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楽師は逃げる
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この世界には楽器を奏でることで大地の精霊と意思を通わせ、豊穣を与える楽師がいるという。
「ちょっと変わった楽器だ、見りゃすぐに分かる」
「琵琶に似ているが三味線みたいに首が長い、そんで赤い色をしてるんだ」
「俺は琥珀色だって聞いたぞ」
「違うよ、青緑色だって、俺見たもん」
「俺が嘘をついてるってのか?あぁん??」
「嘘をついていない証拠があるってのかよ?おぉん!?」
喧嘩が始まりそうな雰囲気になった。これ以上有益な情報は得られなさそうだ。シャンタルタは気配を忍ばせて酒場を出た。
王命を拝して放浪の楽師を探すこと一か月。
噂は聞くのだ。噂だけは。
曰く。どこぞのジプシー楽団に飛び入りで参加していた。観客たちは熱狂のるつぼと化した。
曰く。枯れ谷で楽器をかき鳴らしていた。三日後に雨が降って谷が再度水を湛えるようになった。
曰く。湖のほとりで楽器を弾くと竜が顕れ空に虹をかけた。その年の秋口、魚が生きたまま波打ち際に上がって村は冬でも飢えに苦しむことが無かった。
曰く。畑を見下ろす丘で楽器をかき鳴らした。その年、丘から見下ろせる範囲の畑の収穫は大豊作となった。
楽器を弾いて大衆を熱狂させるなんて、まるでどこぞのバイドパイパーだ。扇動も可能なら立派な危険分子じゃないか。
それに雨を降らせた逸話。楽師とやらが気象学を嗜んでいるなら、雨の降るタイミングが分かるだろう。しかしこの仮説にも「土地に長く住まう爺さん婆さんなら、気象学を知らずとも経験則で日照り、長雨を予測できる。そんな生き字引でも読めないくらい正確に降雨のタイミングがわかるものなのか?」という疑念が付きまとう。
魚だって同じだ。習性が分かっていれば前もって奇跡を起こしますと吹聴できる。
大体シャンタルタは楽師の存在自体、信じていない。そんなものがいるならとっくに世界中ありとあらゆる国が五穀豊穣、豊年満作、当たり年。海はいつでも大漁豊漁、極楽浄土のパラダイスになっているだろ。本当にいるのか?そんな奇跡を起こす楽師など。
だから本当に次の街の酒場の隅っこで、琵琶でも三味線でもない、濃い赤紫色の不思議な形の楽器を、ぽろぽろ爪弾き掻き鳴らしている蓬髪で痩せぎすの男がいることに正直ぎょっとした。
本当にいたのかよ。
王命とはいえ、あちこちの街を見て歩く旅自体は楽しかったから、正直いてほしくなかった気持ちの方が大きかった。
実在したんじゃしょうがない。仕事を遂行するか。楽しかったよ公費で諸国漫遊。
これが旅の最後の贅沢か。そう思いながらバーテンに一番美味い酒を二つ注文して楽師の卓に相席した。一つを差し出して、邪魔して済まないが、と前置きして話しかけた。
「あんたが奇跡を起こすと噂の放浪の楽師か?」
「違うよ」
演奏を中断されても怒るでもなく淡々とした語り口。つかみどころが無い。そんな印象を与える男だ。
「その楽器はなんだ?見たことも無い」
「これは特注品」
「どこで拵えたものだ」
「内緒」
「俺が弾いても構わんか?」
「演ってみる?」
ひょいと赤葡萄色の楽器を寄越してきた。楽師が担いでいるときは気付かなかったが、楽器だけを見ると首の先端がシヴァリンガム、胴の部分は中ほどが抉れていて、なんというか女性の優美な腰つきを彷彿とさせる曲線を描いている。確かに琵琶のようだが琵琶じゃない。としか説明のしようがない形だ。楽師と同じように左手で首を握り、右手で弦を鳴らしてみた。
じゃららら、とがさつな音色がした。楽師の出す妙なる音色とは全く比べようが無い。楽器から拒絶された気分だ。
楽器を返すと、楽師は再び弦をかき鳴らし始める。今度はよい音色が響き渡った。
シャンシャルタは憮然とした表情のまま、楽師に話を続ける。
「今奏でている曲はなんだ」
「適当に弾いてる」
聴いていて心地よい調べだ。気のせいかも知れないが、罵詈雑言怒声が響き渡り喧噪やかましいのが酒場の相場だというのに、客の誰もが、店員までもが、なにか至福に身を委ねているようなそんな表情で酒を口にしている。
「やはりお前は例の楽師に間違いない」
「みな、お前の演奏で陶酔している」
シャンシャルタは自分さえ食いっぱぐれなければ他人などどうでもよい男だったので、そのまま楽師から楽器を取り上げ、返してほしくば俺に従え、とやることも出来たのだが、なぜかそんな気にはならなかった。かわりに噂は本当なのか、とたたみかけた。
こいつなら本当に雨風を呼んだり出来るんじゃないのか。そんな気持ちだった。
「枯れ谷に雨を降らせたというのは本当か」
「湖で魚を呼んだとも聞いた」
「畑に実りをもたらしたとも聞いている」
「なぜ、いつもやらない。それが出来るならお前は神になれるぞ」
たたみかけたらようやく、楽師が顔をあげた。シャンシャルタの顔を、目を、まじまじと見つめると、薄い唇を開いて答えを紡ぎ出した。
「大地も休まなくちゃ、疲れちゃうでしょ」
大地の精霊も疲弊する。なんというか、知っていたはずなのに忘れ去っていた道理を諭されたような気がした。
「ならどうすればいい」
「レンゲを植えるといいよ。ミスラが喜ぶ」
田畑を放牧場にするのか。しかしミスラというのは誰なんだ?
「じゃあ、そういうわけで」
楽師が少し荒々しい指使いで弦を弾く。すると、どこからともなく風が巻き起こって朱鷺が顕れた。どこから涌いてきたこの鳥。ここは酒場だぞ。いや、これ本当に朱鷺かよ??コウノトリかダチョウくらいのでかさだぞ。
シャンタルタが目の前の光景に目を見張ってる合間に楽師がよいしょ、と朱鷺の背中に腰掛ける。
朱鷺が起き上がり、翼を広げ、ばん、と力強く音を立てて打ちつけると、次の瞬間にはもう、楽師の姿はなかった。
シャンタルタは振り返り、「おい、今の見たか」と居合わせた酒場の客に向かって叫んだが、「大丈夫かお前さん」と誰も首を傾げるだけだ。
「疲れてるのなら早めに宿に帰った方がいい」
「酒より生姜を利かせた湯を一杯ひっかけろ」
客たちはシャンタルタを心配しているような口ぶりだ。
なんだよ?どういうことだよ?
「誰もいない席にグラスを二つ持ってすわって、壁に話しかけてたんだぜ、あんた」
嘘だろおい??
まだ旅は終わりそうにない。
「ちょっと変わった楽器だ、見りゃすぐに分かる」
「琵琶に似ているが三味線みたいに首が長い、そんで赤い色をしてるんだ」
「俺は琥珀色だって聞いたぞ」
「違うよ、青緑色だって、俺見たもん」
「俺が嘘をついてるってのか?あぁん??」
「嘘をついていない証拠があるってのかよ?おぉん!?」
喧嘩が始まりそうな雰囲気になった。これ以上有益な情報は得られなさそうだ。シャンタルタは気配を忍ばせて酒場を出た。
王命を拝して放浪の楽師を探すこと一か月。
噂は聞くのだ。噂だけは。
曰く。どこぞのジプシー楽団に飛び入りで参加していた。観客たちは熱狂のるつぼと化した。
曰く。枯れ谷で楽器をかき鳴らしていた。三日後に雨が降って谷が再度水を湛えるようになった。
曰く。湖のほとりで楽器を弾くと竜が顕れ空に虹をかけた。その年の秋口、魚が生きたまま波打ち際に上がって村は冬でも飢えに苦しむことが無かった。
曰く。畑を見下ろす丘で楽器をかき鳴らした。その年、丘から見下ろせる範囲の畑の収穫は大豊作となった。
楽器を弾いて大衆を熱狂させるなんて、まるでどこぞのバイドパイパーだ。扇動も可能なら立派な危険分子じゃないか。
それに雨を降らせた逸話。楽師とやらが気象学を嗜んでいるなら、雨の降るタイミングが分かるだろう。しかしこの仮説にも「土地に長く住まう爺さん婆さんなら、気象学を知らずとも経験則で日照り、長雨を予測できる。そんな生き字引でも読めないくらい正確に降雨のタイミングがわかるものなのか?」という疑念が付きまとう。
魚だって同じだ。習性が分かっていれば前もって奇跡を起こしますと吹聴できる。
大体シャンタルタは楽師の存在自体、信じていない。そんなものがいるならとっくに世界中ありとあらゆる国が五穀豊穣、豊年満作、当たり年。海はいつでも大漁豊漁、極楽浄土のパラダイスになっているだろ。本当にいるのか?そんな奇跡を起こす楽師など。
だから本当に次の街の酒場の隅っこで、琵琶でも三味線でもない、濃い赤紫色の不思議な形の楽器を、ぽろぽろ爪弾き掻き鳴らしている蓬髪で痩せぎすの男がいることに正直ぎょっとした。
本当にいたのかよ。
王命とはいえ、あちこちの街を見て歩く旅自体は楽しかったから、正直いてほしくなかった気持ちの方が大きかった。
実在したんじゃしょうがない。仕事を遂行するか。楽しかったよ公費で諸国漫遊。
これが旅の最後の贅沢か。そう思いながらバーテンに一番美味い酒を二つ注文して楽師の卓に相席した。一つを差し出して、邪魔して済まないが、と前置きして話しかけた。
「あんたが奇跡を起こすと噂の放浪の楽師か?」
「違うよ」
演奏を中断されても怒るでもなく淡々とした語り口。つかみどころが無い。そんな印象を与える男だ。
「その楽器はなんだ?見たことも無い」
「これは特注品」
「どこで拵えたものだ」
「内緒」
「俺が弾いても構わんか?」
「演ってみる?」
ひょいと赤葡萄色の楽器を寄越してきた。楽師が担いでいるときは気付かなかったが、楽器だけを見ると首の先端がシヴァリンガム、胴の部分は中ほどが抉れていて、なんというか女性の優美な腰つきを彷彿とさせる曲線を描いている。確かに琵琶のようだが琵琶じゃない。としか説明のしようがない形だ。楽師と同じように左手で首を握り、右手で弦を鳴らしてみた。
じゃららら、とがさつな音色がした。楽師の出す妙なる音色とは全く比べようが無い。楽器から拒絶された気分だ。
楽器を返すと、楽師は再び弦をかき鳴らし始める。今度はよい音色が響き渡った。
シャンシャルタは憮然とした表情のまま、楽師に話を続ける。
「今奏でている曲はなんだ」
「適当に弾いてる」
聴いていて心地よい調べだ。気のせいかも知れないが、罵詈雑言怒声が響き渡り喧噪やかましいのが酒場の相場だというのに、客の誰もが、店員までもが、なにか至福に身を委ねているようなそんな表情で酒を口にしている。
「やはりお前は例の楽師に間違いない」
「みな、お前の演奏で陶酔している」
シャンシャルタは自分さえ食いっぱぐれなければ他人などどうでもよい男だったので、そのまま楽師から楽器を取り上げ、返してほしくば俺に従え、とやることも出来たのだが、なぜかそんな気にはならなかった。かわりに噂は本当なのか、とたたみかけた。
こいつなら本当に雨風を呼んだり出来るんじゃないのか。そんな気持ちだった。
「枯れ谷に雨を降らせたというのは本当か」
「湖で魚を呼んだとも聞いた」
「畑に実りをもたらしたとも聞いている」
「なぜ、いつもやらない。それが出来るならお前は神になれるぞ」
たたみかけたらようやく、楽師が顔をあげた。シャンシャルタの顔を、目を、まじまじと見つめると、薄い唇を開いて答えを紡ぎ出した。
「大地も休まなくちゃ、疲れちゃうでしょ」
大地の精霊も疲弊する。なんというか、知っていたはずなのに忘れ去っていた道理を諭されたような気がした。
「ならどうすればいい」
「レンゲを植えるといいよ。ミスラが喜ぶ」
田畑を放牧場にするのか。しかしミスラというのは誰なんだ?
「じゃあ、そういうわけで」
楽師が少し荒々しい指使いで弦を弾く。すると、どこからともなく風が巻き起こって朱鷺が顕れた。どこから涌いてきたこの鳥。ここは酒場だぞ。いや、これ本当に朱鷺かよ??コウノトリかダチョウくらいのでかさだぞ。
シャンタルタが目の前の光景に目を見張ってる合間に楽師がよいしょ、と朱鷺の背中に腰掛ける。
朱鷺が起き上がり、翼を広げ、ばん、と力強く音を立てて打ちつけると、次の瞬間にはもう、楽師の姿はなかった。
シャンタルタは振り返り、「おい、今の見たか」と居合わせた酒場の客に向かって叫んだが、「大丈夫かお前さん」と誰も首を傾げるだけだ。
「疲れてるのなら早めに宿に帰った方がいい」
「酒より生姜を利かせた湯を一杯ひっかけろ」
客たちはシャンタルタを心配しているような口ぶりだ。
なんだよ?どういうことだよ?
「誰もいない席にグラスを二つ持ってすわって、壁に話しかけてたんだぜ、あんた」
嘘だろおい??
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