2 / 5
CASE2.
岩里恵津
しおりを挟む
岩里恵津(いわさとえつ)は大層悩んでいた。幼馴染の豊川俊彦(とよかわとしひこ)と喧嘩をした事について、非常に。
付き合って十年以上にもなるのに、未だ俊彦はプロポーズもしてくれない。幼い頃から知った仲で、マンネリ化しているのは否めない。
今日も些細な事で食事前に喧嘩をしてしまった。恵津が一方的にプリプリ怒っている、何時ものパターンだ。だんまりを決め込む俊彦に啖呵を切って、もう別れよう、とまで言ってしまったのだ。
何時までも煮え切らない俊彦に、見切りをつけても良いものか。また、三十手前のアラサー女の婚活は非常に厳しい。恵津は二十九歳で、来年は三十歳になる。愛嬌のある顔立ちだとは自分でも思うが、特別美人でも無い。自分の事がよく解っている恵津は、俊彦から離れたいという気持ちと、年齢的に厳しいからこそ俊彦で妥協し、彼にプロポーズをせっついて結婚するという選択肢を選ぶか、非常に悩んでいた。
ムシャクシャしていたので、恵津は自宅から徒歩十分ほどの位置にある、馴染みのスナックに向かった。小さな町の住宅街の少し外れにある古いスナックだ。母の友人が営んでおり、人が足りない時は、ピンチヒッターのホステスを務める事もある店だ。
スナック・ドリー夢――センス無い名前だな、と古い電飾のついた看板を見る度に思う。
白塗りのペンキの剥げかかった、取っ手の部分もちょっと錆びたドアを押し開けると、途端にカラオケの音が大きくなった。先客が何か歌っている。まあ、大抵演歌だ。恐らく今流れているのもそうだろう。おおよそポップスには聞こえない、バックミュージックから予想がつく。
興味が無いので何の曲が流れていようが、恵津にはどうでもいい事だった。
「いらっしゃいませ」
来客に気が付いたホステスが、いち早く恵津の元へやって来た。彼女は、中川眞由美だ。
眞由美は四十代前半位の年齢の女性で、ダークブラウンに染めた髪をいつも綺麗にアップして、大きなイヤリングを耳からぶら下げている。目の大きくて、華奢で小さな女性だった。確か、中学生の息子が一人いた筈だ。シングルマザーだと聞いている。
美人で気さくな彼女は聞き上手だったので、ここはひとつ、眞由美に相談をしてみようと思った。
「眞由美さん指名ね」
カウンターの端に座ると、おしぼりを渡され、コースターと眞由美手製の付き出しが置かれた。見ると、今日は鶏肉の甘煮だった。食事のデートの最中に、食事を済ませる前に俊彦と喧嘩して別れると宣言して帰って来たので、恵津はお腹が空いていた。
「あら、えっちゃん。私は指名料高いわよ」
眞由美が笑った。彼女が笑うと、えくぼができる。チャーミングで愛らしい女性だった。
そのせいか、眞由美は年齢の割に随分若く見える。とても中学生の子供がいるような女性には見えない。だからよく馴染客に言い寄られているのを、恵津は知っていた。
「指名料は、永久的ツケでお願いしまーす。あ、私、お腹空いてるんだ。眞由美さん、何か作ってー。あ、これ、ウマ」
早速鶏の甘煮をつついて、味を褒めた。恵津はこの店にウィスキーのキープボトルを入れているから、それで濃い目のソーダ割を作って貰った。
恵津の為に一品を拵(こしら)えてくれた眞由美にも何か飲むように伝えたら、彼女は何時ものようにウーロン茶の小瓶を自分の前に置いた。眞由美はよほどの事が無い限り、酒を飲む事が無い。酔っぱらって帰宅して、息子に迷惑をかけたくないから、と、彼女は何時も言っていた。
「えっちゃん、どうしたの? 今日は俊君とデートじゃなかった?」
「えー。そんな事覚えてるの? やだー、止めてよー」
眞由美が作った出し巻きと枝豆をつまみながら、恵津はソーダ割を煽った。「そのデートでさあ、俊とケンカしたの。け・ん・か」
「ええっ。何があったの?」
「アイツさー、もう付き合って十年にもなるのにさー。全然結婚のけの字も雰囲気なくてさー」
眞由美に愚痴るようにして俊彦の事を話していると、だんだん腹が立ってきた。恵津はキープボトルを掴んで、空になったグラスにどぼどぼとウィスキーを注いだ。そしてそれを、躊躇いも無く飲み干し、胃へ流し込んだ。
「あっ、えっちゃん、ダメよ。酔っぱらって倒れちゃうわ」
「いいのっ。今日は呑ませて! だって、ついさっき俊と別れたの!!」
「えええーっ。何で何でっ。ダメよ、そんな勢いで別れちゃったりしたら。ほら、話聞くから」
「もういいの。もういい」
恵津は投げやりに言った。
この十年という長い期間、一体何だったんだろう。青春を無駄にしたようで、とても複雑な気分になった。
俊彦と恵津は家が近所で、小学校も中学校も同じだった。
ただの仲いい同級生でいたのだが、二十歳頃、当時付き合っていた彼と恵津の失恋をきっかけに、俊彦と急接近した。彼は少し頼りない所もあるが、相談すれば必ず親身になって考えてくれて、答えを一緒に探してくれるような、優しい男だった。優しいからこそ、気の強い恵津はヤキモキする。
何時も肝心な時に、押しが弱くて俊彦のダメな所が、恵津は嫌いだった。
それでも、俊彦そのものは好きだった。ふんわりとした柔らかい黒髪は、高級動物のような手触りの良い髪質で、淵の厚いオタクみたいな黒縁眼鏡を掛けていて、真面目で、無遅刻無欠勤の平社員。おおよそ出世には興味なさそうで、上司にいいように使われるお人よし。
一緒にいると、気も遣わずに楽でいい男。思わず女を忘れそうになる――
「俊ってホント、ダメだよね!」
彼のいい所を思い出している筈なのに、途中から趣旨が変わってきた。
やはり男は、真面目で優しいというだけでは面白みに欠けるのだ。自分が女であることを忘れさせるようなつまらない男と、一生添い遂げる事に既に迷いが生じている時点で、結婚してもその先の結果は見えている。
「俊君の何がダメなの? 素敵な青年じゃない。真面目だし、優しいし、えっちゃんを大事にしてくれるもの」
「まあ、それは認めるけど。でも、もうずっとマンネリなんだ。最近喧嘩増えちゃって、プロポーズもしてくんないしさぁ、このままずーっと付き合って、終わっちゃうかもしれないし。もう潮時だよ。潮時」
「えっちゃんは俊君と喧嘩した時、何時もそんな風に言うのよ。それはもう口癖みたいに。気づいてた?」眞由美はため息交じりで言ったが、すぐに名案を思い付いた様で、笑顔を輝かせた。「そうだわ! 俊君が言ってくれなくて不満なんだったら、えっちゃんから言っちゃえば? 結婚して下さいって、プロポーズしちゃえー」
眞由美の言葉に、恵津は目を剥いた。
「眞由美さん、冗談止めてよ。私、女だよ? プロポーズされたい側だし」
「あらぁ。最近流行っているのよ。女性からの逆プロポーズ」
「ええー」
なぜそういう思想になるのだろう。信じられなかった。
嫌になって、恵津は再びウィスキーを煽った。もう既にロックで三杯も水割りグラスで飲んでいるから、随分とハイピッチで飲んでしまった。少し酔った感が芽生えている。
眞由美に話したのは失敗だな、と恵津は心の中でため息を吐いた。彼女は真面目だから、真面目な俊彦の味方なのだ。
それからというもの、眞由美に俊彦の良さをこんこんと説明された。
ああ、ウザいな。言われなくても、俊の良い所くらい、彼女の私がの方がいっぱい知ってるし――酔っているから余計にイライラして、腹が立った。
こんな風に人から言われた些細な事でイライラする毎日に、サヨナラしたい。
俊彦と別れたら、また新しい未来が切り開けるのではないか、とそんな気分になった。
決めた。今度こそ俊彦と別れよう。
「眞由美さん、ありがとう。元気出た。もう帰るよ。明日も仕事だし」
「あら、そう? 良かったわ。俊君を大事にしてね。大切な人は、失ってから気が付いても遅いのよ」
「そうだね」
ゴメン、もう決めました。俊とは別れます――後日眞由美には、やっぱり無理だったと伝えればいいや、と会計を済ませ、恵津は席を立った。
「ありがとうございました」
眞由美が律儀に店の外まで送ってくれた。古い扉を開けると、頭上でドアベルがチリンチリンと鳴った。
外に出ると、背の高い中学生位の年齢の少年が壁に凭れて立っていた。坊主頭で、白いスウェットの揃いの上下を着用し、空を見上げていた。はあっと彼の吐く息が白く寒空へ煙の様に昇って行った。
眞由美に似た同じ顔立ちで、目の大きな可愛い少年だった。彼女の息子なのだろうと、見ただけで解った。
「あら、櫂。今日も来てくれたの?」眞由美が言葉とは裏腹に、嬉しそうに少年に声を掛けた。
「毎日来るって言っただろ。もう仕事上がれる?」
「もう少しだけ待ってね。お客様をお見送り中だから」
眞由美は恵津に向きなおり、ありがとうございました、ともう一度丁寧に頭を下げて、店内に消えて行った。
「あの・・・・眞由美さんの、息子さん?」
「そうです。櫂と言います。母が何時もお世話になっています」
櫂は恵津に頭を下げた。真面目な眞由美の息子らしい。品行方正が素晴らしいと思った。
「迎えって、眞由美さんを櫂君が迎えに来ているの?」
「はい。夜は危ないですから。危険なニュースもよく耳にしますし」
恵津は驚いた。今時、こんな中学生がいるのだ、と。
可愛らしい顔立ちだが、キリっとした力強い目を見て思わず、俊もこんな風だったら良かったのに――と、櫂に俊を重ね見た。
「親孝行で偉いね。寒いから風邪ひかないように気を付けて」
櫂に会釈して、恵津は歩き出した。
自分が学生の時は、夜も十時近くになったら寝たふりして、ベッドの中で漫画を読んだり、携帯で友人と好きな子や学校の他愛もない話をしたり、チャットしたり、そんな風にして過ごした記憶しかない。
「あー、あの。待ってください」
櫂に呼び止められて、恵津が振り返った。
「良かったらこれ、貰ってくれませんか。普及活動しています」
彼に手渡されたのは、カフェのチラシだった。
カフェ『アカシヤ』で、憩いのひと時を。
珈琲ソムリエの淹れる、薫り高い珈琲、マスターの手作りケーキと一緒にいかが。
このチラシをご持参の方、ご飲食代半額に致します。
チラシにはそのように書かれており、地図も右下に掲載されていた。
場所は、京都盆地内にある町はずれ付近の緩やかな坂を上がりきった先にある、狐の神様を祀る小さな森の社の傍だった。
「ここは、ひとつだけ願いが叶う不思議なカフェなんです」櫂が真剣な顔で言った。「僕も大切な願いを、ひとつ叶えて貰ったんです。だから、一人でも多くの人に同じ様に願いが叶って欲しいなって思っていて、このカフェを紹介しています。悩んでいる人には、特に」
「悩んでいる人? そんな風に見えた?」
心外だった。中学生に十年ほど付き合った彼氏と別れる決意をした心を、まさか見抜かれたのだろうか。
「なんとなく、ですけど」
言葉尻を濁して、櫂が笑った。「引き留めてすみません」
「あ、ああ、うん。いいよ。ありがとう」
恵津はもう一度軽く会釈して、じゃあね、と櫂に別れを告げた。
一体何だったのだろう。ひとつ、願いが叶う?
だったら叶えてみたい。素敵な彼氏が欲しい。結婚適齢期を逃す前に、俊彦みたいな頼りない男じゃなく、もっと強引にグイグイ引っ張ってくれるような、強いて言うなら二十歳の時に別れた元カレのような――
カフェの事が気になったので、恵津はもう一度チラシを見てみた。町はずれだったが、そう遠くないので、散歩がてら場所を見に行く為に恵津はそこへ向かってみた。
近道をする為に、公園内に入って歩いた。すると、向こうから革靴の足音が聞こえた。それと同時に、足早に男性がこちらの方へやって来るのが遠くに見える。影になっているから、顔までは解らなかった。
午後十時過ぎだったので、流石に他人と鉢合わせは嫌だな、トラブルの元だ、と思って踵を返した。慌てて公園の外に出た所で、後ろを見ながら走っていたので、ドン、と思い切り誰かにぶつかった。
「わっ」
その瞬間によろめいたが、ぶつかった相手が逞しい腕を出してきて、さっと恵津を抱きしめて転倒しないように庇ってくれた。
「あ、すみません。よそ見をしていて」
「いいえ。お怪我はありませんでしたか?」
「はい。お陰様で。ありがとうございました」
ガッシリとした腕は筋肉質で、恵津が捕まった手首付近も、引き締まっていて固かった。
細く頼りない俊彦とは、大違いの男性だった。
「夜分遅いので、お気をつけ下さい。それでは」
スマートで紳士的な挨拶に、恵津は思わずときめいた。俊彦と違って逞しくスポーツ選手のようで、あんな素敵な男性がいるんだ――と、この十年間俊彦しか見てこなかった恵津に、初めて芽生えた異性への憧れの感情だった。
余韻に浸っていると、目の前の公園から革靴の足音が聞こえてきた。さっきやり過ごした筈の他人が、こちらへ歩いてきているのだ。気味が悪くなって恵津は公園を避け、先ほど櫂から貰ったチラシのカフェへ急いだ。
こんな時間に町はずれにあるカフェが開いているとは思っていなかったのに、辿り着いた先の店は明るく光が灯っていて、まるで恵津を待っていてくれたように見えた。
吸い込まれるようにして、恵津は店内に足を踏み入れた。
木製のドアを開けると、ちりんちりん、と鈴のようなドアベルが鳴った。まるで神社の鈴緒を左右に振って音を立てているような、そんな鈴の音だった。
「いらっしゃいませ。アカシヤへようこそ! チラシをご持参のお客様ですね。どうぞ、中へお入り下さい」
赤茶色の柔らかそうな髪をした、目のくりっとした可愛らしい青年ウェイターが出迎えてくれた。
正面には見事な銀髪の男性が佇んでおり、目が合うと柔和な微笑みを浮かべ、会釈してくれた。カウンターに座って長い足を組んでいた女性も、どうも、と会釈してくれた。
「こんな遅い時間でも、お店は開いているのですか? 今からでも、大丈夫ですか?」
恐る恐る聞いてみた。
「はい。結構ですよ。当店は、お客様がいらっしゃる限り、開店致しますので」
良く通るやや低めの優しい声で、銀髪のマスターがカウンターへどうぞ、と案内してくれた。
店内は誰もおらず、中央のカウンターに一人だけ腰かけるのは少し気が引けたが、折角なので目の保養をしようと思った。銀髪のマスターは、この世のものとは思えない程美しい男性で、恵津はこの様な男性を見るのは、初めてだった。
「メニューは少ないですが、味に自信はあります。お好きなものをご注文下さい」
カウンターの席の前に立てかけてある、少し古い木に和紙を貼り付けたメニューを指され、恵津はそちらを見た。
・珈琲 500円
・手作りケーキ 500円
・ドリームソーダ 500円
確かに今しがた、少ないと目の前のマスターが言ったが、あまりの少なさに恵津は驚いた。
こんな少ないメニューで、しかも客入りは自分だけ・・・・本当にいいのだろうか。夜だというのにホールに二人もいるが、バイト代も出ないのではないだろうか。
申し訳無くなったが、眞由美の作ってくれた出し巻きやら一品やらを結構つまんで、更に酒も飲んだので、恵津の腹は膨れていた。ケーキや珈琲を頼むには、今の時間しんどいな、と思ったので、さっぱり飲めそうな、ドリームソーダを頼むことにした。恐らく炭酸飲料だろう。
「この、ドリームソーダを下さい」
恵津の言葉を聞いた瞬間、目の前の銀髪のマスターは、切れ長の目を少し開いた。しかしそれは一瞬の事で、すぐに柔和な笑みを浮かべ、かしこまりました、少々お待ちください、と告げた。
背面に並んだグラスの棚からひとつを取り出し、カウンター下の製氷機から氷を取り出して中に入れた。オープンカウンターなので、中の様子が少し乗り出せば見える。
手際よく作る彼の手をぼんやり見つめながら、そういえばひとつ願い事が叶うって櫂君が言っていたな――と恵津は考えた。
――素敵な彼氏がすぐに見つかって、幸せな結婚ができますように。
何となくそんな風に考えた。
そういえば、さっき出会った紳士は素敵だった事を思い出した。
コート越しなのに逞しい腕と判る筋肉の付いた腕に、ちらっとしか見えなかったが、面長の顔に鋭い目線。短く整えられたスポーツ刈りの、今風なソフトモヒカン。年齢は三十歳過ぎくらいだろうか。逞しさと男らしさを感じさせる、素敵な男性だった。
こんな男性と恋仲になれたら。運命の出会いになればいいのに――と思った。
「お待たせいたしました。ドリームソーダです」
細くて長い指が、先ずコースターを置く為に恵津の前を横切った。続いて輪切りのレモンに赤いストロー、不思議な虹色をした美しい飲み物が置かれた。
炭酸の泡が下から上がっていて、何とも美味そうな飲み物だった。
「わあ、綺麗」
恵津は思わず感嘆の声を漏らした。これ程に美しい飲み物は初めて見た。まるで、カクテルのようだ。
恵津はバッグからスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。
「お客様」
撮影しようとした瞬間、目の前の銀髪のマスターが少し厳しい顔をした。「撮影はご遠慮頂いております。申し訳ございません。この店が大勢のお客様の目に触れる事になれば、小さい店なので、すぐ立ち行かなくなってしまいます。どうか、ご理解下さい」
「あ、はーい。ごめんなさい」
こんなに暇そうなんだから、少しくらい有名になればいいのにと思ったが、店には店の事情があるのだろう。確かにこの店が繁盛して、目の前のマスターが汗まみれでオーダーを作る様子は、全く想像できない。
恵津は目の前の美しい男性が嫌がる事はしたくなかったので、素直にスマートフォンをバッグに戻した。
「いただきます」
一口飲むと、爽やかで優しい味が口内に広がった。「なにこれっ、おいしーい」
「それは何よりでございます」
彼が微笑むと、何故か心の中が優しく、温かくなった。
「今度は珈琲とケーキ食べに来るね。今はお腹いっぱいだから、食べれなくて残念っ。それより、町はずれにこんな可愛いお店がオープンしていたなんて、ちっとも知らなかった。何時から開いているの?」
「最近オープン致しました。お客様、お名前は?」
「岩里恵津」
「恵津さんとおっしゃるのですね。大変素敵なお名前だ」
「ありがとう。貴方は、マスターでいいのかな? マスターの名前は?」
「私(わたくし)は、皇右京(すめらぎうきょう)と申します。あちらの彼女は、絶品の珈琲を淹れる珈琲ソムリエの悠杉牡丹(ゆうすぎぼたん)、ウェイターの彼は、鳳凰寺脩(ほうおうじしゅう)と申します。どうぞ、オープンして間もない当店を、ご贔屓にお願いいたします」
「うん。するするー。マスターが右京さんで、美人ソムリエが牡丹さんで、ウェイターが脩さんね。オーケー。覚えました」
恵津はドリームソーダを飲みながら、右京と話をした。
もともとお喋り気質でほろ酔い気分だったこともあり、俊彦の愚痴を右京に漏らした。
右京は肯定も否定もせず、左様でございますか、と一々丁寧に恵津の愚痴に付き合ってくれた。
ひとしきり語り終えた恵津は、やはり俊彦と離れたいという気持ちの方が大きくなっている事に気が付いた。
彼との距離はあまりにも近く、あまりにも一緒にいすぎた。
子供のころから互いを知っていて、性格も、好みも、何もかもを把握していて、まるで熟年夫婦のようなのだ。俊彦の傍にいると、恋愛のトキメキ等もう二度と味わう事ができないだろう。
三十手前で婚活は厳しくとも、もう一度女としてのトキメキを味わいたい。
それは、俊彦では叶わない。
「ごちそうさまでした。美味しかったし、沢山愚痴聞いてくれて、右京さんありがとう。また来るね」
恵津のいい所は、気に入った相手で気を許せると思った人間には、フランクに話すところだ。右京に対しての口調が、もう既にかなり砕けていたが、彼はそんな事を気にも留めず、優しい微笑みを浮かべて席を立った彼女を会釈で見送った。
「毎度、ありがとうございまーす」
恵津と同じくらいフランクに話す脩は、レジを担当し、ドリームソーダ代の半額を受け取り、釣銭を返した。
「ありがとう。いいお店だね。また来るよ」
恵津は笑って脩に挨拶をすると、彼も可愛い笑顔をみせてくれたので満足した。鈴みたいな音のするドアベルを鳴らして、外へ出た。
ひゅうっと寒い木枯らしが吹き、温もっていた身体が急に冷え、恵津は身震いした。
「さむ」
一人呟いた言葉でさえ、息を吐き出した途端に白くなった。
この町の冬は、他の関西地方に比べても寒い。特に盆地は内陸性気候に当たり、海岸部に比べて気温の変動幅(一日の最高・最低気温の差や夏・冬の気温差)が大きい為、冬の夜は特に冷える。
「あ、お参りしていこーっと」
小さな社が地味に街灯のようなもので照らされており、ぼんやり輝いていた。
財布を出すのが面倒だったので、ルーズにコートのポケットにしまいこんださっきのドリームソーダの釣銭を投げ込み、パンパン、と静かな森に響くほど派手な音を立てて、素敵な彼氏に出会えますように、と恵津は願った。
※※※
翌日の事。駅前の旅行代理店に勤める恵津の業務は、師走を本格的に迎えると、たちまち大忙しになる。
正月休暇を使って、海外旅行の計画を立てる者が非常に増えるのが要因だ。ただでさえ忙しい年末に、毎日があっという間に過ぎていくばかりだ。
昨日は飲み過ぎたので少し心配だったが、幸い頭痛も吐き気もせずに仕事に就くことが出来た。ほぼ毎朝連絡が来ていたのに、今朝は俊彦からの連絡が無かったことを考えると、やはり自分の売り言葉をそのまま彼は受け止め、別れという形の選択肢を選んだのだろう。
十年という一番の青春時間を無駄にしたとは思わないが、婚期を大きく逃したことは事実だ。やはり昨日の願い通り、早急に新しい彼氏を探さねばならない。
友人に合コンでも開いてもらおうかな、とそんな風に考えながら窓口で来客の対応をした。カップルのハワイ旅行プラン契約を取り、それを羨ましく思った後、順番待ちをして自分の前に座った男を見て、あっ、と小さく声に出した。
目の前に座った男は、昨夜公園でぶつかった、あの逞しい彼だったから。
「あ、昨日はどうも」
彼の方も覚えていたようで、爽やかな笑顔を見せてくれた。「僕に凭れてきた、昨夜の素敵な女性ですよね?」
「あ、あれはっ、ちょっとつまずいただけで、凭れたり等した訳ではありませんよ! 本当ですっ、あの・・・・」
「ははっ。冗談ですよ。そんなにムキにならないで。可愛い人ですね」
必死に言い訳する恵津を、男は笑い飛ばした。軽いノリに拍子抜けする。
「ところで、ご用件は?」
相手にペースを乱されてしまい、恵津は内心焦りつつも、業務中だと心を落ち着かせるためにも、冷静に対応を努めた。
「申し訳ありませんが、旅行のキャンセルを」
「キャンセルですね。承知致しました。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「長谷部大吾(はせべだいご)です」
「長谷部様でございますね。少々お待ちくださいませ」
専用のパソコンで、システム内を検索した。長谷部大吾、大槻京美(おおつききょうみ)二名での予約がヒットした。
国内で一泊二日の熱海への旅行。年末から年始の、正月休暇を利用してのようだ。
「あの・・・・大変申し訳ございませんが、こちらのご予約は丁度旅行開始日の二十日前に入ってしまっておりますので、取り消し手数料がお支払い金額の二十パーセントかかりますが、本当に宜しいでしょうか?」
旅行代理店で予約を入れた場合、恵津が長谷部に伝えた通り、この時期からのキャンセルは、キャンセル手数料が発生するのだ。
これは標準旅行業約款で定められており、通常どこの旅行会社でも同じ扱いとなる。国内ツアーと海外ツアーでは大きな違いがあり、キャンセル日程が異なってくるのだ。
「そんなにかかるのですか。結構事前だから、普通にキャンセルできると思っていました」
長谷部が驚いた顔を見せた。キャンセル支払い金額を見ると、一泊二日の旅行で、十万円程だ。二十パーセントなら二万円程支払わなくてはならない。
「お申込み頂いた際、キャンセル料金につきましては、長谷部様の契約を取らせていただいた担当から、きちんとご説明をさせていただいたかと思います。約款(やっかん)もお渡ししていると存じますが、ご確認いただけておりませんでしょうか?」
約款とは、契約に基づく個々の条項を記載した用紙の事で、特に旅行代理店はキャンセル料金については詳しく契約者に説明を行っている。旅行者は単純にキャンセルすればよいという認識だが、手配等を含めてキャンセルは手間や料金が発生するので、この場合のトラブルを避ける為にも、きちんと約款を作って契約者に渡しているのだ。
「そうでしたか・・・・実は昨日、彼女と大喧嘩の末に別れましてね。折角、年末年始に旅行を計画していたのに」
苦笑いをして、目の前で大きなバッテンを作った。「踏んだり蹴ったりだ」
「左様でございましたか」
カップルで旅行を予約をすると、よくある話だ。旅行は先だから、行くまでの間に別れてしまい、予定が無くなってキャンセルとなるパターンだ。
「別の方と行くという手もありますよ」可哀想になったので、恵津が提案した。「ご友人と行かれるとか」
「熱海に? 友人と?」
「はい」
「えー。そりゃないよ。ところで、君の名前は?」
「岩里と申します」
「ううん、下の名前」
「あ、恵津です。岩里恵津」
「恵津さんね。うん、じゃあ、恵津さんは彼氏いるの?」
「えっ、あ、いえ。その、長谷部さんと同じで、昨日喧嘩して別れてしまいまして」
これほど男に強引に切り込まれた事が無かったので、恵津は業務中の心得を忘れてしまい、つい本当の事をポロっと話してしまった。
「えー、じゃあ、丁度良いね」長谷部大吾が爽やかな笑顔を見せた。「キャンセルは無し。恵津さん、俺と一緒に旅行しよう。三十一日ならこの代理店は休みだろ?」
恵津は絶句した。何故そんな発想になるのだ。
「すぐに返事をくれとは言わない。クリスマスまで、チャンスちょうだい。フリーになった者同士、気が合うと思うからさ。ね? どうせもう金は払っているし、キャンセル料取られちゃうなら、賭けようかな。運命に」
大吾は爽やかな顔から急に真剣な顔を見せ、恵津の手を取った。
「今日仕事終わりに、食事に行ってお互いの事色々話さないか? ごめん、信じて貰えないかもしれないけど、昨日・・・・君に一目ぼれしちゃって。また会いたいなって、思っていたんだ。この年になって、恥ずかしいんだけどさ・・・・今、その女性が目の前にいるんだ。運命ってヤツ、感じた」
目の前の素敵な男性から、突然の告白を受け、恵津は焦った。
「あ、あの、まだ仕事中でして・・・・」
「そうだね、ごめん。だったら、何か契約するよ。そしたらもう少し話せるよね? 実は。三月に両親に旅行をプレゼントしようと思っていたからさ。今回、自分たちが熱海に下見に行って、良かったらそこに決めようと思っていたんだ。母の足が悪いから、連れ添って温泉に行けるかどうかも見ておきたかったんだけど、前の担当の人が熱心にすすめてくれたから、そこでいいや。今それを契約したら、恵津とゆっくり話せるよね?」
大吾は既に恵津の名前を呼び捨てにして、ぐっと身を乗り出してきた。
「は、はい。ありがとうございます・・・・」
男らしい人に告白されてみたいという女性としての願望が今、まさに叶った瞬間だった。
それから手続きをしている間、互いの事を話した。大吾は近くのジムでトレーナーをしていると聞いた。身体を動かす事が、とにかく好きらしい。
喧嘩の末に彼女と別れた話も聞いた。長年付き合い、結婚も考えていたのだが価値観の違いからすれ違いが生じ、お互い冷めていた所に彼女の方が浮気を繰り返していたことが発覚したのだ、と。
大吾の年齢は三十二歳。そろそろ身を固め、苦労をかけた両親に結婚の報告と孫を抱かせてやるのが夢だと語ってくれた。
両親想いの、優しい男性なのだと恵津は感動した。
早速連絡先を交換した。今日は大吾の仕事が休みなのだが、恵津の仕事が終わるまでの間、自分の通うジムで雑用を片付けながら待っていてくれたのだ。
大吾を待たせる訳にはいかないので仕事を早めに片づけ、定時で上がり、彼に連絡を取ると、教えたジムまで来て欲しいと言われたので早速そちらへ向かうと、待ち合わせたジムの入っているビルの下で、大吾が恵津を待っていてくれた。
「ここ、俺のジムなんだ」
「ええっ。まさか・・・・」
恵津は驚いて口に手を当てた。このビルに入っているトレーニングジムが、自ら経営するジムだと大吾が言うのだ。
このジムは、よくポスティングのチラシが恵津の住むマンションにも入っており、若者に評判の良いジムだ。この若さで会社が経営出来る手腕がある事に驚き、更にそれを成功させている事に脱帽した。
「もし恋人になってくれるなら、ジム代はタダにするよ。俺と付き合ったら、結構お得だと思うんだけど、考えてみて?」
茶目っ気たっぷりな嫌味の無い言い方で、大吾が白い歯を見せた。少々強引な所もあるが、爽やかなので少しも嫌では無かった。男らしく、素敵だと思った。
「さあ。立ち話もなんだから、食事にしよう。恵津は何が食べたい? ご馳走するよ」
「あ、そんな。申し訳ないです」
「申し訳ないとか思わないで。俺が恵津にご馳走したいんだ。ね? 付き合ってくれるお礼だって思えばいいから」
強引に肩を取られ、歩き出された。
普通なら嫌だと思うのに、大吾は少しも嫌に感じない。運命の出会いだと彼は言っていた――もしそれが本当なら、きっと、アカシヤでの願いが叶ったのだ。だから、普段出会う事の無いような素敵な男性と偶然再会し、恋仲になれるチャンスが到来したのだ。
俊彦の事が頭をよぎったが、もう昨日別れたのだ。何も気にすることは無い。これからは、大吾との距離を縮めてみよう――恵津はそう思って、俊彦とは違う、彼の逞しい肩に寄り添った。
それから仕事終わりに毎日デートを重ね、大吾の猛アタックにすぐに折れた恵津は、彼と恋仲になり、クリスマスを初めて俊彦以外の男と過ごした。
転勤が多いという大吾は、ウィークリーマンションに住んでいた。きちんと整頓された部屋で、他の女性の影は感じられなかった。時に強引で、時に優しく、驚く程真面目かと思えば子供みたいに拗ねる時もある。俊彦とは違う男の魅力を持った大吾に、恵津はたった二週間足らずで夢中になっていた。
そしてクリスマスの夜。大吾のマンションで、彼に抱かれた。
俊彦と違う息遣い。俊彦と違う愛撫――初めて俊彦以外の男と肌を重ねた。
大吾とのセックスは普通だった。しかし、これほどに好きになったのだから、もっと燃え上がるものだと思っていたのに、そんな事は無かった。
演技の声を上げた程だ。
全てを、俊彦と比べてしまっていた。
俊彦はもっと優しく触れてくれる。焦らすように、壊れ物を扱うように、優しく、優しく――
そんな彼の愛撫が、好きだった。でも、大吾は違った。
なあんだ、こんなものか、というような感想しか沸いてこなかった。
別れた筈の俊彦が、急に気になった。どうしているのだろうか、と、つきあいを決めた男の腕に抱かれているのに、どうしてこんなに、俊彦を思い出してしまうのだろうか。
この選択は、間違っていない筈だと、恵津は自分に言い聞かせた。
男は真面目だけでは面白みがないと、考えていたのはまぎれもなく自身なのに。
熱海旅行の日がやって来た。京都から新幹線で移動し、旅館に到着した。
楽しい会話、楽しい時間、美しい夕日を眺め、老舗旅館の貸し切りの温泉に二人で入り、美味い食事を摂った。
勧められるままにアルコールを摂取すると、途端に眠気が彼女を襲い、意識を失った。
次に気が付くと、食事を摂っていた筈なのに布団で眠っていた。着衣の浴衣は酷く乱れていて、下腹部に違和感があった。気怠く、力は入らず、ぼんやりと天井を見つめるしかできなかった。一体、どうなったのだろうか?
「よく、眠っていたね」
不意に声がした。ゆっくりと顔を上げると、狡猾な顔をした大吾が椅子に座って煙草をくゆらせていた。初めて見る、知らない男の顔だった。煙草を吸う所も初めて見た。
「普通は目が覚めるんだけど」
彼が、何を言っているのか全く解らなかった。
大吾は更に醜く歪んだ笑みを見せた。「複数プレイは初めてだろうに」
複数プレイ――?
・・・
「ソッチが楽しめなかった分、恵津からは金を貰う事にするよ。ビデオ、買ってくんないかな? 俺、金に困ってんだわ」
「ビ、デオ・・・・?」
「そッ。乱交ビデオ。主演は恵津、君だ。眠っている間にさ」大吾はテーブルの上に置いてあるビデオカメラを取り上げた。「眠り姫に群がる男との情事、録画しておいたんだ」
ひっ、と恵津は息を呑んだ。
「いいねえ、その顔。サイコーにそそられる」
大吾は立ち上がり、大股に恵津の所まで歩いて来て彼女の髪の毛を鷲掴みにした。「早急に五百万円ほど要るんだ。買ってくれるよな? 主演ビデオ」
恵津は、目の前で起こっている出来事が信じられずに、カタカタと震えた。
これが夢であって欲しい、悪い夢なら、早く覚めて欲しいと願うしかできなかった。
まさか両親への挨拶まで済ませ、婚約までした男が、こんな事をするなんて・・・・。
「何時、金、用意できる?」
「あ・・・・あの・・・・・・・・」
「五百万、すぐに作れなかったら別にいいよ。このビデオ、その筋に売るから。結構高い値段つくんだよね。素人って」
「止めて! は、払うから。でも、貯金は三百万しかないの。それで勘弁して・・・・」
ぽろぽろと涙が零れた。
「勘弁? 冗談言うな。五百っつったら五百なんだよ! 残り二百万くらい、親にでも泣きついて言え。優しそうな親だったし、娘が困ってたら、払ってくれるだろ?」
取り付く島もなかった。
「後、テーブルの上のあれ、飲んどけよ。飲まないと、万が一の時、後悔するのは恵津だぜ」
「あれって・・・・?」
「察しが悪いな。アフターピルに決まってんだろ。ガキが出来てもいいんだったら、ご自由に」
恵津はあまりのショックに、声も出ない様子だ。
目の前の男から煙の様に吐き出される言葉は、全て現実のものなのだろうか。
「恨むなら、知り合って間もない素性も良く知りもしない男と、旅行したバカな自分を恨めよ? さ。話は纏まった。銀行開業と同時に五百万、頼むな。逃げたら容赦しねえぞ。ビデオ、ネットにバラまくからな」
ドスの利いた声で言われ、ポン、と肩を叩かれた。「じゃ、俺は帰るわ。これでも多忙の身なんでね。折角熱海にでも来たんだから、一人でゆっくり温泉堪能して、日ごろの疲れでも癒してくれ。また連絡する」
大吾はそれだけ言うと、まとめていた荷物と共に、部屋を出て行った。
後には酷い姿の恵津だけが残された。
まだ実感はないが、下腹部の違和感が大吾の言っている事が真実であると証明している。
恵津はすすり泣いた。こんな事になってしまったのは、大吾の言う通り愚かな自分のせいだ。
とりあえず机の上に残された薬を急いで飲み、眠っている間に撮影されたというビデオは見るのが怖くて、旅行鞄の中の一番底に放り込んだ。
ただ、涙が溢れた。
後、残り二百万円、どうしよう――
大吾は本気だった。恵津を見下した目は鋭く、脅しの手口も手慣れていて、まるでヤクザのような男だ。恐ろしい本性は隠して、強引で爽やかな立ち振る舞いをすれば、表面だけを見て好きになる女は騙せるだろう。自分の様に、愚かな女なら誰でも。
約束を守らなければ、本当にビデオを売るか流出させられてしまう。
両親には、絶対に相談できない。こんな形で娘が騙された上に傷物にされ、しかもそれを記録に残る映像として撮影されたと知れば、彼等は深く悲しむだろう。ここまで大切に育てて貰ったのだ。真面目な両親に、この事を相談する訳には行かない。
悔しい。三百万円という大金は、恵津がコツコツと俊彦との結婚の為に、若い頃から少しずつ貯めた大事な金なのだ。あんな最低男に一瞬で盗られるなんて――でも、弱みを握られている。言う通り五百万円も用意しなければならないのなら、後二百万円も足りない。サラ金なら、すぐに貸してくれるのだろうか。しかし利子の事を考えると、とてもじゃないが、そんな所で借りたり出来ない。
最善策が浮かばず、途方に暮れていると、恵津のスマートフォンが鳴った。
未だ、着信音で判る。一般の友人たちとは別にしている、俊彦からの着信だからだ。
着信を拒否の設定にしようと思ったのに、焦って操作を間違えてしまい、電話に出てしまった。
もしもし、恵津、と、俊彦の声がスマートフォンを通じて聞こえる。
久々に聞く俊彦の声。当たり前に聞きすぎて、あまりに近すぎて、解らなかった。
ああ、この声が好きだったな、と、想いが弾け、恵津の心を駆け抜けて行った。
「なあに?」
涙声を悟られてはいけない。しかし、遅すぎる悲惨な結末に、どうしても涙を止めることが出来なかった。
『元気だったか? 最近、電話できなくてゴメン。今どこ? 渡したいものがあるんだ』
恵津は答えられなかった。家だと言ってもすぐバレてしまう。そんな嘘はつけない。何故なら俊彦の家は、川を挟んだ向こう側の路地を入った先にあり、驚く程恵津の家と近いのだ。
パニックになっている頭では、咄嗟の嘘も思いつかなかった。
話すこともままならず、静かに涙だけが頬を流れて落ちて行った。
『恵津、どうした? 何かあったのか?』
まだ恵津が黙っているので、俊彦の口調が少しきつくなった。『困ったことがあったんだな!? 今、どこだ。すぐ迎えに行く!』
俊彦の怒気を含んだ声を聞いて、恵津は後悔でいっぱいになった。どうしてこんなにも自分を心配して、自分の事を解ってくれる恋人に、不満を持ったりしたのだろう。本当に馬鹿だった。
『早く言わないと、手当たり次第に探すからな!』
「・・・・熱海」
『また随分遠い所で困っているんだな。待ってろ、今すぐ行くから。詳しい場所、ラインで送ってくれ。ナビに入れて行くから』
早々に電話が切られ、ツーツーと機械音が流れた。
恵津は震えながら、俊彦にこの旅館の住所や電話番号を送った。それからフロントに連絡を入れ、旅館の従業員に友人が遅くに尋ねてくれることになった旨を伝えた。
今日は大晦日なので初詣を考慮し、旅館は出入りできるように開いているらしいから、部屋で待つことにした。
恵津はとりあえず、室内の風呂で身体をかきむしるようにして洗った。自分の知らない所で、知らない男たちに汚されてしまった――悔しい。また、涙が溢れた。
綺麗になったかどうかを確認する為に鏡を見ると、情事の痕跡みたいなものは残されていなかったが、ピアスが片方無くなっている事に気が付いた。俊彦からのプレゼントで、気に入って何時も着けていたものだが、今の状況ではそれを探す気にもなれなかった。
男たちに乱された浴衣等は着たくなかったので、自分の洋服に着替えて、部屋の隅でカタカタ震えながら俊彦を待った。
俊彦に連絡を取ってから、丁度四時間半後の午前二時頃、恵津の前に俊彦が現れた。きっと、京都の自宅から車を飛ばして来てくれたのだろう。
部屋に招き入れると、何があったのか、何が困っているのか、俊彦が優しく尋ねてくれたので、包み隠さず話した。
知らない内に乱暴されてしまった事、それをネタに金銭を要求されている事、断ったらビデオを流すと脅されている事――俊彦は泣きながら訴える恵津の話を、静かに聞いていた。
「解った。後の二百万は俺に任せろ」
「えっ、でも、俊の所、おばあちゃんの為に一階をバリアフリーにするからって、俊も実家のリフォーム代出したって言ってたよね? そんな大金あるの・・・・?」
恵津の言う通り、俊彦の家は足の悪い祖母の為に、玄関周りをリフォームしたばかりだった。俊彦は実家暮らしの為、自分の貯えから両親に幾らか渡したと聞いていたのだ。
「うん。だから、これを売ろう」俊彦は持参したショルダーバッグから、小さな包みを取り出した。「実はこれ、恵津にプレゼントしようと思ってた指輪なんだけどね」
「えっ、どうして・・・・? 私達、別れた筈でしょ」
「また恵津とケンカした時に出る、何時もの別れる冗談だとこっちは思っていたんだけど。そんな事言いながら、別れたためし無かったし。年末忙しかったから、離れるのも少しはいいかなって思って、連絡しなかったんだ。それに、恵津に渡す為の指輪作ってるとこだったから、指輪も無いのにプロポーズ出来ないし、ちゃんと言えなかったんだ。ごめん。こんな事なら、もっと早く言っておけばよかった。恵津を驚かせようと思っていたから」
「な、なんで・・・・そんな・・・・私みたいな勝手な女の為に・・・・・・・・」
涙がぽろぽろと溢れて、止まらなくなってしまった。
そんな恵津の頬を、俊彦の大きな手が包んだ。濡れた頬を、手のひらで拭ってくれた。
「クリスマスに間に合わせたかったんだけど、どうしても間に合わなくて。予約していた指輪、やっと今日入荷したから、今日渡そうと思ってたんだ。指輪のサイズみてからイニシャル掘ろうと思ってたから、新品未使用の綺麗な状態だよ。彫りは、やらなくて良かった。金銭的に困ったって事にして、事情を話せばまだ返品できると思う。これ返品して百万、俺の貯金残り百万で、二百万なら何とかなる」
「そんな! 出来ないよ! 俊の大事なお金なのに、そんな事出来ない!!」
「出来るさ。夫婦になるのだから、構わないだろう。但し、指輪が無くなっちゃうけどな。それは辛抱してくれ。また頑張って働いて、そんなに高いものは買えないけど、新しいものをプレゼントするから。あと、結婚式は無しにするからな。挙げたつもりで写真だけでも撮ろう。俺は恵津が傍にいてくれたら、それだけで十分だから。とにかく今は、相手を刺激しないようにして、絶対にそんなビデオが出回らないようにしよう。でも、きちんと警察に相談はした方がいいと思う。こんな風に脅してくる男は、きっとまた同じことを繰り返すだろうから」
俊彦が恵津を優しく抱きしめた。「怖かっただろう。もう大丈夫だ。俺がついてる」
その時、恵津は激しく後悔した。
――すぐ結婚できる、素敵な彼氏がすぐに見つかりますように。
どうしてアカシヤで、あんな事を思ってしまったのだろう。
こんなに、こんなにも自分は俊彦に大切にされていたのに、近くにいすぎてその良さを見失っていた。
プロポーズの言葉がないくらい、どうってことなかったのに。
勝手に啖呵を切って別れた挙句、酷い男に騙され、汚されてしまった自分をまだ心配して、それでも愛して、夫婦になろうと、伴侶に選んでくれようとする俊彦の底深い優しさと愛は、他の誰と比べる事もできなかったのに。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
恵津はひたすら懺悔し、強く願った。
これからは、俊を大切にします。
別れるって言いません。
絶対、絶対、言いません。
彼と歩む幸せな日々を、一生かけて大事にしますから。
神様、どうかお願いです。
――あのつまらない願いを、どうか取り消しにしてください。俊だけを愛していた、綺麗な自分に戻りたい。俊に謝りたい。もっと俊を大切にします。どうか、どうかお願いします・・・・。
・・・・・・・・――――
「恵津さん」
不意に、優しいテノールのような低音がすぐ傍で響いた。目を開けると、アカシヤのマスター、右京が目の前に立っていた。
「お疲れの様ですね。おや、悪い夢でも見られましたか?」
恵津の頬に幾筋も付いた涙の跡を見て、右京が目を細めて微笑んだ。「こちらをどうぞ」
タオルウォーマーから温かいおしぼりを出してもらい、顔を拭くように言われたので、コンパクトを取り出して崩れた化粧がこれ以上酷くならない様、気を付けながら目じりを拭った。
辺りを見回すと、アンティーク調のモダンな雰囲気の小さなカフェ――アカシヤだった。
目の前の右京は相変わらず優しい微笑みを浮かべ、凛とした佇まいを崩さなかった。団体用のソファーの方に牡丹と脩が座っていて、何やら話しているのが見えた。
「あの、ここは?」
「アカシヤです。先程から、恵津さんの恋人の話を色々と伺っておりましたが、恵津さんが眠ってしまわれたので、暫く待っていたのですが、風邪をひいてはいけないと思い、起こしました」
「あっ、あのっ。今、何月何日何曜日!?」
「ええと・・・・十二月十日の火曜日ですね」
「十二月十日!?」
恵津は驚いた。慌ててスマートフォンを取り出し、日付をチェックした。
おかしい。ついさっきまで、熱海の旅館にいた筈だ。年は明け、元旦の筈なのに。
それよりさっきまで一緒にいた俊彦は? 例のビデオは? 一体これはどうなっているのだ――?
「三十分程でしょうか。お酒も飲まれていたようですので、うたた寝をされていましたよ。何か怖い夢でも見られたのでしょう。もう大丈夫ですよ」
右京の説明を聞いた途端、気が抜けて恵津は足元から崩れ落ちそうになった。
しかし、大切な事に気が付いた今、あの恐ろしい出来事が全て夢だというのなら、自分がすべきことは、ただひとつ。
「あ、あのっ。ご馳走様でした! とても美味しかったわ! また来るね!!」
恵津は急いで身支度を整え、レジで精算して貰った後、わき目もふらずに走って自宅方面へ向かった。
勿論向かう先は、自宅ではない。俊彦の家だ。
午後十時過ぎ、恵津は俊彦の自宅近くに着いた。遅い時間なので、インターフォンは鳴らさずに俊彦のスマートフォンに連絡を入れた。
『はい?』
恵津からの連絡を待ってくれていたように、俊彦がすぐに対応してくれた。
「ちょっと話があるの! すぐ出て来て。今、家の前だから」
『えっ、今!? わ、わかった。ちょっと待ってて』
一分も経たないうちに、バタバタと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。少し古いが、二階建ての馴染の家だ。一階部分は俊彦の祖母が利用する車椅子が入れるように、バリアフリーに改築されたので、一階部分だけが真新しい。合わせてペンキの塗り替えもしたので、内装は変わらないが外装は綺麗になっていた。
「おまたせ」
玄関をやや乱暴に閉めながら、俊彦が慌てた様子でやって来た。門を開け、恵津の前に立った。
「俊、今日はごめんなさい。私、俊が好きだから、貴方ににプロポーズされたいって、そればかり思っていて。でも、ちっともそんなそぶり見せてくれないから、私との事をどう思っているのか、不満で意地になっていたの。可愛気無かったなって、反省したわ。ごめんなさい。謝りたくて」
「えっ。恵津が謝ってくるなんて、雪でも降るんじゃないの」
軽く憎まれ口を叩かれた。
「別れるなんて、酷い事言ってごめんなさい。二度と言わないから、取り消しにしてくれる?」
「取り消しも何も、何時もの別れる詐欺の事だと思って気にもしてなかったけど。それより、一体どうしたんだ? 酔っ払いか? あ、どうせ、ドリー夢でも行って眞由美さんに愚痴言って――」
恵津はまだ話を続けている俊彦の胸に飛び込み、彼の頬を強引に寄せ、堪らず口づけた。
温かい。このキスも好きだったのに、どうして簡単に手放したりしてしまったのだろう。本当に馬鹿だった。
あまりに近くにいすぎて、あまりに当たり前になり過ぎていて、大切な事を見失っていたのだ。
先程の恐ろしい夢に出てきた男の影は、今すぐ俊彦で塗り潰し、払拭したい。
「俊、私と結婚して。誰よりも俊を大事にするから。一生かけて、貴方を大切にするって誓うわ!」
「恵津・・・・それ、俺の台詞・・・・」
「いいの! プロポーズなんかなくていい。つまらない事に拘っていた私が、馬鹿だった。あのね、やっと気づいたの。俊が私の傍にいてくれることが、一番大事なんだって。何も要らない。貴方がいてくれたら、それだけでいいの。ごめんなさい。今まで我儘いっぱい言って。これからはもっと、貴方を大切にするから、だから、私を離さないで」
回した腕に力を込め、ぎゅうっと俊彦を抱きしめた。
「恵津に先を越されるとは思わなかった。畜生。もう少し待ってくれたら、俺からプロポーズしたのに。これでも色々考えていたんだ。恵津に似合うかなって悩んで、指輪、予約してたから・・・・」
「いい。何も要らない。俊がいてくれるだけでいい」
本心だった。温かい気持ちに包まれ、自然に涙が零れた。
素直になって、大好きな彼の傍で、綺麗な自分でいられることが、こんなにも大切で、幸せな事だったなんて、知らなかった。
俊彦が再び涙を拭ってくれた。風に煽られた髪を耳にかけてくれた時、俊彦は恵津の耳の片方のピアスが無くなっている事に気が付いた。
「あれ、恵津。ピアス片方無くなってるぞ。相変わらず、そそっかしいな」
「えっ」
俊彦に言われて両耳に触れると、ピアスの感覚が左側だけ無かった。確かに先程まで身に着けていた、お気に入りのピアスが無い。俊彦が恵津に贈ってくれた、ダイヤのピアス――
そうか。
そうだったのか。
あの恐ろしい出来事は、夢であって夢でなかったのか。
現実だったのか、夢だったのか、真意の程は定かでは無い。
恵津は、スナック・ドリー夢前で会った眞由美の息子、櫂の言葉を思い出した。
――ここは、ひとつだけ願いが叶う不思議なカフェなんです。僕も大切な願いを、ひとつ叶えて貰ったんです。だから、一人でも多くの人に同じ様に願いが叶って欲しいなって思っていて、このカフェを紹介しています。悩んでいる人には、特に――
アカシヤに行って、不思議なドリンクを飲んで、不思議な夢を見た。
まるで現実と何ら変わらぬ夢を体験しているようだった。そして、恐ろしい出来事に直面し、大切な人の事を思ったその時、恵津は心から神に祈った。
自分の本当の願いが、きっと通じたのだ。
俊彦を大切にしたいと願う、心からの祈りが。
だからきっと、あの恐ろしい出来事は、夢であったに違いない。そう信じよう。
「ちょっと、ドライブでも行こうか。車出すよ。これからの事、二人で話そう」
それにしてもまさか恵津に先を越されるとは、と、苦笑いする俊彦の腕に、恵津は自分の腕を絡めた。
二度と離さない。たとえどんなことがあっても。
愛する彼の腕に力を込め、恵津は俊彦に寄り添った。
※※※
「どうやら上手く願いが叶ったようだ」
ここは、カフェ・アカシヤ。洗い物を終え、皿を拭いていた右京が頭から生えた耳をピクピクと動かしながら二人に話しかけた。
今しがたまで赤く光っていた目の色は、何時ものアッシュグレーの瞳色に戻っている。
「そう、良かったじゃない」
「ああ、良かった! 安心した。これでゆっくり眠れるね」
ソファーに座ってのんびりとしていた二人が、ふさふさの尻尾を揺らしながら喜んだ。
「恵津さんさあ、今回の体験は、怖い夢だと思ってくれたらいいけどね」少し心配そうな顔をして、脩が言った。「彼女の魂が見た現実と夢幻の狭間の体験は、本当の様で本当じゃ無いからね。でも、僕たちがわざと痕跡を残すから、本当の体験だと信じて、絶対に忘れない。だから、その人の心からの願いは叶うんだ。でも、あんなに怖い体験して、大丈夫だったかな」
「大丈夫よ。素敵な旦那様が傍にいるから。脩は心配性ね」
牡丹が優雅に微笑んだ。
「私達、妖の術に触れることが出来る者は皆、幸せになれる。そうでなくては、私達の存在意義が無くなってしまうではないか」
右京は目を細め、恵津が体験した出来事は恐ろしい夢だったと信じ、これからの未来が幸せに描けるよう、心を込めた。
「私の念を送っておいた。心配要らない。大丈夫だ」
「牡丹や右京がそう言うなら、大丈夫だね。ああ、今日は遅くまで起きていたからくたびれちゃったよ。早く寝よう」
欠伸をしながら、脩はカフェを照らしている外の電気のスイッチを切った。
灯りが消え、アカシヤに静寂が訪れた。
今日もまた、彼等のお陰で道を踏み外そうとしていた人間が救われた。
しかしその事実を、誰も知ることは無い――
付き合って十年以上にもなるのに、未だ俊彦はプロポーズもしてくれない。幼い頃から知った仲で、マンネリ化しているのは否めない。
今日も些細な事で食事前に喧嘩をしてしまった。恵津が一方的にプリプリ怒っている、何時ものパターンだ。だんまりを決め込む俊彦に啖呵を切って、もう別れよう、とまで言ってしまったのだ。
何時までも煮え切らない俊彦に、見切りをつけても良いものか。また、三十手前のアラサー女の婚活は非常に厳しい。恵津は二十九歳で、来年は三十歳になる。愛嬌のある顔立ちだとは自分でも思うが、特別美人でも無い。自分の事がよく解っている恵津は、俊彦から離れたいという気持ちと、年齢的に厳しいからこそ俊彦で妥協し、彼にプロポーズをせっついて結婚するという選択肢を選ぶか、非常に悩んでいた。
ムシャクシャしていたので、恵津は自宅から徒歩十分ほどの位置にある、馴染みのスナックに向かった。小さな町の住宅街の少し外れにある古いスナックだ。母の友人が営んでおり、人が足りない時は、ピンチヒッターのホステスを務める事もある店だ。
スナック・ドリー夢――センス無い名前だな、と古い電飾のついた看板を見る度に思う。
白塗りのペンキの剥げかかった、取っ手の部分もちょっと錆びたドアを押し開けると、途端にカラオケの音が大きくなった。先客が何か歌っている。まあ、大抵演歌だ。恐らく今流れているのもそうだろう。おおよそポップスには聞こえない、バックミュージックから予想がつく。
興味が無いので何の曲が流れていようが、恵津にはどうでもいい事だった。
「いらっしゃいませ」
来客に気が付いたホステスが、いち早く恵津の元へやって来た。彼女は、中川眞由美だ。
眞由美は四十代前半位の年齢の女性で、ダークブラウンに染めた髪をいつも綺麗にアップして、大きなイヤリングを耳からぶら下げている。目の大きくて、華奢で小さな女性だった。確か、中学生の息子が一人いた筈だ。シングルマザーだと聞いている。
美人で気さくな彼女は聞き上手だったので、ここはひとつ、眞由美に相談をしてみようと思った。
「眞由美さん指名ね」
カウンターの端に座ると、おしぼりを渡され、コースターと眞由美手製の付き出しが置かれた。見ると、今日は鶏肉の甘煮だった。食事のデートの最中に、食事を済ませる前に俊彦と喧嘩して別れると宣言して帰って来たので、恵津はお腹が空いていた。
「あら、えっちゃん。私は指名料高いわよ」
眞由美が笑った。彼女が笑うと、えくぼができる。チャーミングで愛らしい女性だった。
そのせいか、眞由美は年齢の割に随分若く見える。とても中学生の子供がいるような女性には見えない。だからよく馴染客に言い寄られているのを、恵津は知っていた。
「指名料は、永久的ツケでお願いしまーす。あ、私、お腹空いてるんだ。眞由美さん、何か作ってー。あ、これ、ウマ」
早速鶏の甘煮をつついて、味を褒めた。恵津はこの店にウィスキーのキープボトルを入れているから、それで濃い目のソーダ割を作って貰った。
恵津の為に一品を拵(こしら)えてくれた眞由美にも何か飲むように伝えたら、彼女は何時ものようにウーロン茶の小瓶を自分の前に置いた。眞由美はよほどの事が無い限り、酒を飲む事が無い。酔っぱらって帰宅して、息子に迷惑をかけたくないから、と、彼女は何時も言っていた。
「えっちゃん、どうしたの? 今日は俊君とデートじゃなかった?」
「えー。そんな事覚えてるの? やだー、止めてよー」
眞由美が作った出し巻きと枝豆をつまみながら、恵津はソーダ割を煽った。「そのデートでさあ、俊とケンカしたの。け・ん・か」
「ええっ。何があったの?」
「アイツさー、もう付き合って十年にもなるのにさー。全然結婚のけの字も雰囲気なくてさー」
眞由美に愚痴るようにして俊彦の事を話していると、だんだん腹が立ってきた。恵津はキープボトルを掴んで、空になったグラスにどぼどぼとウィスキーを注いだ。そしてそれを、躊躇いも無く飲み干し、胃へ流し込んだ。
「あっ、えっちゃん、ダメよ。酔っぱらって倒れちゃうわ」
「いいのっ。今日は呑ませて! だって、ついさっき俊と別れたの!!」
「えええーっ。何で何でっ。ダメよ、そんな勢いで別れちゃったりしたら。ほら、話聞くから」
「もういいの。もういい」
恵津は投げやりに言った。
この十年という長い期間、一体何だったんだろう。青春を無駄にしたようで、とても複雑な気分になった。
俊彦と恵津は家が近所で、小学校も中学校も同じだった。
ただの仲いい同級生でいたのだが、二十歳頃、当時付き合っていた彼と恵津の失恋をきっかけに、俊彦と急接近した。彼は少し頼りない所もあるが、相談すれば必ず親身になって考えてくれて、答えを一緒に探してくれるような、優しい男だった。優しいからこそ、気の強い恵津はヤキモキする。
何時も肝心な時に、押しが弱くて俊彦のダメな所が、恵津は嫌いだった。
それでも、俊彦そのものは好きだった。ふんわりとした柔らかい黒髪は、高級動物のような手触りの良い髪質で、淵の厚いオタクみたいな黒縁眼鏡を掛けていて、真面目で、無遅刻無欠勤の平社員。おおよそ出世には興味なさそうで、上司にいいように使われるお人よし。
一緒にいると、気も遣わずに楽でいい男。思わず女を忘れそうになる――
「俊ってホント、ダメだよね!」
彼のいい所を思い出している筈なのに、途中から趣旨が変わってきた。
やはり男は、真面目で優しいというだけでは面白みに欠けるのだ。自分が女であることを忘れさせるようなつまらない男と、一生添い遂げる事に既に迷いが生じている時点で、結婚してもその先の結果は見えている。
「俊君の何がダメなの? 素敵な青年じゃない。真面目だし、優しいし、えっちゃんを大事にしてくれるもの」
「まあ、それは認めるけど。でも、もうずっとマンネリなんだ。最近喧嘩増えちゃって、プロポーズもしてくんないしさぁ、このままずーっと付き合って、終わっちゃうかもしれないし。もう潮時だよ。潮時」
「えっちゃんは俊君と喧嘩した時、何時もそんな風に言うのよ。それはもう口癖みたいに。気づいてた?」眞由美はため息交じりで言ったが、すぐに名案を思い付いた様で、笑顔を輝かせた。「そうだわ! 俊君が言ってくれなくて不満なんだったら、えっちゃんから言っちゃえば? 結婚して下さいって、プロポーズしちゃえー」
眞由美の言葉に、恵津は目を剥いた。
「眞由美さん、冗談止めてよ。私、女だよ? プロポーズされたい側だし」
「あらぁ。最近流行っているのよ。女性からの逆プロポーズ」
「ええー」
なぜそういう思想になるのだろう。信じられなかった。
嫌になって、恵津は再びウィスキーを煽った。もう既にロックで三杯も水割りグラスで飲んでいるから、随分とハイピッチで飲んでしまった。少し酔った感が芽生えている。
眞由美に話したのは失敗だな、と恵津は心の中でため息を吐いた。彼女は真面目だから、真面目な俊彦の味方なのだ。
それからというもの、眞由美に俊彦の良さをこんこんと説明された。
ああ、ウザいな。言われなくても、俊の良い所くらい、彼女の私がの方がいっぱい知ってるし――酔っているから余計にイライラして、腹が立った。
こんな風に人から言われた些細な事でイライラする毎日に、サヨナラしたい。
俊彦と別れたら、また新しい未来が切り開けるのではないか、とそんな気分になった。
決めた。今度こそ俊彦と別れよう。
「眞由美さん、ありがとう。元気出た。もう帰るよ。明日も仕事だし」
「あら、そう? 良かったわ。俊君を大事にしてね。大切な人は、失ってから気が付いても遅いのよ」
「そうだね」
ゴメン、もう決めました。俊とは別れます――後日眞由美には、やっぱり無理だったと伝えればいいや、と会計を済ませ、恵津は席を立った。
「ありがとうございました」
眞由美が律儀に店の外まで送ってくれた。古い扉を開けると、頭上でドアベルがチリンチリンと鳴った。
外に出ると、背の高い中学生位の年齢の少年が壁に凭れて立っていた。坊主頭で、白いスウェットの揃いの上下を着用し、空を見上げていた。はあっと彼の吐く息が白く寒空へ煙の様に昇って行った。
眞由美に似た同じ顔立ちで、目の大きな可愛い少年だった。彼女の息子なのだろうと、見ただけで解った。
「あら、櫂。今日も来てくれたの?」眞由美が言葉とは裏腹に、嬉しそうに少年に声を掛けた。
「毎日来るって言っただろ。もう仕事上がれる?」
「もう少しだけ待ってね。お客様をお見送り中だから」
眞由美は恵津に向きなおり、ありがとうございました、ともう一度丁寧に頭を下げて、店内に消えて行った。
「あの・・・・眞由美さんの、息子さん?」
「そうです。櫂と言います。母が何時もお世話になっています」
櫂は恵津に頭を下げた。真面目な眞由美の息子らしい。品行方正が素晴らしいと思った。
「迎えって、眞由美さんを櫂君が迎えに来ているの?」
「はい。夜は危ないですから。危険なニュースもよく耳にしますし」
恵津は驚いた。今時、こんな中学生がいるのだ、と。
可愛らしい顔立ちだが、キリっとした力強い目を見て思わず、俊もこんな風だったら良かったのに――と、櫂に俊を重ね見た。
「親孝行で偉いね。寒いから風邪ひかないように気を付けて」
櫂に会釈して、恵津は歩き出した。
自分が学生の時は、夜も十時近くになったら寝たふりして、ベッドの中で漫画を読んだり、携帯で友人と好きな子や学校の他愛もない話をしたり、チャットしたり、そんな風にして過ごした記憶しかない。
「あー、あの。待ってください」
櫂に呼び止められて、恵津が振り返った。
「良かったらこれ、貰ってくれませんか。普及活動しています」
彼に手渡されたのは、カフェのチラシだった。
カフェ『アカシヤ』で、憩いのひと時を。
珈琲ソムリエの淹れる、薫り高い珈琲、マスターの手作りケーキと一緒にいかが。
このチラシをご持参の方、ご飲食代半額に致します。
チラシにはそのように書かれており、地図も右下に掲載されていた。
場所は、京都盆地内にある町はずれ付近の緩やかな坂を上がりきった先にある、狐の神様を祀る小さな森の社の傍だった。
「ここは、ひとつだけ願いが叶う不思議なカフェなんです」櫂が真剣な顔で言った。「僕も大切な願いを、ひとつ叶えて貰ったんです。だから、一人でも多くの人に同じ様に願いが叶って欲しいなって思っていて、このカフェを紹介しています。悩んでいる人には、特に」
「悩んでいる人? そんな風に見えた?」
心外だった。中学生に十年ほど付き合った彼氏と別れる決意をした心を、まさか見抜かれたのだろうか。
「なんとなく、ですけど」
言葉尻を濁して、櫂が笑った。「引き留めてすみません」
「あ、ああ、うん。いいよ。ありがとう」
恵津はもう一度軽く会釈して、じゃあね、と櫂に別れを告げた。
一体何だったのだろう。ひとつ、願いが叶う?
だったら叶えてみたい。素敵な彼氏が欲しい。結婚適齢期を逃す前に、俊彦みたいな頼りない男じゃなく、もっと強引にグイグイ引っ張ってくれるような、強いて言うなら二十歳の時に別れた元カレのような――
カフェの事が気になったので、恵津はもう一度チラシを見てみた。町はずれだったが、そう遠くないので、散歩がてら場所を見に行く為に恵津はそこへ向かってみた。
近道をする為に、公園内に入って歩いた。すると、向こうから革靴の足音が聞こえた。それと同時に、足早に男性がこちらの方へやって来るのが遠くに見える。影になっているから、顔までは解らなかった。
午後十時過ぎだったので、流石に他人と鉢合わせは嫌だな、トラブルの元だ、と思って踵を返した。慌てて公園の外に出た所で、後ろを見ながら走っていたので、ドン、と思い切り誰かにぶつかった。
「わっ」
その瞬間によろめいたが、ぶつかった相手が逞しい腕を出してきて、さっと恵津を抱きしめて転倒しないように庇ってくれた。
「あ、すみません。よそ見をしていて」
「いいえ。お怪我はありませんでしたか?」
「はい。お陰様で。ありがとうございました」
ガッシリとした腕は筋肉質で、恵津が捕まった手首付近も、引き締まっていて固かった。
細く頼りない俊彦とは、大違いの男性だった。
「夜分遅いので、お気をつけ下さい。それでは」
スマートで紳士的な挨拶に、恵津は思わずときめいた。俊彦と違って逞しくスポーツ選手のようで、あんな素敵な男性がいるんだ――と、この十年間俊彦しか見てこなかった恵津に、初めて芽生えた異性への憧れの感情だった。
余韻に浸っていると、目の前の公園から革靴の足音が聞こえてきた。さっきやり過ごした筈の他人が、こちらへ歩いてきているのだ。気味が悪くなって恵津は公園を避け、先ほど櫂から貰ったチラシのカフェへ急いだ。
こんな時間に町はずれにあるカフェが開いているとは思っていなかったのに、辿り着いた先の店は明るく光が灯っていて、まるで恵津を待っていてくれたように見えた。
吸い込まれるようにして、恵津は店内に足を踏み入れた。
木製のドアを開けると、ちりんちりん、と鈴のようなドアベルが鳴った。まるで神社の鈴緒を左右に振って音を立てているような、そんな鈴の音だった。
「いらっしゃいませ。アカシヤへようこそ! チラシをご持参のお客様ですね。どうぞ、中へお入り下さい」
赤茶色の柔らかそうな髪をした、目のくりっとした可愛らしい青年ウェイターが出迎えてくれた。
正面には見事な銀髪の男性が佇んでおり、目が合うと柔和な微笑みを浮かべ、会釈してくれた。カウンターに座って長い足を組んでいた女性も、どうも、と会釈してくれた。
「こんな遅い時間でも、お店は開いているのですか? 今からでも、大丈夫ですか?」
恐る恐る聞いてみた。
「はい。結構ですよ。当店は、お客様がいらっしゃる限り、開店致しますので」
良く通るやや低めの優しい声で、銀髪のマスターがカウンターへどうぞ、と案内してくれた。
店内は誰もおらず、中央のカウンターに一人だけ腰かけるのは少し気が引けたが、折角なので目の保養をしようと思った。銀髪のマスターは、この世のものとは思えない程美しい男性で、恵津はこの様な男性を見るのは、初めてだった。
「メニューは少ないですが、味に自信はあります。お好きなものをご注文下さい」
カウンターの席の前に立てかけてある、少し古い木に和紙を貼り付けたメニューを指され、恵津はそちらを見た。
・珈琲 500円
・手作りケーキ 500円
・ドリームソーダ 500円
確かに今しがた、少ないと目の前のマスターが言ったが、あまりの少なさに恵津は驚いた。
こんな少ないメニューで、しかも客入りは自分だけ・・・・本当にいいのだろうか。夜だというのにホールに二人もいるが、バイト代も出ないのではないだろうか。
申し訳無くなったが、眞由美の作ってくれた出し巻きやら一品やらを結構つまんで、更に酒も飲んだので、恵津の腹は膨れていた。ケーキや珈琲を頼むには、今の時間しんどいな、と思ったので、さっぱり飲めそうな、ドリームソーダを頼むことにした。恐らく炭酸飲料だろう。
「この、ドリームソーダを下さい」
恵津の言葉を聞いた瞬間、目の前の銀髪のマスターは、切れ長の目を少し開いた。しかしそれは一瞬の事で、すぐに柔和な笑みを浮かべ、かしこまりました、少々お待ちください、と告げた。
背面に並んだグラスの棚からひとつを取り出し、カウンター下の製氷機から氷を取り出して中に入れた。オープンカウンターなので、中の様子が少し乗り出せば見える。
手際よく作る彼の手をぼんやり見つめながら、そういえばひとつ願い事が叶うって櫂君が言っていたな――と恵津は考えた。
――素敵な彼氏がすぐに見つかって、幸せな結婚ができますように。
何となくそんな風に考えた。
そういえば、さっき出会った紳士は素敵だった事を思い出した。
コート越しなのに逞しい腕と判る筋肉の付いた腕に、ちらっとしか見えなかったが、面長の顔に鋭い目線。短く整えられたスポーツ刈りの、今風なソフトモヒカン。年齢は三十歳過ぎくらいだろうか。逞しさと男らしさを感じさせる、素敵な男性だった。
こんな男性と恋仲になれたら。運命の出会いになればいいのに――と思った。
「お待たせいたしました。ドリームソーダです」
細くて長い指が、先ずコースターを置く為に恵津の前を横切った。続いて輪切りのレモンに赤いストロー、不思議な虹色をした美しい飲み物が置かれた。
炭酸の泡が下から上がっていて、何とも美味そうな飲み物だった。
「わあ、綺麗」
恵津は思わず感嘆の声を漏らした。これ程に美しい飲み物は初めて見た。まるで、カクテルのようだ。
恵津はバッグからスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。
「お客様」
撮影しようとした瞬間、目の前の銀髪のマスターが少し厳しい顔をした。「撮影はご遠慮頂いております。申し訳ございません。この店が大勢のお客様の目に触れる事になれば、小さい店なので、すぐ立ち行かなくなってしまいます。どうか、ご理解下さい」
「あ、はーい。ごめんなさい」
こんなに暇そうなんだから、少しくらい有名になればいいのにと思ったが、店には店の事情があるのだろう。確かにこの店が繁盛して、目の前のマスターが汗まみれでオーダーを作る様子は、全く想像できない。
恵津は目の前の美しい男性が嫌がる事はしたくなかったので、素直にスマートフォンをバッグに戻した。
「いただきます」
一口飲むと、爽やかで優しい味が口内に広がった。「なにこれっ、おいしーい」
「それは何よりでございます」
彼が微笑むと、何故か心の中が優しく、温かくなった。
「今度は珈琲とケーキ食べに来るね。今はお腹いっぱいだから、食べれなくて残念っ。それより、町はずれにこんな可愛いお店がオープンしていたなんて、ちっとも知らなかった。何時から開いているの?」
「最近オープン致しました。お客様、お名前は?」
「岩里恵津」
「恵津さんとおっしゃるのですね。大変素敵なお名前だ」
「ありがとう。貴方は、マスターでいいのかな? マスターの名前は?」
「私(わたくし)は、皇右京(すめらぎうきょう)と申します。あちらの彼女は、絶品の珈琲を淹れる珈琲ソムリエの悠杉牡丹(ゆうすぎぼたん)、ウェイターの彼は、鳳凰寺脩(ほうおうじしゅう)と申します。どうぞ、オープンして間もない当店を、ご贔屓にお願いいたします」
「うん。するするー。マスターが右京さんで、美人ソムリエが牡丹さんで、ウェイターが脩さんね。オーケー。覚えました」
恵津はドリームソーダを飲みながら、右京と話をした。
もともとお喋り気質でほろ酔い気分だったこともあり、俊彦の愚痴を右京に漏らした。
右京は肯定も否定もせず、左様でございますか、と一々丁寧に恵津の愚痴に付き合ってくれた。
ひとしきり語り終えた恵津は、やはり俊彦と離れたいという気持ちの方が大きくなっている事に気が付いた。
彼との距離はあまりにも近く、あまりにも一緒にいすぎた。
子供のころから互いを知っていて、性格も、好みも、何もかもを把握していて、まるで熟年夫婦のようなのだ。俊彦の傍にいると、恋愛のトキメキ等もう二度と味わう事ができないだろう。
三十手前で婚活は厳しくとも、もう一度女としてのトキメキを味わいたい。
それは、俊彦では叶わない。
「ごちそうさまでした。美味しかったし、沢山愚痴聞いてくれて、右京さんありがとう。また来るね」
恵津のいい所は、気に入った相手で気を許せると思った人間には、フランクに話すところだ。右京に対しての口調が、もう既にかなり砕けていたが、彼はそんな事を気にも留めず、優しい微笑みを浮かべて席を立った彼女を会釈で見送った。
「毎度、ありがとうございまーす」
恵津と同じくらいフランクに話す脩は、レジを担当し、ドリームソーダ代の半額を受け取り、釣銭を返した。
「ありがとう。いいお店だね。また来るよ」
恵津は笑って脩に挨拶をすると、彼も可愛い笑顔をみせてくれたので満足した。鈴みたいな音のするドアベルを鳴らして、外へ出た。
ひゅうっと寒い木枯らしが吹き、温もっていた身体が急に冷え、恵津は身震いした。
「さむ」
一人呟いた言葉でさえ、息を吐き出した途端に白くなった。
この町の冬は、他の関西地方に比べても寒い。特に盆地は内陸性気候に当たり、海岸部に比べて気温の変動幅(一日の最高・最低気温の差や夏・冬の気温差)が大きい為、冬の夜は特に冷える。
「あ、お参りしていこーっと」
小さな社が地味に街灯のようなもので照らされており、ぼんやり輝いていた。
財布を出すのが面倒だったので、ルーズにコートのポケットにしまいこんださっきのドリームソーダの釣銭を投げ込み、パンパン、と静かな森に響くほど派手な音を立てて、素敵な彼氏に出会えますように、と恵津は願った。
※※※
翌日の事。駅前の旅行代理店に勤める恵津の業務は、師走を本格的に迎えると、たちまち大忙しになる。
正月休暇を使って、海外旅行の計画を立てる者が非常に増えるのが要因だ。ただでさえ忙しい年末に、毎日があっという間に過ぎていくばかりだ。
昨日は飲み過ぎたので少し心配だったが、幸い頭痛も吐き気もせずに仕事に就くことが出来た。ほぼ毎朝連絡が来ていたのに、今朝は俊彦からの連絡が無かったことを考えると、やはり自分の売り言葉をそのまま彼は受け止め、別れという形の選択肢を選んだのだろう。
十年という一番の青春時間を無駄にしたとは思わないが、婚期を大きく逃したことは事実だ。やはり昨日の願い通り、早急に新しい彼氏を探さねばならない。
友人に合コンでも開いてもらおうかな、とそんな風に考えながら窓口で来客の対応をした。カップルのハワイ旅行プラン契約を取り、それを羨ましく思った後、順番待ちをして自分の前に座った男を見て、あっ、と小さく声に出した。
目の前に座った男は、昨夜公園でぶつかった、あの逞しい彼だったから。
「あ、昨日はどうも」
彼の方も覚えていたようで、爽やかな笑顔を見せてくれた。「僕に凭れてきた、昨夜の素敵な女性ですよね?」
「あ、あれはっ、ちょっとつまずいただけで、凭れたり等した訳ではありませんよ! 本当ですっ、あの・・・・」
「ははっ。冗談ですよ。そんなにムキにならないで。可愛い人ですね」
必死に言い訳する恵津を、男は笑い飛ばした。軽いノリに拍子抜けする。
「ところで、ご用件は?」
相手にペースを乱されてしまい、恵津は内心焦りつつも、業務中だと心を落ち着かせるためにも、冷静に対応を努めた。
「申し訳ありませんが、旅行のキャンセルを」
「キャンセルですね。承知致しました。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「長谷部大吾(はせべだいご)です」
「長谷部様でございますね。少々お待ちくださいませ」
専用のパソコンで、システム内を検索した。長谷部大吾、大槻京美(おおつききょうみ)二名での予約がヒットした。
国内で一泊二日の熱海への旅行。年末から年始の、正月休暇を利用してのようだ。
「あの・・・・大変申し訳ございませんが、こちらのご予約は丁度旅行開始日の二十日前に入ってしまっておりますので、取り消し手数料がお支払い金額の二十パーセントかかりますが、本当に宜しいでしょうか?」
旅行代理店で予約を入れた場合、恵津が長谷部に伝えた通り、この時期からのキャンセルは、キャンセル手数料が発生するのだ。
これは標準旅行業約款で定められており、通常どこの旅行会社でも同じ扱いとなる。国内ツアーと海外ツアーでは大きな違いがあり、キャンセル日程が異なってくるのだ。
「そんなにかかるのですか。結構事前だから、普通にキャンセルできると思っていました」
長谷部が驚いた顔を見せた。キャンセル支払い金額を見ると、一泊二日の旅行で、十万円程だ。二十パーセントなら二万円程支払わなくてはならない。
「お申込み頂いた際、キャンセル料金につきましては、長谷部様の契約を取らせていただいた担当から、きちんとご説明をさせていただいたかと思います。約款(やっかん)もお渡ししていると存じますが、ご確認いただけておりませんでしょうか?」
約款とは、契約に基づく個々の条項を記載した用紙の事で、特に旅行代理店はキャンセル料金については詳しく契約者に説明を行っている。旅行者は単純にキャンセルすればよいという認識だが、手配等を含めてキャンセルは手間や料金が発生するので、この場合のトラブルを避ける為にも、きちんと約款を作って契約者に渡しているのだ。
「そうでしたか・・・・実は昨日、彼女と大喧嘩の末に別れましてね。折角、年末年始に旅行を計画していたのに」
苦笑いをして、目の前で大きなバッテンを作った。「踏んだり蹴ったりだ」
「左様でございましたか」
カップルで旅行を予約をすると、よくある話だ。旅行は先だから、行くまでの間に別れてしまい、予定が無くなってキャンセルとなるパターンだ。
「別の方と行くという手もありますよ」可哀想になったので、恵津が提案した。「ご友人と行かれるとか」
「熱海に? 友人と?」
「はい」
「えー。そりゃないよ。ところで、君の名前は?」
「岩里と申します」
「ううん、下の名前」
「あ、恵津です。岩里恵津」
「恵津さんね。うん、じゃあ、恵津さんは彼氏いるの?」
「えっ、あ、いえ。その、長谷部さんと同じで、昨日喧嘩して別れてしまいまして」
これほど男に強引に切り込まれた事が無かったので、恵津は業務中の心得を忘れてしまい、つい本当の事をポロっと話してしまった。
「えー、じゃあ、丁度良いね」長谷部大吾が爽やかな笑顔を見せた。「キャンセルは無し。恵津さん、俺と一緒に旅行しよう。三十一日ならこの代理店は休みだろ?」
恵津は絶句した。何故そんな発想になるのだ。
「すぐに返事をくれとは言わない。クリスマスまで、チャンスちょうだい。フリーになった者同士、気が合うと思うからさ。ね? どうせもう金は払っているし、キャンセル料取られちゃうなら、賭けようかな。運命に」
大吾は爽やかな顔から急に真剣な顔を見せ、恵津の手を取った。
「今日仕事終わりに、食事に行ってお互いの事色々話さないか? ごめん、信じて貰えないかもしれないけど、昨日・・・・君に一目ぼれしちゃって。また会いたいなって、思っていたんだ。この年になって、恥ずかしいんだけどさ・・・・今、その女性が目の前にいるんだ。運命ってヤツ、感じた」
目の前の素敵な男性から、突然の告白を受け、恵津は焦った。
「あ、あの、まだ仕事中でして・・・・」
「そうだね、ごめん。だったら、何か契約するよ。そしたらもう少し話せるよね? 実は。三月に両親に旅行をプレゼントしようと思っていたからさ。今回、自分たちが熱海に下見に行って、良かったらそこに決めようと思っていたんだ。母の足が悪いから、連れ添って温泉に行けるかどうかも見ておきたかったんだけど、前の担当の人が熱心にすすめてくれたから、そこでいいや。今それを契約したら、恵津とゆっくり話せるよね?」
大吾は既に恵津の名前を呼び捨てにして、ぐっと身を乗り出してきた。
「は、はい。ありがとうございます・・・・」
男らしい人に告白されてみたいという女性としての願望が今、まさに叶った瞬間だった。
それから手続きをしている間、互いの事を話した。大吾は近くのジムでトレーナーをしていると聞いた。身体を動かす事が、とにかく好きらしい。
喧嘩の末に彼女と別れた話も聞いた。長年付き合い、結婚も考えていたのだが価値観の違いからすれ違いが生じ、お互い冷めていた所に彼女の方が浮気を繰り返していたことが発覚したのだ、と。
大吾の年齢は三十二歳。そろそろ身を固め、苦労をかけた両親に結婚の報告と孫を抱かせてやるのが夢だと語ってくれた。
両親想いの、優しい男性なのだと恵津は感動した。
早速連絡先を交換した。今日は大吾の仕事が休みなのだが、恵津の仕事が終わるまでの間、自分の通うジムで雑用を片付けながら待っていてくれたのだ。
大吾を待たせる訳にはいかないので仕事を早めに片づけ、定時で上がり、彼に連絡を取ると、教えたジムまで来て欲しいと言われたので早速そちらへ向かうと、待ち合わせたジムの入っているビルの下で、大吾が恵津を待っていてくれた。
「ここ、俺のジムなんだ」
「ええっ。まさか・・・・」
恵津は驚いて口に手を当てた。このビルに入っているトレーニングジムが、自ら経営するジムだと大吾が言うのだ。
このジムは、よくポスティングのチラシが恵津の住むマンションにも入っており、若者に評判の良いジムだ。この若さで会社が経営出来る手腕がある事に驚き、更にそれを成功させている事に脱帽した。
「もし恋人になってくれるなら、ジム代はタダにするよ。俺と付き合ったら、結構お得だと思うんだけど、考えてみて?」
茶目っ気たっぷりな嫌味の無い言い方で、大吾が白い歯を見せた。少々強引な所もあるが、爽やかなので少しも嫌では無かった。男らしく、素敵だと思った。
「さあ。立ち話もなんだから、食事にしよう。恵津は何が食べたい? ご馳走するよ」
「あ、そんな。申し訳ないです」
「申し訳ないとか思わないで。俺が恵津にご馳走したいんだ。ね? 付き合ってくれるお礼だって思えばいいから」
強引に肩を取られ、歩き出された。
普通なら嫌だと思うのに、大吾は少しも嫌に感じない。運命の出会いだと彼は言っていた――もしそれが本当なら、きっと、アカシヤでの願いが叶ったのだ。だから、普段出会う事の無いような素敵な男性と偶然再会し、恋仲になれるチャンスが到来したのだ。
俊彦の事が頭をよぎったが、もう昨日別れたのだ。何も気にすることは無い。これからは、大吾との距離を縮めてみよう――恵津はそう思って、俊彦とは違う、彼の逞しい肩に寄り添った。
それから仕事終わりに毎日デートを重ね、大吾の猛アタックにすぐに折れた恵津は、彼と恋仲になり、クリスマスを初めて俊彦以外の男と過ごした。
転勤が多いという大吾は、ウィークリーマンションに住んでいた。きちんと整頓された部屋で、他の女性の影は感じられなかった。時に強引で、時に優しく、驚く程真面目かと思えば子供みたいに拗ねる時もある。俊彦とは違う男の魅力を持った大吾に、恵津はたった二週間足らずで夢中になっていた。
そしてクリスマスの夜。大吾のマンションで、彼に抱かれた。
俊彦と違う息遣い。俊彦と違う愛撫――初めて俊彦以外の男と肌を重ねた。
大吾とのセックスは普通だった。しかし、これほどに好きになったのだから、もっと燃え上がるものだと思っていたのに、そんな事は無かった。
演技の声を上げた程だ。
全てを、俊彦と比べてしまっていた。
俊彦はもっと優しく触れてくれる。焦らすように、壊れ物を扱うように、優しく、優しく――
そんな彼の愛撫が、好きだった。でも、大吾は違った。
なあんだ、こんなものか、というような感想しか沸いてこなかった。
別れた筈の俊彦が、急に気になった。どうしているのだろうか、と、つきあいを決めた男の腕に抱かれているのに、どうしてこんなに、俊彦を思い出してしまうのだろうか。
この選択は、間違っていない筈だと、恵津は自分に言い聞かせた。
男は真面目だけでは面白みがないと、考えていたのはまぎれもなく自身なのに。
熱海旅行の日がやって来た。京都から新幹線で移動し、旅館に到着した。
楽しい会話、楽しい時間、美しい夕日を眺め、老舗旅館の貸し切りの温泉に二人で入り、美味い食事を摂った。
勧められるままにアルコールを摂取すると、途端に眠気が彼女を襲い、意識を失った。
次に気が付くと、食事を摂っていた筈なのに布団で眠っていた。着衣の浴衣は酷く乱れていて、下腹部に違和感があった。気怠く、力は入らず、ぼんやりと天井を見つめるしかできなかった。一体、どうなったのだろうか?
「よく、眠っていたね」
不意に声がした。ゆっくりと顔を上げると、狡猾な顔をした大吾が椅子に座って煙草をくゆらせていた。初めて見る、知らない男の顔だった。煙草を吸う所も初めて見た。
「普通は目が覚めるんだけど」
彼が、何を言っているのか全く解らなかった。
大吾は更に醜く歪んだ笑みを見せた。「複数プレイは初めてだろうに」
複数プレイ――?
・・・
「ソッチが楽しめなかった分、恵津からは金を貰う事にするよ。ビデオ、買ってくんないかな? 俺、金に困ってんだわ」
「ビ、デオ・・・・?」
「そッ。乱交ビデオ。主演は恵津、君だ。眠っている間にさ」大吾はテーブルの上に置いてあるビデオカメラを取り上げた。「眠り姫に群がる男との情事、録画しておいたんだ」
ひっ、と恵津は息を呑んだ。
「いいねえ、その顔。サイコーにそそられる」
大吾は立ち上がり、大股に恵津の所まで歩いて来て彼女の髪の毛を鷲掴みにした。「早急に五百万円ほど要るんだ。買ってくれるよな? 主演ビデオ」
恵津は、目の前で起こっている出来事が信じられずに、カタカタと震えた。
これが夢であって欲しい、悪い夢なら、早く覚めて欲しいと願うしかできなかった。
まさか両親への挨拶まで済ませ、婚約までした男が、こんな事をするなんて・・・・。
「何時、金、用意できる?」
「あ・・・・あの・・・・・・・・」
「五百万、すぐに作れなかったら別にいいよ。このビデオ、その筋に売るから。結構高い値段つくんだよね。素人って」
「止めて! は、払うから。でも、貯金は三百万しかないの。それで勘弁して・・・・」
ぽろぽろと涙が零れた。
「勘弁? 冗談言うな。五百っつったら五百なんだよ! 残り二百万くらい、親にでも泣きついて言え。優しそうな親だったし、娘が困ってたら、払ってくれるだろ?」
取り付く島もなかった。
「後、テーブルの上のあれ、飲んどけよ。飲まないと、万が一の時、後悔するのは恵津だぜ」
「あれって・・・・?」
「察しが悪いな。アフターピルに決まってんだろ。ガキが出来てもいいんだったら、ご自由に」
恵津はあまりのショックに、声も出ない様子だ。
目の前の男から煙の様に吐き出される言葉は、全て現実のものなのだろうか。
「恨むなら、知り合って間もない素性も良く知りもしない男と、旅行したバカな自分を恨めよ? さ。話は纏まった。銀行開業と同時に五百万、頼むな。逃げたら容赦しねえぞ。ビデオ、ネットにバラまくからな」
ドスの利いた声で言われ、ポン、と肩を叩かれた。「じゃ、俺は帰るわ。これでも多忙の身なんでね。折角熱海にでも来たんだから、一人でゆっくり温泉堪能して、日ごろの疲れでも癒してくれ。また連絡する」
大吾はそれだけ言うと、まとめていた荷物と共に、部屋を出て行った。
後には酷い姿の恵津だけが残された。
まだ実感はないが、下腹部の違和感が大吾の言っている事が真実であると証明している。
恵津はすすり泣いた。こんな事になってしまったのは、大吾の言う通り愚かな自分のせいだ。
とりあえず机の上に残された薬を急いで飲み、眠っている間に撮影されたというビデオは見るのが怖くて、旅行鞄の中の一番底に放り込んだ。
ただ、涙が溢れた。
後、残り二百万円、どうしよう――
大吾は本気だった。恵津を見下した目は鋭く、脅しの手口も手慣れていて、まるでヤクザのような男だ。恐ろしい本性は隠して、強引で爽やかな立ち振る舞いをすれば、表面だけを見て好きになる女は騙せるだろう。自分の様に、愚かな女なら誰でも。
約束を守らなければ、本当にビデオを売るか流出させられてしまう。
両親には、絶対に相談できない。こんな形で娘が騙された上に傷物にされ、しかもそれを記録に残る映像として撮影されたと知れば、彼等は深く悲しむだろう。ここまで大切に育てて貰ったのだ。真面目な両親に、この事を相談する訳には行かない。
悔しい。三百万円という大金は、恵津がコツコツと俊彦との結婚の為に、若い頃から少しずつ貯めた大事な金なのだ。あんな最低男に一瞬で盗られるなんて――でも、弱みを握られている。言う通り五百万円も用意しなければならないのなら、後二百万円も足りない。サラ金なら、すぐに貸してくれるのだろうか。しかし利子の事を考えると、とてもじゃないが、そんな所で借りたり出来ない。
最善策が浮かばず、途方に暮れていると、恵津のスマートフォンが鳴った。
未だ、着信音で判る。一般の友人たちとは別にしている、俊彦からの着信だからだ。
着信を拒否の設定にしようと思ったのに、焦って操作を間違えてしまい、電話に出てしまった。
もしもし、恵津、と、俊彦の声がスマートフォンを通じて聞こえる。
久々に聞く俊彦の声。当たり前に聞きすぎて、あまりに近すぎて、解らなかった。
ああ、この声が好きだったな、と、想いが弾け、恵津の心を駆け抜けて行った。
「なあに?」
涙声を悟られてはいけない。しかし、遅すぎる悲惨な結末に、どうしても涙を止めることが出来なかった。
『元気だったか? 最近、電話できなくてゴメン。今どこ? 渡したいものがあるんだ』
恵津は答えられなかった。家だと言ってもすぐバレてしまう。そんな嘘はつけない。何故なら俊彦の家は、川を挟んだ向こう側の路地を入った先にあり、驚く程恵津の家と近いのだ。
パニックになっている頭では、咄嗟の嘘も思いつかなかった。
話すこともままならず、静かに涙だけが頬を流れて落ちて行った。
『恵津、どうした? 何かあったのか?』
まだ恵津が黙っているので、俊彦の口調が少しきつくなった。『困ったことがあったんだな!? 今、どこだ。すぐ迎えに行く!』
俊彦の怒気を含んだ声を聞いて、恵津は後悔でいっぱいになった。どうしてこんなにも自分を心配して、自分の事を解ってくれる恋人に、不満を持ったりしたのだろう。本当に馬鹿だった。
『早く言わないと、手当たり次第に探すからな!』
「・・・・熱海」
『また随分遠い所で困っているんだな。待ってろ、今すぐ行くから。詳しい場所、ラインで送ってくれ。ナビに入れて行くから』
早々に電話が切られ、ツーツーと機械音が流れた。
恵津は震えながら、俊彦にこの旅館の住所や電話番号を送った。それからフロントに連絡を入れ、旅館の従業員に友人が遅くに尋ねてくれることになった旨を伝えた。
今日は大晦日なので初詣を考慮し、旅館は出入りできるように開いているらしいから、部屋で待つことにした。
恵津はとりあえず、室内の風呂で身体をかきむしるようにして洗った。自分の知らない所で、知らない男たちに汚されてしまった――悔しい。また、涙が溢れた。
綺麗になったかどうかを確認する為に鏡を見ると、情事の痕跡みたいなものは残されていなかったが、ピアスが片方無くなっている事に気が付いた。俊彦からのプレゼントで、気に入って何時も着けていたものだが、今の状況ではそれを探す気にもなれなかった。
男たちに乱された浴衣等は着たくなかったので、自分の洋服に着替えて、部屋の隅でカタカタ震えながら俊彦を待った。
俊彦に連絡を取ってから、丁度四時間半後の午前二時頃、恵津の前に俊彦が現れた。きっと、京都の自宅から車を飛ばして来てくれたのだろう。
部屋に招き入れると、何があったのか、何が困っているのか、俊彦が優しく尋ねてくれたので、包み隠さず話した。
知らない内に乱暴されてしまった事、それをネタに金銭を要求されている事、断ったらビデオを流すと脅されている事――俊彦は泣きながら訴える恵津の話を、静かに聞いていた。
「解った。後の二百万は俺に任せろ」
「えっ、でも、俊の所、おばあちゃんの為に一階をバリアフリーにするからって、俊も実家のリフォーム代出したって言ってたよね? そんな大金あるの・・・・?」
恵津の言う通り、俊彦の家は足の悪い祖母の為に、玄関周りをリフォームしたばかりだった。俊彦は実家暮らしの為、自分の貯えから両親に幾らか渡したと聞いていたのだ。
「うん。だから、これを売ろう」俊彦は持参したショルダーバッグから、小さな包みを取り出した。「実はこれ、恵津にプレゼントしようと思ってた指輪なんだけどね」
「えっ、どうして・・・・? 私達、別れた筈でしょ」
「また恵津とケンカした時に出る、何時もの別れる冗談だとこっちは思っていたんだけど。そんな事言いながら、別れたためし無かったし。年末忙しかったから、離れるのも少しはいいかなって思って、連絡しなかったんだ。それに、恵津に渡す為の指輪作ってるとこだったから、指輪も無いのにプロポーズ出来ないし、ちゃんと言えなかったんだ。ごめん。こんな事なら、もっと早く言っておけばよかった。恵津を驚かせようと思っていたから」
「な、なんで・・・・そんな・・・・私みたいな勝手な女の為に・・・・・・・・」
涙がぽろぽろと溢れて、止まらなくなってしまった。
そんな恵津の頬を、俊彦の大きな手が包んだ。濡れた頬を、手のひらで拭ってくれた。
「クリスマスに間に合わせたかったんだけど、どうしても間に合わなくて。予約していた指輪、やっと今日入荷したから、今日渡そうと思ってたんだ。指輪のサイズみてからイニシャル掘ろうと思ってたから、新品未使用の綺麗な状態だよ。彫りは、やらなくて良かった。金銭的に困ったって事にして、事情を話せばまだ返品できると思う。これ返品して百万、俺の貯金残り百万で、二百万なら何とかなる」
「そんな! 出来ないよ! 俊の大事なお金なのに、そんな事出来ない!!」
「出来るさ。夫婦になるのだから、構わないだろう。但し、指輪が無くなっちゃうけどな。それは辛抱してくれ。また頑張って働いて、そんなに高いものは買えないけど、新しいものをプレゼントするから。あと、結婚式は無しにするからな。挙げたつもりで写真だけでも撮ろう。俺は恵津が傍にいてくれたら、それだけで十分だから。とにかく今は、相手を刺激しないようにして、絶対にそんなビデオが出回らないようにしよう。でも、きちんと警察に相談はした方がいいと思う。こんな風に脅してくる男は、きっとまた同じことを繰り返すだろうから」
俊彦が恵津を優しく抱きしめた。「怖かっただろう。もう大丈夫だ。俺がついてる」
その時、恵津は激しく後悔した。
――すぐ結婚できる、素敵な彼氏がすぐに見つかりますように。
どうしてアカシヤで、あんな事を思ってしまったのだろう。
こんなに、こんなにも自分は俊彦に大切にされていたのに、近くにいすぎてその良さを見失っていた。
プロポーズの言葉がないくらい、どうってことなかったのに。
勝手に啖呵を切って別れた挙句、酷い男に騙され、汚されてしまった自分をまだ心配して、それでも愛して、夫婦になろうと、伴侶に選んでくれようとする俊彦の底深い優しさと愛は、他の誰と比べる事もできなかったのに。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
恵津はひたすら懺悔し、強く願った。
これからは、俊を大切にします。
別れるって言いません。
絶対、絶対、言いません。
彼と歩む幸せな日々を、一生かけて大事にしますから。
神様、どうかお願いです。
――あのつまらない願いを、どうか取り消しにしてください。俊だけを愛していた、綺麗な自分に戻りたい。俊に謝りたい。もっと俊を大切にします。どうか、どうかお願いします・・・・。
・・・・・・・・――――
「恵津さん」
不意に、優しいテノールのような低音がすぐ傍で響いた。目を開けると、アカシヤのマスター、右京が目の前に立っていた。
「お疲れの様ですね。おや、悪い夢でも見られましたか?」
恵津の頬に幾筋も付いた涙の跡を見て、右京が目を細めて微笑んだ。「こちらをどうぞ」
タオルウォーマーから温かいおしぼりを出してもらい、顔を拭くように言われたので、コンパクトを取り出して崩れた化粧がこれ以上酷くならない様、気を付けながら目じりを拭った。
辺りを見回すと、アンティーク調のモダンな雰囲気の小さなカフェ――アカシヤだった。
目の前の右京は相変わらず優しい微笑みを浮かべ、凛とした佇まいを崩さなかった。団体用のソファーの方に牡丹と脩が座っていて、何やら話しているのが見えた。
「あの、ここは?」
「アカシヤです。先程から、恵津さんの恋人の話を色々と伺っておりましたが、恵津さんが眠ってしまわれたので、暫く待っていたのですが、風邪をひいてはいけないと思い、起こしました」
「あっ、あのっ。今、何月何日何曜日!?」
「ええと・・・・十二月十日の火曜日ですね」
「十二月十日!?」
恵津は驚いた。慌ててスマートフォンを取り出し、日付をチェックした。
おかしい。ついさっきまで、熱海の旅館にいた筈だ。年は明け、元旦の筈なのに。
それよりさっきまで一緒にいた俊彦は? 例のビデオは? 一体これはどうなっているのだ――?
「三十分程でしょうか。お酒も飲まれていたようですので、うたた寝をされていましたよ。何か怖い夢でも見られたのでしょう。もう大丈夫ですよ」
右京の説明を聞いた途端、気が抜けて恵津は足元から崩れ落ちそうになった。
しかし、大切な事に気が付いた今、あの恐ろしい出来事が全て夢だというのなら、自分がすべきことは、ただひとつ。
「あ、あのっ。ご馳走様でした! とても美味しかったわ! また来るね!!」
恵津は急いで身支度を整え、レジで精算して貰った後、わき目もふらずに走って自宅方面へ向かった。
勿論向かう先は、自宅ではない。俊彦の家だ。
午後十時過ぎ、恵津は俊彦の自宅近くに着いた。遅い時間なので、インターフォンは鳴らさずに俊彦のスマートフォンに連絡を入れた。
『はい?』
恵津からの連絡を待ってくれていたように、俊彦がすぐに対応してくれた。
「ちょっと話があるの! すぐ出て来て。今、家の前だから」
『えっ、今!? わ、わかった。ちょっと待ってて』
一分も経たないうちに、バタバタと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。少し古いが、二階建ての馴染の家だ。一階部分は俊彦の祖母が利用する車椅子が入れるように、バリアフリーに改築されたので、一階部分だけが真新しい。合わせてペンキの塗り替えもしたので、内装は変わらないが外装は綺麗になっていた。
「おまたせ」
玄関をやや乱暴に閉めながら、俊彦が慌てた様子でやって来た。門を開け、恵津の前に立った。
「俊、今日はごめんなさい。私、俊が好きだから、貴方ににプロポーズされたいって、そればかり思っていて。でも、ちっともそんなそぶり見せてくれないから、私との事をどう思っているのか、不満で意地になっていたの。可愛気無かったなって、反省したわ。ごめんなさい。謝りたくて」
「えっ。恵津が謝ってくるなんて、雪でも降るんじゃないの」
軽く憎まれ口を叩かれた。
「別れるなんて、酷い事言ってごめんなさい。二度と言わないから、取り消しにしてくれる?」
「取り消しも何も、何時もの別れる詐欺の事だと思って気にもしてなかったけど。それより、一体どうしたんだ? 酔っ払いか? あ、どうせ、ドリー夢でも行って眞由美さんに愚痴言って――」
恵津はまだ話を続けている俊彦の胸に飛び込み、彼の頬を強引に寄せ、堪らず口づけた。
温かい。このキスも好きだったのに、どうして簡単に手放したりしてしまったのだろう。本当に馬鹿だった。
あまりに近くにいすぎて、あまりに当たり前になり過ぎていて、大切な事を見失っていたのだ。
先程の恐ろしい夢に出てきた男の影は、今すぐ俊彦で塗り潰し、払拭したい。
「俊、私と結婚して。誰よりも俊を大事にするから。一生かけて、貴方を大切にするって誓うわ!」
「恵津・・・・それ、俺の台詞・・・・」
「いいの! プロポーズなんかなくていい。つまらない事に拘っていた私が、馬鹿だった。あのね、やっと気づいたの。俊が私の傍にいてくれることが、一番大事なんだって。何も要らない。貴方がいてくれたら、それだけでいいの。ごめんなさい。今まで我儘いっぱい言って。これからはもっと、貴方を大切にするから、だから、私を離さないで」
回した腕に力を込め、ぎゅうっと俊彦を抱きしめた。
「恵津に先を越されるとは思わなかった。畜生。もう少し待ってくれたら、俺からプロポーズしたのに。これでも色々考えていたんだ。恵津に似合うかなって悩んで、指輪、予約してたから・・・・」
「いい。何も要らない。俊がいてくれるだけでいい」
本心だった。温かい気持ちに包まれ、自然に涙が零れた。
素直になって、大好きな彼の傍で、綺麗な自分でいられることが、こんなにも大切で、幸せな事だったなんて、知らなかった。
俊彦が再び涙を拭ってくれた。風に煽られた髪を耳にかけてくれた時、俊彦は恵津の耳の片方のピアスが無くなっている事に気が付いた。
「あれ、恵津。ピアス片方無くなってるぞ。相変わらず、そそっかしいな」
「えっ」
俊彦に言われて両耳に触れると、ピアスの感覚が左側だけ無かった。確かに先程まで身に着けていた、お気に入りのピアスが無い。俊彦が恵津に贈ってくれた、ダイヤのピアス――
そうか。
そうだったのか。
あの恐ろしい出来事は、夢であって夢でなかったのか。
現実だったのか、夢だったのか、真意の程は定かでは無い。
恵津は、スナック・ドリー夢前で会った眞由美の息子、櫂の言葉を思い出した。
――ここは、ひとつだけ願いが叶う不思議なカフェなんです。僕も大切な願いを、ひとつ叶えて貰ったんです。だから、一人でも多くの人に同じ様に願いが叶って欲しいなって思っていて、このカフェを紹介しています。悩んでいる人には、特に――
アカシヤに行って、不思議なドリンクを飲んで、不思議な夢を見た。
まるで現実と何ら変わらぬ夢を体験しているようだった。そして、恐ろしい出来事に直面し、大切な人の事を思ったその時、恵津は心から神に祈った。
自分の本当の願いが、きっと通じたのだ。
俊彦を大切にしたいと願う、心からの祈りが。
だからきっと、あの恐ろしい出来事は、夢であったに違いない。そう信じよう。
「ちょっと、ドライブでも行こうか。車出すよ。これからの事、二人で話そう」
それにしてもまさか恵津に先を越されるとは、と、苦笑いする俊彦の腕に、恵津は自分の腕を絡めた。
二度と離さない。たとえどんなことがあっても。
愛する彼の腕に力を込め、恵津は俊彦に寄り添った。
※※※
「どうやら上手く願いが叶ったようだ」
ここは、カフェ・アカシヤ。洗い物を終え、皿を拭いていた右京が頭から生えた耳をピクピクと動かしながら二人に話しかけた。
今しがたまで赤く光っていた目の色は、何時ものアッシュグレーの瞳色に戻っている。
「そう、良かったじゃない」
「ああ、良かった! 安心した。これでゆっくり眠れるね」
ソファーに座ってのんびりとしていた二人が、ふさふさの尻尾を揺らしながら喜んだ。
「恵津さんさあ、今回の体験は、怖い夢だと思ってくれたらいいけどね」少し心配そうな顔をして、脩が言った。「彼女の魂が見た現実と夢幻の狭間の体験は、本当の様で本当じゃ無いからね。でも、僕たちがわざと痕跡を残すから、本当の体験だと信じて、絶対に忘れない。だから、その人の心からの願いは叶うんだ。でも、あんなに怖い体験して、大丈夫だったかな」
「大丈夫よ。素敵な旦那様が傍にいるから。脩は心配性ね」
牡丹が優雅に微笑んだ。
「私達、妖の術に触れることが出来る者は皆、幸せになれる。そうでなくては、私達の存在意義が無くなってしまうではないか」
右京は目を細め、恵津が体験した出来事は恐ろしい夢だったと信じ、これからの未来が幸せに描けるよう、心を込めた。
「私の念を送っておいた。心配要らない。大丈夫だ」
「牡丹や右京がそう言うなら、大丈夫だね。ああ、今日は遅くまで起きていたからくたびれちゃったよ。早く寝よう」
欠伸をしながら、脩はカフェを照らしている外の電気のスイッチを切った。
灯りが消え、アカシヤに静寂が訪れた。
今日もまた、彼等のお陰で道を踏み外そうとしていた人間が救われた。
しかしその事実を、誰も知ることは無い――
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
八菱銀行怪奇事件専門課~人を消す金庫~
可児 うさこ
キャラ文芸
銀行には人を消す金庫がある――支店の調査をすることになった、銀行怪奇事件専門課の女性行員、黒川。部下の青木とともに店へ向かうが、そこには恐るべき秘密が隠されていて……ほろ苦く切ない、大人の女性へ送るお仕事ミステリー!
傷女、失踪ノ先デ、
みつお真
キャラ文芸
心の傷が身体に現れたら、あなたは生きていけますか?
何気ない毎日を送る未来。
彼女はとてもポジティブで自称楽観主義者。
ところがある日、哀しいライフイベントの為に人生の歯車が狂い始めます。
耐えきれなくなった未来は、遠い遠い島へと逃亡するのですか、そこには様々な心の病や身体の病を抱えた人々が住んでいたのです。
誇大妄想に悩まされる男。
虚言癖の青年。
アルコール中毒症の女。
アルビノの女性。
自閉症の青年。
性に悩む男性。
末期癌の少女。
彼らと関わりながら未来が出した決断は!?
ふとした出来事から日常は変化します。
疲れ果てた現代人に贈る可笑しくて切ないファタジーの世界を覗いてみませんか?
大阪うめだ迷宮喫茶
石田空
キャラ文芸
大阪梅田の地下は、今日も工事でせわしない。
大阪に越してきたばかりで、未だに地下に慣れていない彩夏は、友達との待ち合わせの際に迷子になった中、喫茶店で休ませてもらおうと立ち寄った先には、昔懐かしい雰囲気の喫茶店が。
道に迷ったり人生に迷ったりした人でなければ見つけることのできない不思議な喫茶店を営む店長・泉としょっちゅう迷子になって迷い込む彩夏は不思議な交流を行うことに。
君に★首ったけ!
鯨井イルカ
キャラ文芸
冷蔵庫を開けると現れる「彼女」と、会社員である主人公ハヤカワのほのぼの日常怪奇コメディ
2018.7.6完結いたしました。
お忙しい中、拙作におつき合いいただき、誠にありがとうございました。
2018.10.16ジャンルをキャラ文芸に変更しました
いわくつきの骨董売ります。※あやかし憑きのため、取り扱いご注意!
穂波晴野
キャラ文芸
いわくつきの骨董をあつかう商店『九遠堂』におとずれる人々の想いを追う、現代伝奇譚!
高校生二年の少年・伏見千幸(ふしみちゆき)は夏祭りの夜に、風変わりな青年と出会う。
彼が落とした財布を届けるため千幸は九遠堂(くおんどう)という骨董品店にいきつくが、そこはいわくありげな古道具をあつかう不思議な店だった。
店主の椎堂(しどう)によると、店の品々には、ヒトとは異なることわりで生きる存在「怪奇なるもの」が棲みついているようで……。
多少の縁で結ばれた彼らの、一夏の物語。
◆エブリスタ掲載「九遠堂怪奇幻想録」と同一内容になります
◆表紙イラスト:あめの らしん
https://twitter.com/shinra009
春花国の式神姫
石田空
キャラ文芸
春花国の藤花姫は、幼少期に呪われたことがきっかけで、成人と同時に出家が決まっていた。
ところが出家当日に突然体から魂が抜かれてしまい、式神に魂を移されてしまう。
「愛しておりますよ、姫様」
「人を拉致監禁したどの口でそれを言ってますか!?」
春花国で起こっている不可解な事象解決のため、急遽春花国の凄腕陰陽師の晦の式神として傍付きにされてしまった。
藤花姫の呪いの真相は?
この国で起こっている事象とは?
そしてこの変人陰陽師と出家決定姫に果たして恋が生まれるのか?
和風ファンタジー。
・サイトより転載になります。
Fox Tail 狐のいる喫茶店
雪本 風香
キャラ文芸
ーFox Tailー
お金さえ出せば願いを叶えてくれる喫茶店。
でも、それだけでは入店することができません。
強い望みが……それこそ命をかけてまで叶えたいと願った時、それは目の前に現れる。
命を賭した望みなら、お狐様が必ず叶えてくれるでしょう。
貴方には命を捨ててまで叶えたい願いはありますか?
エブリスタ様にも掲載しています。
猫の私が過ごした、十四回の四季に
百門一新
キャラ文芸
「私」は、捨てられた小さな黒猫だった。愛想もない野良猫だった私は、ある日、一人の人間の男と出会った。彼は雨が降る中で、小さく震えていた私を迎えに来て――共に暮らそうと家に連れて帰った。
それから私は、その家族の一員としてと、彼と、彼の妻と、そして「小さな娘」と過ごし始めた。何気ない日々を繰り返す中で愛おしさが生まれ、愛情を知り……けれど私は猫で、「最期の時」は、十四回の四季にやってくる。
※「小説家になろう」「ノベマ!」「カクヨム」にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる