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第3章 二人の覚悟

恋闇の侵入者 iv(William and Selina)

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「…………いつ、行ってしまうの?」

 一番最初に尋ねてもおかしくなかった質問を、セリーナはようやく口にした。

「……明後日の、昼までには立つらしい」
「そんなッ……急すぎるわ。じゃあ、明日の約束はどうなるの? もう、このまま会えないの?」

 セリーナの瞳から透明の雫がぷくりと膨らむように溢れ出て、大粒の涙となって静かに流れ落ちていく――

「いや、約束は変わらない。必ず会いに来る。もう殆どの身支度は済ませてあるんだ。だから、これから一度戻って、残りの手続きを全て終わらせる。そしたらまたリーナに会いに来る。明日の朝、迎えに来るから。だから……」

 ウィリアムは片手を懐に忍ばせて、もう一カ月以上も前からずっと胸元にしまわれていた小箱を躊躇いながらもそっと取り出した。
 蓋を開けて確認する――そこには最初の印象と違わない輝きを放つ細身の指輪リングが据えてある。

 彼のそんな動作をセリーナは不思議そうに眺めていた。ウィリアムは握りしめていた彼女の手を下から掬い上げるように持ち直し、指先にそっと口付ける。

「セリーナ……これから貴女あなたの側を離れようとする身ではありますが、どうか私の願いを最後まで聞いていただけますか」

 セリーナは頷いた。
 先ほどまでの涙に濡れた瞳が驚きに見開かれ、薄っすらと頬を上気させ……こわばった無表情はなりを潜めていた。

「この指輪は、貴女あなたの心を捕えて離さないための呪いがかかった指輪です。どうか私が帰還するまでの長い間、誰にも心奪われず、いつか必ず私の妻になる証として、身に付けてはいただけませんか」
「ウィル……ウィリアム、あなた、呪いなんていう物騒なものにまで精通していたの?」

 セリーナがくすくすと小さな笑い声を立てる。それを聞いてウィリアムも肩の力を抜いて話す。

「変かな? でも呪いは悪いものばかりでは無いと思う……要は使い方しだいだろ。僕は、何でもいいからリーナを繋ぎとめておきたいと思ったんだ。守護石だから、もしかしたら本当にそういう効力ちからもあるかもしれないだろ」

 ウィリアムの胸に秘められた縋るような必死さに気付いたのか、セリーナも笑いを止めて真面目に受け答える。

「この石も私を守る黄玉トパーズなのね。ペンダントとはまた違う色みたい……綺麗ね」
「今は暗くて少し見え辛いけど、あおみどりが混ざったような色合いで、存在感のある色だよ。逞しいリーナに似合うと思う」
「それって褒めているのかしら。ちょっと複雑だわ……指輪の意匠は優美なのに、相応しいのはそこではないのね」
「もちろん、それら全てを含めて似合うと思って作らせたよ。呪われた指輪だけど……受け取ってくれるか?」
「……ええ、喜んで」

 セリーナの答えに内心でひどく安堵の溜め息を漏らしながら、ウィリアムは指輪を取り出してそろそろと彼女セリーナの指にはめていく。
 引っかかることなくピタリと収まったそれを見て、セリーナは感激したのか再び涙が出そうな表情になっていた。



「ウィリアム、貴方あなたの呪いを受け入れます。私は絶対に夫となる人を裏切らない……何年でも待っているから、必ず無事に帰ってきて。心も身体も、どこもそこなわずに戻ってくること、約束できますか?」
「約束します。ウィリアム・アーサー・スタンレーの名に誓って、必ず守ってみせる……だから、僕の妻になって……」

 二人は何度も頷いた。
 大丈夫、心配ない、必ず守ると呟きながら、不安に抗うように労わりを込めて優しく唇を重ね合う。

「……好き……ウィル…」
「僕も……大好きだ。愛してる」
「……私も。ずっと……愛しているわ」

 一つ、二つと回数を重ねていきながら、合間に恋情を伝え合う。行かないで欲しい、行きたくない、そういう言葉は飲み込んだ。
 愛しい人が目の前にあるうちにと、惜しむように口付けた。

「愛してる……僕の、セリーナ」
「……私の、ウィリアム…」





 こうしてウィリアムの二度目の求婚は、拙い誓いとなって交わされた。

 燃え上がるように過熱していく行為を遮るものは何もなく、当人たちも止める術を持たなかった。





   *





 いつものように、しかしいつもよりも気配を抑えて緩やかに……互いの身体への愛撫を終えて、幸福の余韻に浸って。

 どうにか収まりをみせた頃には夜明けが目前に迫っていた。


「セリーナ、次に会うときは僕とその、最後まで…………僕と、本当の夫婦になってくれないか」

 そう言ったウィリアムの表情は苦しげに思いつめており、申し訳なさと恋しさとが入り乱れ、辛い告白をしているのようにしか見えなかった。


 本当はウィリアムもまだその時期ではないことは分かっているのだ。
 いくら婚約した仲であっても、結婚前に子供ができてしまえば大醜聞スキャンダルとなって本人だけでなく家名にも傷が付く。貴族の未婚女性にとって処女性は重要なことだった。

 セリーナのそれを誰よりも気にしていてくれたのはウィリアムで、昔からずっと際どいことはしていても、決して一線を越えることはなかった。
 そのウィリアムが、禁を犯したいと明言したのだ……

「ごめん、セリーナ……でもどうしても行く前に、僕は君を手に入れたい。君が、僕のものであるという確かな証が欲しいんだ……」
「……ウィル……私……」


 セリーナは考えた。それぐらい今回のことで揺さぶられ、どうにも我慢できない状態にあるのだということが窺い知れる現状――
 帰る目処が立たない任務仕事に着任するというのは、戦地に赴くような心地になるのかもしれない。

 自分たちはここ数年ずっと離れて暮らしていたけれど、本当の意味で〝全く会えない〟期間が長く続いたことは無かった。
 だから今回の件は衝撃的で、今まで認識していた〝離れ離れ〟の意味すら吹き飛んだ。

 自分の存在する意義の大部分を占める重要な感情ばしょが、根底から覆されるような危機――そんな状況だと言える。


 ウィリアムはずっと目標に向かって努力し続けてきて、その間きっと色々な場面で私よりもずっと多くの我慢を重ねていたはずだ。
 その抑え込んでいたものがついに解放されるのだと、あと少しで念願が叶うのだと希望を持たされた瞬間……それがあっさりと奪われてしまったのだ。
 あまりに振り幅が大きすぎて、平常を装えないのかもしれない。繕いようが無いほどに心が乱されてしまっているのだろう……

 そしてそれは私にも同じことが言える――

 ほんの一瞬とはいえ、一度覚えた幸福を手放すことは耐え難い。
 それを乗り越えるには並みの意思や努力では成せないし、それゆえに何か――糧となるような、一区切り付けられるようなものが欲しいと思うのは当然……かもしれない。

「私……必要な支度を整えて、あなたを待つことにする。だから、なるべく早く迎えに来てね? ウィル……」
「……いいのか?」
「大丈夫よ……なるようになるわ。ウィルこそ、きちんと覚悟してね?」
「うん、そうだな……ありがとう、リーナ」


 そう言ったウィリアムは、今にも消えて無くなりそうな悲しげな笑顔を向けていた。

 セリーナは彼の本心――苦しみの本質を少しだけ疑った。

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