扇をぱらりと開いた。
「あなたとしては音楽祭でどんな評価が下ろうと、オリヴィア様と私の面目が保たれればいいと考えているのかもしれないけれど、甘いわ。あなたの思惑がどうあれ、私には私の誇りというものがあるの。どんなに技術的に上達しても、今のそのぽんこつな感性で私の隣に立てると思わないことよ。できないじゃない。やるの」
「はい!」
ぽんこつって二回言われた。
まあそりゃ私の目論見などこの方にバレないわけがない。
私は己の浅はかさに「すみません! 精進します!」と恐縮し身を縮めることしかできない。
「技術だってまだまだのまだまだよ。もっともっと磨きなさい。這いずってでもあらゆる時間をバイオリンに費やし、私の隣に立つに相応しいだけの腕を磨きなさい。一週間に二日、四人で合わせて練習する時間を設けるわ。認めるかどうかはそれからよ」
「はい! ありがとうございます!」
私は再び、ははーっと平伏せんばかりにアンジェリカ様のご厚情に感謝した。
なんとか首の皮は繋がったものの、本当の試練はこれからだ。
そう覚悟した私に、『感性を磨く』という大きな重すぎる課題がのしかかった。
しかしそれは私にまた別の重すぎる課題をもたらした。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「そこ。違う」
あまりに必死でバイオリンしか見ていなかったから、いつの間にか殿下が傍に立っていて肘の角度を直され、びくりとして「ギキィ」と不協和音が耳をつんざく。
「おい……」
顔を顰めたレガート殿下にじろりと目を向けられる。
「申し訳ございません……」
「そう硬くなられると困る」
「いえ、あの……、慣れなくて」
「早く慣れろ」
そんなことを言われても。
殿下のたくましい腕とか。
分厚い胸板とか。
見慣れないものばかりでどうにも目が泳いでしまうし、近づくと吐息とか、匂いとか、嫌でも殿下を感じてしまう。
身の回りをよく見ろと言われてよく見たらこうなってしまったのだ。
夢の中の野獣な殿下でもないのに、前よりもっとどぎまぎしてしまって自分を保てない。
「肘は、こうだ」
レガート殿下がバイオリンを構えて見せてくれるけれど、うまく真似できなくて、そんな自分ももどかしい。
「もっとこっちを持て。指はこう」
見かねたように、殿下の指が私の指に触れる。
同じ部屋にいるからだろうか。冷たいかと思ったのに、私と変わらない温度だった。
「こう……ですか?」
「それでいい。そのまま力を抜くようにして、こう」
「はい」
後ろから私の肘を支えるように、反対の手は私の手に添えられたのだが。
近い。
とんでもなく近い。
というか感覚としてはもはや後ろから抱きしめられているとしか思えないほどに近い。
「そうだ。形はそれでいい」
そんな恰好だ。殿下が喋れば耳に息が吹きかかるのは当然で、私は思わず肩を揺らしてしまった。
「うはあ!」
「色気のない声だな」
まさかわざとじゃないですよね?! と振り返ると、いつもの真顔で淡々と私を見ていた。
が。
なんとなく、口の端が上がっている気がする。
「殿下?」
「弱いのは耳か」
今なんて言ったこの王子。
反射的にばっと耳を覆うと、取り落とした弓が床でカツンと鳴る。
「警戒しているくせに隙だらけなのだから困る」
だからなんて言ったこの王子。
レガート殿下は何も言っていないみたいにしれっと弓を拾い上げ、そのまま練習を再開しようとしたが、できるわけがない。
「な、なん、なん……!」
言葉にならずはくはくとする私に、レガート殿下が淡々とため息を吐き出す。
「私と距離を取っておきたいのなら、もっと気を張っていろ。でないとつけ込むぞ」
「婚約者が言う言葉に聞こえないんですけど!?」
「仕方がないだろう。『ゆっくりと』『それらしく』なっていかねばならんのだ。――まどろっこしい」
まどろっこしいて!!
「いつまでも我慢していられると思うなよ。そんな調子ではそのうち俺の限界が来ても知らんぞ」
俺って言った?
「殿下? レガート殿下、ですよね……?」
「俺は朝でも夜でも俺だ」
似たような言葉をどこかで聞いた気がする。たぶん、夜とかそのあたりに。
だけど殿下は夢の中のようににやりとした笑いを浮かべてはいない。
その顔は相変わらずの仏頂面だ。
「続けるぞ。時間がないんだろう?」
そして、あっという間にいつも通りの殿下だ。
私は白昼夢でも見ていたのか。
そうかもしれない。
あれからも毎日夢の中で野獣み溢れる殿下と会っているから、現実の殿下と混同してきているに違いない。
私は無心になるのだと言い聞かせ、弓を受け取ると一心にバイオリンをかき鳴らした。
合わせるようにして殿下もバイオリンを弾き始めると、私の不格好な演奏もそれなりに聞けるものに感じられる。
それにしても。
殿下は『筋肉でバイオリンを持つと笑われるのだがな』と言っていたけれど、さすが王太子というべきか、とてもさまになっている。
バイオリンを構える腕だけはどうしようもなくもりっとした筋肉が目立つけれど、その手つきは優雅で、何より音色がとても美しい。
何故だかただ立って演奏しているだけなのに、色気のようなものがある。
アンジェリカ様が言っていたのはこういうことなのだろうか。
はっと見とれていたことに気が付き、私は慌ててバイオリンを構えた。
「もう一度、最初から通しでお願いします!!」
私は私の中で荒れ狂う様々な感情をすべてエネルギーに変換し、バイオリンに向けた。
レガート殿下との練習の間はとにかく感性は横に置いておこう。
まず技術が追い付いていないし、せっかくレガート殿下が教えてくれているこの時間を無駄にしてはならない。
集中だ。
「焦らずまずは初心に立ち返れ。運指が馴染むまではテンポを落としていくぞ」
「はい!」
そうして一心にバイオリンと向き合っていると、あっという間に日が暮れた。
「今日の練習はこれまでだな」
「はい、ありがとうございました」
もはや声もヘロヘロである。
しかしレガート殿下はこの部屋に入ってきた時と出る時でほとんど変わりがない。
さすがの体力と精神力だ。
今日も今日とてレガート殿下は「送る」と言って共に廊下を歩く。
つい私が殿下の三歩後ろから歩こうとすると、ゆっくりと足並みを揃えて自然と隣に立つ。
けれど、間には人一人分の距離がある。
そうだ。この距離感だ。
最初は慣れなかったこの距離も、今では当たり前になり、『ちょうどよい』と感じるようになっていた。
近すぎず、遠すぎず、どこかほっとするのを感じる。
「まあ今はまだいい。俺もこの距離は嫌いではない」
「今なんて?」
「なんでもない」
ぽつりとした呟きは明瞭に聞き取れなかったけれど、なんとなく聞こえてなくてよかったような気がした。
私にはまだこれ以上の距離は、夢だけでいっぱいいっぱいだから。
そうして練習を重ね、そして音楽祭まで一週間と迫ったその日。
「及第点とはとても言えないけれど、王太子の婚約者であるあなたが私と組むことは、私にとっても利益がある。それと相殺と考えれば、まあ許せる範囲ね」
そう言ってアンジェリカ様が私の参加を認めてくれ、全身から脱力しかけた時のことだった。
私は急遽王宮に呼び出された。
王宮に思わぬ来訪者があったのだ。
アンジェリカ様の前でバイオリンを構え、第一音を「ギキィ」と鳴らしたところで追い払われた。
来週までにそれなりに仕上げてこなければ私とは組まないと、それはもう焼け焦げるほどの圧をかけられ、その足でレガート殿下と待ち合わせていた学院の練習室へと駆け込んだ。
そしてそこでは想像通りの地獄のしごきが待っていた。
一応私も基本は習っていたのだが、あまりに苦手で、平民として生きていくのに必要なものでもないと早々に自らに言い訳を許してしまったツケが回ってきた。
しばらく触れてもいなかったから、家で自主練習してのぞんだものの、レガート殿下の指導にはついていけていない。
「音が違う」
「テンポがズレている」
「指に力を入れ過ぎるな」
「背筋を伸ばす」
レガート殿下はただひたすらに淡々と指摘を繰り返し、私は「はい!」と返事をするので精一杯。
元々が苦手な上に、求められているのが『アンジェリカ様の足を引っ張らない』であるから、そこまで辿り着くにはかなり厳しい。
なんて難易度の高い作戦を立ててしまったのかと後悔したけれど、動き出したからにはやるしかない。
私は一週間の間、寝ても覚めてもバイオリンの練習に明け暮れた。
そうしてアンジェリカ様の第一の審判が下る日。
「あなた、意外と不器用なのね」
必死に弓を引いたバイオリンの音色はアンジェリカ様の眉根に二本の皺を刻ませた。
「面目もございません……」
「いいえ。不器用というよりも、あなた、音楽の才能がないのだわ」
その評価は致命的だ。
しかし自覚はある。
「あの第一音からしたら想像もできないくらいに上達はしているけれど。あなたは何でも器用にやるのかと思ったら、努力の人なのね」
そう言ってアンジェリカ様が私の手を見下ろしたことに気づき、ぼろぼろの左手を右手で覆うようにして隠した。
「いい? 音楽というものはただ技術を磨けばいいわけではないの。感性はその身に備わったものだけれど、それもまた磨くことはできるわ。あなたには感性を育むような人生経験が足りていないのでしょうね。まあ……学院であなたが駆けずり回っていた姿を思い起こせば、そんな暇などなかったのだろうこともわかるけれど」
「感性、ですか……。あの、それならもしかして、たいこでしたら――」
「あなたのその太鼓に対する絶大な信頼はなんなの? そもそも太鼓だってただ叩けばいいわけではないのよ。私の隣に立つことを甘く見るんじゃないわ」
「すみませんでした」
「まあ、あなたの努力は買うわ。何でも努力で補えるというわけではないけれど、令嬢の指をそれほど痛めさせておいてこれまでと言うつもりもない。――現段階ではね?」
「はい、ご厚情をいただきありがとうございます!」
「ただし、音楽祭の一週間前までにそのぽんこつな感性と技術が私の満足いく水準にまで達していなかったら、当日あなたには病気になってもらうわ。急病ばかりはいたしかたないものね?」
「そうならないように全力全身で邁進する所存です」
「その覚悟があるならいいわ」
そう言ってアンジェリカ様は口元を隠していた扇をパチリと閉じ、腕組みをした。
「まずあなたはその感性を磨きなさい。もっと身の回りに目を向けるのよ。といっても、あなたがいつもしているような観察や分析をするのではないわ。それに対して自分がどう感じるのか、心に耳を傾けなさい。そして相手が『どう考えているか』ではなく、『どう感じているか』。些細なことにも心を傾け、取りこぼさないようにしなさい」
どう感じているか、か。
確かに私はいつも周りを見てきた。
出自のことや義姉のことで周囲から様々に言われることが多かったから、貴族の社会で心穏やかに過ごせるようにと、人に嫌われないよう振舞おうとしたし、誤解があれば解こうとしたし、そのためにいつも周りを窺ってきた。
どんな人なのか、どう考えていそうか、じっと観察して分析して、それに対してどう行動するかを考えてきた。
けれどそれは生き抜くための策略のようなものであって、心や感性といったものからは遠い。
アンジェリカ様はそういうことを言いたいのだろう。
――めちゃくちゃ分析されている。
それもまあそうだろう。
アンジェリカ様もオリヴィア様も公爵令嬢だ。
人を使って情報を集め、誰が敵か味方か把握し、足を引っ張られないように、時には牽制し、今の地位を保ち、公爵家にとっての利益につなげる必要がある。
特に私は義姉のこともあったし、今の立場となりさらに注視されていたのだろう。
しかし、そんな人から感性が足りていないと言われると納得しかない。
この短期間でどこまで磨けるものか、不安があるけれど。
アンジェリカ様はそんな私を「ふん」と斜めに見下ろし、再び扇をぱらりと開いた。
「あなたとしては音楽祭でどんな評価が下ろうと、オリヴィア様と私の面目が保たれればいいと考えているのかもしれないけれど、甘いわ。あなたの思惑がどうあれ、私には私の誇りというものがあるの。どんなに技術的に上達しても、今のそのぽんこつな感性で私の隣に立てると思わないことよ。できないじゃない。やるの」
「はい!」
ぽんこつって二回言われた。
まあそりゃ私の目論見などこの方にバレないわけがない。
私は己の浅はかさに「すみません! 精進します!」と恐縮し身を縮めることしかできない。
「技術だってまだまだのまだまだよ。もっともっと磨きなさい。這いずってでもあらゆる時間をバイオリンに費やし、私の隣に立つに相応しいだけの腕を磨きなさい。一週間に二日、四人で合わせて練習する時間を設けるわ。認めるかどうかはそれからよ」
「はい! ありがとうございます!」
私は再び、ははーっと平伏せんばかりにアンジェリカ様のご厚情に感謝した。
なんとか首の皮は繋がったものの、本当の試練はこれからだ。
そう覚悟した私に、『感性を磨く』という大きな重すぎる課題がのしかかった。
しかしそれは私にまた別の重すぎる課題をもたらした。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「そこ。違う」
あまりに必死でバイオリンしか見ていなかったから、いつの間にか殿下が傍に立っていて肘の角度を直され、びくりとして「ギキィ」と不協和音が耳をつんざく。
「おい……」
顔を顰めたレガート殿下にじろりと目を向けられる。
「申し訳ございません……」
「そう硬くなられると困る」
「いえ、あの……、慣れなくて」
「早く慣れろ」
そんなことを言われても。
殿下のたくましい腕とか。
分厚い胸板とか。
見慣れないものばかりでどうにも目が泳いでしまうし、近づくと吐息とか、匂いとか、嫌でも殿下を感じてしまう。
身の回りをよく見ろと言われてよく見たらこうなってしまったのだ。
夢の中の野獣な殿下でもないのに、前よりもっとどぎまぎしてしまって自分を保てない。
「肘は、こうだ」
レガート殿下がバイオリンを構えて見せてくれるけれど、うまく真似できなくて、そんな自分ももどかしい。
「もっとこっちを持て。指はこう」
見かねたように、殿下の指が私の指に触れる。
同じ部屋にいるからだろうか。冷たいかと思ったのに、私と変わらない温度だった。
「こう……ですか?」
「それでいい。そのまま力を抜くようにして、こう」
「はい」
後ろから私の肘を支えるように、反対の手は私の手に添えられたのだが。
近い。
とんでもなく近い。
というか感覚としてはもはや後ろから抱きしめられているとしか思えないほどに近い。
「そうだ。形はそれでいい」
そんな恰好だ。殿下が喋れば耳に息が吹きかかるのは当然で、私は思わず肩を揺らしてしまった。
「うはあ!」
「色気のない声だな」
まさかわざとじゃないですよね?! と振り返ると、いつもの真顔で淡々と私を見ていた。
が。
なんとなく、口の端が上がっている気がする。
「殿下?」
「弱いのは耳か」
今なんて言ったこの王子。
反射的にばっと耳を覆うと、取り落とした弓が床でカツンと鳴る。
「警戒しているくせに隙だらけなのだから困る」
だからなんて言ったこの王子。
レガート殿下は何も言っていないみたいにしれっと弓を拾い上げ、そのまま練習を再開しようとしたが、できるわけがない。
「な、なん、なん……!」
言葉にならずはくはくとする私に、レガート殿下が淡々とため息を吐き出す。
「私と距離を取っておきたいのなら、もっと気を張っていろ。でないとつけ込むぞ」
「婚約者が言う言葉に聞こえないんですけど!?」
「仕方がないだろう。『ゆっくりと』『それらしく』なっていかねばならんのだ。――まどろっこしい」
まどろっこしいて!!
「いつまでも我慢していられると思うなよ。そんな調子ではそのうち俺の限界が来ても知らんぞ」
俺って言った?
「殿下? レガート殿下、ですよね……?」
「俺は朝でも夜でも俺だ」
似たような言葉をどこかで聞いた気がする。たぶん、夜とかそのあたりに。
だけど殿下は夢の中のようににやりとした笑いを浮かべてはいない。
その顔は相変わらずの仏頂面だ。
「続けるぞ。時間がないんだろう?」
そして、あっという間にいつも通りの殿下だ。
私は白昼夢でも見ていたのか。
そうかもしれない。
あれからも毎日夢の中で野獣み溢れる殿下と会っているから、現実の殿下と混同してきているに違いない。
私は無心になるのだと言い聞かせ、弓を受け取ると一心にバイオリンをかき鳴らした。
合わせるようにして殿下もバイオリンを弾き始めると、私の不格好な演奏もそれなりに聞けるものに感じられる。
それにしても。
殿下は『筋肉でバイオリンを持つと笑われるのだがな』と言っていたけれど、さすが王太子というべきか、とてもさまになっている。
バイオリンを構える腕だけはどうしようもなくもりっとした筋肉が目立つけれど、その手つきは優雅で、何より音色がとても美しい。
何故だかただ立って演奏しているだけなのに、色気のようなものがある。
アンジェリカ様が言っていたのはこういうことなのだろうか。
はっと見とれていたことに気が付き、私は慌ててバイオリンを構えた。
「もう一度、最初から通しでお願いします!!」
私は私の中で荒れ狂う様々な感情をすべてエネルギーに変換し、バイオリンに向けた。
レガート殿下との練習の間はとにかく感性は横に置いておこう。
まず技術が追い付いていないし、せっかくレガート殿下が教えてくれているこの時間を無駄にしてはならない。
集中だ。
「焦らずまずは初心に立ち返れ。運指が馴染むまではテンポを落としていくぞ」
「はい!」
そうして一心にバイオリンと向き合っていると、あっという間に日が暮れた。
「今日の練習はこれまでだな」
「はい、ありがとうございました」
もはや声もヘロヘロである。
しかしレガート殿下はこの部屋に入ってきた時と出る時でほとんど変わりがない。
さすがの体力と精神力だ。
今日も今日とてレガート殿下は「送る」と言って共に廊下を歩く。
つい私が殿下の三歩後ろから歩こうとすると、ゆっくりと足並みを揃えて自然と隣に立つ。
けれど、間には人一人分の距離がある。
そうだ。この距離感だ。
最初は慣れなかったこの距離も、今では当たり前になり、『ちょうどよい』と感じるようになっていた。
近すぎず、遠すぎず、どこかほっとするのを感じる。
「まあ今はまだいい。俺もこの距離は嫌いではない」
「今なんて?」
「なんでもない」
ぽつりとした呟きは明瞭に聞き取れなかったけれど、なんとなく聞こえてなくてよかったような気がした。
私にはまだこれ以上の距離は、夢だけでいっぱいいっぱいだから。
そうして練習を重ね、そして音楽祭まで一週間と迫ったその日。
「及第点とはとても言えないけれど、王太子の婚約者であるあなたが私と組むことは、私にとっても利益がある。それと相殺と考えれば、まあ許せる範囲ね」
そう言ってアンジェリカ様が私の参加を認めてくれ、全身から脱力しかけた時のことだった。
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