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Part 1. 青い瞳のあなた

ここで会ったが三百年目

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「…………」

 あと少しで仕事場に着くというところで、はたと立ち止まる。エリカは昨日と同じ香りを感じ取り、困惑もあらわに眉間に皺を寄せていた。
 仕事があるのだから行かなければならないことは分かっている。しかし、行けば昨日のような発作に襲われること請け合いで、前にも後ろにも進めない。

 エリカは嗅覚に優れた種族だった。
 毒物や腐敗物、人の気配を察知したりなど、便利な面も多いが鼻が利きすぎて戸惑ったり困ったりすることも多々ある自前の嗅覚が、この先に危険が待つと告げている。
 信じられないことだが昨日の人が近くにいるか、同じものを食べた人物がいるのだろう。だが、もっと信じがたいのは、同族ばかりの職場だというのに他の人々が平気な顔でエリカを追い越して城内に入っていくということだ。
 まるでエリカだけが、この魅惑的だが混乱を招く濃密ジューシーな匂いに気付いているようだった。どう考えてもおかしい。異常事態であること知る。

 とはいえ成すすべもなく……仕方なくエリカは香水を軽く吹きかけたハンカチを鼻に当てて、なるべく口から息を吸うようにする。火事場で煙を避ける人のように腰を低くして歩くエリカ。
 そんな彼女を見かけた同僚は、訝しんで声をかけたのだった。

「おはよう、エリカ。どうしたの? 体調でも悪いの?」
「……ノーマ。おはよう……ねぇ、あなたはこの異臭が何かわかる?」
「異臭?」

 そう言ってノーマはくんくんと辺りを嗅ぎまわる。

「別に……いつも通りの匂いしかしないけど。なに? そんなに変な匂いがするの? 生臭系? それとも火薬系? 危険なやつなら上に報告したほうがいいんじゃない? あなたの鼻が一級品だってことは既に証明済みだし」
「危険、なのかしら……そうね、無害とはいえないわ。なんていうか、甘すぎて胸が煮詰まるみたいな。むず痒くて……下手すると窒息しそうな匂いなのよ。すっごく濃いと思うんだけど、全然感じない?」

 ノーマは無言で頷いて肯定をする。

「私だけなのかしら……だとしたら報告はできないわね」
「胸焼けするくらいの甘い香りって、お菓子屋の店内みたいなやつ?」
「それよりもっとずっと濃いやつよ。花の蜜たっぷりかけた甘々のケーキを十倍にしたみたいな匂い。おまけに痺れ薬入りかもしれないわ。涙が出そうになるの」
「想像できないくらいゴージャスな花の匂いってことかしら。しかも花粉付きの。大変ね……でもそんなに美味しそうな匂いなら少し嗅いでみたい気もするけど」
「とんでもないわよ! こんなんじゃ仕事に集中できないし、日常生活もままならないわ……目が霞んで前がよく見えないし、手も震えてくるんだもの。字が震えちゃう……」
「そうねぇ、それは困るわね。どこから来てるのか突きとめられると良いけど、原因がわかっても取り除くのは難しいかもしれないし……とにかく場所を変えるほうが先決かしら。ここから離れた空き部屋を借りるとか……とにかく、早く行って朝礼前に相談してみましょ?」

 エリカはノーマの提案に頷く。
 しかし、芳香はどんどん強くなり、だんだん話すために口を開くことも苦痛になっていく。
 もしかしなくても発生源は自分の仕事場なのではないかと察しがついた時には本当に震えが止まらなくなっていた。



「おはよう、二人とも。どうかしたのかい?」

 入口付近で立ち止まったまましばらく動かない二人を見つけ、上司が声をかける。
 どうやら話すこともままならなくなったエリカ。代わりに説明することにしたノーマだった。

「おはようございますー。聞いてください部長、エリカが大変なんですよ。この辺りから強力な異臭がするそうで……業務に差し支えるほど酷いみたいなんです。かなり苦しいみたいですし、なんとかならないでしょうか。今日はほかの棟で作業させてもらうとか――あら? そちらの方はどなたですか?」

 ノーマの声を最後まで聞き終えて、珍しく来客のあることを知るエリカ。俯いたままでは失礼だと思い、ゆっくりと顔をあげていく。
 しかし開いた扉の前からほとんど動けず、自分の座席にもたどり着けない。これ以上は一歩も前に進めない……まるで昨日、外で蹲ってしまった時のように苦しかったが、今日はなんとか立ったままでいられる。ほんの少し慣れたからかもしれなかった。

 エリカはノーマの先にいる部長を見る。隣には予想した通り……昨日の〝発生源〟と同一人物と思しき人が、真っ青な顔で立ちすくんでいる。見るからに苦しそうな表情を眺めながら、エリカは場違いにも「青い顔って本当にあるんだわ」と心の中で呟いた。

 どうやら彼もエリカと同じくらい、困惑して震えているようだった。昨日は気づかなかったが、彼にとっては自分こそが異臭の発生源なのかもしれない。
 それはつまり、とんでもなく相性の悪い種族あいてということを示していた。

 太古の森で天敵同士だった場合など、遺伝子レベルで反発し合う種族というのがあるらしい。
 普通に暮らしていたら、まず有り得ない巡り合わせの元に生まれた同士が出会うなど……まさに奇跡と言えるだろう。

「最悪だわ……」

 望んでもいない波乱の予感に、エリカは思わず口の中で呟いていた。

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